映画の意味を理解する『映画分析入門 Flim Analysis』
観た人なら思い出したくもないあの嫌なシーンだが、観てない人にも不穏さは伝わるだろう。
本書によると、キューブリック監督は、光源を若者たちの背後に置くことで、彼らの頭を黒で表現したという。この技巧によって、横たわる老人に対して、暴力を振るう彼らが人間性を失っていることがよくわかる。
「映画を批評的に見るためには、どうすればよいか」という疑問に対し、「映画は意味だ」と喝破するのが本書になる。冒頭はこの文章から始まる。
映画とは技巧(テクニック)と意味との結婚である。セットを作り、俳優に演技を指示し、カメラの位置を決め、撮影した大量のショットを編集する時、映画製作者は単に物語を語っているのではない。「意味」を作っている。
そして、製作者が意図する「意味」を分析的に解釈することが、批評的な見方の第一歩になるという。
本書は二部構成となっている。
第一部では、物理的なアプローチ(カメラ、音響、美術)から「何を見ればいいのか」を掘り下げる。『シャイニング』 『鳥』『エイリアン』『羊たちの沈黙』 『ファイト・クラブ』など70作品を俎上に、「なぜこの映像なのか」「なぜこのセットや技巧を使っているのか」を問いながら、それらが意図している意味のレベルから明らかにする。
第二部では、批評的な枠組み(歴史、政治、思想)から「どう見ればいいのか」を解説する。ポストモダン、ジェンダー、エスニック、サイエンスなど、文化や社会を解釈するための価値体系を、映画の道具立てで語り尽くす。
意味の次元から見ることができるようになれば、違った角度から映画を楽しむことができる。映画を見る「引き出し」が増えるのだ。
例えば、映像のメタファーだ。
『シャイニング』のテーマの一つに、獣性と文明(人間性)の葛藤があるという。
雪に閉じ込められた景観荘(オーバールックホテル)で次第に人間性を失っていくジャックの物語がメインの筋だが、本書では、彼の妻子の後ろ姿を採りあげる。赤いフード付きのコートを着て生垣の迷路を歩く妻の姿や、無精ひげと乱れた髪が毛むくじゃらのジャックは、赤ずきんと狼を想起させる。
私たちは獣であるが、様々な圧力により、市民の皮を被っているに過ぎない。(先住民の呪いであれ、禁酒生活のフラストレーションであれ)ひとたびその皮が剥がれたら、その下の獣性が剥き出しになる―――そういう「意味」が含まれているというのだ。
ジャックの「獣性」は映画の後半で思い知らされることになるが、その前段として赤ずきんがあったことは知らなかった。もちろん、この母子が生垣の迷路を歩いたシーンは覚えている。だが、私の心に(意識させないまま)赤ずきんのメタファーが刷り込まれていたことは、本書を読むまでは気づかなかった。
本書がユニークなのは、製作者の意図しない意味も掘り当てている点にある。
あたりまえだが、映画に出てくる画像は全て編集されている。監督が意図した通りに演じられ・撮られ・編集されているのだから、「意図しない意味」の入る余地なんて無いのでは?
本書によると、見方によって、製作者の意図しない意味は現れてくるという。
物語は常に、ある語りの視点から語られる。
そこから私たち観客は映画を見るのだから、ある意味で、世界を特定の方法で見ていることになる。そして、映画なら必ず視角がある。映画の全体であれ、それぞれのショットであれ、視覚の構造があり、それが意味を作り、特定の価値観へと入り込むのかを決めるのだという。
例として、ヒッチコック『鳥』が挙げられる。
小さな町を舞台に、鳥が人間を襲い始めるという筋立てだ。物語は、この町を訪れるメラニーに焦点を当てている。自立した女性で社交的で恋愛にもポジティブなのだが、行く先々で鳥に襲われる。
極端なハイアングルショットで撮られるメラニーは、最終的には男性による保護が必要な弱い存在として描かれているという。他にも、息子に対し支配的だった母親が、鳥の攻撃で取り乱し、フレーム内の背景に小さくなるドリーショットがあるという。
最初は大きく、積極的・支配的だった女性たちが、鳥の攻撃によりパニックに陥り、萎縮し、守られる立場となる。一方で、小さく・被支配的だった男性たちが、冷静さを保ち、秩序を守ろうとする(映像の中でも大きく映される)。
『鳥』は1963年の作品だ。インタビューによると、ヒッチコックは彼女たちを受動的で従属的な女性にしようと意識したわけではなく、単にホラー映画を作ろうとしただけだという。
しかし、ヒッチコックが育った保守的なカトリック文化の中では、性的に独立した女性は罰せられた。『鳥』においては、そうした女性が文明にとって危険な存在として描かれている。ヒッチコックは無意識のうちに、映画の中に彼の価値観や想定を持ち込んだのである。
確かに、言われてみるとヒッチコックの作品に、彼の価値観が切り取られているのかもしれない。会社のカネを横領して逃亡した先で殺されるのは女性だし、東西陣営のスパイ陰謀に巻き込まれても、最終的にはアメリカ合衆国が正しかったというオチだ。
様々な映像技術や事例を通じて、これまで見てきた映画を別の観点から捉えなおしたり、これから見る映画をより多面的に味わうことができる。
それはそれで素晴らしいことなのだが、これやり過ぎると、映画を楽しめるのだろうか?という気になってくる。映画に限らず、作品を楽しむとき、作者の意図や、作品の文化的背景には、あまり目を向けないようにしている。なぜなら、そこを分析的に踏み込もうとすると、作品世界から一歩引いてしまうからだ(より「メタ」的に見ると言ってもいい)。
ほらアレだ、「作者の気持ちを答えなさい」を念頭に出題文を読むのと一緒だ。作者の気持ちなんてどうでもいい、この物語に脳天までどっぷり浸かりたいのだから、俯瞰の視点は脇に置いておきたいというやつ。
さもないと、「この表現はどういう効果を狙ったのか?」という問いを常に抱えることになり、鑑賞そのものが答え合わせになってしまう。私の場合、小説でよくやらかす失敗だが、これは不毛だ。
だから本書は、映画を分析して、批評を書く人にとってはバイブルになるだろうが、純粋に映画を楽しみたいという人にとっては注意が必要な一冊になる。映画の意味が分かることと、映画そのものを楽しむことは、バランスを取る必要があるからね。
あるいは、既に見た作品をもう一度楽しむときには、『映画分析入門』は最良のガイドとなるかもしれない。
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