作られた人物像でなく、リアルな人物像を
習作である歴史恋愛 オムニバス短編小説シリーズ「恋愛群像ヒストリカ」の目標に「作りものめいた人物像」ではなく「リアルな人物像」を描きたい、というものがあります。
自分は昔から時代劇が好きで、よく見てきたのですが、一部の時代劇――特に大河ドラマを見ていて“違和感”を感じることがありました。
それは「主人公がやたらと善人に、敵対する人物がやたらと悪人に描かれる」ことでした。
主人公サイドもライバルサイドも同じような行動をしたにも関わらず、ライバルの行動は貶められ、主人公の行動は褒め称えられる……そんな不公平な扱いにモヤッとしたものを感じてきました。
また大河ドラマの場合、“脇役”あるいは“敵”として、何年か前の大河ドラマの主人公だった人物が登場することがあります。
そういう時に、主人公だった時には“正しい人間”として描かれていた人物が、今度は“間違った人間”として描かれているという、その手のひらを返したような扱いの差にもモヤモヤしてきました。
元々自分は「主人公サイドの人間だったら“必ず正しい”」というスタンスが好きではありません。
“正義”と“悪”という対立構造があった方が物語が「分かりやすい」というのは、(アマチュアとは言え)物書きの立場で理解できるのですが…
歴史の悪戯で、たまたま勝者と敗者に分かれたというだけかも知れないのに…それを、事情をよく知りもしない後世の人間が正義だとか悪だとか決めつけてしまうことには、何となく後ろめたさを感じるのです。
それに過剰に神聖視され“聖人”のように描かれた人物像には、どこかリアリティーを感じません。
自分はそんな「物語のヒーロー・ヒロインとして“作られた”人間」よりも、「リアルな“人間”」を描きたいと思ったのです。
時には主人公が失敗や過ちを犯すこともあり…
(そもそも“史実”がある部分については、主人公の“行動”を作者が勝手に変えてしまうことはできませんし…。)
しかし、それを物語として“正当化”しない…
それは場合によっては読者の反発を招いてしまうかも知れません。
でも、習作だからこそ、そういったものにもチャレンジしたいと思ったのです。
…そもそも、主人公だからと言って間違いも何もかも全て肯定してしまったら、いろいろなものが“歪む”ような気がするので…