安倍私党グループによる露骨な官僚人事で国家統治機構の正統性が揺らぐ、「お友達政治」(国政私物化)の影響は政権与党のみならず官僚機構全体にも広がり始めた、国民世論は「脱安倍」へと着実に向かい始めた(38)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その69)

 安倍首相は7月4日の閣議で各省庁の主な幹部人事を決めた。菅官房長官は記者会見で「適材適所」などと言い張っているが、その内実は安倍私党グループによる「森友疑惑」「加計疑惑」隠しのための露骨極まりない謀略人事だと言っていいだろう。その象徴が「森友疑惑」関係の一切の書類を隠蔽してきた佐川財務省理財局長の国税庁長官就任、および「加計学園」の獣医学部新設を「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと文科省を恫喝してきた藤原内閣府審議官が国家戦略特区担当を離れ、経済産業省に復帰したことだ。これで両氏は国会で追及されることもなく、日々ノウノウとして職務に専念できるというものだ。

 この人事は、菅官房長官と萩生田官房副長官(内閣府人事局長)が原案を作り、安倍首相が決めたといわれる。だが、萩田氏自身は「加計学園」の獣医学部新設を「官邸は絶対にやると言っている」「総理は『平成30(2018)年4月開学』とおしりを切っていた。今年(16年)11月には方針を決めたいとのことだった」などと文科省に早期開学を迫った張本人なのだ。アメリカのギャング映画などでは(日本のヤクザ映画でも)、事件の発覚を防ぐために親分が子分に金を握らせて「しばらく消えてもらう」と言い渡すシーンがよく出てくるが、まさにそれを彷彿とさせる人事ではないか。いわば、「安倍私党グループによる、安倍私党グループのための、安倍私党グループの人事」だと言ってよい。
 
 これに「総理の言えないことを私が代わって言う」と文科省に迫った和泉首相補佐官が古巣の国土交通省にでも栄転すれば、「加計3兄弟」(藤原、萩生田、和泉の各氏)の名声はことに高まったであろうが、国交省では和泉氏の然るべきポストを用意できなかったのか汰止みになったという。私としては、同じやるなら「加計3兄弟」が揃い踏みをして、国民の前に堂々とお披露目興行し、盛大な喝さいを浴びてほしかった。

 これら一連の人事を見ると、安倍首相が都議選の歴史的大敗を受けた翌日、7月3日朝に述べた「深刻な反省」はいったいどこに行ってしまったのかと考えさせられる。おそらく彼の「深刻な反省」の賞味期限は数時間ぐらいしかなく、翌日になればすっかり元の状態に戻っているのだろう。つまり「舌の根も乾かないうち」に、自分の言ったことが消えていく頭の構造になっているのだろう。でも、これは善意の解釈である。

ことは簡単でないのでもう少し踏み込んで考えて見ると、彼の「深刻な反省」とは、実は森友疑惑や加計疑惑を隠し通せなかったことを反省しているのではないかと思われることだ。悪事を重ねた政治家がよく反省するように、いわゆる「わきが甘かった」ことを悔やんでいるのである。安倍首相は「お友達政治」なんて悪いとも何とも思っていない。それがバレタことを反省しているのである。とすれば、反省の結果として出てくる方針は、これ以上疑惑の究明が進むことを防がなくてはならないことになる。

そのための布陣の第1弾が今回の官僚人事だった。両疑惑に関係した官僚を関係部署から外して異動させる。彼らが当該部署から外れれば、今後は「公務外」のことだとして言い逃れできる。当該部署の官僚たちも「引継ぎを受けていない」とか何とか言って責任を回避することができる。こうして時間がたつうちに、忘れやすい国民の脳裏からいずれこの疑惑は消えていく...。こういう時間シナリオが官邸内で想定されているのだろう。

第2弾は、山本地方創生担当相が「加計学園」絡みの公文書は内閣府に存在しないと言い切っていることだ。山本氏は次の組閣で閣僚から離れることは確実視されているが、安倍私党グループの1員として加計疑惑はあくまでも「墓場まで持っていく」つもりなのだろう。担当大臣にここまで断言されると、内閣府内では「あった」と言えなくなる。加計疑惑の本命は内閣府なので、ここだけは「死守したい」との決意が透けて見えると言っていいだろう。

第3弾は、「安倍首相抜き」の国会審議である。既に国会閉会中の委員会審議が開かれることは決まっているが、ことは首相自身に関わる事柄だけに「安倍抜き」では話にならない。まして野党の質問時間を議員数を根拠にして制限するような仕掛けまでが施されると、「審議に応じた」という外皮だけが残るだけで中身は空っぽになってしまう。「空っぽ」の審議を如何にそれらしく見せるか、安倍政権の命運がかかる疑惑だけに官邸の狙いはここに凝縮されている。野党の力量が試されるところだ。

都議選後のこれら一連の安倍政権の対応から浮かび上がることは、官邸がどんなシナリオを書いても、その限界は所詮安倍私党グループ(利益共同体)の域から出られないことだ。お友達政治すなわち国政私物化の後を消すために幾ら粉飾を重ねても、国政の大義の前には覆い隠せない事態が生じる。すでに多くの国民は、安倍政権がどんな芝居を打つかということよりも、舞台裏でどんな脚本が書かれているか、どんな演出がほどこされるかに関心が移っている。支持率が急落した世論調査がそのことを物語っているし、今後の世論調査がさらに断固とした回答を用意するだろう。(つづく)