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次回アップ予定:Scene-86 荒川左岸 『船堀橋』 (2014/03/10)
今回もSpot紹介です。場所は静岡県賀茂郡河津町で、毎年2月上旬から咲き始め3月上旬までの約1ヶ月、「河津桜まつり」が開催されて多くの花見客で賑わっています。今週が見頃の最後なので、天気予報を確認し晴天の4日に河津桜を見に行ってきましたので紹介します。自宅からJR河津駅までは約3時間半掛かるので、必然的に早朝の出発(5:34発)になり、JR南武線、小田急電鉄で小田原駅経由、JR東海道本線、伊東線で河津駅に9:08分に到着です。
駅前に足湯ならぬ手湯が在りました。冷えた手に暖を取るのに丁度良いので浸かりましたが、アチチ!温度はかなり熱めでした。駅前から河津桜の並木が続き、河津川沿いの桜並木へと誘導してくれます。
河口から河津川に沿って桜並木が約3km続いていますが、何処も同じ様相なので開花が満開でお勧めと云われた館橋から河口側の約300mを中心に散策します。河津川の岸辺には菜の花も満開で、桜のピンクも良いけど黄色が映えて綺麗ですね。
河津桜は大島桜と寒緋桜との自然交雑種であると推定されており、1955年(S30)に静岡県賀茂郡河津町田中で原木が発見され、発見者の飯田氏の屋号から小峰桜と地元で云われてきたが、其の後の学術調査で新種と判明し、1974年(S49)に「河津桜」と命名されています。
河津川対岸に在る河津八幡神社へ行きます。河津川に架かる館橋を渡って左折、約100mで1958年(S33)奉納の明神鳥居が見えて来ます。河津八幡神社の創建は応保年間(1161~1163年)と云われています、所在:賀茂郡河津町谷津375。
祭神は天津児屋根命、後に日本三大仇討ちの一つ「曽我物語」で知られている、曽我兄弟と其の父、河津三郎祐泰が祀られています。仇討の発端は、兄弟の祖父伊東祐親と叔父工藤祐経との領地争いで工藤祐経は祐親に恨みを抱いており、1176年(安元2)巻狩りの帰途、工藤祐経の部下、八幡三郎と大見小藤太に祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男河津三郎祐泰に刺さり、祐泰は非業の死を遂げる。兄弟は父の死後、母の再婚により相州曽我村に移り住み、兄の十郎祐成、弟の五郎時致は曽我を名乗る事になりました。其の後、兄弟は元服し1193年(建久4)に源頼朝が催した富士の裾野での巻狩りに於いて、親の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入り見事本懐を遂げます。しかし、十郎は討死、五郎は捕えられて処刑、兄22歳、弟20歳であったと云われています。此の事件は全国津々浦々に広まり、後世の「曽我物語」となり、舞曲、歌舞伎、浄瑠璃などの世界にも波及し「曽我物」と呼ばれています。
日本三大仇討ちの残り2つは、「伊賀越の仇討ち:渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件」、「赤穂浪士の討入り:赤穂浪士、吉良上野介義央の屋敷に討入った事件」です。曽我兄弟像の左側には父河津三郎祐泰の像が在ります。豪力の者として聞こえ、伊豆巻狩りの際に源頼朝の前で行なわれた相撲で、日本一の名を得ていた俣野五郎を破っており、相撲の決まり手の一つ河津掛けの考案者とされています。因みに、プロレスでバックドロップの防御に河津掛けが使われていますが、此の技を攻撃型に進化させたのがジャイアント馬場の河津落としですね、アッパー。
河津八幡神社の左手に浄土真宗本願寺派の専光寺が在ります。創建は1596(慶長1)~1616(元和2)の間と云われています。山号:佛法山、本尊:聖徳太子像、所在:賀茂郡河津町谷津392。
細道の並びにも日蓮宗寺院の乗安寺が在ります。此方は創建不詳、山号:長運山、本尊:十界曼荼羅像、所在:賀茂郡河津町谷津413。
100m程進むと河津川の河口に架かる浜橋に出ます。河津浜海岸が目の前に広がっているので、海を見に浜に降りると海風が強く白波が目立ちます。此処で一服休憩、だけど風が強くて着火出来ません。こういう時の為に予備で持っているのがターボライターだ、強風もなんのその楽々着火です。煙草、止めたくても中々止められないね。1箱¥1000位になれば止めるかな?止めないだろうね!もし\1万になったら、自分で作るよ。
館橋から左岸側の桜並木に戻ってもう一度、河津桜を紹介します。花の蜜を求めてメジロも飛んでいましたが、花の陰に隠れて中々顔を出してくれません、1枚だけ撮れましたので載せて置きます。
河津駅の南東に寺社が3箇所在るので寄ります。先ずは須佐乃男神社です、創建は不詳。須佐乃男神は、牛頭天王と同じ神であるとされているので「天王さま」と云われています。祭神:須佐乃男神社命、所在:賀茂郡河津町浜31。
須佐乃男神社の北東50mに臨済宗建長寺派の長福寺が在ります。山号:高松山、本尊:釈迦牟尼仏像、所在:賀茂郡河津町浜290。
長福寺の東150m程に浄土宗の称念寺が在ります。1175年(安元3)に河津三郎祐泰が谷津館の内に称念庵を創立、阿弥陀如来像を安置したのが始まりと云われています。山号:寶林山、本尊:阿弥陀如来像、所在:賀茂郡河津町浜334-1。入口の山門、少し傾いでいます。境内にも綺麗な河津桜が咲き、裏山の緑との配色バランスが良く鮮やかさが際立っています。
時間は11時過ぎ、未だ時間が有るので河津駅の北西1km程の位置に在る杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社に寄ります。杉桙別命神社は古くは桙別明神、木野明神、来宮明神、木野神社、木之神社、鬼崎(きのさき)明神などと呼ばれており、現在でも河津来宮神社と俗称されているキノミヤ信仰を有する神社です。創建不詳、社伝によると、古代から鎮座していたが和銅年間(708~15年)に再建されたと云われており、1193年(建久4)に源頼朝が再建、1226年(嘉禄2年)に藤原頼経により更に社殿が再築されたと云います。其の後も、1513年(永正10)に足利義植により社殿が再築され、1538年(天文7)社殿等を尽く焼失し、同13年には洪水によって社領が流されてからは退廃して小祠での鎮座となったものを、国守代官清水康英等が再建したと云われています。祭神:杉桙別命、所在:賀茂郡河津町田中宮ノ脇153。入口の明神鳥居は1961年(S36)奉納、二の鳥居は神明鳥居で2000年(H12)の奉納です。
拝殿前の狛犬は1820年(文政3)の古い建立で、前にはちびっこの狛犬も居て可愛いですね。拝殿の左側には今までに見た事が無い大きさの楠が聳えていて、時が停まった様に立ちすくみます。超デカイですよ!杉桙別命神社の大楠は樹高約24m、幹周14mで樹齢1000年以上と推定され、国の天然記念物に指定されています。古くより来宮様の大クスと呼ばれ、神木として崇められています。かつて河津には7本の大楠が在り、明治時代中頃まで河津郷の七抱七楠(ななかかえななくす)と呼ばれていましたが、現存しているのは此の1本だけです。因みに国内最大の楠は鹿児島県姶良郡蒲生町安楽に在る、蒲生の大楠で幹周24m、樹齢1500年以上です。
河津駅に戻る途中500mの処に姫宮神社の案内板が見えたので寄って見ます。古くは姫宮、姫(妃)宮大明神と呼ばれていた神社で、社伝によると元亀頃(1570~73年)までは社領を有したが、天正年間(1573~92年)に没収され、1596年(文禄5)に古記録等を持ち去られてから衰退し、1664年(寛文4)に河津全村の人々によって再興されたと云われています。1873年(M6)村社に列格、社号を姫宮神社に変更、更に1963年(S38)に杉桙別命神社の本殿脇に遷座されたが、2002年(H14)に再び現在地に返遷しています。祭神:佐々原比咩命、所在:賀茂郡河津町笹原314。入口の明神鳥居は現在地に返遷した時の奉納です。
姫宮神社から駅前通りに出て直ぐ傍の民家に大きな河津桜が咲いていて、「かじやの桜」の看板が掲げられています。「かじや」は屋号かな?河津桜原木が発見された後、接ぎ木による苗の生産が始まり、河津町内の関係者にも配られた内の一本で、地元の方には一期生の桜と呼ばれているそうです。
>>>後書き<<<
河津駅に12:30分前に到着、12:36発の伊豆急行で来た順路を逆に帰宅します。静岡と云ったら土産はワサビ、途中の小田原駅で山葵漬けと、美味しそうだったので鯵乃押寿しも購入です。河津桜の多さと美しさに感激、杉桙別命神社の大楠に感動したSpot-11でした。徒歩数は10500歩、移動距離278km、11時間の行程でしたが、約8時間は電車内で座りぱっなしの為、臀部が痛くなり痛筋電車でした。 オ.ワ.リ...
次回は、通常Sceneに戻って荒川左岸のメトロ東西線荒川橋梁から遡上して、船堀橋までの紹介です。
Author:mark60
関東地区の河川に架かる橋を
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