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辛い日常に効く『見上げれば星は天に満ちて』

見上げれば星は天に満ちて 浅田次郎が選んだ、ぜんぶ「あたり」のアンソロジー。心がへこたれたとき、一編二編と読んで蓄熱したい。

 リアルが辛いときには、そこから少し離れてみる。わが身をもって得たコツだが、これがなかなか難しい。ともすると濁った感情やぐるぐる思考にロックインされ、「そこ」から離れることすら思い至らない。そんなとき効くのが短編、しかも極上のやつ。

 なにしろ、森鴎外や井上靖、谷崎潤一郎といった達人ばかりなので、一行目から引き込まれる。一頁目に入れたら、あとは安心して委ねていけるクオリティ。リアルを(ちょっとだけ)逸脱できる。しかも、いわゆる文学ブンガクを目指しているのではなく、浅田次郎が「心に深く残った作品」としてエンタメ性の高いものを挙げているので、肩肘張らずに読める。

 知ってたつもりの作家に、こんな珠があったとは……驚くことしきり。もちろんわたしの不勉強なのだが、嬉しい再発見が得られる。川端康成の『死体紹介人』は、読まずに死んだらもったいない。今でいう“ルームシェア”を始めた男女という出だしから、あれよあれよと転々とし、ロマンスがあるようでなく、ないようでエロティックで、そしてタイトルどおり「死」が横たわっている奇妙な作品だ。読んだらきっと、忘れられなくなる物語。芥川龍之介『疑惑』は、文字通り呑み込まれた。アンビバレントな過去の罪に炙られる焦燥感を話者と共有しつつ、「物語の落としどころ」を探りながら読み進める愉しさは格別なり。しかも、こちらの“読み”を、予想どおりに裏切ってくれる(しかも多くを記さない)残心の込められた描写は、ほとんど快感に近い。

 既読の読み直しでも、嬉しい気づきが得られる。小泉八雲『耳なし芳一のはなし』は、三十ウン年ぶりに再読したのだが、これはただでさえ短い上に、極限まで削ぎ落とした作品であることが分かった。腐りやすい形容詞を廃し、ほとんど骨格だけにしてしまったからこそ、全身経文で覆われたイメージや、耳から流れ出る血の粘り気を載せることができる。そして、三十ウン年で知った驚愕の事実がある。芳一は耳を失ったかもしれないが、音を失ってはいなかったこと(あの翌朝、住職の声に応えている)。「盲目の上に耳まで聞こえなくなってかわいそう」と、わたしが勝手に思い込んでいたのだ。

 ラインナップは以下の通り。既読から推して分かるだろうが、ぜんぶ「あたり」だ。読めば惹き込まれる、だが元気やチカラを与えてくれるような作品ではない。日常の苦しみをしばし忘れさせるくらい面白く、ヘタった心が回復するまで猶予を与えてくれる、そんな傑作ばかりの一冊。

  『百物語』  森鴎外
  『秘密』  谷崎潤一郎
  『疑惑』  芥川龍之介
  『死体紹介人』  川端康成
  『山月記』  中島敦
  『狐憑』  中島敦
  『ひとごろし』  山本周五郎
  『青梅雨』  永井龍男
  『補陀落渡海記』井上靖
  『西郷札』  松本清張
  『赤い駱駝』  梅崎春生
  『手』  立原正秋
  『耳なし芳一のはなし』  小泉八雲

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