キューバについてちょっと勉強して見ませんか。(WBCキューバ戦を機会に思ったこと。)
「革命家チェ・ゲバラ ヒロシマ訪問秘話」と、後ろでWBC決勝戦の結果のYouTube動画をはっておきます。
末尾でご紹介している朝日のキューバ国内でのWBC熱気を伝える記事中、キューバ共産党機関紙の「グランマ」※とあります。グランマはご存じのようにおばあちゃんの意味です。なんで「おばあちゃん」が共産党機関紙の名前かと言うと、若き日のカストロたちがフルヘンシオ・バティスタ独裁政権を打倒しようとキューバに向かったときに乗り込んだオンボロクルーザーの名前が「グランマ」号だったからです。
※キューバ共産党機関紙「Granma」のスペイン語版、英語版。
「Granma」の
2006年3月22日 空港でのWBCキューバ代表凱旋帰国レポート記事。
La Habana, 22 de Marzo de 2006
Reafirma Fidel que Cuba donará premios del Clásico Mundial a las víctimas del Katrina
「Granma」の
2006年3月22日 ハバナ市内でのWBCキューバ代表凱旋帰国レポート記事。
La Habana, 22 de Marzo de 2006
La Habana les dio la bienvenida a los campeones
最初から多数派の革命勢力と言うのはなくて、どの革命勢力も最初は少数から始まります。キューバのカストロがキューバ東部の山岳地帯(シェラマエストラ)に近い海岸に上陸したときには、女性二人を含む82人の武装した同志(!)とでした。この人数が"お婆ちゃん号(グランマ号)"と言うなんと定員14人乗りの老朽ボートに乗り込み(まるでボートピープル、よく沈没しなかった)バチスタ独裁政権の5万の兵士に戦いを挑み、最終的には勝利します。
なお、余談ですが、海岸上陸したのは1956年12月2日ですが、なんとフィデル(カストロ)は、前もって1956年の年内に上陸すると宣言していました。軍事訓練してくれたバヨ元大佐が「作戦は秘密にしておかなければならない」と抗議したのに対してフィデルは「あなたに教わった事は承知しています。けれどもこの場合、私はキューバの人たちに私たちが来ると言うことを知っていて欲しいし、私たちの7月26日運動を信頼して欲しいのです。軍事的には公表することはまずいと言うことは良く知っていますが、(公表は)やむにやまれぬ私自身の癖なのです」と言ったそうです。案の定、上陸と同時に独裁者の空軍に発見され、82名はバラバラになってしまいます。年明けの1月1日フィデルがピコ・トルキノと言うシェラマエストラ山中で最も高い、標高2005メートルの山頂に達したときには、残った同志はたったの12人だったようです。一方、他の無事に山中に紛れ込んだ他の同志たちは武器や志願する者を集めるために密かに都市へ派遣されます。
山嶺にうちひしがれ飢え傷ついた12人の男がやっとの思いで集まったのですが、その後都市で地下活動をやっていた同志達のうちの一人が連絡に登山して来ます。その時、フィデルは「これで勝った。3週間のうちに、20人の武装した同志を送ってくれ。(これから)勝ち戦に転換だ」と言ったそうです。そしてこう言ってからわずか2年後に、ヒゲ面のゲリラ達が凱旋でハバナ入りすることになります。
※文中、バヨ元大佐とあるのは、アルベルト・バヨ元大佐。キューバ生まれ、独眼竜の元スペイン軍人。スペイン内戦では共和派に属して闘う。ゲリラ戦の専門家。フランコ独裁政権が成立してからは一度キューバに戻り、1942年にメキシコに再亡命し、メキシコ空軍の先生となる。1955年の年末にフィデルと面会したときには既に退役し家具屋をやっていた。そしてフィデルに頼まれて、若きゲリラ戦士を1年間軍事訓練します。時に、フィデル29歳、弟のラウールは24歳でした。
以上、堀田善衛「キューバ紀行」を参照しました。(僕は「堀田善衛全集 」の11巻で読みましたが、ご紹介した「キューバ紀行」は集英社から出ている単行本です。)
※なお、革命後の生まれたばかりの若いキューバは経済封鎖などで徹底的にアメリカにいじめ抜かれます。その時、唯一近隣諸国で国交があったのはメキシコでした。そのメキシコが今回、ホームランを二塁打にされたりとかインチキ判定を米審判にされながらも米国チームを2-1と打ち負かしました。結果、一度は首の皮一枚になった日本を準決勝に生還させてくれたのです。どちらも親日国であり、なんとも言えない運命の糸を感じてしまいます。
余談ですが、若きカストロたちが当初はマルクス主義もよく知らなくて、革命10ヵ月後のカストロの演説でも「我々革命政府を共産党だと非難している国がある」と不満をもらしています。若き彼らは、人々に誠実に政権運営する結果として、また隣の巨大国米国にいじめ抜かれる中で社会主義を選ばざるを得なかったことが「キューバ紀行」の中で語られています。また、キューバの人々、またカストロ自身がマルクス主義とどうかかわっていったか、堀田善衛さんのユーモアあふれる筆致で語られてゆきます。
もう一つ下記朝日のWBCのキューバ国内での熱気を伝える記事中、
『チームは出発前、カストロ議長に呼ばれて直々に激励された。その際、革命家チェ・ゲバラがよく使った「勝利に向かって常に前進せよ」という言葉を贈られた。』
とあります。革命家チェ・ゲバラと言うのはカストロの無二の盟友です。革命と言うのは、独裁政権を打ち倒すことも大事ですが、実際に大変なのはその後に長く続く政権運営で内実のあるものにすることです。一度はキューバ国立銀行総裁、工業相と歴任しながらもゲバラは再度南米の地に戻って行きゲリラ活動に入ります。そして、最後にはボリビアで殺されてしまいます。その情熱を一番理解したのはカストロだろうし、カストロ政権の大変な前途を気遣ったのもゲバラだったと思ってます。
ゲバラは1959年にアジア・アフリカの親善大使として来日。12日間滞在した。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目にあわされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語ったと言われています。(更に詳しくは)
チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna, 1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者。「チェ」はアルゼンチンのスペイン語で相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名である。革命家として日本の坂本龍馬を非常に尊敬していたという。
Che.jpg (64KB, MIME type: image/jpeg)
チェ・ゲバラ
(アルベルト・コルダ撮影の
1960年3月15日写真[1]より)
Wikipediaチェ・ゲバラより
革命家チェ・ゲバラ ヒロシマ訪問秘話20090123housute
再投稿
お散歩
http://www.dailymotion.com/video/x5tn856
革命家チェ・ゲバラ ヒロシマ訪問秘話20090123hou... 投稿者 osanpodeonigiri
公開日: 07/15/2017
期間: 10:48
2分19秒のところ。献花する左端オマール・フェルナンデス氏(Omar Fernández)、後列左チェ・ゲバラ、その右マリオ・アルスガライ(Mario Alzugaray)駐日キューバ大使。
4分24秒のところ〜、チェ・ゲバラが「あなたたちはこんなひどい目にあってなぜ腹を立てないのか」「アメリカはひどい事をするな」と。
4分30秒のところ、チェ・ゲバラ「“日本国民” “広島市民” はなぜアメリカの原爆投下責任を問わないんだ」と…。
チェ・ゲバラ世界を変えようとした男 59分
gataro-clone
http://www.dailymotion.com/video/x16xv6a
チェ・ゲバラ世界を変えようとした男 by gataro-clone
Publication date : 11/08/2013
Duration : 59:00
日本来訪 [編集]
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本での知名度は低く、朝日新聞が“カストロ・ヒゲ[1]”と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れている。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている[2]。
なお、このゲバラの広島行に関しては、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かったという説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、昭和47年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。当時の日本の状況で、日本語がまったくわからない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、なによりもこっそり夜行列車で抜け出したにもかかわらず、広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いである可能性が高い[3]。
このとき、中国新聞の記者であった林立雄が単独取材した。「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」とゲバラは言ったという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、キューバでは現在でも、初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。
ゲバラ:被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問 訪日時
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071009k0000e040018000c.html
→Internet Archive
59年1月の革命後に撮影された写真を見せるオマル・フェルナンデスさん。チェ・ゲバラ(右)と当時ヒゲをはやしていたフェルナンデスさんが一緒に写っている=ハバナ市内で、庭田学撮影
【サンタクララ(キューバ中部)庭田学】キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として59年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。
ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。
フェルナンデスさんによると、アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。
「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。
フェルナンデスさんがゲバラに初めて会ったのは59年1月の革命直後。「外国人としてキューバ革命に参加したチェを私は知り合う前から尊敬していた」と話す。ゲバラが工業相を務めたときには、フェルナンデスさんが副工業相の一人に任命されるなど信頼を得た。しかし、ゲバラが39歳で命を落としたボリビアでのゲリラ闘争には誘われなかった。「一緒にボリビアに行けなかったのが少し悔しい」。フェルナンデスさんは寂しそうな顔をした。
毎日新聞 2007年10月9日 10時42分 (最終更新時間 10月9日 13時09分)
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2本はっておきます。前のは決勝戦。後のダイジェストも決勝までの足どりがたどれるのでお勧めです。
2006年3月20日 WBC 決勝 日本VSキューバ ハイライト
再投稿
お散歩
http://www.dailymotion.com/video/x5tl16c
2006年3月20日 WBC 決勝 日本VSキューバ ハイライト 投稿者 osanpodeonigiri
公開日: 07/15/2017
期間: 08:13
WBC2006 ダイジェスト
SAMURAIJAPAN88
http://youtu.be/Q9Sn2a75qPU
リクエストによる埋め込み無効
SAMURAIJAPAN88 さんが 2010/02/17 にアップロード
関連投稿
「今朝のワールド・ベースボール・クラシックの西岡のタッチアップ走塁を見ましたか。アメリカは汚いね。」
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キューバでも国民的熱気、カストロ議長が激励 WBC
2006年03月20日12時27分
http://www.asahi.com/wbc2006/TKY200603200181.html
→Internet Archive
米サンディエゴで18日に行われたWBC準決勝キューバ対ドミニカ共和国の試合で、キューバ国旗を掲げて声援を送るファン=AP
ワールドベースボールクラシック(WBC)決勝で、日本と対戦するキューバでは、共産党機関紙グランマが連日、1面で結果を大きく報じ、国営テレビの政治討論番組でも活躍ぶりが議題になるほど熱が入っている。野球が国技で、五輪でも金メダルを三つ獲得したアマ球界「最強」とされるチームだけに、国民の「世界一」への期待は高い。
ハバナからの情報によると、キューバの試合の模様はすべて国営テレビで生放送されている。人々の目はテレビにくぎ付けで、寄ると結果が話題になっているという。
決勝進出を決めた18日には、喜ぶ市民らが道に繰り出して国旗を掲げたり、車がクラクションを鳴らしたりしたと、AP通信は伝えた。
チームは出発前、カストロ議長に呼ばれて直々に激励された。その際、革命家チェ・ゲバラがよく使った「勝利に向かって常に前進せよ」という言葉を贈られた。
プエルトリコからの報道によると、同国で行われた1次リーグの対オランダ戦ではバックネット裏で、反カストロ派の男性が議長を中傷する言葉を掲げてテレビ画面にも映ったためキューバ側が態度を硬化させ、試合後の記者会見を拒否する場面もあった。キューバの大会参加には当初、キューバへの経済制裁を仕切る米財務省が反対するなど、国際政治が影を落としてきた。
これに対し、17日付グランマは「開催国が決勝に進めるようにと(米国に)有利な日程が組まれたにもかかわらず、決勝はアジア対カリブになった」と、米国の敗退を誇らしげに伝えた。米国の対日本、対メキシコ戦で「疑惑」判定を繰り返した米国人審判についても「信じられない」との批判の声が地元メディアで伝えられている。
ただ、「敵地」米国で大リーグのプロ軍団を下すのが多くのキューバ国民の夢だっただけに、米敗退を残念がる声もあるようだ。
キューバと日本は、大きな国際大会のたびに相まみえる強豪同士。キューバの野球ファンは、04年のアテネ五輪で松坂投手の好投で日本に黒星を付けられたことを悔しい思いで覚えている。
EFE通信によると、ベレス監督は日本について「彼らのことはよく知っている。偉大な選手がいるし、野球の心がある。ラテンアメリカの我々とそっくりだ」と話している。
※キューバ共産党機関紙「Granma」のスペイン語版、英語版。の内、スペイン語版に載ったWBCキューバ代表30人の選手達。
(クリックで拡大します)
←The 30 who represented Cuba in the 2006 World Baseball Classic
http://cubajournal.blogspot.com/2009/02/30-who-represented-cuba-in-2006-world.html
Click the photo to read the caption below each baseball player.
Cuba Journal
http://cubajournal.blogspot.com/2008/06/commie-ball.html
A boy steps up to bat in a pickup game in Havana.
Photo by Claudia Daut/Reuters/Corbis.
Fidel Castro with Leslie Anderson
and Cuba’s national team in 2006.
Photograph by Sven Creutzmann
reportage by Getty Images.
Japan 10, Cuba 6
Japan, and Its Fans, Embrace New Title of World Champion
http://www.nytimes.com/2006/03/21/sports/baseball/21classic.html
→Internet Archive
Chang W. Lee/The New York Times
Sadaharu Oh, Japan's manager, was thrown into the air by his players after their victory in the first World Baseball Classic.
By JACK CURRY
Published: March 21, 2006
SAN DIEGO, March 20 — The white flags with the solitary red circles were scattered around Petco Park, growing more and more prominent with each inning. Every time Japan scored another run or made another slick play Monday night, the fans raised those cherished flags, shook them and waved them. Then they waited.
Could this drama really become a dream come true? Could Japan really be the class of the World Baseball Classic? The fluttering flags offered the answer. They almost never stopped flying, the Japanese almost never stopped repelling Cuba during a 10-6 victory, and they snatched the championship of this inaugural event.
So Japan, which qualified for the semifinals only after the United States was surprisingly eliminated with a loss to Mexico, ended Cuba's refreshing ride through the tournament. The Cubans were almost not allowed to compete, but they were given permission, and the mysterious men in red performed admirably against some teams loaded with major league players.
But the Cubans could not solve Daisuke Matsuzaka, who stifled them on one run over four innings, and they could not overcome Japan. Matsuzaka, who throws a 94-mile-an-hour fastball and has a slight hesitation in his delivery, surrendered a leadoff home run and then retired 12 of the next 15 batters. He had three of Japan's five victories and was named the tournament's most valuable player.
"Well, it was my first experience to pitch in the game with the world championship on the line," Matsuzaka said. "I was going to feel a lot of pressure, as this is something you wouldn't be able to buy. But I did not feel much of it once I got on the mound."
The Cubans trailed by 4-0 and by 6-1, but they scored two in the sixth and two more in the eighth on Frederich Cepeda's home run to crawl to one run down. As one fan held a "Cuba Campeón" sign, Akinori Otsuka of the Texas Rangers emerged to get two crucial outs in the eighth. Then Japan scored four times in the ninth, and Cuba's chances for a fantastic finish fizzled in front of 42,696 fans.
Otsuka struck out Yulieski Gourriel to end the game, causing the Japanese players to fling their gloves and hug each other between the mound and first base. The players formed a circle, lifted the legendary Sadaharu Oh, their 65-year old manager, off the ground and tossed him in the air — a tradition the Japanese follow after winning a title.
"I thought I would never, never get a chance to manage a team like this," Oh said.
After Manager Higinio Velez decided Ormari Romero was dependable enough to start perhaps the most important game in Cuban baseball history, he inexplicably replaced Romero after only 23 pitches. Romero permitted two infield singles and a walk to the first four batters to fill the bases and, suddenly, he was gone.
The Cubans have had relievers warming up in the first inning in other games, but this seemed like a hasty decision. Romero was clearly irked about being replaced. He walked behind the mound and waved his hand at Jose Elosegui, the pitching coach. Vicyohandry Odelin, who looks and pitches like Tom Gordon's twin, followed Romero.
Odelin could have started, but the Cubans skipped him because he allowed three home runs in a 6-3 loss to Japan in the 2004 Athens Olympics. Odelin did not give up any homers to Japan this time, but he did not come close to getting out of the delicate situation, either.
Odelin plunked Hitoshi Tamura in the elbow with his fourth pitch to force in Japan's first run. After a strikeout, Odelin walked Michihiro Ogasawara on a close 3-2 pitch to push in the second run. Toshiaki Imae followed by slapping a slider for a two-run single that that gave Japan a 4-0 lead.
When Eduardo Paret smashed a leadoff home run for the Cubans, he pumped his fist rounding first. Maybe the Cubans could immediately erase the deficit. Well, maybe not. Matsuzaka allowed three more hits through the fourth.
Japan scored two runs in the fifth for a 6-1 cushion, but Cuba rebounded with two in the sixth. The Cubans had runners on first and third with one out, but Shunsuke Watanabe induced Yoandy Garlobo into a double play.
When organizers first applied for a license for Cuba to participate, the Treasury Department denied the request because the Cubans would have received American money. That would have violated the United States' trade embargo against Cuba.
The organizers applied for a second license that guaranteed Cuba would not receive money. Five weeks after the denial, President Bush ordered his staff to settle the issue, and a license was granted.
Under tournament regulations, every team except Cuba received at least 1 percent of the net profits. Those percentages rose as teams advanced, with Japan receiving 10 percent as the champion. The money that Cuba would have received will be donated to charity.
Despite having only two major leaguers, Japan won the tournament. Despite having no major leaguers, Cuba finished second. The United States feels it has the best players in the world. In this tournament, that was untrue. Japan, as the flying flags showed, was the class of this classic.
INSIDE PITCH
Derek Jeter and Ken Griffey Jr. were the only Americans to make the all-tournament team. ...The attendance for the 39 games was 737,112.
堀田善衛の『キューバ紀行』
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コメント
日本はきっと優勝する。信じましょう。
投稿: つねさん | 2006年3月21日 (火) 09時57分
SOBAさん、こんにちは。
私も以前からフィデルの事をSOBAさんと同じ視点で記事にしたいと思っていたところでした。
>若き彼らは、人々に誠実に政権運営する結果として、また隣の巨大国米国にいじめ抜かれる中で社会主義を選ばざるを得なかった
その通りだと思います。というわけで、私もエントリーを建て、上の部分などを含む一部を引用させていただきました。
投稿: | 2006年3月23日 (木) 20時31分
上のコメントに名前を入れ忘れました(汗)。
投稿: grevo | 2006年3月23日 (木) 20時33分