辺見庸 死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して(2013年8月31日講演記録 前半)
下記で書いたように、講演会に「行こうと思ってます」だったのですが、結局前売り予約に間に合わず行けませんでした。講演会記録を見つけましたので、記録しておきます。
関連:
普通の日常にひそむファシズム、日本はもうかなり茶色に染まってるのかも。辺見庸さんの講演会が今月末にありますね。
辺見庸さんの、2011年4月22日放送「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」が4日真夜中再放送されたのでpodcastします。
参考:
2013.08.28 辺見庸『不稽日録』 8月28日 ――「辺見庸講演会(8月31日) 死刑と新しいファシズムーー戦後最大の危機に抗して」 を前にして
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-654.html
↑↓にあった「黒く塗りつぶされた大道寺将司死刑囚からの手紙」辺見庸さんの講演会中で言及されています。
辺見庸 死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して
http://www.forum90.net/news/forum90/pdf/FOLUM131.pdf
本稿は2013年8月31日の講演草稿を辺見庸氏が修正、加筆したものです。(写真は全て大島俊一)
前編
みなさん、こんばんは。
まずもって遠くからこの会場にいらしてくれたみなさんにお礼を申し上げたいと思います。今日の講演会はいつもと異なりまして、私のほうからやらせてくださいと、主催者の「フォーラム90」にお願いして、わがままを聞いていただき、皆さんお忙しいなかをあわただしく準備していただいたものです。といいますのも、私が、「現在」というものに、常ならないといいますか、いつもとちがう気配、それから常ならぬ悪い気流のようなものを感じているからです。それは自分の生死といいますか、身体にもかかわることなのかもしれませんけれども、なにか抜き差しならない、切迫した事態になっていると感じて、私なりにいま何か話さなければならないと思ったのです。
多分、みなさんも、私とまったく同じではないといえ、似たような危機意識というか、危機感をお持ちのかたが少なからずおられるのではないでしょうか。私を知らないかたに申し上げておきますけれども、私は現在六十八歳で、東京都公認の二級の身体障害者であります。バツイチで、犬と暮らしております。私の顕著な特徴はですね、「善」よりも「悪」に魅力を感じるという、類いまれといいますか、自分でもどうにもならない性癖があります。何が善で何が悪か、語れば尽きませんが、ゲーテの『ファウスト』でいえば、メフィストフェレスのほうが魅力があるという意味合いで、私は「悪」に対してとても興味と親近感を持っているということであります。それが私の自己紹介のようなものになるかもしれません。
歳のせいか私、最近、動植物にとても目がいくようになりまして、今年も家の近くのヤマブキとかクチナシとか、あるいはチェリーセイジとか、サルスベリとかですね、サルスベリも赤だの白だのの、淡い赤っていうんですか、桃色のサルスベリだの、非常に濃い赤のサルスベリ。それからノアザミや、タチアオイ、フヨウ、ツユクサ、そういうものに目がいくわけです。それから動物も、セミやらカナブンやら、コガネムシやらカメムシやら、タマムシやら……。今年、生まれてはじめてタマムシというのを見ましたけれども、それからウマオイとかカマキリとかですね。ウマオイの死骸を先日見まして、その美しさにドキリとするものがありました。身体が透けるような緑なのです。その緑が青い空気に散らばるというのですか、じわりと滲むんですね。その美しさといったら、それはこれを見るためだけでひょっとしたら、生きられるのかなと思ったりします。ずいぶん壊れたというふうにいっても、季節はそれなりにまだ原型をわずかながらとどめている。何とかここに生きられるのかもしれないと、思うともなく思いもするのです。
ウマオイの、その美しさというのは、ほんとうにこれが「もののあはれ」というものなのでしょうか、薄緑色のからだが輪郭をくずし、空気に静かに滲んでいくその様。で、翌日になっていってみたら、そのウマオイが嘘のように消えていて、緑の残像だけがまぶたにあったりするのです。私はウマオイを、できることなら、友人たちに見せたいと思いました。
これからお話するのは、もちろん私の本音でありますけれども、私は、今回の講演会のタイトルにあるような、いわば、難しそうな話をするつもりはないのです。難解な理屈をこれから申し上げるのではなくて、むしろ、「直感」ないしは「直観」を語りたいと思うのです。いまの時代、われわれは「直感」と「直観」を失ったら、いったいなにに頼ればよいのでしょうか。直感、直観ないしは勘、第六感。そうした感覚で、皆さんにも聞いていただきたいと思うのです。「死刑とファシズム」と言いましたけれども、言いかえたら、私がいまお話ししている、ウマオイという薄緑色の、あのバッタ、あえかな生き物ですけれども、「なぜ彼らにウマオイを見せてはいけないのか?」という直観と問題意識がぼくのなかにはあります。そして全体の、大きな、身体がはちきれんばかりに巨大な疑問は、「これはなんなのだ?」ということであります。
塗りつぶしの手紙
つい数日前、死刑囚の友人から一通の手紙をもらいました。じつは、その手紙には八行にわたる塗りつぶし、黒塗りがありました。塗りつぶしというのは、それは何度か話にきいてはいたし、写真で見たこともあるのですけれども、私宛ての私信が、そのような目にあっているのをはじめて見まして、かなりのショックを受けました。これは最初に、手紙の文字に黒のマジックインキを塗り、次に、ボールペンでその上からおびただしい螺旋の形を書いて判読不能にする。それを執拗にくりかえしてさらに、仕上げのようにマジックでまた塗りつぶす。ということで、まるっきり読めなくなってしまう。これはもちろん拘置所当局がやったわけですけれども、塗りつぶしという言葉ではなく当局では「抹消」「削除」というらしいです。ぼくらは死刑というものを、ともすれば抽象的な概念として考えてしまう。観念的に考えてしまう。手紙の検閲というものも、概念として観念的に考えてしまいがちです。でも実際に黒塗りにされた手紙を目に突きつけられるということは、喩えてみればですね、ちょうどひとの身体で、やけどを負った部分、ないしは被弾して血が吹きだして、肉が割れて骨も見えるような、石でいえば割れた石の劈開面を見るような、ただ事でない思いをしたのです。で、「これはなんなのだ?」とぼくは思ったのです。
私たちはこのところ、毎日毎日、福島の原発もそうですけれども、歴史的な出来事を経験させられております。あまりにも大きく重い出来事が連続しているために、一つのことを落ち着いて掘りさげることができない。集中して考えることができない。そうするうちにも次から次へと時がたっていく。時が、現在の時をあとの時が塗りつぶし、あるいは過去の時をいまの時が塗りつぶすようにして、つまり出来事の記憶と意味を抹消、削除しながら、時というのは進んでいく。ということを私は非常に苦しく感じております。そして、「これはなんなのだ?」と自問してしまうのです。
私に手紙をくれたのは、たぶん私がここで彼の実名をだすということは、獄にある彼が、その処遇が、それでもってきつくならないことを願うしかないのですけれども、大道寺将司という、俳句を詠んでいるひとです。もう獄中に、あろうことかなかろうことか、約三十八年間もいるのです。自分の人生の半分以上を、獄中の生活をしております。で、私が絶句して「これはなんなのだ?」とわが目を疑ったそのことなのですが、それはなぜかというと、大道寺さんが私宛てに、なんらかの危険な信号を送ってきたとか、あるいは、これから脱獄するから協力しろと、というようなことをいってきたからではないからなんです。もしもそのような手紙ならば、黒塗りの目的、意味を即座に了解するでしょう。私が慄然とするのは「これはなんなのだ?」ということが、ぼくにはわからないからなんです。皆目不明。このわからなさというのが、最近、私は非常に気持ち悪いのですけれども、つまり塗りつぶしの目的と意味と意義です。これがわからない。手紙が八行にわたって塗りつぶされている。前後の脈絡からして、これはどうやら、いくつかの俳句らしいということがわかる。それしかありえない。しかし、俳句をあんなにも執拗に塗りつぶして、削除して、いったいどうするというのでしょうか?
問題はそこです。
みなさんは驚かないかもしれないけれども、ぼくは、驚かないとしたら、驚かなくなったというわれわれの神経がおかしくなったと思うのです。私は絶句しました。「これはなんなのだ?」。いまは戦前でもない、戦中でもない、現在2013年です。特高警察がまだいるのでしょうか。もうひとつは、かつての特高警察であれば、なにか思想の、彼らのいう偏向であるとか、〈共産主義の陰謀〉のようなことをいいがかりにして、塗りつぶしや抹消、差し押さえをやってくるということはあり得ましょう。だけどそうではないわけです。
これはなんなのだ?
一番つらいと思うのは、いろんな面で、抹消、削除ということの真意、目的、その意味、そのメタファーとでもいいますか、暗喩があるとすれば暗喩の性質がどうもわからなくなってきている。それがつらい。思い切り飛躍しますけれども、死刑についてもそう思えるわけです。抹消、削除ではないか、あれもと思うわけです。ひょっとしたら、死刑も抹消、削除の感覚ではないのか。簡単に存在というものを消す。黒塗りにしてしまう。なかったことにする。過去も消す。そういうことであります。
ご存知のかたもおられるかもしれませんが、彼は昨年、俳句集『棺一基 大道寺将司全句集』という本を太田出版から刊行しました。すべて獄中で詠んだ作品で、俳壇だけでなく各界から高い評価を得ました。これが第六回の一行詩大賞を受賞したのです。選考委員は歌人の福島泰樹さん、作家、辻原登さん、一行詩協会会長の角川春樹さんたちで、読売新聞が後援している立派な賞です。選考委員たちが大道寺将司さんがどのような環境にあるかを知っていることからすれば、授賞は見識と勇気のあかしとも言えます。その大道寺さんから私への手紙には、主催者側からの要請を受けて、自選句が何句か書いてあったらしいのです。それを当局側が塗りつぶした、ということです。
確定死刑囚というのは、面会も手紙のやりとりも制限されることになっています。これ自体も私は、よくわけがわからないのですけれども、あらかじめ許可された特定の相手しか、そのなかに私もはいっているのですが、面会も手紙のやりとりも許されない。で、自選句は、自分で選んだ句、何句かあるんですけれども、それを私宛てではなくて、手紙のやりとりをそもそも許されていない、許可してないこの一行詩大賞の主催者にむけたものであると判断、すなわち規則違反であるので、抹消、削除したと。つまりこの俳句の賞を主催しているこの主催者は、おまえがだす手紙の相手として認めていない、したがって自選の俳句を黒塗りしたということらしい。これは推測でしかないのですけれども、どうもそうらしい。でもそんなことを、はいそうですかと聞けますでしょうか?
それからもうひとつは、俳句の賞の主催者側が、受賞者である、つまり大道寺将司さんに「受賞のことば」を書いてくれと求めた原稿依頼文というのがあるのですけれども、これも彼宛てに送ったものが、不許可とされて本人に交付されていない、わたされていない、というのです。これは一体どういうことなのでしょう?
みなさん、些細なことだと思うかもしれないし、私も、まあそんなことは、この国ではないではない程度にうっかり思ってしまいかねないのですけれども、その「慣れ」というのでしょうか、それが私はいま、恐くなってきているのです。
ついおとといも彼から手紙がきました。黒塗りの手紙を送ってしまって申し訳ないと書いてきたのです。でも言うまでもなく、彼が黒塗りをやったわけではなくて、これは当局がやったのです。それを黒塗りをされた被害者が、俳句を書いている彼のほうが謝ってくる。そのことにぼくはヒヤリとするというか、かえってドキリとする。なにかがおかしい、変だな。そんな思いをするわけなんです。
一体、人間と人間のシステム、制度、規則というのはなんなのでしょうか。死刑囚として獄中にいるひとたちは拘置所の外の風景も見せてもらえませんから、一生懸命、過去を毎日毎日、回想するしかないのですね。それをほんとうに思えば、言う言葉がなくなってしまいます。ある日、自分が一緒に暮らしている犬の写真を手紙とともに同封したわけです。そうしたらその犬の写真が、どういう理由か、すぐにはわたされず一時差し押さえになる。犬っていったって、ちっちゃい鳩くらいしかないチワワなんです。鑑識かなにかにまわされたんでしょうか、その写真四枚をすぐには交付していない。ぼくは面会にいって、それを知りました。なんで面会にいったかというと、彼が一行詩大賞をとったので「おめでとう」と言いにいったのです。「おめでとう」と言うこと自体、ぼくは悩んだのですけれども、とにかく行くことにしました。行って、私が意外だったのは、彼の笑顔が見たかったのですが、彼は動物が好きですから、きっと犬の写真のことや一行詩大賞のことで笑顔にちがいないと思ったら、やや浮かない顔をしているのです。彼は愚痴をめったに言わない男なので、ぼくは内心おどろいたのですけれども、「最近、刑務官が自分をジロジロと見るんですよね……」と彼が言う。そして「(死刑)執行なんだろうか」「授賞の新聞記事のせいなのか」と呟くのです。ああそうなのか、とぼくは思う。三十七、八年も獄中にいて、ぼくはこのことばが嫌いだし間違っていると思うのですけれども、「死刑確定」と身分を法的に「確定」されている。「死刑確定」と断ぜられた死刑囚は、日夜、自分の刑の執行のことを考える。考えざるをえない。そこに私が面会室にはいっていって、透明のアクリル板に手をあてがって、彼と手を合わせて、「おめでとう!」はなかったな。「おめでとう!」と、ついぼくは言ってしまったのですね。「おめでとう!」。この言葉に、自分が言っておきながら、ハッとする。唇が凍える。あの句集が受賞したことを私は心から悦びます。『棺一基』は俳句の賞を総なめにしてもよいほど素晴らしい句集だからです。そう思う。受賞は無論大変よかったのですが、「確定死刑囚」とされる彼に心の底から「おめでとう!」と声をかけるには、まずもって死刑廃止、死刑執行停止という基本的条件が要る。粛然として、そして慄然として、そう思いいたるのです。
目的と意味、意義、本質
みなさんと一緒に考えてみたいんですけれども、人間にとって、自分が書き綴った表現を、文章を、第三者によって抹消、削除されるというのは、どういうことでしょうか?
これはパソコンで自分が打ちこんだ言葉をデリートしたり、あるいは消しゴムで字を消したりするのとはわけが違います。今回の抹消、削除は、ほとんど人体に対する損傷に等しい出来事だと思うのです。私は決して、いま語っている人物のことを特殊化するつもりはないんです。よくそういうふうに見るひとがいますけれども、政治犯と刑事犯は別であると。人間の価値が異なると。私は必ずしもそういう考えかたをとりませんし、それから、大道寺将司さんもそういう考えかたをとっていないはずです。人間存在としては、その根底について言うなら、政治犯も刑事犯も存在価値として弁別不可能であります。私はむしろ死刑という刑そのもの、それから死刑ということを、その裁定が絶対的に免れがたい「確定」したものだといわば機械的に決めてかかる非人間的な法のありようそのものに大きな疑念を感じております。死刑はどのような種類の死生観をもってしても正当化のできない、私たちの集合的無意識の犯罪です。その延長線上で徹底的にこだわりたいのは、この抹消、削除の行為なのです。私はこの手紙を何日間もずっと見続けました。にらめっこをしたわけです。しかしながら、いくらにらめっこをしても、この黒塗りの目的と意味と意義と本質……それがどうしてもわからないのです。
これがそのコピーですけれども、これはよく見ると、黒いマジックで消したようですけれども、結構手が込んでいて、何回も螺旋状の、ぐるぐる渦巻きが書いてあるのです。で、まったく読めないように念には念を入れている。なんのためにそこまでするのか、目的と意味と意義と本質が、わからない。私の目の前にあるのは「結果」だけなんです。現象だけなんです。本質がない。こうまでするならいっそ手紙を破けばよいではないか、と思わないでもない。しかし八行だけを判読不能にして私に送ってきた。底意がどうもわからない。しつこいようなのですが、それがつらい、ということです。それを知らされず、知りえずに、まるでカフカの小説のように不可解なまま不条理なままに生きるということ。黒塗りの手紙と私が、あたりまえのように、まるで大したことでないかのように、何気なくここにあるということが、どうしてもつらいのです。
各拘置所では在監者の処遇部門の書信係というのがあるらしいのですけれども、おそらく書信係の黒塗り担当のひとがいるのでしょうが、そのひと個人の人格に問題があるのだろうか。書信係黒塗り担当刑務官の個人的悪意に問題があるのか。私はまったくそう思わないのです。それはあたかも死刑の責任を、絞首刑の執行担当刑務官に帰するという、まったく短絡的で扁平な理屈と同じです。それから、注目されてよいのは、このデジタル社会にあって、じつにアナログ的な手仕事をしてる。その意味もよくわからない。最近私は拘置所にいって気がつくのですけれども、1階ロビーは獄というより、あたかも総合病院の待合室のようです。昔と大いに変わったのは、面会者に知らせるアナウンスも、係官の肉声ではなく、いつの間にか人工合成の音声になっているのです。何番、何階に行ってくださいというアナウンスが、人工合成のロボットか昆虫のような奇妙な声になっている。一部では民間の警備会社も拘置所機能を助けているらしい。拘置所でもハイテク化がすすんでいる。しかし、この黒塗りは発想といい手法といい、アナログの最たるものです。私はこの検閲と抹消、削除を、単に法律の、たとえば憲法第21条〔集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密〕(1)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。(2)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない̶ということを盾にとって、言う気はしないのです。憲法第21条は現行憲法の重要な柱のひとつであることは言うまでもありません。ただ、なにかいわく言いがたいところが、音もなく砂が流れるように変わってきている、ということを感じるのです。そのことを、仮説を立てながら、なんとか申し上げたい。何日も何日も手紙とにらめっこして、あれこれ考えてみて、ちょっと自分でもヒヤリとするような仮説がでてきてしまうのです。いくつかの仮説をたててみるのですけれども、腑に落ちるといいますか、ひょっとしてこれではないかというのが、とっても自分でもゾッとするような仮説なのです。
先ほど申し上げた日本国憲法の第21 条というのは、特に第2項、検閲は禁止しているのだと。ということは日本の歴史そのものを踏まえた条文なわけですね。戦前戦中にいかに表現の自由を侵し、出鱈目な検閲をやってきたかということを、痛烈に反省した規定なわけです。これがまったく無視されていることは、今さら言うまでもありません。ただし、問題はここからなんですけれども、検閲の歴史というものを踏まえて、それを反省して作ったのですが、ただ例外規定というのがあって、原則として禁止されるのだけれども、例外として、刑務所や拘置所などの刑事施設では、検閲が認められていると。刑務所や拘置所などの施設におかれている雑誌、または受刑者がだす手紙は検閲され、部分的に切り取られるか、文字が塗りつぶされることもあると。その理由として、再犯とか、あるいは犯罪の指示などの防止のためであると。再犯や犯罪の指示ということがあれば、例外的に21条が適用されずに塗りつぶし、ないしは没収ということになるわけですけれども、でもみなさん、どうでしょうか。俳句は再犯や犯罪の指示なのでしょうか。俳句に関する手紙が憲法第21条の例外となる犯罪の指示に該当するのか。これはあきれてものも言えないケースなのです。驚くべき仕打ちであり、怒るべき出来事なのです。
「すさみ」について
しかしながら、どうも自分が本当に心底驚いているのだろうか、怒っているのだろうかというのが、よくよく思えば、なんだか疑わしくなってきている。手紙の黒塗りという重大な法律違反に際し、私は、そしてみなさんは、マスメディアは、驚愕し、激怒しているのか。身も世もないほど嘆いているのだろうか……。その点に少しく触れなくてはなりません。
先ほど申し上げましたけれども、手紙を書いてくれた大道寺さんは、三十八年間、日数にすれば一万三千八百日あまり獄中におります。一万三千八百日というのは、すごい時間だなあと思います。わがこととして考えたら、気が遠くなります。仮に一日最低でも一回、死を考えるとすると、これまでに少なくも一万三千八百回考えたことになる。一日一回、絞首刑の執行をイメージせざるをえないとしたら、一万三千八百回以上、イメージさせられているわけです。イメージするということは、体験の先取りであるとすれば、あるいは、追体験であるとすれば、都合一万三千八百回ほど死刑にされているということになります。そう言っても過言ではないでしょう。そのことについて、私は彼と話したことはありません。言わずもがなのこと、あえて言ってはならないことなのです。ぼくと彼が話すのは、主に、俳句のこと、詩のこと。あるいは、体調や大雑把な世間話で終わってしまうのです。
しかし、彼と会うと、妙な話ですね、気持ちがホッとするのです。気分が和む。なにか懐かしくなったりする。原稿に書いたこともありますけれども、彼と会うと、こちら側が「会われている」、会いにきたのは、じつはむこうであって、ぼくが会いにきたのではなくて、ぼくは面会されている……と思うともなく思う。被面会者。つまり私のほうが、訪われていると感じてしまうのです。なぜかというと、獄内の彼には、直截に言うなら、獄外に充満している「すさみ」がない。見受けられない。私はそう思う。「すさみ」という言葉があたるかどうかわからないのですが、私が自分自身といまの世の中に感じている言うに言えない「すさみ」や目には見えない腐爛。とりわけ、言葉が文字どおりの意思として通じない。届かない、その「すさみ」、無力感。徒労感。私たちの言葉は何か脱臼しています。なぜかはわからないけれども、どこか鬆の入った 大根のような……無効なもの、あらかじめ壊れたもの、CM のような迫真の嘘、どうにもならない無力なもの、信ずるに足りないもの、空しいもの……そうした言葉たちにわれわれは包囲され侵略されている。悪性腫瘍のように浸潤されています。
一番話したいのはそのことなのです。私が書きたいこともそれなんです。善よりは悪に興味があるというのは、それに関係があります。で、善よりは悪を大事にしたい。というのもそれなわけです。まさに逆説的に言っているのですけれども。いま、獄外の善、善魔くらい気持ちの悪いものはありません。彼と会ってホッとするのは、そのこと、まず言葉なんですね。言葉が言葉として通用する。そう感じる。大きな齟齬はきたさない。で、ぼくは会いに来てくれたという感じがしてしまう。「過去」がぼくに会いに来てくれた。そう思い、ついボーっとしてしまうわけです。まあ年齢が比較的近いということもあるかもしれません。それと、ひとというのは、各人全部違う。今日お集りのかたがたも、ひとりひとりが全部、難しい言葉で言えば、個別主体の事情と「わけ」を持って生きている。この主体的事情というのは、他者、隣にいるひと、家族であっても、他者とはまるっきり違うものであります。つまり、自分が立っている場所は、他の誰とも共にすることはできない̶という、ひとりひとりがまったくの独自性というものをもっている。これはひとりひとりの「自由」と言ってもいいと思うんです。それを同じにしろということはなんぴともできない、と私は思うのです。その個別主体の事情は、彼にもある。今日お集りのみなさんもそれぞれ、別々の主体的な事情、悲しい事情、つらい「わけ」というものをお持ちにちがいありません。
彼も一万三千八百日あまりを、たった三畳ほどの、空調もない独居房にいて、外の風景も見せてもらえない。で、日々、三十八年前の罪を、極めて激しく悔いて、恥じて、わびている。しかも現在、多発性の骨髄腫というガンを患っているわけです。これはちょっと大きなクシャミをしただけで、骨が折れてしまうような、そういうつらい病気であります。その死刑囚が、私という、やはり彼とはまったく境遇も立場もちがう人間、私という主体的な事情を持って生きてきている男に送ってきた俳句に関する手紙。せめてもの内面の表現。それが、なんでいけないのでしょうか?
なにが悪いのでしょうか?
ぼくが言いたいのはこのことです。いまの社会だとか、政治、法律について、あまり言う気はしないのです。ぼくが言いたいのはそれ以前の、しかし、政治や法律よりももっと大切なこと、内面の自由や内心の自由を求める心根のことなのです。読売新聞の小さな記事、一行詩大賞受賞というのが、自社後援のことなんだからもっと堂々と載せればいいじゃないかと思うのですけれど、ほんの小さく、彼が受賞したという記事が載っていたらしいんですね。で、それを刑務官たちが読んだとしたら、私はこう思うのですが、見たとしたら、これは服務規定のなかでは許されないのかもしれないけれども、彼の近くにちょっと寄っていって、通りすがりでもいいから、小声で一言「おめでとう」って言ったら悪いでしょうか?
この国の現在と未来にとって、そういうことは悪いことなのでしょうか?
それなのです。いまの社会のおかしさっていうのは、それにもあらわれている。悪いでしょうか?
ぼくはちっとも悪くないと思う。これからお前脱獄しろとか、あるいは刑務官を殴れとか言ってるわけではない。小声で、「よくやったね」というのが、人間という、非常に完成度の低い、いびつな生き物にでもできる、せめてもの人間的行為なのではないでしょうか。口で言わなくたっていい。目で語ってもいい。「確定死刑囚」と断ぜられた男、明日からの未来に、ただ死のみを約束させられた人物に、いま現にともに生きてあることの歓びや過酷な条件下で作句したことへの尊敬の念を一片たりとも表現してはならないのでしょうか。同じひととして祝意を述べてはならないのか。それをあろうことか、逆にする。弁護士や、あるいは検察官は、法の適用について言うかもしれない。しかし私はそうは思わないのです。そうではない、これは法以前の問題であると思います。心根の問題です。われわれの心根がおかしくなっているのではないか。獄外のほうが獄内よりも、よりすさんでいるのではないかと感じるのです。
血も凍る仮説
塗りつぶしに関し、推定できる理由というのは、だいたい四つくらいあります。塗りつぶされた手紙には、ページ数とか行数とかが書いてあったと想像できます。『棺一基』という俳句集の何ページの何行目の句を自分で選びますと。というのが書いてあったとして、そのページ数や行数をですね、例えば、暗号とか乱数表として不審がったと。で、これを差し止めたと。暗号の使用、その他の理由によって、刑事施設の職員が理解できない内容のものであるときは、その手紙を渡さない。交付しないと。
それからもうひとつの理由、この拘置所の担当の刑務官が、あるいはその上司の人間性がゆがんでいる、ということから発生した問題なのかどうか?
私はそうは思わないのです。刑務官を、あるいは警察官、あるいは自衛官を、あいつら馬鹿だからというひとがいるけれども、私はまったくそうは思わない。あいつら馬鹿だからというのであれば、私はいま一番馬鹿なのはマスメディアの人間だと思います。これは断言できます。したがってこの二番目の、人間性のゆがみを拘置所当局で働く人間たちに帰するという考え方には賛成しかねます。三つ目の可能性としては、死刑囚が俳句を詠み、それを出版し、高い評価を受け、受賞したことに対する嫉(そね)み、仕返し、悪意、いやがらせの可能性。それとその著者と出版協力者である私への、どこか粘液質のいやがらせ、脅し、警告でしょうか?
これは明確ではない。明確ではないということがポイントです。現代という世界の、一番の明確な恐さというのは、なにがやりたいのか明確ではない、無意思、わからないということであります。
それから四つ目、最後の私が考えた選択肢ですね、塗りつぶされた俳句は、本来許された交信相手である私へのものではなくて、交信が許可されていない、もう同じことの繰り返しになりますけれども、一行詩大賞の事務局に宛てたものだから、これがだめなんだと。というこの四つの可能性のどれかではないかと、私は思ったわけです。で、また数日間、黒塗りの手紙とにらめっこしたわけです。で、これはなんなのだと……。いまは2013年であります。私が生まれた1944年ではないのです。この真の究極的な目的と意味と意義っていうのは、なんなのだと……。で、ふたたび思い惑うわけです。そうすると、驚くべき仮説にいたるのです。真の究極的な目的と意味と意義というふうにいえば、だれのためのという所有格ですね、my あるいはyour あなたがたの、our われわれの、といった属格ともいいますけれども、それがともなわなければならない。でもここには、この手紙を塗りつぶすという行為には、われわれの利益、あるいは彼らの利益、ぼくの利益、というふうに、属格や所有格で包まれるような、そういう事柄ではないことが、明らかだと私は思うのです。
血も凍るような仮説はこうであります。このこととわれわれの生き方、それから現在の生活というのは大いに密接に関係するわけでありますけれども、今回の検閲と抹消には、じつは、真の究極的な目的も、意味も、意義も、ありはしなかったのではないか。なにもない、なにもなかった。究極の「真犯人」はいなかったのかもしれない。そういうことです。
nobody とnothing
この行為には腑に落ちる、ひととして腑に落ちる、納得のできる、得心のいく、そういう根拠がありません。法律の適用の是非を言っているのではないのです。あらためて足もとを我々が見てみればですね、私も、それからみなさんの生活、労働、勉学というのに、なにか真の究極的な目的、意味、意義というものが、ほんとうにあるでしょうか。あるいはそれを感じることができるような社会でしょうか。私はそうは思わないのです。この真の究極的な目的と意味と意義というものを、徹底的に欠いた、空無のシステムに生きるともなく生きているのが、われわれではないかと思うのです。この黒塗りの手紙、これをアートとすればですね、これがわれわれのいまであるし、現在のアートの「性質」であるし、「水準」ではないか。レベルではないかと私は思うんです。それから、これが私と私たちの、この社会のですね、文化と芸術の所産であるし、それからわれわれの政治のリアルな水準というものがこれではないかと思うのです。この黒塗りを許し放置するかぎりにおいて、私たちはこの低劣な文化水準に永遠にとどまらなくてはなりません。
この国がまだ、断固として手放さないでいる死刑という制度も、じつは、よくよく考えてみれば、真の究極的な目的と意味と意義を、徹底的に欠いた、空無の、何もない「儀式」なのではないか。そう私は思うのです。真の究極的な目的と意味と意義を何ら持たないままに、死刑も、それから信書の検閲も抹消も「執行」されているのではないかと思うのです。空無が、すなわち虚しいもの、無いもの、nobody とnothing が、じつのところ、われわれを支配しているのではないかと。それほど怖いことはありません。しかし、われわれの精神というのは、これはもう物故した作家、高橋和巳が書いた言葉ですけれども、「精神は本来、空虚を厭うものだ」といいます。精神は本来、空虚を厭うものである。そうです。ここに、ぼくは「悶え」の、われわれの「悩乱」の原因がなければならないし、そうであるべきだと考えます。精神は、われわれの心は本来、空虚を嫌うものなのだと。空虚を厭うがゆえに自省し、内省するものだと。しかしながら、残念ながら、われわれはほぼ、全面的に空無、空虚というものに支配されているような気がするのです。で、そのころ私は、こういうメモを書きました。この黒塗りの手紙を見ながら、私は自分のことばで、自分の気持ちを綴っておこうと思ってメモを書いたのです。それはこんな内容です。
「夜には来ない
ぜったいに夜には訪れない
朝だけのあの儀式を
白々とした
夜によるをつぎ
俟(ま)つのではなく
いくとせ俟たされて
おい
笑ってはならぬ
生き生きと生きてはならぬ
生き生きとしゃべってもならぬ
ゆめ悦ぶな
ゆめ図にのるな
ゆめ目立つな
ゆめ希望をもつな
いいか
みずから死んでもならぬ
狂うのも許さぬ
おまえは生きている間は
生きて正気で死ね
もしくは
正気で死んで生きよ
何度でも何度でも死ね
と
ゼンコクミンに命じられて
どこまでも無に等しい
白々しい時のはずれに
ゼロのなかのゼロとして
ひたぶるにうずくまり
夜には来ないはずの
朝だけのあの祭儀を
俟つのではなく
俟たされて
ついに疲れて
うとうとと
まなかいをよぎる夢まで消されて
そのうえ
ゼンコクミンのみなさま
最期の
終わりの言葉まで奪おうというのか」
これは半分は私の気持ちであり、半分は彼の気持ちではないかと私は思っています。私がお話ししていることが、今日お集りのみなさんの胸にどれほど届いているか、届いていないのか、私にはわかりません。ただ、私がいま一番やりたいのはですね、この「わからなさ」をなんとか表現することなんです。一体なんなのだと、nobody とnothing とはなんなのかを書きたいのです。
死刑囚は人間か
われわれはいままで簡単に言ってきました。「国家権力」という言葉、あるいは「警察権力」「拘置所当局」という言葉を言ってきました。そこにいる者らを「反動」であるとか言ってきました。でも、本当にそうなのか。対象からもっと引いたり、対象にもっと近づいたりしてみて、もっとにおいのある、手触り感のあるものとして、ひと=われ=他者というものを眺めなおす必要があると感じるのです。いまの事態というものを、法の文章ではない、人間の言葉として、つまり人間の身体というものを言葉に入れこんだものとして再構成していくことはできないのかどうか。それをしなければならないと思うのです。そうすると、ひとつの設問が立ちあがってくる。これは私は法律家に問うているのではないのです。われわれが考えなければいけない。さっきのこれ(黒塗りの手紙)ですけれども、これの究極の真犯人を、まだぼくも、それからみなさんも言い当てることができないでいると思うのです。
その前に、別の設問を、ここでどうしてもせざるを得ない。それはなにかというと、「死刑囚とは、そもそも、人間なのであろうか?」ということであります。この前、東京拘置所を訪ねたときに、私が面会した相手は、病棟にいました。病棟というのは、拘置所内の病室のようなものです。ですから、そこはわずかながらエアコンがあるらしいのですけれども、そのほかのところはエアコンがないものですから、この気温ですから、少なからぬ人びとが在監者が熱中症になって、担ぎ込まれてくるといいます。われわれはそういうことを知っているでしょうか。生身の人間として、在監者の身体を想像できているでしょうか。こうした事実はおおかた抽象化されて、あるいは情報として対象外のものとされてしまう。これも抹消され、それから黒塗りになっている部分がある。「死刑囚は、そもそも、人間なのであろうか?」。ひょっとすると人間である証拠がはっきりしていないのではないでしょうか。この極東、われわれはFar East =極東におりますけれども、極東にですね、複雑にからまりあっている、人間的というよりはある種の植物のような、陰湿で、どこか執拗で、言語の通じないツタ類のような社会がある。私はこれを社会というよりは、なにか植物の群落のように思うときがあるのですけれども、まったく残念ながら、死刑に反対するにせよ、賛成するにせよ、このはじめのはじめの問いからはじめなければいけない。「死刑囚とは、そもそも、人間なのであろうか?」というところからはじめなければいけない。そんなの、あなた、自明じゃないですかと、彼は人間なんですよ、と答えるとしたら、なぜこうも人間扱いをされないのか。それをぼくは問いたいのです。
私は、だいぶ前に、旧東ドイツの重罪刑務所にいったことがあります。そこでは、重罪刑務所であって、ドイツでは、とっくの昔に死刑が廃止されておりますので、過去に重い犯罪を犯したひとたちが収容されている。ぼくはそこにいって驚いたのですけれども、何人かの殺人を犯した、そのひとと、その獄内でインタビューすることができました。そしたら彼の独房、独房というふうにはぼくには見えなかったのですが、彼は水槽に熱帯魚を飼っていたのです。彼我の差、我と彼の差に、唖然としました。そのときに私の心の中にさえ、「えっ、ここまで許されるの?」という気持ちがつい浮かんでしまう。それが逆にぼくは、おかしいんじゃないかというふうに思ったわけです。それからその重罪刑務所のなかでは、そこの収容者たちの新聞が発行されている。刑務所内の食事内容を改善せよといった受刑者の声がフィーチャーされていたりする。中年の男の編集長にも、ぼくはインタビューできました。その編集長は、殺人を犯したことのあるひとで、でも話していて、とってもインテリジェンスのある、魅力的な人物でした。ぼくはここに、人間というものの深さというものを見るわけです。どうか誤解ないようにお聞きいただきたいのですけれども、私の性癖かもしれませんけど、はっきりいって、「善人」よりも「悪人」といわれているひとの話のほうが、聞いていて引き込まれる。あきらかに存在として底光りする魅力があるのです。つまり、善魔よりは悪魔のほうがよほどおもしろい。ユーモアもある、深みがある、ということが言えると思うのです。脱線しましたけれども、翻って、この極東の死刑囚とされる彼らは、モノではなくてほんとうに生きた、有機的な思考体なのかどうか。そのように扱われているのか。有機的な、あるいは生きた、有機的な思考体ではなくて、「生きた無機物」とでも言うほかない不合理の存在なのか。そうした存在があってよいのか。これは、ほんとうに始原に立ち返って考える必要があると思います。
「人外」ななにものか
純粋に実証的にいえば、日本では、死刑囚、とりわけいわゆる「確定死刑囚」と分類されているひとたちは、ひとでありながら、もはやひとではなく、ひとであろうと願ってもならない、いわゆる「人外」ななにものかなのではないか。一切のビオス(社会的政治的生)を剥奪されたゾーエ(剥きだしの生、生物的な生)あるいは「生物的な生」以下の、もはや〈非在的実在〉ではないか。われわれはそうした〈非在的実在〉をどれほど実感できているのでしょうか。死刑執行のそのときまで、薄暗がりのなかで、ただ黙ってうずくまっている、そういう「影」でなければならない。つまり、詩を詠んだり、絵を描いたり、あるいはなにもしなくても、回想にふけったりしながら、ひとりでコロコロ笑ったり、そういうことは許されない。友だちに好きなことを手紙に書いて、何かを表現する。ひとである期間、生きている間、ひとはどのみち死ぬわけですけれども、死ぬまでの間、生きる意思や希望や夢を書いたり考えたり、回想したり、それらを社会に発表したり、あるいは妄想したりすることが、生きる態度として認められない。ただ死を待て。絞首刑が執行されるのをひたすら待て。お前は従容として死に就くべし。死あるのみ。そういう存在というのは、生きる思考体として可能かどうかということから、はじめなければならない。そんなばかなことがあるかと、私は思います。現行法の体系内でも、私はやはりおかしいというふうに思う。自分がそうしたいときに声をだしたりする能力、あるいはうたう能力、叫ぶ能力、自分を表現する能力……を奪われる。市民権を取り消される。そのひと自身の生の根源をですね、生きるということを、そのひと独特の方法で奮い立たせる手だてというものを、完全に消されてしまう。そのひと自身の生きる、生きたいという気持ちを、あるいは、つい死にたくなるけれども、なんとか自分を焚きつけて生かそうとする。みなさんのなかにだってあると思うんです。私もしょっちゅうあります。そういう手だてを踏みにじられる。自分独特の方法というものを取り上げられてしまう。それはあっていいことなのだろうか、ということなのであります。いやそうじゃないと、そうじゃないんだというひとがあれば、その死刑囚が人間である証拠と、人間であるかぎりにおいて受けるべき処遇のいちいちを、みんなに、ひとびとに広く、これを開示する必要があるのではないでしょうか。
ここで私はまだ、この黒塗りの手紙というアートの、この作家と犯人を、誰かとは言ってないんですけれども、もうひとつ私は、ここで驚くべきパラドクスというものを考えてしまうんです。今日私はそれを言うか言うまいか、多少迷っております。でもやはり言うべきだと思うんです。つまり、死刑囚……。ときどき新しくなった東京拘置所にいって、私は手足が悪いものですから、面会を許可されて、ボディチェックをされて、最近ボディチェックのところが民間の請負になったりして、拘置所もずいぶん変わってきているなと思いますけれども。ボディチェックのところからエレベーターのところまでいくのは、結構遠い。私の足では結構きつい。私はいつも不審に思うのは、そこの明度なんです。どこか仄暗い。本当に明るいんではない。仄暗いんです。壁の横に、細い縦長の明かり取りのようなものがある。行ったことがあるかたはご存知でしょうけれども、明かり取りにちょっとススキなんかが見えたりするわけであります。その微妙な明るさ、暗くもなければ明るくもない。薄明といいますけれども、薄ぼんやりとした明るさに、いつもギョッとするわけであります。
日本独特の神経細胞
私が言ったパラドクス、逆説というのはこうなんです。死刑囚となにか類似性があるのは、畏れ多くもかしこくも、仮説はこうなんです。それは禁中、宮中なのであります。死刑や刑場と禁中を、その「場」の彩度や明度で結びつけるというのはとんでもない話だと、みなさん思うかもしれない。ひどい「不敬」であると。しかしわれわれの思考様式のなかの、死刑という観念、あるいは死刑という情念というものと、それから皇室というものに関する情念には、なにかの結びつきがあるんじゃないかというのが、私が長年来感じてきている謎なのです。ニッポンという群落が無意識に内包している美意識にもそれらは通じるかもしれません。それはなにか。簡単なことばでいえば、非合理性= irrational なもの。それから非言語的な空気であり、そして薄明、薄明かりというものであります。ニッポン的、あまりにニッポン的な絶対的空無の深淵とでもいいましょうか。その明度、彩度、色相において、禁中と刑場は、はなはだ申し訳ないけれども、通底しているのではないか、似ているんではないかと私は怪しむし、怪しむ権利があると思います。なぜ私がそう言うかについて、これから縷々ご説明したいと思いますが、ひとでありながらひとでなく、または、逆に、あまりにひとでありすぎる、そういうbehavior 、つまり生活態度というものを許されない。そういったオープンなbehavior のすべてを消去されてしまう。生きながら、生きていながら、外部とのまぐわいですね、まぐわいというのは、情交であります。セックスであり、それから目配せでもあり、交歓、歓びを持ち合う、交感でもあります。ひとであるかぎり禁じえないそれらを禁じられる。たえず監視されている。それは日本というツタ社会にはりめぐらされた、ある種の「神経細胞」のようなものではないかと、私は想定しているのです。
いま言った神経細胞、これが私が行った、訪問した、他のどの国ともちがう。おそらく中国とも違う。それから韓国、北朝鮮とも違うなにかが、このニッポンにはある。それは言語化がなかなか難しい。この言語化の難しい、薄明の酷薄を、なぜこういうふうに何十年も、何百年もそのまま放置してきているのか。いまだにわれわれはそうした薄明の、薄暗がりを、われわれの外部だけではなくて、われわれの体内に持ってしまっているのではないのか。これは答えが割合はっきりしていると思うんです。それはわれわれがあえて見ようとしないからです。見ること、覗くこと、あるいは分け入り、そこに立ち入ることは「タブー」とされているということです。執行中の刑場の全容を見ることはできない。時たま、テレビで映したというけれども、あれは執行のないときに、ガラスの外から撮った映像であって、内側ではない。絞首刑に処されたひとたちの頸骨が折れる音、舌骨が折れる音、脱糞する音、肉と骨の音、叫び。それから立っている鉄板がふたつに割れて、人体が闇に落ちていくときのあの滑車の音、ロープが張りつめる音。そういうものが全部はいっているわけではない。それを長きに渡って、もう戦後六十八年間も、知ろうとしなかった。まず一義的には、われわれのなかに大きな問題がある。知ろうとしないのは、われわれのなかに、そこまで知ろうとしてはならない、という無意識の神経細胞がはたらいているからなのではないかと、私は推定するわけです。
世間、マスコミの中枢、それから腑抜けの新聞記者たちの身体の体内をへめぐっている微細な触手のようなもの。自由を制御する見えない神経細胞。2013年の今年の8月16日付けのこの黒い手紙。判読不能にした責任者、指示者、意図、目的はなにか。わからないのです。わからないようでわかる。しかし、わかるようでわからない。ただ聞こえてくるのは、死刑囚は勝手なことをするな、俳句など詠むな、死刑囚に詩を書かせるな、獄外の者は妙な協力をするなというふうな脅しであります。「確定死刑囚」は俳句など発表するな、ただおとなしく、じっと死を待て……という顔のない黒い声。顔のない黒い声は世間というものの無意識とうまく融けあいます。この国の俳人、詩人、作家、マスコミの人間たちは、いや、私は、これを黙って見過ごしてよいのでしょうか。(前半了)
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