閑話休題、万策尽きた“大阪府市同時ダブル選挙”、橋下主義(ファッシズム=ハシズム)は終焉のときを迎えた(その1)

橋下大阪府知事は、10月22日未明、来年2月までの任期満了を待たず10月末で知事を辞職し、来月の大阪市長選挙に出馬することを宣言した。橋下氏は、辞職に同意した府議会本会議で「大阪の統治機構のあり方、大阪府市のあり方をなんとかしなければ大阪の未来はない。思いが日に日に強まり、いまや抑えることができない」と表明し、大阪市を解体して府市を再編する「大阪都構想」の実現する意欲を改めて強調した。 府選挙管理委員会は、辞職願の提出直後に会議を開き、11月10日告示、11月27日投開票で、大阪府知事・大阪市長のダブル選挙を同時実施する日程を決めた。

急迫する政治情勢を前にして、私の「つれづれ日記」も変更を余儀なくされることになった。当初は731部隊訪問記を終えた後、再び東日本大震災の復興問題に戻ろうと考えていたのだが、大阪府市の同時ダブル選挙は地元自治体の大事件であり、場合によっては日本の政治情勢にも少なからぬ影響を与える首長選挙だけに、ここ当分は「橋下主義」(ファッシズム=ハシズム)の行方を追うことにした。なお「ハシズム」に関する私の論説としては、月刊誌『ねっとわーく京都』(2011年12月号、11月3日発行予定)の「いま、大阪人は正気に立ち返るときだ〜ハシズムで“1%の大阪”にしないために〜」を読んでほしい。

「ハシズム」論を展開するにあたっての私の基本視点は、橋下氏の正体を暴くには、彼の政策を(真面目に)論じるよりも、その人物像を実際の言動に即して具体的に描く方が効果的だというものだ。理由は簡単だ。彼の政策は、政治家としての思想や経験に基づいて練られたというよりも、財界や経営コンサルタントなどの知恵をそのときどきに借りてくるか、あるいはその場での思いつきや気分で吹聴する類のものが多いからだ。

自分自身には政策をつくる能力がない。しかし、他人の書いてくれた台本は誰よりもうまく読み、かつ上手に喋ることができる。おまけにその場その場の気分に合わせて話に尾ひれ背びれをつけ、気の利いたアドリブを連発することもできる。これはお笑い芸人やテレビタレントにとっては欠くこと出来ない才能だが、橋下氏がその才能・才覚に長けていることは誰の目からみても間違いない。レーガン大統領は、草稿の意味が全く理解できなくても聴衆を酔わせることができるほど演説が巧みであったというし、ヒットラーは、常に自分の容姿を鏡に映して演説の練習をしていたという。橋下氏は、まさにテレビ時代にふさわしいパフォーマンスの名手なのだ。

だが、お笑いの舞台やテレビトークショーは一過性で済ますことができても、政治の世界ではそうはいかない。曲がりなりにも政策の系統性や継続性が求められ、またその結果としての政策の成果も要求される。橋下氏が任期満了を待たずに知事を辞職するのは、彼の言うように「大阪を何とかしなければという思いをいまや抑えることができない」というよりは、その場しのぎの政策がついに行き詰まって、「もはや知事を続けることができなくなった」というのが本当の姿ではないか。そして新しい舞台を大阪市に求め、当分の間パフォーマンス(だけ)で時間稼ぎするためではないか。

そういえば、今回の“同時ダブル選挙”ほど橋下氏が候補者選びに苦しんだことはない。当初、自分と同じキャラクターだと考え、テレビキャスターの辛坊治郎氏を担ぎ出して自分の後釜に据えようとしたが、辛坊氏は賢明にもその手に乗らなかった。その理由がどんなものであったかは知る由もないが、おそらくは口から出まかせの「ハシズム」に危惧を感じ、やがては「道連れ」にされることの危険性を察知したからだろう。日常消耗品のテレビタレントではあればまだしも、もう少し長持ちさせなければならないテレビキャスターともなれば、軽々に誘いに乗ることができなかったからだ。

辛坊氏に断られた後の(知事)候補者選びは、醜態の連続というよりは悲惨そのものだった。少しでも知名度があれば誰でもいいということで、とっくの昔に政治の世界から引退している老評論家を担ぎ出そうとしたり、小泉時代に調子に乗って突出したばかりにその後冷や飯を食わされ続けた中央官僚を呼ぼうとしたり、スキャンダルで辞めたどこかの元首長に声をかけたり、とにかく「その場しのぎ」の候補者選びの連続だった。自分が実質的に大阪府市の司令官になれば、知事が誰になろうとそんなことは構わない。とにかく自分と一緒に同時ダブル選挙で当選できる「一発勝負のタマ」がほしい、というだけのことだったのだ。

だが、こんな見え透いた魂胆はさすがの大阪でも通用しない。首長選挙には手足が要る。手足となる府会議員や市会議員は、候補者が「どこの馬の骨か」が分からないとなかなか動かない。マスメディアに毎日露出し、世論調査で支持率が下がらなければ何とかなると思っていた橋下氏にも、次第に焦りの色が見え始めた。そして挙句の果てが、身内の「維新の会」の府議幹部を知事候補にせざるを得なかった。この時点で橋下氏の政治生命は終わったといえる。なぜなら、橋下氏のいわれるままに動く「ポット出の大阪府議」を知事に選ぶほど、大阪府民は素直でないからだ。

橋下氏は言葉は勇ましいが、「大阪都構想」をはじめ自分の政策を確実にアピールできる自信がないのだろう。このまま知事の椅子に座っていては、「3年間の失政」の責任を問われて収拾がつかなくなる。そこで知名度の高いタレント候補を知事選の後釜に据え、“同時ダブル選挙”に持ち込むという身勝手な作戦を立てた。そして自分が大阪市に乗り込み、「大阪秋の陣」などとマスメディアが囃したててくれれば、有権者の目を大阪市の方へ逸らして面白おかしく「お祭り騒ぎ」の選挙に持ち込める。ざっといえば、こんな作戦だった。

だが、橋下氏の「身勝手選挙」の構図はもろくも崩れた。辞職直後の記者会見で、橋下氏が「やれば独裁者といわれ、やらなければ実行力がないといわれる。同じ事ならやる方に賭ける」といったのは、追い詰められた彼の苦しい立場を余すところなく物語っていた。(つづく)