ASモナコ(AS Monaco)とはモナコ公国を本拠地とするサッカークラブである。フランス・リーグ・アンに所属しており、ホームスタジアムはスタッド・ルイ・ドゥ(ルイ2世スタジアム)。
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1919年に5つのクラブが合併し創設。モナコのサッカークラブではあるが、モナコにはサッカークラブが存在しないためフランスサッカー連盟に名を連ねており、フランスのサッカーリーグに所属している。1980年代から2000年代初頭にかけて黄金期を迎え、リーグ・アンを7度、クープ・ドゥ・フランスを5度制している強豪である。2004年にはUEFAチャンピオンズリーグでファイナルにまで進出したことがある。
1948年にプロチームとして認可され、当時のレーニエ大公の打ち出した企業への税制優遇措置に乗る形で優秀な外国人選手を大量に加入させたことで強豪へとのし上がったチームである。その一方で、育成力に優れたチームであり、ティエリ・アンリやキリアン・エムバペといったスター選手を筆頭に、多くの名プレイヤーを輩出した実績を持つ。
ホームゲーム用シャツは、赤と白を基調に、赤白の境界が右肩から左腰へ斜めに入った特徴的なデザインとなっているが、これは当時のグレース・ケリー公国妃がデザインしたものである。このデザインのユニフォームが初めて採用された1960-61シーズンにリーグ・アン初優勝を成し遂げており、演技の良さから現在でも採用されている。
モナコが小国であり、観光立国であるという背景もあって名門クラブにもかかわらず熱心なサポーターが少なく、ホームスタジアムは20000万人未満の小さなスタジアムにも関わらず観客席が満員になることはほとんどない。近郊のコートダジュール地方にホームを構えるOGCニースとのコートダジュール・ダービーや、フランス南東沿岸にホームを構えるオリンピック・マルセイユとの南仏ダービーがあるが、ホームで開催するダービーであってもアウェイの熱狂的なサポーターに占拠される奇妙な光景を目にすることが出来る。
1919年8月1日、フランスとモナコ公国の5つのクラブ(Swimming Club、モナコ・スポール、ASボーソレイユ、エトワール・ドゥ・モナコ、ACリヴィエラ)が合併し、ASモナコFCとして設立。1924年8月23日に総合スポーツ組織ASモナコへと吸収される。当初はアマチュアチームとして活動していたが、1948年にプロ化が認められ、ディヴィジョン・ドゥに参入する。1952-53シーズンには2位になり、トップカテゴリーであるディヴィジョン・アンへ初めて昇格する。
当時のモナコ公であるレーニエ3世の税制優遇政策の恩恵によって外国人選手を積極的に補強したことでチーム強化を図ると、ディヴィジョン・アン昇格3年目の1955-56シーズンに3位になる大躍進を遂げる。1958年に監督に就任したリュシアン・ルデュクのもとでさらに力をつけるようになると、1959-60シーズンのクープ・ドゥ・フランス決勝でASサンティエンヌを下し、初の主要タイトルを獲得。1960-61シーズンには初のリーグ優勝を成し遂げる。さらに、1962-63シーズンはリーグとカップのシーズンダブルを達成。強豪クラブへと成長する。
しかし、シーズン二冠を置き土産に躍進の立役者であるルデュクが退任。さらに、タイトルに貢献した主力選手たちが次々とチームを去ったことでチーム力は低下するようになり、二桁順位のシーズンが続く。そして、深刻な得点力不足に苦しんだ1968-69シーズンには17位にまで低迷し、ディヴィジョン・ドゥへ降格。1970年代に入ってからは昇格と降格を繰り返すエレベーターチームとなっていた。
3度目の2部降格となった1976年にチーム再建を託され、60年代に栄光をもたらしたリュシアン・ルデュクが監督に復帰。期待通り1年でのディヴィジョン・アン昇格を果たすと、1977-78シーズンには13年ぶり3度目となるリーグ優勝を果たす。この昇格1年目での優勝という快挙はこのシーズンのモナコのみであり、最大の立役者となったエースのデリオ・オニスはクラブ在籍7年間で223得点を挙げ、現在でもクラブの最多得点記録保持者となっており、低迷していた時期にも孤軍奮闘していた。
1979年に監督に就任したジェラール・バニドは、マニュエル・アモロスやクロード・ピュエルといった新たな世代の選手を台頭させ、1979-80シーズンに17年ぶりとなるクープ・ドゥ・フランス優勝。さらに1981-82シーズンはGKジャン=リュック・エトリを中心にシーズンわずか29失点という鉄壁の守備で4度目のリーグ優勝を果たす。1985年1月には現在のスタッド・ルイ・ドゥが完成。この年に5回目のクープ・ドゥ・フランス優勝を果たしている。
1987年にアーセン・ヴェンゲルが監督に就任。グレン・ホドルとマーク・ヘイトリーのイングランド代表コンビを中心に堅守速攻の近代的なスタイルを打ち出し、就任1年目の1987-88シーズンにディヴィジョン・アン優勝を成し遂げる。その後もヴェンゲルはジョージ・ウェアやユルゲン・クリンスマンら質の高い選手を擁して毎年優勝争いを繰り広げる質の高いサッカーを見せ続ける。1990-91シーズンにクープ・ドゥ・フランス優勝を果たし、欧州の舞台でも1991-92シーズンにUEFAカップウィナーズカップ準優勝、1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズカップでベスト4進出と一定の結果を残している。また、ヴェンゲルは育成力と選手の発掘にも長けており、後に1998 FIFAワールドカップ優勝メンバーとなるリリアン・テュラムやユーリ・ジョルカエフ、ティエリ・アンリの才能を引き出している。
ヴェンゲルが新天地の日本へ去った1995年にはジャン・ティガナが監督に就任。1996-97シーズンには、21得点で得点王に輝いたソニー・アンデルソンの活躍と若手のアンリが成長したことによって9シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。1997-98シーズンのチャンピオンズカップでもベスト4に進出。その後ティガナとの衝突でアンリが移籍し、そのティガナも退任するが、1999-00シーズンはクラブOBのクロード・ピュエルが監督に就任。新たな若きエースとして台頭してきたダヴィド・トレゼゲが22得点を記録し、7度目のリーグ制覇を達成する。
しかし、1990年代末期からこれまでの放漫経営がたたって巨額の負債を抱え込むようになり、トレゼゲ、エマニュエル・プティら90年代の主力の売却を余儀なくされる。2003年には各方面の援助によって最終的に免れたものの、2部への強制降格が言い渡されるほど経営状況は深刻なものになっていた。
そんな中でも2001年から監督に就任したディディエ・デシャンはパトリス・エヴラ、リュドヴィク・ジュリ、ジェローム・ロタンらを中心にチームを手堅く作り、2002-03シーズンではリーグ2位とクープ・ドゥ・ラ・リーグ初優勝をもたらす。さらに2003-04シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではフェルナンド・モリエンテスの大活躍もあってチェルシーFCやレアル・マドリードといった強豪を打ち倒す大金星を連発し、予想外の決勝進出を果たす。決勝ではジョゼ・モウリーニョ監督率いるFCポルトに敗れたが、準優勝という過去最高の成績を残すことに。
だが、皮肉にもこのCLでの快進撃によってジュリやエヴラら主力が引き抜かれ、チームは弱体化。2005-06シーズン序盤にデシャンは解任となる。その後、フランチェスコ・グイドリンやラースロー・ベレニ、リカルド・ゴメスといった面々が監督に就任するが、いずれも不振からチームを救うことができずに短命に終わり、中堅クラブの立ち位置にまで低迷していた。2010-11シーズンは18位と低迷したことで34年ぶりにリード・ドゥへ降格という最悪の結末を迎える。
2011年12月にロシア人実業家のドミトリー・リボロフレフがオーナーに就任。巨額の資金によってチームを強化する方針を打ち出し、降格から2年目でリーグ・アンへ復帰。公言通りにラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲス、ジョアン・モウチーニョ、リカルド・カルバーリョ、ジェレミー・トゥララン、エリック・アビダルといった実力者を獲得し、カタール財団による巨大資本でリーグ・アンを席巻していたパリ・サンジェルマンに対抗しうる存在として注目される。だが、リボロフレフの拡大路線はFFPに違反したことで頓挫。ファルカオやハメス・ロドリゲスはチームを去り、有望な若手選手を獲得して若手育成に力を入れる路線へと変更する。
けっして本意ではなかった育成路線だったが、下部組織出身のキリアン・エムバペを筆頭にベルナルド・シウバ、パンジャマン・メンディらが台頭するようになる。2016-17シーズンは、当時18歳のエムバペがセンセーショナルな活躍を見せ、リーグ・アンでは4連覇中のPSGを抑えて17年ぶりの優勝を果たす。CLでも予選から勝ち上がり、準決勝まで進出する快進撃を見せ、モナコの育成力があらためて脚光を浴びる。だが、エムバペやベルナルド・シウバ、ファビーニョら主力が引き抜かれてチームは低迷。躍進の立役者となったレオナルド・ジャルディム監督も2018年10月に解任となる。後任にティエリ・アンリが就任するが、降格の危機に直面する程チームは低迷する。
2020-21シーズン、2021-22シーズンは2シーズン連続で3位入賞を果たすものの、CLでは本大会まで進むことはできなかった。2023-24シーズンからはアドルフ・ヒュッターが監督に就任。前年は期待外れに終わった南野拓実が輝きを放ち、マグネス・アクリウシェ、エリース・ベン・セギルといった若手も台頭。分厚い攻撃陣を形成し、リーグ戦では2位に入り、CL出場権を獲得している。
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 |
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- | 監督 | アドルフ・ヒュッター | 1970.2.11 | 2023 | ボルシアMG | |
1 | GK | ラドスワフ・マイェツキ | 1999.11.16 | 2022 | サークル・ブルージュ | |
2 | DF | ヴァンデルソン | 2001.6.21 | 2021 | グレミオ | |
4 | DF | ジョーダン・テゼ | 1999.9.30 | 2024 | PSVアイントホーフェン | |
5 | DF | ティロ・ケーラー | 1996.9.21 | 2024 | ウェストハム | |
6 | MF | デニス・ザカリア | 1996.11.20 | 2022 | ボルシアMG | |
7 | MF | エリーゼ・ベン・セギル | 2005.2.16 | 2022 | モナコB | |
8 | MF | エリオット・マタゾ | 2002.2.15 | 2020 | アントワープ | |
9 | FW | フォラリン・バログン | 2001.7.3 | 2023 | アーセナル | |
10 | MF | アレクサンドル・ゴロビン | 1996.5.30 | 2018 | CSKAモスクワ | |
11 | MF | マゲネス・アクリウシェ | 2002.2.25 | 2021 | モナコB | |
12 | DF | カイオ・エンヒキ | 1997.7.31 | 2020 | グレミオ | |
13 | DF | クリスチャン・マウィッサ | 2005.4.18 | 2024 | トゥールーズ | |
15 | MF | ラミン・カマラ | 2004.1.1 | 2024 | メス | |
16 | MF | フィリップ・ケーン | 1998.4.2 | 2023 | ザルツブルク | |
17 | DF | ウィルフリード・シンゴ | 2000.12.25 | 2023 | トリノ | |
18 | FW | 南野拓実 | 1995.1.16 | 2022 | リヴァプール | |
19 | MF | ユスフ・フォファナ | 1999.1.10 | 2020 | ストラスブール | |
20 | DF | カスム・ウワタラ | 2004.10.14 | 2023 | アミアン | |
21 | FW | ジョージ・イレニヘナ | 2006.2.16 | 2024 | アントワープ | |
22 | DF | モハメド・サリス | 1999.4.17 | 2023 | サウサンプトン | |
27 | DF | クレパン・ディアタ | 1999.2.25 | 2021 | クラブ・ブルージュ | |
33 | MF | メイサム・ベナマ ※ | 2005.3.9 | モナコB | ||
36 | FW | ブレール・エンボロ | 1997.2.14 | 2022 | ボルシアMG | |
37 | MF | エダン・ディオプ | 2004.8.28 | 2023 | モナコB | |
42 | MF | ママドゥ・クリバリ ※ | 2004.4.21 | モナコB | ||
43 | DF | リッチー・ヴァルメ ※ | 2005.2.2 | モナコB | ||
50 | GK | ヤン・リエナール | 2003.10.16 | 2022 | モナコB | |
88 | MF | スングトゥ・マガッサ | 2003.10.8 | 2022 | モナコB |
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掲示板
1 ななしのよっしん
2014/04/25(金) 15:36:46 ID: 6jQ9U5BB3X
2 ななしのよっしん
2015/08/15(土) 22:13:45 ID: TUQ7PlvaR9
インテルにコンドグビア売ってミランからエル・シャーラウィを買う
理に適った補強してるよな
3 ななしのよっしん
2016/07/16(土) 03:32:36 ID: S3Wiut2A7q
【予告】
なぜかモナコの記事なのに国ではなくASモナコが正式名称のサッカークラブのことになっているので、この記事をASモナコに移動して国の記事として作り直します
今週末中には実施予定
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/11(土) 08:00
最終更新:2025/01/11(土) 08:00
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