曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』
コルタサル『石蹴り遊び』が復刊されたぞ。
コルタサル『石蹴り遊び』が復刊されたぞ。
本を読むとは扉を開けること。異世界であれ現実の別ver.であれ、向こう側に行くことだ。表紙を開くと文字通り扉があり、その向こうには知や異や現実を象った世界が広がっている。
ふつう物語は、「はじめ」「なか」「おわり」で構成され、この順で読者は世界に触れる。読者は最初のページから始め、一行ずつ文字列を追いかけて二次元的にページを把握し、そこから空間(三次元)・時間(四次元)を含めて物語を再創造する。最後のページに至るとは、作者から提示されたものが終わることを意味する。そこで読書を終了してもいいし、気になるところに戻ってもいい。だが、(物語の終了の如何にかかわらず)最後のページから先を読むことはできない。
こうしたお約束を、ぶっ壊したのがフリオ・コルタサル『石蹴り遊び』である。2冊読むと、これまでに読んできた、どんな小説とも異なる酩酊感を味わい、これから読むであろう、どんな作品にも似ていない目眩に襲われるだろう。ただし、フラッシュバックは強烈で、悪酔いするかもしれぬ。しかも、最悪なことに、3ループ、4ループと何度も繰り返し読むハメになるかもしれぬ(わたしは4ループで止めた)。
さきほど「2冊読むと」と書いたが、間違いではない。たしかに『石蹴り遊び』はゴツい1冊の本であるが、2冊の書物として読める。というのも、最初のページに「指定表」なるものがあり、作者自身が、次のような「読み方」を指定してくる。
第1の書物
ふつうに第1章から始まり、第56章で終わる
第2の書物
第73章から始まり、以下の指定の順番に読む
73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....
頭おかしいと思うだろ? わたしもそう思った。しかも、第1の書物が終わった後の57章以降は、文学的断章、新聞のスクラップ、著作ノートの引用と、雑多なものが詰め込まれており、「読み捨ててもいい」と但し書きまでついている。第2の書物は、こうした断片を第1の書物に挟み込むにして構成されている。
読み手は、第1の書物だけで済ませることもできる(総量のおよそ2/3)。第1の書物は二部構成となっており、第一部はオラシオ・オリベイラという作家志望のボヘミアンと、ルシア(ラ・マーガ)との出会いから別離までの愛の物語と、その仲間たちとの芸術談義が続いている。そして第二部では、失踪したラ・マーガの幻影を追って故郷に戻ったオリベイラと親友トラベラー、親友の妻タリタとの奇妙な三角関係が描かれている。
主人公オリベイラは、いい感じのエゴイスティック・ゲス野郎で、内省や思索は深いものの口だけ達者で行動しない。夏目漱石『それから』の代助に似ているなぁと思ってたら、同じことを考えている人がいて嬉しくなる[漱石とコルタサルの男性人物について : 『それから』と『石蹴り遊び』における三角関係の恋]。
このゲス野郎、酷い目に遭えばいいのにと思ってたら、精神に異常をきたし、悲劇的な運命へ墜ちていく。予定調和と思いきや、何かおかしい。第1の書物を注意深く読むと、知るはずのないことを知っていたり(ネタバレ反転表示:ラ・マーガ以外の皆が赤子の死を知っていたこと)、言及されなかった内省(ポーラの病に関するオリベイラの思索)、交わされなかった会話(トラベラーとオリベイラを断絶させる決定的な言葉)などが残される。回収されない伏線、思わせぶりな前フリを胸に、宙ぶらりんな気分で第1の書物が終わる。
モヤモヤしながら指定表を繰り(作者の思う壺)、少なくとも第1-56章は2度読むのかと思いながら第2の書物に取り掛かると、仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、第1の書物で語られなかった理由が説明されていたり、脇役だと見ていた人物が、実は重要な役割を果たしていたり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、第1の書物にはない可能世界を生きていたりする。
この仕掛け、テキストアドベンチャーゲームを思い出す。チュンソフト『街』のザッピングや、Key『Kanon』のイベントフラグをご存じだろうか。システムは違うが、本質は反転であり逆転である。読み手は同じ物語を追っているのに、視点・因果・世界がぐるりと入れ替わる。『石蹴り遊び』の第2の書物は、第1-56章は同じであり、同じ時間軸を廻っているのに、まるで違う相貌を誘発させる。解説にこうある。
ウンベルト・エーコが「開かれた作品」を世に問い、「一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品」としての芸術作品を扱う
これを体現したのが、『石蹴り遊び』になる。指定表で示された順に、あっちの章、こっちの章とジグザグに惑い進めていくうち、読者は共犯者に、作者との旅の道連れに、仕立てあげられてゆく。この本がどんな本であるか? 実はその肝が第79章にある。第1の書では脇役だったある人物が書いたもので、それが誰であり、『石蹴り遊び』が一体どんな存在なのかを知って、二度仰天する。そこに、こうある。
読むことが読者の時間を廃止してそれを作者の時間に転位させるであろうからには、読者を同時存在たらしめること。こうして読者はついに小説家が経てゆく経験を、同時にしかも同じ形で共有し共に悩む者となることができるだろう。
これは、読むことで完成する物語なのだ。楽譜だけでも音楽であり、暗がりでもダンスは踊れる、闇でもピカソはピカソだ。演奏され目の当りにされて初めて、芸術は美的に享受される。それを小説でやってのけたのが、『石蹴り遊び』の第2の書物なのだ。
さらに、1冊でありながら2冊の書物として読めるだけでなく、他の可能性をも残している。なぜなら、第2の書物の末尾は「...77-131-58-131-」と無限循環になっているので、形式的には終わりのない小説になっている。何回目のループで止めるかは読み手次第というわけ。まるで、読み方を試されているようだ。わたしはループを脱出するため、ある人物の覚書をもとにして、第3のルートを捻出した。そこにオラシオは、ほぼ出てこない。だが、この順に読むことで、『石蹴り遊び』の秘密が解ける。
60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
124-136-137-141-145-151-152-154-155
忙しい人、途中で投げた人のために、最短にしてみた。
79-109-141
しかし、500ページを超える巨大な作品を、たった3章で読んだことにしてしまってはもったいない。ぜひ、あっちへ行ったり、こっちへ惑ったりしながら、読むほどに酔うほどに冴える体験をしてほしい。
曼荼羅のようなパンドラのような反文学を、お愉しみあれ。
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