たにざき‐じゅんいちろう〔‐ジユンイチラウ〕【谷崎潤一郎】
谷崎潤一郎
谷崎 潤一郎 (たにざき じゅんいちろう)
1886〜1965 (明治19年〜昭和40年) |
【小説家】 マゾヒズムから老人の性まで描き、絢爛たる谷崎文学を築く。国際的にも高い評価。 |
明治?昭和期の小説家。東京都出身。父が家業に失敗して苦学した。東京帝国大学在学中の1910年(明治43)第二次「新思潮」を創刊、発表した「刺青(しせい)」が永井荷風に激賞された。マゾヒズムの描写や高い物語性は自然主義中心の文壇に衝撃を与えた。関東大震災後の関西移住を契機に、日本の伝統文化に回帰、「細雪」や「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」などを発表。晩年は「鍵」「瘋癲(ふうてん)老人日記」などで老人の性を描いた。 |
年(和暦) | ||
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 3才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 8才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 17才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 18才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 21才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 24才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 32才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 37才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 42才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 46才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 50才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 55才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 59才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 60才 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 | 65才 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 | 67才 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 | 70才 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 | 74才 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 | 74才 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック | 78才 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | +6 |
・石井 柏亭 | 1882年〜1958年 (明治15年〜昭和33年) | +4 |
・福原 信三 | 1883年〜1948年 (明治16年〜昭和23年) | +3 |
・高村 光太郎 | 1883年〜1956年 (明治16年〜昭和31年) | +3 |
・鳩山 一郎 | 1883年〜1959年 (明治16年〜昭和34年) | +3 |
・石橋 湛山 | 1884年〜1973年 (明治17年〜昭和48年) | +2 |
・東条 英機 | 1884年〜1948年 (明治17年〜昭和23年) | +2 |
・安田 靫彦 | 1884年〜1978年 (明治17年〜昭和53年) | +2 |
・三浦 環 | 1884年〜1946年 (明治17年〜昭和21年) | +2 |
・武者小路 実篤 | 1885年〜1976年 (明治18年〜昭和51年) | +1 |
・平塚 らいてう | 1886年〜1971年 (明治19年〜昭和46年) | 0 |
・山田 耕筰 | 1886年〜1965年 (明治19年〜昭和40年) | 0 |
・松旭斎 天勝 | 1886年〜1944年 (明治19年〜昭和19年) | 0 |
・柳 宗悦 | 1889年〜1961年 (明治22年〜昭和36年) | -3 |
・古今亭 志ん生 | 1890年〜1973年 (明治23年〜昭和48年) | -4 |
・山川 菊栄 | 1890年〜1980年 (明治23年〜昭和55年) | -4 |
・近衛 文麿 | 1891年〜1945年 (明治24年〜昭和20年) | -5 |
・岸田 劉生 | 1891年〜1929年 (明治24年〜昭和4年) | -5 |
・河合 栄治郎 | 1891年〜1944年 (明治24年〜昭和19年) | -5 |
・芥川 龍之介 | 1892年〜1927年 (明治25年〜昭和2年) | -6 |
・西条 八十 | 1892年〜1970年 (明治25年〜昭和45年) | -6 |
谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)
1886年(明19)、東京生まれ。東京帝国大学国文科中退。実弟は谷崎清二。
1910年(明43)、第二次「新思潮」を創刊し、「刺青」「麒麟」などで耽美主義作家として注目された。
豊かなイマジネーション、絢爛な文体、官能描写などで、独自の領域を開拓した。
探偵小説的作品としては、1911年(明44)、「秘密」を「中央公論」に発表。
1918年(大7)、「人面疽」を「新小説」を発表。
1919年(大8)、「或る少年の怯れ」を「中央公論」に発表。
1920年(大9)、「途上」を「改造」に発表。
1930年(昭5)、佐藤春夫に夫人を譲る。
1931年(昭6)、谷崎潤一郎宅を訪問後、事故死した渡辺温に同情し、「新青年」に「武州公秘話」を発表。
江戸川乱歩にも影響を与え、探偵小説の中興の祖といえる。
1948年(昭23)、朝日文学賞受賞。
1949年(昭23)、文化勲章受賞。
1950年(昭24)に発表した「月と狂言師」は日本文藝家協会の「創作代表選集 4(昭和24年後期)」に収録される。
1957年(昭32)に発表した「老後の春」は日本文藝家協会の「創作代表選集 21(昭和32年後期)」に収録される。
1965年(昭40)、腎不全と心不全により死去。
谷崎潤一郎
谷崎潤一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
小説家。共に中央公論社出版の『日本の文学』〈全80巻〉の編集委員になった。三島は谷崎から『美しい星』を褒められ、礼状を送っている。少年時代から谷崎文学に親しんでいた三島は数々の谷崎論を書き、その小説家としての天才を賞揚しているが、〈谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然〉とも述べ、戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めた岸田国士とは対極の意味合いで、〈結局別の形で自分の文学を歪められた〉作家だと評している。三島は1958年(昭和33年)度のノーベル文学賞推薦文を谷崎のために書いていたが、実際に谷崎が有力候補と目されていた頃は毎年新聞社に依頼され、あらかじめ受賞祝いコメントを3回も書かされていたという。奥野健男によれば、三島は「谷崎潤一郎の晩年はノーベル賞をもらうために生きていたようなものだった。とうとう間に合わなかったが。ノーベル文学賞なんか、そんなものだ」と言っていたとされる。
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「谷崎 潤一郎」の例文・使い方・用例・文例
- 早く原因を見つけて、スランプを治して谷崎主任の期待にこたえないと。
- 谷崎潤(じゅん)一(いち)郎(ろう)氏のノート発見
- 出版社の中央公論新社は,小説家の谷崎潤(じゅん)一(いち)郎(ろう)氏が書いたノートの写真255枚が発見されたと先日発表した。
- 谷崎氏が第二次世界大戦の空襲でノートを失うことを恐れ,それらの写真を撮ったと考えられている。
- 写真は谷崎氏の親友である笹(ささ)沼(ぬま)源(げん)之(の)助(すけ)氏に預けられた。
- 同社は最近それらを再発見し,谷崎氏の新しい作品全集に含めて出版することを予定している。
- 彼は,今回の写真が谷崎氏の物語作りの過程を研究する上で大変重要な資料であると述べた。
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