曼谷がらくた人生記

 気が付けば27年目のバンコク暮らしです。最初は民間教育援護機関の一員としての訪タイでした。一念発起なんて力んだ理由もなく成り行き任せで現地日本食レストランの大将になっていたのが24歳の時。こんなはずじゃなかったのに。そんな戸惑いからはじまった海外暮らしでした。周りに流された感はあるけど、それもまた良し。今がその時、その時が今。そんな、ありのままの自分を、思う存分楽しみながら生きています。人生、ありきたりより、ちょっとガラクタなぐらいが楽しいのだ。

カテゴリ: 大将の一燈照隅

これは時折、講演で話すんですが、


「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。


私の教会の牧師は


「悪口のほうが罪が深い」と言われました。

大事にしていたものや、高価なものを取られても、
生活を根底から覆されるような被害でない限り、
いつかは忘れます。

少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために
自殺した話はあまり聞かない。

だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や
少年少女の話は、時折、聞きます。


「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても
 三杯も食べるのよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、
 その後一切、食べ物を拒否して死んだ、という話があります。

 それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に
 強烈なショックを受けた時に
生まれる確率が高いと聞いたことがありますが、
 ある妻は小姑(こじゅうと)に夫の独身時代の素行を聞き、
さらに現在愛人のいることを知らされた。

 それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、
そういうことを言ったのです。

この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は
大きなショックを受け、
生まれたのは精神薄弱児だったそうです。

恐ろしい話です。
私たちの何気なく言う悪口は人を死に追いやり、
生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
泥棒のような単純な罪とは違うんです。
 
それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、
また、聞いています。
そしてああきょうは楽しかった、と帰っていく。
人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性(さが)です。
 
もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、
怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。
自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口を
きかなくなるのではないでしょうか。 

自分がそれほど腹が立つことなら、
他の人も同様に腹が立つはずです。

そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話を
いとも楽しげに語る。

私たちは自分を罪人だとは思っていない。
罪深いなどと考えたりしない。


「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。


私たちはたいていそう思っています。

それは私たちは常に、
二つの尺度を持っているからです。


「人のすることは大変悪い」
「自分のすることはそう悪くない」。


自分の過失を咎(とが)める尺度と、
自分以外の人の過失を咎める尺度とはまったく違うのです。
  
 
一つの例を言いますとね、ある人の隣家の妻が生命保険の
セールスマンと浮気をした。彼女は、
「いやらしい。さかりのついた猫みたい」
 と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。

 何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。
だが彼女は言った。



 「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。
恋愛って美しいものねぇ」



 私たちはこの人を笑うことはできません。


 私たちは自分の罪が分からないということでは、
この人とまったく同じだと思います。

努力する人は希望を語り、

怠ける人は不満を語る。

by井上靖

------------

つまり、希望を語っている人はそれだけの努力をしている人であり、不満を語っている人は怠けていることを表しているということです。

また、努力をする人は「未来」を語り、怠ける人は「過去」を語るということも言えるでしょう。

どっちの人の話を聞きたいかと言うと、もちろん希望を語る人ですよね。

そういう人には自ずと人が集まり、その努力の手助けをしてくれるものなのです。

あなたは仕事の不満を誰かに語っていませんか?

ヘレン・ケラーが
「私より不幸な人、そして偉大な人」
と称えた中村久子のお話

*******************************

その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、



「ほどいてみよ」


「鋏の使い方を考えよ」


「針に糸を通してみよ」。



できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。


その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。


「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」


 そしてこう断言する。


「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

中学時代に剣の道に分け入り、
気がつけば早半世紀以上が経ちます。

修練を重ねるほどにこの道の奥深さ、険しさを痛感するいま、
私の大切な拠り所となっているのが、父の遺してくれた教えです。

範士八段、当代一流の剣道家にして
野田派二天一流第十七代でもあった父は、
終生求道の歩みを止めることなく、
その人生を通じて得た様々な学び、
悟りを膨大な紙片に書き遺しました。


「剣道は、元来、相殺傷する技術を学ぶので、
 残忍殺伐な道のように思われるむきもあるが、
 決してそのようなものではなく、
 あくまで教育的、道徳的な体育であり、精神修養法である」


「剣道で、勝ちさえすればよいという試合や、
 それを目的とした稽古をしていたのでは
 決して本物にはなれない。

 目先の勝敗にとらわれず、基本に忠実な正しい稽古を
 地道に積み重ねる。
 稽古の本旨はここにあり、それが大成への大道である」


最近の剣道は、父の説く「大成への大道」から外れ、
勝ち負けにばかり目を向けがちなことが気掛かりです。

大会などで華々しく活躍するのはごく一部の人であり、
大半はそうした華やかな場とは
あまり縁のないところで黙々と修業に励む
“市井”の剣道家です。

では、試合という目標のない剣道家たちが
目指すべきものはなんでしょうか。

私は剣の五徳、
即ち正義、廉恥、勇武、礼節、謙譲だと考えます。
もちろんこれは、大会に出場する人も目指すべき普遍的な目標です。

父の生前、こんな諭しを受けました。


「お前は道場の門をくぐる時、『よし、やるぞ』と
 両刀手挟んで入ってくるが、それは逆だ。
 日常こそが本当の真剣勝負の場であり、
 道場から出て行く時にこそ気を引き締めなければならない」


確かに道場の中は、防具を着け、
指導者の下で技術を修める場にすぎません。
剣道家としての真価が問われるのは
まさに日常の場なのです。

同じく剣道を学んでいた兄は、大学時代に
九州チャンピオンになるほどの腕前でしたが、
就職後は竹刀を握る機会もなく、
職場での苦しい胸中を父に打ち明けていたのを
側で聞いたことがあります。

父は兄に「お前は剣道を学んできたのだろう」とたしなめ、
こう諭しました。


「剣道の技量を伸ばすには、
 厳しい先生にかからなければならない。

 職場も一緒だ。厳しい上司に打たれても、打たれても、
『お願いします』と真摯に向かい続けなさい」


自分の弱さを隠すことなく、真剣に打たれること。
打たれる度に反省し出直すこと。

兄は父のアドバイスを心に努力を重ね、
その後営業でトップの成績を収めました。

いくら剣道の修練を積んでも、
それで生計を立てていくわけではありません。
大切なことは、道場で学んだ業を
一般社会で実行していくこと。

修業から修行へと昇華していくことです。


剣道の稽古は自分一人ではできません。
相手があって初めて成り立ちます。
そして相手は打ち負かす敵ではなく、
自分を育ててくれる師なのです。

のび太君はテストの前日、

ママが大事にしていた“プラチナの指輪”をなくしてしまいました。
「これからママにたっぷり叱られることを思うと、とても勉強できない」

とドラえもんに泣きつきます。
ドラえもんはポケットから「なくし物とりよせ機」を出しました。
ハッキリとなくした物の形を思い出せば、それが出てくるという道具です。
なくした指輪を取り返したのび太君に、勉強をするよう話すドラえもんですが、

のび太君は今までなくした物を全部取り寄せました。
ママに捨てられたマンガや、ジャイアンに取り上げられた模型飛行機、

谷へ落としたムギワラ帽子などをはじめとして、様々なものを出していきます。
昔を懐かしむのび太君に、ドラえもんは言います。
「過ぎた日をなつかしむのもいいけどね、もっと未来へ目を向けなくちゃ。

ふりかえってばかりいないで、前を見て進まなくちゃ」
しかしのび太君は、
「どうせろくな未来じゃないさ。

頭も悪いし、何やっても失敗ばかり・・・

ずっと子どものままでいたいな」
と言い返し、

ドラえもんも呆れて部屋を出ていきます。
その時のび太君は、取り出した物の中にあった小さなダルマを見つけました。
それは、亡くなったおばあちゃんが昔、幼いのび太君にくれたものでした。
庭で転んで泣いていたのび太君を、そのダルマを使って慰めてくれたおばあちゃん。
「のびちゃん。ダルマさんはえらいね。

なんべん転んでも、泣かないで起きるものね。

のびちゃんも、ダルマさんみたいになってくれると嬉しいな。

転んでも転んでも一人でおっきできる強い子になってくれると・・・、

おばあちゃん、とっても安心なんだけどな」
当時のび太君はおばあちゃんに、

「ぼくダルマになる」と約束しています。
今は亡きおばあちゃんとの最後の思い出に頬を濡らしたのび太君は、

やがて立ちあがり、机に向かって勉強を始めます。
「ぼく一人で起きるよ。

これからも、何度も何度もころぶだろうけど・・・。

必ず起きるから安心してね、

おばあちゃん」

棟方志向から学んだこと


版画に対する姿勢ですな。
棟方の名を慕って門下に入った者は百人以上いますが、
版画そのものを習ったのは一人もいませんよ。

先生、どんなことに気をつければいいですかと尋ねたら


「人を感動させろ。

 人を感動させるためには
 おまえ自身が感動しなきゃいかん。
 そのためには本を読め」


と。先生はどんな本を読んでいるのかと聞いてみると、
人からもらった本ばかりでした。
柳宗悦や金田一京助といった人たちが年中やってきて、
これを読め、あれを読めと難しい仏教書なんかを
しょっちゅう置いていくというんです。

そうやって棟方はよく本を読むし、
人の描いたものも実によく見ている。


「写真を見ろ、写真を。写真展を見て歩け」


とも言われましたね。

優れた写真は的確に物の焦点を捉えている。
その写真家の撮る構図を取り入れていけば、
絵もうまく描けるようになる。

要するに自分の描こうとするものを見る目が、
彼らと同じレベルにならなきゃダメだということなんです。


そのおかげで、なんとなくではありましたが、
あぁ、この場合はここを焦点にすればいいんだな、
あんまり余計なものを詰め込み過ぎてもダメなんだな、
といったことを覚えていきました。


実はこれは俳句の世界にも通じることで、
種田山頭火の自由律俳句も字が余るものもあれば、
逆に短いものもある。

大事なのは作品の体裁ではなく、
物事をどういう角度から見るかということですね。


それから棟方は、人を見れば


「化け物を観ろ。化け物を出せ」


と言いました。

要するに奇想天外なことをやれということでしょう。

棟方の絵は確かに化け物的なものが多いのですが、
その化け物をどうすれば版画に生かせるのか、
私は年中旅に出て石仏や道祖神を
写生してばかりの日々でした。

安永智美(やすなが・さとみ)

福岡県警察本部少年課飯塚少年サポートセンター少年育成指導官
*******************************************************************

「立派な部屋も与えて何不自由ない生活を
 させているのに何が不満なんだ? 
 この家に居場所がないと言われること自体、理解に苦しむ」


家出を繰り返す子供たちの親の多くが
こんな言葉を口にします。

子供が本当に求めている居場所とは、
なんでも望みが叶うような場所ではありません。

悲しい時に思い切り涙を流すことができる、
嬉しい時に皆が一緒に喜んでくれる。

そのように「私はここにいていいんだ、愛されているんだ」
という自己肯定感や自尊感情が育まれる場を
いうのではないでしょうか。

私が少年サポートセンターの少年育成指導官として
非行少年たちと関わり始めたのは三十四歳の時でした。
もともと福岡県警の警察官として少年課に勤務していましたが、
当時は悪いことをする子供の人格とその行為を
同一視していたように思います。

それが誤りであることに気づいたのは、
私自身が育児をしていく過程でのことでした。

「子供は一人の例外もなく純真無垢で、
 将来犯罪者になるために生まれてきた子など皆無のはず。
 そんな子供たちがなぜ犯罪に
 手を染めるようなことになっていくのだろう」。

そう考えた時、それまで行為や結果ばかりに捉われていた目が、
なぜそうなったのかという原因へと向くようになったのです。

そして気づいたのは、非行をする子には例外なく、
その“根っこ”があるということでした。

虐待や放任で愛情の水が注がれず、
根っこがカラカラに乾いている子。

逆に、過干渉や過保護によって根腐れを起こしている子。
大事なのは家庭環境の良し悪しではなく、愛情の掛け方で、
その子にきちんと愛情が伝わっていなければ、
根っこが傷み、子供の心は壊れていくことを痛感したのです。

警察官としての正義感と使命感に燃えていた私でしたが、
少年サポートセンターの少年育成指導官に
転職したことを機に苦しむ子を
自分たちの手で守り抜くんだという覚悟が
加わったように思います。

これまで少年犯罪に対しては、
補導や検挙といった対症療法が主でしたが、
これからは「非行少年をつくらない時代」
だと私たちは考えています。

そのために必要なのが、
待つ活動から攻めの活動への意識の転換です。


その大きな柱の一つ目が
「非行少年の立ち直り支援」です。

多くの子供たちと関わってきて気づいたのは
「子供は自力で更生することは難しい、
 大人から差し伸べられる支援の手が絶対的に必要だ」
ということでした。

しかし彼らは大人を敵視しているため、
ただ待っているだけでは姿を現してはくれません。
どうすれば心と心が繋がるだろうと考え、
行ってきた方法は、携帯電話の番号を教えてもらったら、
たとえ繋がらなくても必ず毎日かけるということでした。

そしてその子がいるであろう場所に何度も出向いていく。
そうやって
「私はあなたの敵じゃない、あなたのことを心配しているよ」
というメッセージを発信し続ける。
すると子供は拒否していた支援の手を
必ず握り返してくれる時期があるという確信を得るに至りました。


二つ目は冒頭にも述べた「居場所づくり」です。
子供の居場所は、家庭・学校・地域の三つだと
いわれていますが、
非行系の子にはそのいずれにも居場所がありません。

居場所がないことは孤独で不安です。
その不安や寂しさが怒りや悲しみへと転じ、
問題行動を引き起こしていくのだと思います。

そこで家庭・学校・地域に居場所をつくっていただく
働きかけをやっていますし、
私たちの少年サポートセンターもまた居場所の一つです。


三つ目は「予防教育」で、
これこそが非行少年をつくらないための
最も有効な先制活動だと考えています。

非行の真っ只中にいる子や、
いじめ自殺を考えているような子は
心がフリーズしているため、
「相談してほしい」という外側からの声掛けに
応じてくれることは期待できません。

そこで必要なのが、心を揺さぶってやることです。

私たちは講演の際、非行の子たちと
日頃現場で関わっているからこそ出合えた言葉や
彼らの思いをそのままの形で伝えます。

自分と同じ苦しみの中にいる者の言葉だからこそ、
強く心を揺さぶられるのでしょう。

講演が終わった途端

「私の話を聴いてほしい」

と校長室へ駆け込んできた子、また

「いじめの恐ろしさ、悲しさがよく分かりました。
 ここから変わりたい」

といじめの加害者だったことを
自ら話してくれた子もいました。

また、私が講演の最後に必ず紹介させていただくのが、
ある女の子から貰った手紙です。


「いま悩んどることは苦しいよね。死にたいよね。
 でもね、本当に死んだらダメ(略)

 私、友達に噂流されて、元カレも敵で、
 リスカ(リストカット)に、薬物に、酒に、男遊び、
 たくさんしたよ。

 けど、安永さんがきっかけをくれて他の高校に入れた。
 絶対反対しとった親にも話をしてくれた。
 初めて心の底から信じられた人。

 ねぇいま私、笑えとるんよ。
 どうやって死ぬか毎日考えてた私が
 いまは生きたいっち思う。

 気持ち悪いっち言われ続けてきたリスカの痕も、
 いまは私の宝物。たくさんよ。

 乗り越えた証、私の証。
 いつか絶対にその痕も含めて愛してくれる人たちが現れるから
 (略)私はずっと一人、そんなんおらんち、思ってもね、
 まだきっかけに出合えてないだけだよ。
 皆幸せになれますように」


問題行動を起こす困った子ではなく、
問題を抱えて困っている子。

非行少年の立ち直り支援をする方は
その視点を持って問題行動の根っこにあるものは何かを探し、
きちんと愛情を掛けてあげてほしいと願っています。

悲嘆を乗り越えるために
高木慶子(上智大学特任教授・上智大学グリーフケア研究所所長)

私がシスターであるから特にそう感じるのかもしれません。
しかし世の中には「時の印」というものが
確かにあるように思います。

時の印とは、いま、私に、何が求められているかということ。
神戸市民、あるいは兵庫県民、あるいは日本国民として、
自分に何が求められているのか。

現在はやはり東日本大震災によって苦しんでおられる方々が、
以前の平穏な生活へと戻っていかれるのに
どういうお手伝いができるのか。
それが私を動かす原動力になっているような気がします。

ご家族や友人を亡くされるといった
大きな悲嘆を乗り越えようとする人をサポートする
「グリーフケア」を神戸で始めたのは、二十五年前のことです。

友人のお父様が末期がんを患われ、
その最期を看取ってほしいと声を掛けていただいたことが
そもそものきっかけでした。

しかし患者様がお亡くなりになれば、
今度は遺族となられたご家族の心のケアも
していかなくてはなりません。

あちらでも、こちらでも、という皆様からの頼みに応じているうち、
これまで様々な原因で悲嘆に暮れている
数千人に上る方々にグリーフケアを行ってきました。


この二十五年間を振り返ってとりわけ心に残るのは、
平成七年に発生した阪神・淡路大震災です。

それまで病院や自宅で闘病生活をされている
患者さんの元をお訪ねし、
愛する家族を残して逝くことをとても辛い、
不幸なことだと思っていたのですが、
実はそうばかりでもなかった。

災害で突然命を奪われてしまった方が大勢おられる中、
家族や友人たちに看取られながら亡くなっていけるのは、
実はとても幸せなことだったのだと気づいたのです。

それだけの大きな災害に遭うと、地元では
「命を大事にしよう」ということが合言葉のようになっていました。

しかし二年後、そんな私たちを嘲笑うかのように起きたのが、
酒鬼薔薇聖斗を名乗る少年による神戸連続児童殺傷事件でした。

その後も関西では次々と児童殺傷事件が発生し、
遺族の元を訪ね歩く日々が続きましたが、さらに平成十七年、
決定的とも言える事件が起こります。

乗客百六人が死亡し、五百六十二人に上る負傷者を出す
大惨事となったJR福知山線脱線事故でした。

その一年後、JR西日本の本社から
私の元に一本の電話がありました。


「私たちにはどのようにご遺族の方々と
 関わっていいかが分かりません。
 どうか協力してもらえませんか」。


私は幹部の方々に、ご遺族や負傷なさった方が
いまどのようなお心でおられるのか思うところを話し、
弔問に訪れる際の細かな注意点なども含め、
お話をさせていただきました。

多くのご遺族とも接していく中で
私自身、気づいたことがありました。


阪神・淡路大震災から数年間、ご遺族と接する中で、
家族や友人を亡くされた方の悲嘆の状態とはこういうものなのかと、
分かったような気になっていたところがあります。

ところが脱線事故によるご遺族や負傷者の方に接して、
私は完全に鼻っ柱を圧し折られてしまいました。
震災と脱線事故の経験を通じて学んだこと、それは
「天災と人災による悲嘆の状況はまるで違う」
ということだったのです。

天災は、それが地震であれ台風であれ津波であれ、
「加害者」の姿が見えません。

家族や友人を亡くした悲しみや喪失感はあっても、
恨みつらみの対象はない。

そして日本が災害大国であることを知っている私たちは、
どんなに辛いことがあったとしても、
これは仕方のないことだったのだと、
どこかに落としどころを見つけることができる。

ところが、その落としどころが恐ろしいくらいに
見つからないのが人災です。

福知山線の脱線事故から七年以上が経ったいまも、
ご遺族や負傷者の方の怒りは一向収まる気配がありません。
これは加害者がはっきり見えているか、
見えていないかの違いによるものでしょう。

そして図らずもこの二つの体験がそのまま当てはまるのが、
今回の東日本大震災です。

なすすべもなかった巨大地震や津波には
恨み言の一つも口にしない一方で、
原発を推進してきた政府や民間企業に対する怒りは
日に日に増していく。

天災と人災とが同居し、
復興が思うように進まない被災地を訪ねながら、
あぁ、私の体験はいまここでこそ生かされるのだ、
神様はこの日々のために私を準備してくださったのだと
強く思います。


いま被災地へ行くと、傾聴ボランティアの方から
「ご家族はどういう状態で亡くなられたんですか」
などと聞かれて非常に嫌な思いをした、
傷ついたと言われる被災者の方が少なくありません。

悲嘆の中にある人と接する上で大事なのは、
こちらが聞きたいことを聞いてはいけないということです。
相手の方の悲しみや苦しみ、お話しになりたいことを
無条件に受け入れて、時間と空間をただ共にすること。

そして何よりも大事なのは、相手の方を尊敬し、
信頼する気持ちを持つことです。

それが赤ちゃんであろうと、お年を召した方であろうと、
その人格に対する尊敬と信頼というものを持たなければいけない。
これは悲しみの中にある人だけでなく、
どんな人に対しても同じように言えることでしょう。

どんな辛い出来事や悲しみ、苦しみがあっても、
その心に寄り添い、支えてくれる存在がいてくれることを感ずる時、
人は必ずそこから立ち上がってくることができると信じています。

鹿児島県霧島市にある鎌田建設の敷地内に
「凡事徹底」の文字が刻まれた石碑ができたのは、
二〇〇二年九月。

以前から経営者としての指針となる言葉を
刻んだ碑が欲しいと念願していた私は、
師と仰ぐイエローハット創業者・鍵山秀三郎先生にお願いして
その座右の銘であるこの言葉を揮毫していただきたいと考えました。

幸い鍵山先生にも快諾いただき、上京してお借りした書は、
亡きお兄様の筆によるものとのことでした。

碑が無事完成し、私は入魂式を行うために
友人の僧侶を招きました。

すると彼は石碑を眺めながら


「理由は分からないが、この文字の力に体が思わず反応する」


と言うのです。

不思議に思った彼は、書の達人として
有名な堀智範大僧正(京都・元仁和寺門跡)に
碑の写真を送って鑑定を依頼。

間もなく書を讃える内容の返事が届きました。


「凡の字はバランスを取るのが難しく、
 どうしても縦長になりがちです。

 ところがこの凡の字は横にどっしりと広がっています。
 この字を書いたのはおそらく商売をなさっている方でしょう。
 商売が末広がりであるように祈りを込められたのだと思います」


私は早速鍵山先生にお電話をして、このことをお伝えしました。
すると先生は喜ばれ、あの訥々とした口調で
お兄様の思い出を語り始められました。

その話を聞きながら、私は感動のあまり受話器を握る手が震え、
堀和尚の言葉の意味が心に深く浸透していくのを感じたのです。

先生のお兄様は学校の教師をされていました。
長屋のようなところで、生涯を慎ましく生きられたそうです。

先生の事業がまだ軌道に乗る前、資金繰りに困って
お父様の遺産を処分しなくてはならない事態が起きた時、
「父の遺産を秀三郎に」という一言で、
きょうだいを納得させられたのがお兄様でした。

イエローハットが増資する時には僅かな給料の中から出資し、
他界された時には手持ちの株は
二十数億円の価値になっていたといいます。

しかし、お兄様の息子さんは


「これは秀三郎からの預かりものだ、
 というのが父の口癖でしたから」


と一円も受け取らず、すべての株券を鍵山先生に渡されたのです。

兄はそれくらい私に愛情を注ぎ、
仕事を心配してくれていたのですね」と、
感慨深そうに電話での話を結ばれました。

凡事徹底という四文字には、
弟の成功と幸せを願う兄の無心の祈りが込められていたのです。

当社にとってこの石碑は単なる石碑に止まらない
守り神そのものであり、私もこの碑を拝んでは
お客様や社員の幸せを願い、経営者の誓いを
新たにするのを日課にしています。


いまから四十五年前、小さなガソリンスタンドから出発した当社は
現在、建設会社のほか、住宅会社、石油販売、カー用品店、
福祉施設など十一法人、従業員数四百名からなる
企業グループに成長を遂げました。

もちろん、私一人の力ではありません。
人との縁が思わぬ縁を招いて少しずつ業容が拡大し、
気がつくと、今日まで歩んできていたというのが偽らざる実感です。

この間、実に多くの方に支えていただきましたが、
最も影響を受けたのはやはり鍵山先生でした。

十九年前に先生とご縁をいただくまで、
恥ずかしながら私は目の前の利益を追い求めてばかりいました。

しかし、大企業のトップでありながら、
作業服姿で黙々と道端の草を取り、便器を磨き続ける
先生の風貌に接した途端、価値観は百八十度転換しました。

「こんな方がこの世の中にいたのか」と。
先生は無言のまま私という人間を変えてしまわれたのです。

私はすぐに鍵山先生が主宰される「掃除に学ぶ会」に入会し、
社にも取り入れました。その効果はてきめんでした。

日々、ともに掃除に汗する中で社員間のコミュニケーションが深まり、
人間関係は円滑になり、仕事のトラブルも少なくなりました。
さらによき縁が次々に舞い込み、今日のグループ経営が
できあがっていったように思います。


鍵山先生へのご恩を思う時、私の胸には
亡き父の思い出が鮮烈に甦ってきます。

父は特攻隊を志願した一人でした。

ある時、二人の戦友が

「もし君が生き残ったら、両親のことを頼む」

と父に言い残して基地のある鹿児島の出水を飛び立ち、
沖縄の地で果てました。
飛び立った僅か六時間後に戦争が終わるとも知らずに……。

父は二人との約束を果たすために戦後、
老人福祉施設を建設しました。

父の施設運営に懸ける思いは尋常ではなく、
身内がいない入所者は理事長の父自ら保証人となり、
施設で亡くなった後は自ら骨を拾い、
墓を建てるほどの熱の入れようでした。

そこには損得勘定を抜きにお年寄りの幸せに
人生を捧げる父の姿がありました。


「あの世の極楽より、この世の極楽を実現したい」


というのが父の一貫した思いで、
その根底にあったのは亡き戦友の願いに応えたいという
一念だったに違いありません。

施設運営は私が引き継ぎましたが、
その父が生前いつも私に話していたのが


「人間は感謝するから幸せなんだぞ。
 幸せだから感謝するんじゃないぞ」


という言葉でした。
この言葉はいまも人生の支えです。

他の幸せを願い、懸命に人生を歩まれた鍵山先生と我が父。
これからも二人の教えを胸に、企業活動を通して
社会に貢献していきたいと思います。

いまから十六年前、二十数年ぶりに会った人たちに
「知恵ちゃんなの? 大きくなって」と迎えられました。

最後に会ったのは私が四歳の頃、私には何の記憶もないのに、
皆さんが大粒の涙を流して歓迎してくれるのです。
戸惑いながらもその涙の意味にハッと思い当たりました。

瀬戸内海の小さな島に牧師だった父に連れられていったのは、
生後六か月の一九七一年夏のことでした。

そこで迎えてくれたのはハンセン病元患者の人たちです。
戦後まもなく発見された特効薬プロミンによって
完治していたにもかかわらず、
当時ハンセン病は感染や遺伝の恐れがある病気と考えられていて、
患者は隔離生活を送っていました。

子供をつくることも禁止され、
断種、堕胎などの強制手術もされていたのです。

それゆえ患者の人たちは赤ちゃんを
見たり触ったりすることはありませんでした。
だからこそ「大島に赤ちゃんが来た日」は
強烈な印象を与える事件だったのでしょう。

そこに思いが及んだ瞬間、
私の目から一滴の涙がこぼれ落ちました。

以来、四国や中国地方で仕事があると、
決まって大島青松園を訪ね、皆さんと親交を深めてきたのです。


大島へ通うようになり、三年ほど経った頃でしょうか、

「塔和子さんのことはご存じ? 
 塔さんはあなたのことをよく覚えているよ」


と入所者の方から言われました。
私も塔さんのことはよく知っていました。

塔さんは療養所の入所者自治会が発行している
月刊誌『青松』に詩を発表されていました。
ご自身もハンセン病を患いながら、
しかし病気のことにはほとんど触れず、それでいて
私を射抜くような言葉を詩にしている。

少ない文字数にもかかわらず、
圧倒的なオーラを放つそのページに、
なんという迫力のある詩を書く詩人だろうと圧倒されていました。

ある時、思い切って病室を訪ねてみると、
パジャマ姿のおばあさんがベッドに横たわっていました。

その姿からはあれほど力強い詩を書く詩人には
とても見えませんでした。

しかし私が「沢です」とご挨拶した途端、
「沢先生のお嬢さんなのね」とおっしゃり、
後光が立ち上るような印象を受けたことをいまでもよく憶えています。

以来、大島へ行くと必ず塔さんのお部屋にも
顔を出すようになり、いつしか一番長く話をするのが
塔さんになっていました。

お訪ねするととにかく詩や芸術の話ばかり、
頭から爪先まで全部詩で埋まっているような人でした。

「あなたも歌手でしょ、詩も書くのでしょ」と言いながら、
ものを生み出す苦しみや詩を書く喜びなどを
たくさんたくさん話しながら、私を励ましてくださいました。

塔さんとお会いしてしばらく経った二〇〇一年、
大島で初めてのコンサートを開きました。

島の外から大勢の人に来ていただいて
療養所を肌で知ってもらいたい、
そんな思いから行った企画でした。

その頃にはいつか塔さんの詩を
歌えたらいいなと漠然と考えていました。


それからおよそ十年が経ちました。

私も四十歳に近くなり、いろいろな経験も積みました。
改めて詩を読んでみると、塔さんが詩で
何を言おうとしていたのか、その切なさが
心に沁みてくるようでした。

塔さん自身、ご高齢で寝たきりということもあり、
まだお元気なうちに歌いたいという気持ちもありました。

最初は軽い気持ちで詩集を読み始めましたが、
いったん読み出すとじっくりと全部読まずにはおれませんでした。

塔和子という人にとって、その詩は命そのものであり、
私が塔和子を歌うことは即ち塔和子を生きることなのだ――。
そう思い至った時、私は肉声でこれを発してみなければ
いけないと感じました。

塔さんの分厚い三巻の全集には
およそ千編の詩が収められています。

そのすべてを声に出して読みました。
まる三か月がかかりましたが、
私にとってなんと幸せで豊饒な時間だったことでしょう。

その中から八つの詩を選び、最初に曲がついたのが
「胸の泉に」という詩でした。



かかわらなければ

この愛しさを知るすべはなかった

この親しさは湧かなかった

(中略)

何億の人がいようとも

かかわらなければ路傍の人

私の胸の泉に

枯れ葉いちまいも

落としてはくれない


 
十代で発症して瀬戸内の小さな島に送られ、
隔離された塔さん。

世間との関わりを断たれた生活を余儀なくされながらも、
彼女は「かかわらなければ、かかわらなければ」と
魂の声を上げている。

人と関わることによって生まれる幸も不幸も、
陰も陽もすべて受け入れて生きる覚悟がそこには示されています。

塔さんは私に「言葉を生み出すことは苦しいことなのよ」と
何度かおっしゃったことがあります。

自身の弱さや情けなさを嘆いている詩もたくさんありますが、
見栄や虚飾を排し、自分にも他人にも神様にも嘘をつかず、
真っ直ぐに、正直に生きていく。

悩みも苦しみも弱さもすべて自分で引き受けて生きていく
本当に自立した女性のあり方を、
私は塔さんから教えていただきました。

幸せも喜びも苦しみも悲しみも、
ささやかな日常の中に全部あるんだよ。

希望を見出したかったら、その日常を丁寧に生きていくことだよ。

塔さんとの特別な交わりを許された幸運に感謝しながら、
その詩に込められたメッセージを
これからも永く永く歌っていきたいと思っています。

 沢知恵(さわ・ともえ=歌手)
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-832999-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
最新コメント
<%==comments[n].author%>
<% } %>
読者登録
LINE読者登録QRコード
カテゴリー
アーカイブ

このページのトップヘ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('