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鏡の国のアリス PART1

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広瀬正の遺作は『鏡の国のアリス(1972)』だ。

左利きの青年が、左右が逆転したパラレルワールドに迷い込む。
そこでは彼は右利きだ。
左右が逆転したことによる不思議な体験を描く気軽に読める話だ。

その冒頭朝永振一郎博士のエッセイが引用されている。

「鏡の中では左右は反対になるが、上下は反対にならない」

博士はこれを解説しようとするが「どうも奥歯にものがはさまった感じでうまくいかない」。

Hは、うまく説明できる?

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【A】「鏡の中では左右は反対になるが、上下は反対にならない」博士はこれを解説しようとするが「どうも奥歯にものがはさまった感じでうまくいかない」。
Hは、うまく説明できる?

最近はネットがあるから、何か気になることがあると調べられて便利だけど、深みにはまって時間がいくらあっても足りないなんてこともある。
誰でも調べれるから、あんまり的外れなこと書くと恥ずかしいってのもあるし。

昔はよく徒手空拳で、無謀な論議をやってたよね?

ここは一つ、あえて昔のように自力でやってみよか?
答合わせは後でするとして。

左右は相対的な概念なのに対し、上下は絶対的な概念なんじゃなかろうか?

例えば東西南北も鏡に写っても逆転しないだろう。

しかし東西南北の判定はどうやってやるのだろう?
簡単にやろうと思えば地図を鏡に写せばいいか?

地名は反対になって読めないかも知れないけど、東京のある方向は変わらない。

しかし地図がなければどっちが東かなんて分からないよなあ。

そこへ行くと上下はすぐ分かる。
なので、東西南北とは違って左右の仲間のような気がしてしまう。

でも上下も絶対的な概念なんじゃないかな?

なぜわかりやすいかと言えば、重力があるからものの形が一定方向を指し示すからじゃないかな?
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【H】左右は相対的な概念なのに対し、上下は絶対的な概念なんじゃなかろうか?

正面から向かい合った二人にとって、上下方向は一致しているが、相手の左手の側がこちらの右手だから左右は逆になっている。


【H】例えば東西南北も鏡に写っても逆転しないだろう

地図を鏡面に平行になるように手に持って、鏡の前に立てば、手に持った地図の東西南北と鏡に映った地図の東西南北は一致する。

しかし地図を北を向こう側、南を手前にして机の上に置き、地図の向こう側に机の面と垂直に鏡を立てると、机上の地図と鏡に映った地図は、東西は一致しているが、南北は逆方向になる。


というところで、小出先生出演のDigが始まったので、続きは後で。

AvatarA

【H】しかし地図がなければどっちが東かなんて分からないよなあ。
そこへ行くと上下はすぐ分かる。
なので、東西南北とは違って左右の仲間のような気がしてしまう。

東西南北と左右は、仲間ってことかな?


【H】でも上下も絶対的な概念なんじゃないかな?
なぜわかりやすいかと言えば、重力があるからものの形がは一定方向を指し示すからじゃないかな?

宇宙空間の自由落下状態では上下はどうなるか。
スペースシャトルの中には我々の感覚の上下は無い。
しかし、人間が使いにくいから上下を決めているようだ。
『2001年宇宙の旅』の宇宙ステーションのシーンを思い出す。


さて私の考えはこうだ。

朝永振一郎博士は「鏡像は左右逆」と言っているのが、そもそもまやかし。
鏡像は左右逆になっていない。
私の右手の小指は曲がっている。
(Hとふざけていてつき指を悪化させた後遺症だけど覚えてる?)
左手は曲がってない。
その私が鏡の前に立つと。
鏡像の私は、小指の曲がった手は右側に、小指がまっすぐな手は左側にある。
これはこちら側の実像の私と同じだ。
つまり左右は逆転していないのだ。
ちなみに鏡像と実像の上下左右は逆転していないが、前後は逆転している。

鏡は、鏡面に垂直方向の次元のみが逆転し、平行方向の次元は逆転しない、と思われる。


ところで、なぜ朝永振一郎博士の「鏡像は左右逆」が、それらしく思えたのだろう?

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【A】東西南北と左右は、仲間ってことかな?

いや東西南北は絶対的な概念で、左右は相対的な概念という前提。
で、絶対的な概念はより抽象性が強く、何かわざわざ目印がないと判別できない。
そこへ行くと相対的な概念である左右は体との位置関係で規定されるから、一見してすぐわかる。

上下もすぐわかるから左右の仲間のような気がしてしまうけど、本来地球の中心方向が下、反対が上ということで絶対的に決まっていて、東西南北の仲間なんではないかなということ。

で、重力があるので頭と足は常に一定の位置にあるから、その方向を言い表す相対的な概念は生まれず、本来絶対的なものである上下を借用してるからややこしいんじゃないかなと思った。

鏡を手に持ち、頭の上に延ばして見上げたら手前に頭があって、足が奥に見える。
でもこれを上下逆と表現するかどうか?

東西南北上下が絶対と言うか、言い換えれば地球との位置関係で決まっているグループとして、体の向きで変わる左右の仲間はなにか?

上下の相対は分化していない。
では前後はどうか?
これは向きが変われば入れ替わるから、相対グループだろう。

でも何で決まってるのかと言えば、目のある方が前だ。
で、特に鏡の話は見え方の問題だから目は重要だ。

【A】私の右手の小指は曲がっている。
(Hとふざけていてつき指を悪化させた後遺症だけど覚えてる?)

申し訳ないけど、そんなことあったかもと言う、うっすらとした記憶しかないよ。

【A】鏡像の私は、小指の曲がった手は右側に、小指がまっすぐな手は左側にある。
これはこちら側の実像の私と同じだ。
つまり左右は逆転していないのだ。

そこは微妙。
右に東、左に西と絶対指標を当てはめれば逆転していない。
しかし、左右は体の向きで変わるから逆転していると考えられる。

【A】ちなみに鏡像と実像の上下左右は逆転していないが、前後は逆転している。
鏡は、鏡面に垂直方向の次元のみが逆転し、平行方向の次元は逆転しない、と思われる。

多分これが大前提。
かつ平行方向には4方向ある。
上下左右だ。
ちなみに垂直方向は前後。

【A】ところで、なぜ朝永振一郎博士の「鏡像は左右逆」が、それらしく思えたのだろう?

先に書いたように左右は相対指標だから逆転していると考えられる。
で、漠然と体の向きで決まると書いたが、もう少し突っ込んで考えてみると、まず前後が決まってから左右が決まる。

前が北向きの時、東の方向が右、西が左。
前が南なら、西が右で東が左だ。

鏡像では、垂直方向である前後のみが逆転する。
本当は逆転していない水平方向だけど、前後にくっついている左右は結果的に逆転する。

上下には相対概念がないから逆転しない。

寝転がって鏡を見てる時、先と同じく前が北向きで頭を東に向けていれば、当然鏡像でも頭は東で足は西。
東西に左右の腕があった時は逆転したけど、頭と足の場合相対概念を表す言葉がないから逆転しない。

地面に垂直に延ばした手は実像では左で、鏡像では右だ。

なお、概念だけが逆転してる左右に比べて本当に逆転している前後なのに、あまりその意識がないのはなぜか?
例えば壁と自分との位置関係は逆転しているのにも関わらず。

おそらくは目がついてる方が前で、目のついてない後ろを見ることはできないからだ。

もし目が顔と頭の後ろと両方にあれば、逆転を感じることができるのではないか?

さらにつけ加えると右を東、左を西にして鏡に向かえばその方向は北のはずなんだが、鏡に写るのは南の映像だ。

まとめると、
鏡面に対して垂直方向のみ逆転する。
この場合相対である前後はもちろん、絶対である南北(設定により東西)も逆転する。
前後が逆転すると平行4方向の内、相対概念である左右が付随して逆転する。
頭と足の方向を表す相対概念はないので、逆転しようがない。
絶対概念は上下、東西(設定により南北)とも逆転しない。
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【A】正面から向かい合った二人にとって、上下方向は一致しているが、相手の左手の側がこちらの右手だから左右は逆になっている。

「相手の」っていうところがすでに相対的なんじゃないか?

【A】地図を北を向こう側、南を手前にして机の上に置き、地図の向こう側に机の面と垂直に鏡を立てると、机上の地図と鏡に映った地図は、東西は一致しているが、南北は逆方向になる。

地図を持ち出したのは東西南北を示す目印のためで、実際の紙としての地図ではない。
地図の中に描かれてるものが重要なのではない。

言い直すね。

幅が600kmぐらいの大きな鏡があったとして、日本アルプスを中心に置いたとする。
東京の写る位置はあくまで東であろうってことが言いたかった。

ところがここまで書いて来て気がついた。
同じ浜名湖が写ってるが、太平洋から見ると北であり、鏡が置いてある日本アルプスから見ると南だ。

やっぱり逆転している。

相対、絶対だけでは説明つかない。
AvatarA

【H】「相手の」っていうところがすでに相対的なんじゃないか?

ここがポイントのような気がする。




【H】幅が600kmぐらいの大きな鏡があったとして、日本アルプスを中心に置いたとする。

鏡の置き方の確認です。
鏡面は地表に対して垂直に立てる。
鏡の下部の中心が日本アルプスに接している。
鏡面は38度線のように東西に延びている。という理解でよろしいでしょうか?

AvatarH2
そうです。


まとめのところにもう少し書き足すよ。

絶対指標の上下東西南北は、鏡の置き場所の設定によって逆転するものが変わる。
鏡を東西に置けば垂直方向の南北が、南北に置けば東西が逆転する。
そして地面に水平に置けば上下も逆転する。
上にある鏡面に写っているのは下の地面だ。

上下東西南北は絶対指標だから、鏡の置き場が変わっても動かない。
その中で、垂直方向のみが逆転する。

対して相対概念は鏡と体の位置関係で決まるので、座標が動く。
座標が動くから逆に常に前後のみが逆転する。
左右が前後に引きずられて逆転するのは先に述べた通りだ。

同じく先にも例示したが、地面と水平方向に置いた鏡の間に体を入れる、つまり鏡を手に持って差し上げ、首を曲げて鏡をみた場合、頭と足と鏡の位置関係及び、地表との距離は逆転している。

上下は逆転するが、頭と足の関係を表現する言葉はないので逆転しない。
あえて言えば頭の部分の前後が逆転している。

通常頭は上にあり、足は下にあるからほとんど絶対表現の上下で事足りるし、頭と足ははっきりと形が違うから言葉で区別する必要がない。

人間の体はおおむね線対照だから、腕は似たような形だ。
それを区別するために、より左右の概念が発達したのではないか?

Aが小指の形状の違いに注目した時、頭の中の左右の概念は少しあやふやになった。

ならばもともと人間の二本の手の形状が、明らかに異なっていたらどうなっていただろう。

例えば今で言う右が鉤爪で、左が鋏だったとしたら、鉤手・鋏手と呼んでいただろう。
その時鏡に写った自分の姿を見て、鉤鋏が逆転したという概念は生まれただろうか?
AvatarA

【H】鏡像では、垂直方向である前後のみが逆転する。
本当は逆転していない水平方向だけど、前後にくっついている左右は結果的に逆転する。

この「結果的に逆転」ていうところに何かありそう。

鏡像の人間が実在するとしたら、その人間にとっての左手は、こちら(実像)側から見て右側にある方の手だ、実像から見たら右だけど鏡像にとっては左、ということだよね。

でも鏡像の人間は実在しないし、こちら(実像)側から見て右側に映っている手は、私の(小指が曲がった)右手だ。

Hが言うところの相対的概念による左右判定は、「鏡像の立場で見たら」ということだよね。

あるいは、「鏡像の立場で見なければ左右は判定できない」てことかな?

【H】対して相対概念は鏡と体の位置関係で決まるので、座標が動く。

「座標が動く」ってどういうこと?


【H】人間の体はおおむね線対照だから、腕は似たような形だ。
それを区別するために、より左右の概念が発達したのではないか?

このへんに答えがありそうな気がするんだけどなあ。
朝永博士は「人間が左右対称だから鏡像は左右逆転するかのように錯覚している」ような気がする。
まだ、うまく説明できんけど。


【H】例えば今で言う右が鉤爪で、左が鋏だったとしたら、鉤手・鋏手と呼んでいただろう。
その時鏡に写った自分の姿を見て、鉤鋏が逆転したという概念は生まれただろうか?

うーん。
生まれたような気がする。
ということは、「人間が左右対称だから鏡像は左右逆転するかのように錯覚している」訳ではない?


ここでもう一つ例を挙げてみよう。
片方だけ削った鉛筆を持って鏡の前に立つ。
鏡と平行に削った方を右に向けて持つ。
実像の鉛筆は尖った方が右を向いている。
鏡像の鉛筆も尖った方が右を向いている。
左右は逆転していない!
これは、なぜ逆転の錯覚(?)を生まないのか?

AvatarH2

【A】Hが言うところの相対的概念による左右判定は、「鏡像の立場で見たら」ということだよね。

そうです。

【A】「座標が動く」ってどういうこと?

上下東西南北は地球に付随する座標だから固定されている。

前後左右は方向を示す、ある意味座標と呼べるものではあるけれど、体の向きが変わると絶対座標である東西南北に照らし合わせれば、その計器自体が動いている。

重複するが、この流れで説明を続ける。

北を向いてるときは右は東で左が西、南向けば右が西で左が北。

その前提で、次は鏡の位置が問題になる。

鏡がどこにあっても絶対座標は変わらない。
光の性質を忠実に反映して垂直方向の像のみ逆になる。
鏡を東西方向に置けば垂直の南北が逆転し、南北に置けば東西が逆転する。
そして水平におけば上下が逆転する。

相対座標である前後左右は絶対座標上の位置は問題でなく、それ自体が座標を規定する計器である体と鏡の位置関係が問題となる。

但し鏡を見るためには目がそちらを向いている必要があり、前後は目の位置で決まるから、通常は前後が鏡面と垂直になり逆転する。

体の前面を時計に見立てれば3時の方向が左で、9時が右である。
なので、前後が逆転すれば左右は結果的に逆転する。

立っていれば左右は地面と水平方向であり、いわゆる「上下」は地面と垂直となる。
鏡像の左右は入れ替わっているが、「上下」は入れ替わっていない。

本来「上下」は絶対座標だから入れ替わらないのは当然だ。
立っていれば「上下」は相対座標として借用できるので、この状態を指して「左右は逆転するけど上下は逆転しない」と言っている。

では寝ころべばどうか?
9時側を下にして寝ころんで鏡をみて3時側の手を上げれば、実像では左手だけど、鏡像では9時側の手、つまり右手が上がっていて逆転している。

この時、左右を結ぶラインは地面と垂直の方向、即ち本来の絶対座標としての「上下」のラインだ。

逆転するか否かに地表との位置関係が関係ないのがわかる。

立った場合に左右が逆転した地平との水平方向にあるのは、普段上下で代用させている頭ー足のラインだ。

これは逆転しようにも言葉がないから、逆転しない。
要は逆転するのは概念なのだ。

上下は逆転せず、左右は逆転する。
では前後はどうか?
先の例では逆転しているが、鏡と垂直の関係にあるから当然だ。
前後そのものの性質かどうか検証してみよう。

3時の側を鏡に向けて、体を鏡に垂直にして立つ。
首だけを少し傾けるか、横目で鏡を見る。

前後は逆転しない。

では前後に付随して逆転するはずの左右だが、前後が逆転していない場合どうなのか?

実像で鏡の側にあるのは左手、鏡像で見えるのは右手だ。
前後が逆転しなくても逆転している。

この場合は左右が鏡と垂直方向にあるから逆転している。
本来の光、鏡の性質によるものだ。

それなら頭-足(適切な言葉がない)はどうか?

うつ伏せで頭だけ上げて鏡を見たら、頭-足は逆転してる。
前後は逆転していない(顔だけなら逆転)。
左右も逆転していない。

結局、
1、鏡と垂直方向のみ逆転する。
2、左右は前後に従属する。
  (但し、左右が垂直方向にある場合そちらが優先して左右のみ逆転する。)
3、上下は本来別物、絶対概念である。

だから、
上下は逆転しない。
(実は頭-足は垂直の場合逆転している)
前後、左右はそれぞれ垂直の場合逆転する。
前後が逆転した場合、左右も逆転する。

最後のケースは実はパターンとしては特異だけど、ほとんどこれのみと言えるぐらい発生頻度は高い。

【A】朝永博士は「人間が左右対称だから鏡像は左右逆転するかのように錯覚している」ような気がする。

線対称で同じ形状だから、区別するための言葉・概念が必要になる。
普段上下で代用している頭-足には言葉すらない。
前後は目のありかで決まり、非常に重要な相対概念だけど、形状、運動における方向性、可視性等違いすぎて区別するための道具というよりは、必然的に生まれて来たもののような気がする。

対して左右は形状が似ているものをあえて区別するための概念で、抽象性が強い。
例えば、原始人に左右という概念があったのかどうか?
少なくとも、前後よりは後で生まれた概念ではないか?

左右という言葉は体幹・前後との位置関係で決まる概念だから、私は錯覚ではなく逆転していると考えるのが正しいと思うが、Aの言うように小指の形状の違いに注目して、それぞれについた固有の名前だと考えれば逆転していないことになる。

物体は逆転していないけど、概念は逆転している。
あるいは、右手・左手は逆転していなくても、右の方の手と左の方の手は逆転している。

ところで、左投手に独特なものを感じたり、鏡像に違和感を覚えるのは対称と思いこんでいるのに、微妙に違っていることに気付いたり、形状は対称でも、箸は右手で持ち、茶碗は左手で持つというような役割の違いの常識を覆されるからではないか?


PART2へ続く
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テーマ : 科学・医療・心理
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:spacecowboys A H
Space Cowboys は、2人の親父です
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   中日ファン・世情に疎い
"H" 総務畑・てっちゃん・
   阪神ファン・雑学が得意
2人ともイーストウッド好きの還歴男

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