権田修一(ごんだ しゅういち、1989年3月3日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J2リーグの清水エスパルス所属。元サッカー日本代表。
東京都世田谷区出身。FC東京の下部組織出身で、各年代の日本代表でゴールを守ってきたゴールキーパー。足元の技術の乏しさは弱点だが、抜群の反射神経と身体能力を活かしたシュートストップが特徴で、特に至近距離からのシュートをセーブするのは定評がある。若い頃は状況判断に難があったものの、年齢を重ねて安定感が増し、日本を代表するGKとなった。
下部組織から長くプレーしたFC東京で10年ほどプレー。その後ヨーロッパとJリーグのクラブを渡り歩き、2021年からは清水エスパルスでプレーしている。
日本代表では2012年のロンドンオリンピックでベスト4進出に貢献、フル代表でも第一次森保JAPANで正GKに定着し、2022 FIFAワールドカップでのベスト16進出に貢献。特に歴史的大金星となったドイツ戦ではビッグセーブを連発し、称賛を浴びた。
神奈川県川崎市で生まれる。両親ともに元バスケットボール選手で、特に父親は実業団でもプレーした一流選手だった。ちなみに弟もバスケットボールの選手になっている。180センチ台の父、170センチ台の母を持ち、幼い頃から体格には恵まれていた。
3、4歳のときに「サッカーをやらせると成長にいい」と聞いた母親に勧められたのがサッカーを始めたきっかけであった。両親の才能を受け継いだのか、ボールを蹴るよりもキャッチする方が得意で、この頃からゴールキーパー一筋のサッカー人生を送っていた。
小学生になると、川崎市のさぎぬまSCに所属。神奈川県選抜に選ばれるなど、当時から頭角を現していた。ちなみにこの頃好きだった選手は1994 FIFAワールドカップでアメリカ代表のGKだったトニー・メオラ。3年生のときに東京都世田谷区に引っ越すと、通い始めた駒沢公園のサッカースクールでFC東京から派遣されていたGKコーチに指導を受ける。小学校卒業時には横浜F・マリノスと川崎フロンターレのジュニアユースのセレクションに合格していたが、そのGKコーチの指導とチケットを受けて生観戦したFC東京の試合で感銘を受けたことが決め手となり、FC東京U-15へ入団する。
中学時代にも成長を続けるが、2年生のときに髄膜炎を発症し、一時は意識を失い、生死の境を彷徨うことになる。それでも3年生のときには2003年の第18回日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会で優勝。後にこの頃の出来事を「頂点に立ったことよりもサッカーを続けられたことが嬉しかった」と振り返っている。
高校生になるとFC東京U-18へと昇格。2年生になると2種登録選手としてトップチームの練習に帯同するようになる。しかし、この時期に首を負傷し、3年生になるまでのおよそ1年間ピッチに立つことができなくなる。それでもクラブからの評価は高く、高校卒業と同時にプロ契約を結ぶ。
2007年から国士舘大学に在学しながらFC東京のトップチームに昇格。この頃にはすでにアンダー代表の中心選手として活躍していたが、プロの壁は厚く、試合に出場できない日々が続くことになる。プロ1年目はシーズン終盤に入ってベンチ入りできるようになったのがやっとだった。
その後もしばらくは塩田仁史の控えとして過ごしていたが、2009年1月下旬に塩田が虫垂炎及び麻痺性腸閉塞による長期離脱を強いられたことから、2009年シーズンのJ1リーグ開幕戦でスタメンに抜擢され、3年目でJリーグデビューを果たす。しかしそのアルビレックス新潟戦では4失点、続く浦和レッズ戦でも3失点を喫して完敗。ほろ苦いプロデビューとなった。第3節でJ1初昇格のモンテディオ山形に完封勝利し、第4節もジュビロ磐田に連続完封勝利を飾ると、それ以降はシュートに対する鋭い反応でチームに貢献。出場時間が規定に達しプロA契約選手となった。実質のデビューシーズンであったが、7月には全4試合を完封するなど(3勝1分)年間15完封というJ1リーグの個人記録を達成し、チームの5位躍進に貢献。川崎フロンターレとのナビスコカップ決勝でもフル出場。チーム5年ぶりの優勝に貢献するとともにプロ初タイトルを獲得。無失点に抑え、当時の鬼武健二チェアマンからはMVP級の活躍だったと評価された。
2010年も開幕から引き続き正GKとし、3月はわずか1失点と好スタートを切ったが、4月以降は南アフリカワールドカップによる中断まで僅か1勝と低迷。中断明け後も10試合未勝利を記録するなど低空飛行を続け、自身も夏場は一時的に塩田にスタメンを譲ることもあった。結局、チームは最終節でJ2リーグ降格が決定。悔しいシーズンとなった。
J2リーグを戦うこととなった2011年シーズンだったが、この年はロンドンオリンピック代表の活動でチームを抜けることが多かったことが災いし、好調だった塩田にポジションを奪い返されてしまう。それでも終盤に入ってポジションを奪い返すと、チームも圧倒的な強さでJ2優勝を決め、1年でJ1の舞台に戻る。また、この年の天皇杯では、元旦の決勝でJ2勢同士の対決となった京都サンガF.C.を破り、優勝を勝ち取っている。
2012年は監督に就任したランコ・ポポヴィッチから「日本で№1のGK」と評され、全幅の信頼を寄せられたことでレギュラーの座を掴み取る。この年はロンドンオリンピック本大会が控えていたこともあってモチベーションが高く、6月23日のJ1第15節セレッソ大阪戦ではビッグセーブを連発し、完封勝利に貢献。12月にはドイツのVfBシュトゥットガルトとイタリアのエラス・ヴェローナの練習に参加。将来の海外移籍を視野に入れていた。しかし、J1に復帰したばかりの2012年と2013年はけっしてチーム状態が良いとは言えず、また天皇杯でゴールを任されていた塩田が好セーブを連発していたこともあり、一部では塩田を正ゴールキーパーにすべきという意見も出ていた。
監督がマッシモ・フィッカデンティに代わった2014年はチームの守備が大幅に改善したこともあって失点数の減少に成功。自身もリーグトップとなるセーブ率を記録している。
2015年にはずっとポジションを争っていた塩田が移籍したこともあって背番号を「1」に変更。1stステージでは全試合フル出場を続けたが、代表でなかなかポジションを奪えないことで自信を失い始め、クラブでもフィッカデンティ監督と衝突するなど不安定になっていった。そして7月にオーバートレーニング症候群を発症。幼い頃からプレッシャーの中でプレーし続けていた権田は、知らない間に自分を極限まで追い詰め過ぎていた。戦線を離脱した権田は、一度は復帰の兆しを見せていたが、結局シーズン終了するまでピッチに立つことはできなかった。
2016年、復帰を期すためにオーナーである本田圭佑の熱望を受け、オーストリア3部リーグに所属するSVホルンへ期限付き移籍。3月4日、第17節SKラピード・ウィーンⅡ戦で初スタメンを飾り、久々の実戦ながらも完封勝利に貢献する。ところが続く3月11日の第18節SVオーバーヴァルト戦で右脛骨を骨折する不運に見舞われる。チームはこの2015-16シーズンに2部に昇格したものの、シーズン中に復帰することはできなかった。
2016-17シーズンに入ってようやく怪我が完治すると、2016年9月6日の第6節第6節ウィーナー・ノイシュタット戦で5ヶ月ぶりに復帰。リーグ中断期間にあたる2016年12月まで公式戦16試合でゴールを守るが、12月いっぱいでレンタル契約が終了。
一旦保有先のFC東京に復帰するが、本人の欧州での挑戦を続けたいという希望をクラブ側が了承し、2017年12月まで残っていた契約を解除する。
2017年1月にヨーロッパでの移籍先を模索するが、結局移籍期限終了までに移籍先は見つからず、2月に帰国することになる。浪人も覚悟していた矢先にJ1リーグのサガン鳥栖から熱心なオファーが届き、2月6日に移籍が決定。ちなみにFC東京は権田の穴埋めとして鳥栖から林彰洋を獲得しており、結果的に両クラブで正GKをトレードする形になる。J1第5節には味の素スタジアムでのFC東京戦が実現。試合前、大粒の涙を流してサポーターの前で崩れ落ちると、試合後には古巣サポーターへ不義理な移籍を謝罪し、感謝を述べる。このシーズンは33試合に出場し、久々に1シーズンをフルに戦い抜く。
2018年、チームは残留争いに巻き込まれるもののリーグ戦34試合にフル出場。とりわけ負けなしを記録した最後の5試合のうち、ラスト4試合中3戦を無失点で切り抜けてみせた。最後まで懸命にゴールマウスを守りチームのJ1残留に貢献。シーズン終了後に行われたチームメイトによる投票により、2018年のチームMVPに選出された。ちなみに、あのフェルナンド・トーレスも権田に一票を入れたらしい。
2019年1月29日、中島翔哉が在籍するポルトガル プリメイラ・リーガのポルティモネンセSCへ完全移籍。しかし、AFCアジアカップ2019出場のためチームへの合流が遅れ、2018-19シーズンはようやく新天地でデビューできたのは最終節になってからだった。
2019-20シーズンも開幕当初は第2GKという立場だったが、シーズン中盤になって初出場を果たすと、そのままレギュラーに定着。15試合に出場するが、中島を失ったチームは低迷し、17位と降格圏内でシーズンを終えるが、プロリーグライセンス未交付により3部に降格したクラブが出たため、棚ぼたで1部残留となる。
2020-21シーズンは若手GKにポジションを譲ることになり、2020年年末まで公式戦での出場機会は訪れなかった。
2020年12月25日、出場機会を求めてJ1リーグの清水エスパルスへ期限付き移籍。2021年シーズンに大型補強をおこなった清水だったが、大きく低迷。開幕戦から正GKを任されたものの、守備陣に綻びが多く、何とかビッグセーブを連発して奮闘する日々が続く。それでも最終節のセレッソ大阪戦で辛くもJ1残留を決め、残留の立役者となる。
2022年からはキャプテンに就任。しかし前年同様にチームの守備組織はお粗末なものとなり、権田もどうにかビッグセーブは見せていたものの、失点の多さを回避することができずにいた。代表GKでありながらもチームが低迷していることから、権田に対して理不尽な批判も飛び交うようになる。実際、「自動ドア」と揶揄されるほど清水の守備陣は相手にスペースを与えており、雨のようなシュートをセーブし続けるなど孤軍奮闘が続いた。それでもチームを救うことはできず、リーグワースト3位の54失点を喫し、最終節で4失点を許して敗れたことでJ2降格が決定。降格決定後、サポーターに対してチームを救えなかったことを謝罪する。
2023年シーズン、降格したことで移籍の噂も出るが、清水に残留しJ2で戦うことを決意。キャプテンとしてチームを牽引しリーグ戦全試合にフル出場したものの、開幕からの7試合連続未勝利が最後になって大きく響き、4位でシーズンを終え、J1昇格プレーオフへ回ることに。大事なプレーオフでは怪我のために2試合とも欠場となり、チームは東京ヴェルディに敗れて1年でのJ1復帰を果たせなかった。
2024年も引き続き清水でプレー。キャプテンの座は北川航也に譲ったものの、プレー面でも精神面でも昇格を争うチームを牽引。ビッグセーブで何度もチームを救い、開幕から35試合連続でフル出場する。ところが、チームがJ1リーグ復帰を決めた第36節栃木SC戦とJ2リーグ優勝を決めた第37節いわきFC戦を欠場。11月8日、自身のSNSで今シーズン限りで退団することを明らかにする。翌日にはクラブ側からも契約満了による退団が発表される。実はクラブ側からは1年前から2024年以降の契約の更新をしないことが告げられていた。
FC東京の下部組織に在籍していた時期から世代別代表の常連であり、2004年にはU-16日本代表として日本で開催されたAFC U-17選手権2004に出場。全試合でゴールを守ったが、第2戦のタイ戦で2失点を許して敗れたことが響き、グループリーグで敗退。FIFA U-17選手権への出場を果たせなかった。
2007年にはU-18代表に選ばれるようになるが、一つ上の世代のU-20日本代表に香川真司と共に飛び級で選出され、2007 FIFA U-20ワールドカップのメンバーに入る。しかし、直後に後十字靭帯を損傷し、出場を辞退。
2008年、U-19日本代表の主将として2009 FIFA U-20ワールドカップアジア地区予選を兼ねたAFC U-19選手権(サウジアラビア)に臨む。準々決勝の韓国戦では好セーブを連発したものの0-3と完敗。結果として日本が7大会連続で出場し続けていたU-20ワールドカップへの出場権を取り逃すという苦い経験をする。自身もU-17代表に続いての世界大会への切符を掴めなかったこともあり、試合後には悔し涙を流しながらもTVインタビューに対応し、主将として責任感の強い部分を見せる。
2009年12月にはAFCアジアカップ2011予選の日本代表に初招集され、2010年1月6日のイエメン戦でスタメンに抜擢され、20歳でフル代表デビューを果たす。この試合では2失点を許したものの、同じく初代表の平山相太のハットトリックで勝利している。2010年9月には監督に就任したアルベルト・ザッケローニから代表に選出される。期待の若手枠という立場だったものの、2011年1月のAFCアジアカップ2011にも第3GKとして参加。出場機会は無かったが、優勝メンバーとなる。
アジアカップ以降はU-22日本代表を優先するようになり、副キャプテンとしてチームのまとめ役を担いつつ、正GKとしてオリンピックの出場権を掴む。
2012年7月からのロンドンオリンピックは自身にとってようやく世界の舞台でゴールを守れる場となった。初戦ではスペインの猛攻に晒されながらもビッグセーブを見せて完封し、優勝候補相手の金星獲得に貢献。その後も安定したセービングで日本のゴールを守り、グループリーグでは最高のGKと称される。準々決勝までは4試合連続無失点と活躍していたが、メダルのかかった準決勝のメキシコ戦では自身のスローイングを受けた扇原貴宏がボールを奪われる形から失点し、敗戦。3位決定戦の韓国戦でも判断ミスから失点を許して連敗となり、メダル獲得をあと一歩で逃す。
オリンピック後は再びフル代表のメンバーに名を連ねるが、川島永嗣、西川周作の牙城を崩せず、第3GKという立場に甘んじていた。2014年6月の2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会の出場メンバー23名にも選出されるが、出場機会は訪れなかった。
ハビエル・アギーレ体制の日本代表には選出されることはなく、2015年3月に初陣となったヴァヒド・ハリルホジッチ監督から招集され代表に復帰。3月29日のチュニジア戦では2年ぶりに代表のゴールを守り、完封勝利に貢献する。しかし、レギュラー獲得には至らず、その後のワールドカップアジア2次予選ではベンチ外の屈辱を味わう。さらに7月にオーバートレーニング症候群を発症して以降は代表から遠ざかるようになり、2018 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されなかった。
2018年8月より就任した森保一監督の最初の試合に招集され、3年ぶりに代表に復帰。10月12日のパナマ戦で久々にゴールを守ると、その後は正GKを任されるようになる。2019年1月にUAEで開催されたAFCアジアカップ2011でもターンオーバーを採用した1試合を除く6試合でゴールを守る。準決勝のイラン戦までは連続無失点を記録するが、決勝ではカタールを相手に3失点を許し、準優勝に終わる。
アジアカップ以降は台頭してきたシュミット・ダニエルとポジションを争うようになるが、2021年6月のタジキスタン戦で失点するまで代表戦9試合連続無失点を記録。キックの技術で上回るシュミットを起用すべきという意見も多かったが、森保監督からの信頼は変わらず、ファーストチョイスとして扱われていた。9月からの2022 FIFAワールドカップアジア最終予選でも消化試合となった最終戦以外の全試合でゴールを守る。ワールドカップ後もシュミットとの正GK争いは論争を呼び、所属する清水エスパルスがJ2に降格していたこともあって大会直前にはシュミットを使うべきという意見が高まっていた。
2022年11月の2022 FIFAワールドカップ カタール大会初戦のドイツ戦、森保監督がゴールを任せたのはこれまで通り権田だった。優勝候補のドイツを相手に前半に先制ゴールを許したものの、後半は持ち前の至近距離のシュートストップの強さを活かしてビッグセーブを連発。前後半通じて26本のシュートを浴びながら、日本のゴールを死守し歴史的な逆転勝利に貢献。この試合のMOMに選出。その後もゴールを守り続け、第3戦のスペイン戦でも好セーブを見せて今大会2度目のジャイアントキリングを実現。ラウンド16のクロアチア戦ではPK戦にもつれこんだ末に敗れ、試合後には悔し涙を見せる。それでも、全試合でゴールを守り、大会前の不安視する声を覆す大活躍でベスト16進出に貢献。
カタールW杯以降は、「J2リーグの選手は呼ばない」という森保監督の方針もあって代表に呼ばれなくなる。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2007 | FC東京 | J1リーグ | 0 | 0 | |
2008 | FC東京 | J1リーグ | 0 | 0 | |
2009 | FC東京 | J1リーグ | 34 | 0 | |
2010 | FC東京 | J1リーグ | 30 | 0 | |
2011 | FC東京 | J2リーグ | 20 | 0 | |
2012 | FC東京 | J1リーグ | 31 | 0 | |
2013 | FC東京 | J1リーグ | 33 | 0 | |
2014 | FC東京 | J1リーグ | 33 | 0 | |
2015 | FC東京 | J1リーグ | 22 | 0 | |
2015-16 | SVホルン | オーストリア3部 | 2 | 0 | |
2016-17 | SVホルン | オーストリア2部 | 15 | 0 | |
2017 | サガン鳥栖 | J1リーグ | 33 | 0 | |
2018 | サガン鳥栖 | J1リーグ | 34 | 0 | |
2018-19 | ポルティモネンセ | プリメイラ・リーガ | 1 | 0 | |
2019-20 | ポルティモネンセ | プリメイラ・リーガ | 14 | 0 | |
2020-21 | ポルティモネンセ | プリメイラ・リーガ | 0 | 0 | |
2021 | 清水エスパルス | J1リーグ | 38 | 0 | |
2022 | 清水エスパルス | J1リーグ | 33 | 0 | |
2023 | 清水エスパルス | J2リーグ | 42 | 0 | |
2024 | 清水エスパルス | J2リーグ | 35 | 0 |
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最終更新:2024/12/23(月) 19:00
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