「分からない」の種類
社会人になってから気づいたことがあります。
「分からない」と言うことは、単に「理解する能力を持たない」ということだけではないのだと。
「分からない」という人の中には、「理解する能力」を持っていても「理解するために頭を使う(考える)のが面倒くさい」「理解するために調べ物をするのが面倒くさい」あるいは「受け入れたくない意見だから聞く耳を持たない」「そもそも興味がないから理解する気も知る気もない」という人たちが、少なからず存在するのです。
人は結局、自分が理解したいものしか理解してくれない生物なのではないか…と思うことさえあります。
「分かってもらいたい」と切実に思っている側にとっては無情で残酷な事実ですが、世の中の多くの「無理解」がそういったある種の怠惰や無関心から生まれているというのは、紛れもない現実なのだと思います。
そして悲しいことに、「分かってもらう」ための努力はいつでも「分かってもらいたい」と願う側だけに課せられてしまうのです。
たとえそれが、「分かって欲しい」相手にとっても他人事ではない重大問題であったとしても…。
様々なメディアや時事問題を見ていて個人的に感じていることですが、今の世の中は何だかどんどん人間の精神的視野が狭まっている気がします。
ごくごく小さな世界(コミュニティ)の一面的な物の見方にとらわれて、それ以外の物の見方を受け入れられない人、あるいは、それ以外の見方があるということすら思いつきもしない人が増えているような気がするのです。
それまでの自分の価値観とは違う物の見方、考え方は、時には自分自身を否定されているような気持ちになって不快感を覚えるかも知れない、けれど、ひょっとしたら、その自分が想定していなかった「別角度からの物の見方」によって、それまで自分が思い悩んでいた問題がカンタンに解決してしまうかも知れないのに。
あるいは、そんな物の見方があるということを知って、心が解放されてラクになることがあるかも知れないのに。
「知る」ということ「理解する」ということは、自分の世界を広げることでもあると思います。
できることが増え、選択肢が増え、それまでは選べなかった「道」が新たに生まれます。
だから、もし今生きている世界に閉塞感や生き辛さを感じているなら、自分がそれまで目を向けてこなかったこと、否定してきたものたちに、ほんのちょっと心を傾けてみてもいいのではないかと思うのです。
この世界には数十億もの人間がいて、中には同じ悩みを持ちながら、その悩みに何らかの「答え」を見出している人が既にいるかも知れません。
たとえ現在そんな人がいなかったとしても、過去に存在した誰かがその答え、あるいは悩みを解くヒントを書き遺してくれているかも知れません。
視野を広げてみたところで、首尾良くその「答え」に巡りあえるかどうかは分かりませんが、少なくとも答えが向こうからやって来るのをただ待っているよりは確率が上がりますし、希望が生まれる気がするのです。
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(更新頻度は相変わらずのスローペース・マイペースですが。)
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