表現の自由と自主規制
戦闘シーンやアクションシーンのある小説を書いていて、しばしば悩むことに「どこまで描写して良いのか」「どういう風に描写したら良いのか」という問題があります。
バトルやアクションを「カッコ良く」見せたいという想いはもちろんありますが、それと同時に「暴力行為を美化していないか」「暴力を誘発したり、そういう行為を肯定するかのような描写になっていないか」という心配・不安が常につきまとうのです。
同じバトル・アクションでも相手が精霊だったり神だったりと「人間ならざるもの」だと、わりと自由に描いてしまうのですが、人と人との争い、戦争行為を描写しなければならない時は結構悩みます。
戦闘行為の描写のみならず、水害などの天災のシーンでも「これまでに実際にそういう被害にあった人の心を傷つけるものになっていないか」という不安があります。
そして結局、あまり生々しい描写は避け、間接的な描写だったり、行為自体を描かないというところに落ち着いたりするのです。
ただ、その匙加減が適切かどうかは書いた後もずっと悩むことだったりします。
理想は、誰かを傷つけないソフトな表現であっても、ちゃんと“エンターテイメント”になっていることなのですが、難しいです。
世の中には「表現の自由」という言葉がありますが、その自由があるからと言ってどんなものでも書いて良いとは思いません。
「自由」だからこそ、表現者のモラルが問われるし、責任が発生してくると思うからです。
それに義務だとかモラルだとか以前に、もし自分の書いた文章が誰かに悪影響を及ぼして犯罪に走らせるようなことにでもなったら、それこそシャレにならないと思うのです。
その悪影響の矛先は、誰に向くのか分かりません。
もしかしたら、自分自身かも知れませんし、自分が大切に想っている誰かかも知れないのです。
社会に悪影響を及ぼすような何かをばらまくのは、ロシアンルーレットの実弾を増やして世の中にいる人々に銃口を向けるようなものだと思っています。
その中にはもちろん、自分自身も、自分の家族・友人たちも含まれるのだと思います。
だからこそ、願わくば、自分が世の中に与えるものは悪い影響ではなく、良い影響であって欲しいと思うのです。
「世のため他人のため」という善意というより、自分や自分の大切な人たちの生きる未来が平和なものであって欲しいという想いからです。
とは言え難しいのは「悪影響を受ける」ポイントが人それぞれ違うということなのですが…。
たとえば殺人事件を扱うサスペンスやミステリーにしたって、その行為を推奨するつもりで書いている作家さんや作っている映像制作者の方々など一人もいないはずです。
ですが実際にそういうものを読んだり見たりして、心の中にそういう衝動を育ててしまう人間はいるのかも知れません。
「それはその人の性格の問題」と言ってしまえばそれまでなのですが、だから許される・許されないという次元の話ではなく、「世のため自分たちの未来のため」という理想を言うなら、どんな相手であってもその(悪い方の)影響をゼロにしていきたいのです。
とは言え、たぶん結局のところ答えなどなく、常に最善を求めて描き方を探っていくより他ないのかも知れません。
とりあえずのところは、まず自分自身がこの気持ちを見失わずにいることかな…と。