しんせいねん【新青年】
新青年(しんせいねん)
1920年(大9)1月創刊。博文館刊行。戦後は江古田書房、文友館、博友社と移る。
押川春浪の「武侠世界」に押され、「冒険世界」を廃刊したあとの新雑誌企画に際して、森下雨村は総合雑誌を企画していたが、上司は純真な地方青年を対象とするように命じる。初期の新青年は青年修養談、海外渡航奨励記事が多かった。
読者を惹きつけるために創刊号にフリーマンの「オリシスの眼」の翻訳を掲載するなど、翻訳探偵小説を掲載したところ、若い世代に支持された。1920年(大9)8月には翻訳探偵小説で、「探偵小説傑作集」を増刊号として発行したが、恒例となり、1921年(大10)には新春と夏の二回、のちには年4回となり、通計43冊になった。これにより、「新青年」=「探偵小説」というイメージを与えることになる。もっとも喜ばれたのは、ビーストンであり、70編以上にも及ぶ。ちなみに増刊号を発行すると、編集者には特別ボーナスが支給されたので、喜んで発行していた。
創作は創刊号から募集していたが、十枚程度のものにすぎなかった。江戸川乱歩登場後、次々に新人作家が登場した。傾向としては、怪奇性、変態心理、悲哀や機知に富んだ作品が多かった。
1926年(大15)10月からは横溝正史が編集長に就任し、モダニズムとナンセンスで誌面を刷新する。探偵小説の特殊性を固持しようとする江戸川乱歩は変貌に衝撃を受けて、通俗長編に奔った。乱歩が新青年に帰ってきたのは、1928年(昭3)のことで、「陰獣」が掲載されるや、大評判となり、雑誌ながら三版まで印刷した。
1928年(昭3)10月に延原謙が、1929年(昭4)8月に水谷準が編集長に就任。近代的センスと風刺ユーモアにあふれた誌面が特徴だったが、探偵小説からは少し離れた。
1938年(昭13)に上塚貞雄(乾信一郎)が編集長となったが、1939年(昭14)にふたたび水谷準が返り咲いた。戦後は横溝武夫(横溝正史の異母弟)が編集長となったが、通俗現代物だけを載せ、また、ライバル誌が排出したため、次第に探偵小説から遠ざかっていった。
1950年(昭25)には「抜き打ち座談会」を掲載し、探偵文壇を木々高太郎率いる文学派と、江戸川乱歩を総帥とする本格派に二分した。
発行所の博文館が解体のあとは、江古田書房、文友館、博友館と発行所の名義が転々となり、1950年(昭25)7月、休刊となった。最盛期の発行部数3万部。通計400冊。
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