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宿題を終わらせる『論理哲学論考』

論理哲学論考 ようやく読めた。岩波青で適わなかった宿題が、やっとできた。新訳はとても読みやすく、かつ、驚くだろうが理に適ったことに、横組みなのだ。

 そもそもこれは、どういう本なのか、なぜこれが20世紀最大の哲学書なのか、そして、ずっとたどり着けなかったラストが、なぜ「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わっているのかが、わかった。わたしが難しく考えすぎていたんだ。

 これは、数学なんだ。

 哲学的なことについて書かれてきたことの大部分は、意味がないという。なぜなら、「哲学的なことについて書かれてきたこと」は、言語を使っているから。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねなんだと。なぜなら、「言語の論理を日常生活から直接引き出すことは、人間にはできない(No.4.002)」から。

 このあたりの説明は、本書の冒頭にある野家啓一「高校生のための『論考』出前講義」が分かりやすい。同じ言葉なのに、複数の意味が重ねられたり、異なる様式で用いられることが、日常言語の不備と欠陥だと教えてくれる。例えば、「あおい」という言葉一つとっても、「青い(blue)」、「葵(hollyhockもしくは人名)」、「未熟な」、といった意味をまとっている。「青春」や「(信号の)みどり」など、名詞にも形容詞にも用いられる。

 これを克服して、問題をクリアにすることが、哲学の目的になるという。「語りえること」を、語れる内側から明確化するのだ。なにか難解で深遠そうな哲学的命題をひねり出すことではなく、むしろ哲学的命題に潜んでいる言語の論理への誤解を明るみに出し、言語批判を通じて問題そのものをクリアにすること、すなわち「活動」こそが哲学だというのだ。

 そして、日常言語からくる混同を回避するために、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築する必要があるといい、実際にそれを成し遂げたのが本書になる。論理的な人工言語(似て非なる記号が出てくるので要注意)を用いて、哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界に線引きをする。

 正直なところ、この論理的シンタックスの本質的な部分は難しかった……というより、理解できなかった。ヴィトゲンシュタインは、一歩一歩積み立てては説明してくれるのだが、わたしのアタマで追いつけない。これは、オイラーの公式に取り組んだときと一緒。「ああ、たぶんそんな意味なんだろうな……」と読み流して、自力で解こうとしなかった(できなかった)。吉田武『オイラーの贈物』を読んで理解できる人なら、イケるのではないかと思う。学問のOSである論理学、この辺りは戸田山和久『論理学をつくる』から攻めるつもり。

 長年の宿題に決着をつけ、こじらせていた中二病にトドメを刺したのはいいが、なにか釈然としない感覚が残る。気のおけないメンツが集まって、「生きるとは?」とか「善とは何か?」など、形而上学的な話題について、ああでもない、こうでもないと語り合っていたら、秀才が現れて、つまりこれこれこうですよ、証明終わり、といわれた感じなのだ。反論したら、「それは定義でそうなっているから」といちいち返される。ロジックは(たぶん)完璧に合っているけれど、何か近寄りがたいものを感じる。

哲学探究 本書は、完璧な結晶でできた建造物のように、外から鑑賞する分にはいいかもしれないが、中をを歩き回って住むには難しいかもしれない。ヴィトゲンシュタインも薄々分かっていたようで、30年後に世に出る本の中で、「私たちはアイスバーンに入ってしまった。摩擦がないので、ある意味で条件は理想的だが、しかしだからこそ歩くことができない」と述べる。そして、「私たちは歩きたい。そのためには摩擦が必要だ。ざらざらした地面に戻ろう!」と宣言する(No.107)。自らの哲学を日常言語の働きの理解に向かって引き戻そうとする。それが、『哲学探究』だ。嬉しいことに、『論考』よりも面白く、近く、ユニークで、そして「わかる」(ヒリヒリするほどに)。

 嬉しいのか残念なのか、中二病は治りそうもない。


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コメント

野家啓一「高校生のための『論考』出前講義」

これ面白そうですね。これだけでも読みたいと思いました。
論考そのものは頭がおっついていかないので、触りだけでも掴むためには良い解説が欠かせません。

野矢茂樹『『論理哲学論考』を読む』は良い解説書であると同時に野矢独自の論も添えてあって、論考の理解が進んだ気がしました。(気がしただけかも)

投稿: sarumino | 2014.02.24 22:14

>>saruminoさん

はい、この解説のおかげで捗りました。「代わりに読解してくれる」まとめ系ではなく、本編を読むための前提知識や、つまずきそうな箇所を先回りしてくれています。もちろん、Wikipediaと首っぴきで自助努力もありですが、先読みしておくとコスパが良いです。

投稿: Dain | 2014.02.26 13:34

ありがとうございます。
挑戦してみようと思います。

投稿: sarumino | 2014.05.14 20:56

≪…これは、数学なんだ。…≫を、「論理哲学論考」ウイトゲンシュタイン著 野矢茂樹訳のパートランド・ラッセルによる解説に、
【命題はつねに原子命題の真理関数である。】から
『言葉(言語)の文脈(命題)からの自然数の言語化は、[点・線・面]の言語化に生っている。』

[数学思考](平面)は、[円]と[ながしかく](『自然比矩形』)との[点・線・面]の[アウフヘーベン]が、
 ≪…語りえぬものについては、沈黙せねばならない。…≫ にかかっているようだ・・・

投稿: 言葉の量化と数の言葉の量化 | 2020.09.25 16:58

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