嵐の前の曇天、(麻生辞任解散劇、その14)

 6月を迎えた。連日抜けるような青空と目に染みる緑に恵まれ、爽やかな日が続いている。学校の生徒の姿も衣替えで、清々しい感じになった。それに新型インフルエンザも下火になりつつあるようで、道行く人々の表情も心なしかゆとりが出てきたように思える。

 自然は素晴らしい。季節も素晴らしい。本来なら身体も気持ちも弾んでよい頃なのに、最近の社会情勢や政治情勢の暗さはどうだろう。「陰鬱」といってよいほどのありさまだ。とりわけ京都の空気は灰色だ。漢字能力検定協会を私物化した親子の底知れない腐敗が日々明らかになってくるというのに、関係者は口をつぐんだままで何も語らない。多額の政治資金を受けた政治家たちもそうだが、財団法人だから多くの理事がいたはずで、それも全国に名を知られた名士がずらりと並んでいた。その人たちがいっこうに「身の不徳」を語らないのである。なぜかくも巨大な腐敗を長期間見逃してきたのか、理事会には出席したのか、理事会報酬をいくらもらっていたのかなどなど、公益法人の理事としての最小限の説明責任でも果たすべきだ。

 くわえて昨日は身近なところで不祥事件が発覚した。京都教育大学の男子学生集団による女子学生への性的暴行事件が発覚し、関係者が逮捕された。京都師範の伝統を受け継ぐ同大学は創立100年を超える名門校で、少人数教育による学生の質の高さで知られている。キャンパスも緑が深く、そこを通って私の勤務する龍谷大学まで歩くのが楽しい日課だった。そんな清々しいイメージの大学でかくも忌まわしい不祥事件が発覚したのである。

 同じようなことは、以前にも京都大学のアメリカンフットボールクラブで起った。部員たち数人が他大学の女子学生たちを飲酒させて性的暴行に及んだ。当時の監督は前京都市長の高校同級生だとかで、京都市の教育委員に就任していたが、その監督の下での「非教育的犯罪」が発生したのである。事件に関係した部員たちは大学から放逐され、かつ刑事事件の被告として社会的な制裁を受けたが、寡聞にして元市教育委員の監督がどのように責任をとったのかは知らない。

 今回の京都教育大学の場合も、昨日の学長記者会見によれば「教育的配慮」とかによって事件を公表しなかったのだという。だがこの言葉の持つ意味はビミョーだ。誰に対する「教育的配慮」なのか。被害者の女子学生への配慮なのか、加害者の男子学生への配慮なのか、それとも大学当局を含む配慮なのか。しかし女子学生は事件直後から大学へ申し出て、加害者たちは「無期停学」の処分を受けている。「無期停学」というのは、大学としての最高の処分だから、当然のことながら全学に公表しなければならない。だが、それが「非公開」だった。

 性的暴行は立派な社会的犯罪だから、社会的に裁かれなければならない。でも警察に訴えたのは被害者の女子学生自身で、大学当局は何もしなかった。そして事件が発覚し、加害者が逮捕されるという段階でやっと記者会見を開いた。それも1度目は記者たちの追及に対して十分な説明責任が果たせず、いったん会見を中断して内部協議し、2度目で「無期停学処分」の事実を明らかにするという右往左往ぶりだった。それに今朝の報道によると、逮捕された以外にも現場の見張り番をしていた学生たちがおり、そのうちの一人は3月に卒業して教員になっているのだという。こんな教員が子どもたちを「先生」として教えることが許されるのだろうか。

 陰鬱なことは、京都ばかりではない。昨日、東京地検は西松建設から「政治献金」を受けた二階経産相の会計責任者を不起訴にしたのだという。かって漆間福官房長官が「自民党には検察の手は及ばない」とオフレコで言って話題になったが、事実その通りになった。これで二階経産相は晴れて表街道を歩けるというものだ。「問題にすること自体が問題だ」というのが、昨日の二階氏のコメントだった。

 一方、障害者団体の郵便物の割引制度を悪用して、億単位の「差額」を懐に入れていたダイレクトメール企業関係者の供述から、民主党副代表も務めた大物国会議員の「元秘書」が暗躍し、厚労省幹部を巻き込んで障害者団体であることの偽装工作に関わったという事実も次第に明らかになってきている。このままでいけば、民主党関係者の逮捕は避けられないというが、今回の二階氏の会計責任者の不起訴という事態を考えると、その見返りに民主党の方も見逃すという「政治取引」が成立したという観測も成り立つ。民主党にとっては、小沢氏に引き続いて副代表関係者までが起訴されるような事態になると、それこそ党の政治生命にかかわる事態に陥るからである。

 こんなことで、6月の空はあまりにも暗い。土砂降りの後は、一転して「晴天」というわけにはいかないらしい。すべてを闇から闇の中に葬り、「果てしなく灰色に近い黒色」のままで事態を乗り切ろうとする勢力があまりにも多いのである。こんな陰鬱な曇天の空気の下で、普通の真面目な国民は毎日悲憤慷慨している。総選挙が果たして曇天を吹っ飛ばす「嵐」になるのか、それとも曇天の上に曇天を厚塗りするだけに終わるのか、いずれにしても総選挙の日が待たれてならない。