ジュビロ磐田とは、静岡県磐田市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、森町、浜松市、湖西市にホームを置く日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブである。
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前身は株式会社ヤマハ発動機サッカー部で、クラブ正式社名は株式会社ヤマハフットボールクラブ。1994年にJリーグに正式加盟。チーム名の「ジュビロ」はポルトガル語のjúbilo [ʒuːbilu](ジュビル)およびスペイン語のjúbilo [ˈxuβilo](フビロ)で「歓喜」を意味する。
ホームスタジアムは磐田市にあるヤマハスタジアム(旧名 ジュビロ磐田スタジアム)。
クラブのマスコットは静岡県の県鳥であるサンコウチョウをモチーフにした「磐田くん」。2003年には磐田くんのガールフレンドとして「ジュビィちゃん」が誕生している。
1990年代後半から2000年代前半にかけて黄金期が到来しており、この頃には中山雅史、名波浩、高原直泰、藤田俊哉ら日本を代表する名プレイヤーがを擁していた。またドゥンガ、サルバトーレ・スキラッチ、ジェラルド・ファネンブルグといったビッグネームの外国人選手が在籍していた。この時代は鹿島アントラーズと並ぶ二強としてタイトルを総なめにしており、1999年にはアジアの頂点にも輝いている。この頃のチームがJリーグ歴代最強チームという呼び声も高い。
Jリーグ所属クラブ中最多のMVPを4人、得点王を3度輩出したり、リーグ通算勝率2位、ステージ優勝6回などという昔は良かったな的記録があるが、2000年代半ば以降は下降線を辿り、今やJ2降格を数回経験するほど弱体化し、見る影は無い。最近の低迷のせいか、契約更新できず続々とスポンサーが離れて2009年以降ははユニフォームの胸がYAMAHAになった。
2023年には、ファビアン・ゴンザレスの加入を巡るクラブの違反行為によって、FIFAから下部組織の全チームを含めて、「新規選手登録」を禁止される重い処罰を受けている。
なお、ジャパンラグビートップリーグに所属するヤマハ発動機の社会人ラグビークラブは2003/04年~2020/2021年シーズンまで「ヤマハ発動機ジュビロ」という名称であり、ジュビロの愛称を共有していた。ラグビーワールドカップ2015で一躍有名になった五郎丸歩が所属していたチームでもある。
1972年に創部したヤマハ発動機を前身となり、1992年にJリーグ準会員として承認される。
1993年の旧JFLにおいて2位に入り、翌年のJリーグ加盟が認められる。この頃、いわゆるドーハの悲劇において中山雅史が国民的人気者となっており、Jリーグ昇格のニュースは大きく取り上げられた。
Jリーグ初参戦となった1994年に前日本代表監督のハンス・オフトが監督に就任。前年に元オランダ代表のファネンブルグ、夏に元イタリア代表のスキラッチ、そして1995年夏には現役ブラジル代表主将のドゥンガが加入。また、名波浩、藤田俊哉、福西崇史、奥大介、服部年宏、田中誠らが加入したのもこの頃で、オフト時代の3年間で着実にチームは成長を遂げ、後に到来する黄金期の土台を築いた期間となった。
1997年よりルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任するが、1stステージ限りで退任。コーチを務めていた桑原隆が監督代行となった2ndステージでは名波や藤田が成長を遂げたこともあって優勝を果たした。そして、鹿島アントラーズとのチャンピオンシップでは合計4-2で勝利し、初のJリーグ年間王者の座に就く。オリジナル10以外のチームがJリーグを制覇した初めての事例ともなった。リーグのMVPにはドゥンガが選出されている。
1998年には自慢の攻撃陣が爆発。1stステージ第9節のC大阪戦では中山雅史が5ゴールを決めるなど、大量9ゴールを奪う歴史的大勝を飾っている。その後も中山は4試合連続ハットトリックでギネスに載るほどの大暴れを見せ、圧倒的強さで1stステージを優勝。2ndステージでは2位に終わるが、年間勝ち点は1位、総得点107、得失点差+68という記録を生み出している。しかし、チャンピオンシップでは鹿島に雪辱を許し、年間王者の座を逃している。27試合36得点という数字を残した中山はMVPと得点を獲得。
ナビスコカップでは、高原直泰、川口信男といった若手の活躍による初優勝を果たしている。
この年を最後にドゥンガが退団。
1999年は、2月に完全アウェイという劣悪な環境の中でアジアクラブ選手権(現在のACL)優勝を果たし、初のアジア王者となる。また、11月にはアジアスーパーカップも制している。
Jリーグでは1stステージこそ優勝したものの、アジアの戦いを勝ち抜いた疲労と7月に名波がイタリアへ移籍した影響も重なって12位と低迷する。それでも清水エスパルスとの"静岡ダービー"が実現したチャンピオンシップを制し、苦しみながらも2度目のJリーグ年間王者となる。
2000年はハジェブスキー新監督が3バックを採用し、福西をリベロで起用する改革に乗り出すがこれが不発に終わり、1stステージは5位に終わる。2ndステージは名波が復帰し、怪我に苦しんでいた中山も復活したことで盛り返すも3位に終わる。中山が2度目の得点王を手にしたが、獲得したタイトルは開幕前のゼロックススーパーカップのみとなった。
2001年より名波浩を中盤4人で形成された四角形の中央に置いた「N-BOX」システムを導入。1stステージを優勝、2ndステージは2位と好成績を残す。しかし、チャンピオンシップで宿敵鹿島に敗れて年間王者になれず、ナビスコカップは準優勝に終わり、3大会連続で決勝まで進んだアジアクラブ選手権でも準優勝となり、結果的に無冠に終わる。藤田俊哉がリーグMVPに選出。
2002年は前年より取り入れた"N-BOX"の中心である名波が怪我で欠場がちであったが、アルゼンチンから復帰した高原直泰がストライカーとして覚醒。名波のコンディションが整ったワールドカップ後には他を寄せ付けない驚異的な強さを見せつけ、中山と高原の2トップは2人合わせて42ゴールを量産する。結果、年間勝ち点では2位以下に20ポイント近くを稼ぐ独走状態となり、史上初となる両ステージを制覇しての完全優勝を達成。27試合26得点の活躍を見せた高原がリーグMVPと得点を総なめにする。またこの年のベストイレブンには史上最多タイの7人が選出された。
シーズン終了後、2000年10月から監督を務めていた鈴木政一が勇退。高原はドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVに移籍する。
2003年はリーグ、ナビスコカップ共に無冠に終わるが、Jリーグ発足後唯一手にしたことがなかった天皇杯を制覇。これによって国内の3大タイトルを全て制したことになる。しかし、2004年になると少しずつ主力の衰えが見られるようになり、2ndステージは一時は最下位に転落するほど低迷する。年間順位は5位となったが、黄金期の終焉を意味するシーズンとなった。
2005年より前アテネ五輪代表監督の山本昌邦が監督に就任。川口能活ら大型補強を敢行し、世代交代にも着手しようとする。2005年にカレン・ロバートが新人王を獲得し、前田遼一が新たなエースに台頭するなど成果もあったが、黄金時代のような強さはもはや影を潜め、優勝争いから遠ざかってしまう。世代交代により出場機会を減らした藤田、名波は退団。2007年には次世代の中心選手と期待されていた菊地直哉が県条例違反(淫行)容疑で逮捕されるという不祥事まで起こしてしまう。
2008年はとうとう残留争いに巻き込まれるほどチームは低迷。9月にハンス・オフトが監督に復帰するもどうにか自動降格は免れるも、16位で入れ替え戦を戦うことに。ここでベガルタ仙台を破り、どうにかJ1残留を決める。この年の4月に社長に就任した馬淵喜勇がシーズン終了後に成績不振と大幅減収の責任で退任するなど、混迷の1年となった。
この年、チームに復帰していた名波が現役を引退。
2009年は開幕戦でモンテディオ山形に2-6と大敗。チームに衝撃が走るが、その後どうにか持ち直す。特に前田遼一は20得点を記録し、得点王を獲得する。一方失点はリーグワーストの60失点を記録。前年のように降格の危機には直面することはなかったが、11位に終わる。
シーズン終了後、クラブ創成期からチームの顔となっていた中山雅史が退団。
2010年はリーグ戦17節の時点で15位と低迷するが、後半戦に入って白星が先行するようになり前年と同じ11位となる。シーズン17得点の前田は2年連続で得点王に輝く。また、この年のナビスコカップでは決勝のサンフレッチェ広島戦を前田の2ゴール1アシストの活躍で制し、7年ぶりにタイトルを獲得。
2011年は久々に一桁順位の8位でシーズンを終え、2012年は序盤こそ優勝争いをしていたが、8月の勝利を最後にズルズルと順位を下げ一時は残留争いに巻き込まれる事に。
2013年に入っても勝負弱さを露呈。先制点を挙げながらも同点に追いつかれたり、または逆転負けを喫する事もしばしば。頼みの前田も「デスゴール」で余計なプレッシャーがかかり不調に陥ってしまう。ついには第31節にてサガン鳥栖に1-0で敗れ、史上初のJ2降格が決定。
2014年は前半こそ2位で折り返すものの、後半に入ると失速。9月にシャムスカ監督を解任し、レジェンドである名波浩が監督に就任。最終的には4位でシーズンを終了し、昇格プレーオフではモンテディオ山形に敗れ1年での昇格を果たせなかった。
2015年は前田遼一がFC東京に移籍となり、厳しい戦いも予想されていた。しかし、完全移籍のジェイとレンタル移籍のアダイウトンの両外国人FWが2人合わせて37ゴールを挙げるなど大活躍。さらに同じく新加入のGKカミンスキーが好セーブでゴールを守るという、3人の新外国人が全員機能する結果となった。シーズンを通して自動昇格を争い、終盤にアビスパ福岡に猛追されるも2位でシーズン終了。最終節の大分トリニータ戦は後半45分に追いつかれるも46分に再びリードするという激闘で、福岡とは勝ち点が82で並び、得失点差で3点上回ったという僅差であった。
2016年の1stステージは8位とまずまずの成績を残すが、2ndステージでは開幕から9試合未勝利で低迷。最終節まで残留争いに加わることになるが、何とか13位でシーズンを終え、最低目標だったJ1残留を果たす。2017年は元日本代表の中村俊輔、川又堅碁が加入。すでにピークは過ぎたと見られていた二人だったが、中村俊輔は攻撃の中心として機能し、川又も14ゴールを決め復活。14節から19節まで6連勝を記録し、ACL出場争いに加わる。当初の予想を大きく上回り、6位とここ10年では最高の成績を残す。
名波監督がトップ5を目標に掲げた2018年だったが、アダイウトン、ムサエフの両外国人が怪我により長期離脱。40歳となる中村俊輔も流石に稼働率が悪くなり、期待されたギレルメは横浜F・マリノス戦で相手選手とスタッフに暴力を振るうという愚行を働き、5月で契約解除となる。深刻な得点力不足に苦しむチームは大きく低迷。起爆剤としてシーズン途中に大久保嘉人が加入するも調子は上がらず。16位でシーズンを終え、J1参入プレーオフに回ることに。ここで東京ヴェルディに勝利し、J1残留を果たす。
2019年も第16節時点で降格圏の17位と低迷。第17節の川崎戦に敗れた後、ついに名波監督は辞任。しかし、その後1シーズンに4人の監督が就任するドタバタ劇が続く。それでも残留が絶望的と見られた状況で就任したフェルナンド・フベロ監督が建て直しに成功し、残留の可能性も見えるようになったが、結局大事な終盤戦で勝ち点を落とし、最下位で2度目のJ2降格が決定。
フベロ体制継続で臨んだ2020年だったが、開幕からいまいち波に乗ることができず、後半戦に入って失速。10月にフベロ監督を解任し、鈴木政一が16年ぶり3度目の監督復帰、さらに遠藤保仁が加入するも6試合を残して1年でのJ1復帰の可能性が消滅する。
2021年は中山雅史がコーチとしてチームに復帰。開幕連敗という不安なスタートとなったが、その後は8連勝を飾るなど好調を維持。10月に鈴木監督が体調不良のため離脱するが、チームは首位のままシーズンを終え、J2リーグ優勝と2年ぶりのJ1復帰を果たす。
2022年は甲府から引き抜いた伊藤彰が監督に就任。しかし、前年J2得点王に輝いたルキアンが移籍してしまい、代役として獲得した杉本健勇は全くの期待外れに。戦力低下した状態でJ1を戦うという補強面の失敗が影響し、最下位に転落。8月の浦和戦で0-6と大敗すると伊藤監督は解任となり、渋谷洋樹コーチが後任となる。終盤戦に意地は見せたものの、結局最後まで最下位を脱出できず、1年でのJ2降格が決定。
追い打ちをかけるかのように、ファビアン・ゴンザレスの加入を巡り、前所属クラブ退団後、磐田との契約締結前にタイのクラブと取り交わした契約が存在したことに関してFIFA規則に違反するとして補強禁止(ユース含む)の処罰を受けてしまう。
補強禁止という思いハンディを背負った2023年は前日本代表コーチの横内昭展が監督に就任。開幕直後に完全移籍に以降したばかりの杉本が横浜Mに移籍するというまさかの事態が起こり、開幕10試合で3敗を喫する苦戦を強いられる。しかし、5月から夏場になるにつれて総合力の高さで勝ち点を積み重ねるようになり、後半戦に入ると清水、東京Vとの三つ巴で自動昇格圏の2位を争うようになる。2位争いは最終節までもつれこむようになり、3位で迎えた最終節の栃木FC戦に勝利すると、引き分けた清水を逆転し、得失点差で東京Vの追撃もかわし、2位が確定。1年でのJ1復帰を果たす。
2024年は打って変わって川島永嗣やブラジル人選手4人を補強。第2節の川崎戦で初勝利を飾ったが、黒星が先行する厳しい戦いが続き、低空飛行のまま残留争いに加わることに。ジャーメイン良がゴールを量産する孤軍奮闘を見せるが、守備陣がここぞというときに踏ん張れずに失点し、勝ち点を失う悪循環を繰り替えしていた。残留争いで重要な終盤戦に3連敗を喫してしまい厳しくなった中で最終節まで何とか残留の可能性は残していたが、すでに降格が決まった最下位鳥栖を相手に0-3で敗れ万事休す。18位に終わり、またもや1年でのJ2降格が決定。
ちなみに、2020年以降同じくエレベータークラブに定着している横浜FCとは互いにJ1とJ2が入れ替わるという奇妙なすれ違いが起きている。
磐田市を始め、浜松市・湖西市・御前崎市・菊川市・掛川市・袋井市・周智郡森町といった静岡県西部はジュビロ磐田の活動区域となっている(参考)。特に浜松市は磐田市に続く第二のホームタウンと言われており、また、スポンサーも磐田市外に本社を構える企業が付いていることもある。
それらの地域の内磐田市以外は長らく「正式には」ホームタウンに定められていなかったが、2023年5月16日についに他の地域が「正式に」ホームタウンに追加された。
かつてはJリーグ加盟の際には浜松市を本拠地にしようとしたり、同じくJリーグ入りを目指していたHonda FCと共用のホームスタジアムを浜北市(現:浜松市浜名区の東部)に構えようという計画もあったとか。まぁ、大人の都合で全てポシャったが。
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
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- | 監督 | 横内昭展 | 1967.11.30 | 2023 | サッカー日本代表 コーチ | ||
1 | GK | 川島永嗣 | 1983.3.20 | 2024 | RCストラスブール | 【完】 | |
2 | DF | 川﨑一輝 | 1997.11.8 | 2024 | カマタマーレ讃岐 | 【完】 | |
3 | DF | 森岡陸 | 1998.11.20 | 2021 | 法政大学 | 【H】 | |
4 | DF | 松原后 | 1996.8.30 | 2022 | シント=トロイデンVV | 【H】 | |
6 | DF | 伊藤槙人 | 1992.10.18 | 2021 | 横浜F・マリノス | 【H】 | |
7 | MF | 上原力也 | 1996.8.25 | 2015 | ベガルタ仙台 | 【H】 | |
10 | MF | 山田大記(C) | 1988.12.27 | 2017 | カールスルーエSC | 【H】 | |
11 | FW | ジャーメイン良 | 1995.4.19 | 2022 | 横浜FC | ||
13 | MF | 藤川虎太朗 | 1998.7.2 | 2017 | ギラヴァンツ北九州 | 【H】 | |
14 | MF | 松本昌也 | 1995.1.25 | 2017 | 大分トリニータ | ||
15 | DF | 鈴木海音 | 2002.8.25 | 2021 | 栃木SC | 【H】 | |
16 | MF | レオ・ゴメス | 1997.7.30 | 2024 | ECヴィトーリア | 【完】 | |
17 | FW | ウェベルトン | 2002.6.29 | 2024 | ニューイングランド・レボリューション | 【完】 | |
18 | DF | 高畑奎汰 | 2000.9.26 | 2024 | 大分トリニータ | 【完】 | |
19 | MF | ブルーノ・ジョゼ | 1998.3.31 | 2024 | グアラニFC | 【完】 | |
20 | GK | 坪井湧也 | 1999.8.23 | 2024 | ヴィッセル神戸 | 【レ】 | |
21 | GK | 三浦龍輝 | 1992.5.27 | 2017 | AC長野パルセイロ | ||
23 | MF | ジョルディ・クルークス | 1997.4.30 | 2024 | セレッソ大阪 | 【完】 | |
24 | GK | 杉本光希 | 2001.8.17 | 2024 | 立正大学 | 【卒】 | |
25 | MF | 中村駿 | 1994.2.24 | 2024 | アビスパ福岡 | 【完】 | |
26 | DF | 西久保駿介 | 2003.7.30 | 2024 | ジェフユナイテッド千葉 | 【完】 | |
32 | DF | ハッサン・ヒル | 1999.11.25 | 2024 | ブネイ・サフニンFC | 【完】 | |
35 | MF | 朴勢己 | 2005.5.16 | 2024 | 東邦高校 | 【卒】 | |
36 | DF | リカルド・グラッサ | 1997.2.16 | 2022 | ヴァスコ・ダ・ガマ | ||
37 | MF | 平川怜 | 2000.4.20 | 2024 | ロアッソ熊本 | 【完】 | |
39 | MF | 角昂志郎 | 2002.8.13 | 2024 | 筑波大学(在学中) | 【特】 | |
40 | MF | 金子将太 | 1995.5.2 | 2021 | 清水エスパルス | ||
46 | FW | 山本将太 | 2006.5.8 | 2024 | ジュビロ磐田U-15 | 【2】 | |
47 | GK | 飯田恵然 | 2006.4.5 | 2024 | ジュビロ磐田U-15 | 【2】 | |
48 | MF | 川合徳孟 | 2007.3.3 | 2024 | ジュビロ磐田U-15 | 【2】 | |
50 | MF | 植村洋斗 | 2001.8.26 | 2023 | 早稲田大学 | ||
51 | GK | 中島佳太郎 | 2001.6.6 | 2024 | 立正大学 | 【復】【H】 | |
55 | FW | 渡邊りょう | 1996.10.25 | 2024 | セレッソ大阪 | 【レ】 | |
67 | DF | 吉村瑠晟 | 2003.7.2 | 2024 | 関西大学(在学中) | 【特】 | |
99 | FW | マテウス・ペイショット | 1995.11.16 | 2024 | アトレチコ・ゴイアニエンセ | 【完】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
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国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
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長澤和明 | 1993年 | ・前身のヤマハ時代から在任 ・Jリーグ昇格(1993年) |
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ハンス・オフト | 1994年~1996年 | ||
ルイス・フェリペ・スコラーリ | 1997年~1997年5月 | ||
桑原隆 | 1997年6月~12月 | ・監督代行 ・Jリーグ優勝(1997年) |
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バウミール | 1998年 | ・Jリーグ1stステージ優勝(1998年) ・ナビスコカップ優勝(1998年) |
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桑原隆 | 1999年 | ・アジアクラブ選手権優勝(1999年) ・J1リーグ優勝(1999年) |
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ハジェブスキー・ギョキッツァ | 2000年~2000年9月 | ||
鈴木政一 | 2000年9月~2002年 | ・J1リーグ1stステージ優勝(2001年) ・J1リーグ優勝(2002年) |
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柳下正明 | 2003年 | 天皇杯優勝(2003年) |
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桑原隆 | 2004年~2004年9月 | ||
鈴木政一 | 2004年9月~11月 | 暫定監督 |
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山本昌邦 | 2004年11月~2006年6月 | ||
アジウソン | 2006年6月~2007年9月 | ||
内山篤 | 2007年9月~2008年8月 | ||
ハンス・オフト | 2008年8月~12月 | ||
柳下正明 | 2009年~2011年 | ・ナビスコカップ優勝(2010年) ・スルガ銀行カップ優勝(2011年) |
|
森下仁志 | 2012年~2013年5月 | ||
長澤徹 | 2013年5月 | 監督代行 | |
関塚隆 | 2013年5月~12月 | J2降格(2013年) | |
シャムスカ | 2014年~2014年9月 | ||
名波浩 | 2014年9月~2019年6月 | J1昇格(2015年) | |
鈴木秀人 | 2019年6月~7月 | ||
小林稔 | 2019年7月~8月 | 監督代行 | |
フェルナンド・フベロ | 2019年8月~2020年10月 | J2降格(2019年) | |
鈴木政一 | 2020年10月~2021年 | J1昇格(2021年) |
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服部年宏 | 2021年10月 | 鈴木政一監督休養中の代行 |
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伊藤彰 | 2022年~2022年8月 | ||
渋谷洋樹 | 2022年8月~12月 | J2降格(2022年) | |
横内昭展 | 2023年~ | ・J1昇格(2023年) ・J2降格(2024年) |
Mr.Childrenの桜井和寿は名波浩と親交が深いこともあり、ジュビロ磐田のファンである。クラブの20周年記念試合に著名人チームの一員として出場し、ゴールも決めている。「ジュビケン」(ジュビロ磐田研究会の略)という草サッカーチームに所属している。
ジュビロ磐田の初代監督である長澤和明は、女優の長澤まさみの父親である。
掲示板
36 ななしのよっしん
2022/10/30(日) 22:53:08 ID: 5OABRfYK7J
甲府から監督とコーチ引抜いておいて監督を解任して降格って、ジュビロ磐田のフロントは何がしたいのかわからん
37 ななしのよっしん
2023/04/14(金) 23:39:36 ID: on5Wbvh/XJ
乱闘騒動の磐田-町田 選手がSNSでいがみ合い 「昨日のようなチームに」「ヘタクソ共、高校サッカーやっとけとかクソみたいな発言」
https://
38 ななしのよっしん
2024/12/08(日) 16:56:20 ID: 5OABRfYK7J
うぬらは何回降格するのやらそして横浜FCとすれ違うのやら
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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