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2011年5月 2日 (月)

東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

 表題の「防災の備え」ですが、紹介記事中にあるように目に見える具体的な防災対策、いわゆるハード面が大変重要なことはもちろんですが、それに加え、同じく他の記事中にあるように普段からどのような心がまえをしていたので役立ち助かったか、あるいは現実の災害でどんな対処をして助かったかなど、そう言うソフト面も「防災の備え」として大事な知識・智慧です。防災への教訓を得るために、パソコンに保存していた記事をアップ(2013/10/14)しておきます。なお教師たちの機転・素早い判断で裏山に逃げ、全児童92人が助かった陸前高田市気仙小の記事を末尾で採録しました。気仙小は、死者64人・行方不明10人の大川小学校(全校児童108人)と規模・立地条件が似てます(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 なお被災した学校は被災後仮校舎に移転した例などが多いので、被災した元の場所がどんな感じだったか分かる様に、元の被災場所位置情報(緯度経度)を記事の前にメモしておきました。また被災前、被災後の状態が分かる様に極力画像を収集しアップしてます。

※タグ:防災、非常通路、機転きかせ、「運命の避難階段」、頑丈な校舎、素早い判断。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

越喜来小の正門は標高6m(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" 大船渡市三陸町越喜来字沖田47)で、
避難用スロープを出た道路が標高約9m(出た道路の緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )で、
西に行った第1避難所の三陸駅が標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )、
更に西に行った第2避難所の南区公民館が標高41m(入口の緯度経度 +39 07 00.920",+141 48 31.580" )

市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校(朝日)
2011年3月29日17時6分
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103290249.html
魚拓

Tky201103290252児童らが避難した後、津波で押し寄せたがれきに覆われた越喜来(おきらい)小学校の非常通路(中央)。右の児童たちも、この通路から高台に逃れて助かった=28日、岩手県大船渡市三陸町越喜来、仙波理撮影 

SOBA:写真を拡大して見るとがれきの下に非常通路の支柱が見えます。瓦礫上方の向こうに第1避難所三陸駅のホームも見えます。 がれきを片付けた後の非常通路(←頁内ジャンプ)


Tky201103290251 平田武さん=親族提供 


Tky201103290250 津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所(写真中央)には、流されたがれきが山積みになっていた=岩手県大船渡市三陸町越喜来、其山写す 

がれき片付け後の非常通路はこちら(←頁内ジャンプ)


Tky201103290254 越喜来小学校の非常通路

 岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。

 海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。

 「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。

 親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。

 平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。

 11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。

 市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。

 非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)

 

SOBA追加関連画像(2013/10/14):
(↓クリックすると拡大します)
Photo ←越喜来小周辺地図。矢印の所が正門。西に行くと第1避難所の三陸駅、更に西に行くと第2避難所の南区公民館。三陸駅は標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )、更に西に行った第2避難所の南区公民館は標高41m(入口の緯度経度 +39 07 00.920",+141 48 31.580" )


 以下画像は「津波避難対策の事例について」より(←pdfの10頁/全16頁中)
越喜来小学校のスロープ(非常通路)の位置、児童らが利用した避難用スロープ。

Photo_2 スクロールして見るなら

←朝日の記事中、「津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所」の写真とほぼ同じ位置方向から撮っている越喜来小の避難用スロープ。がれきは片付けられてます。越喜来小の正門は標高6m(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" )、非常通路を渡った道路の標高が約9m(出た道路の緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )、西に行った第1避難所の三陸駅が標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )

朝日の記事では「長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。」と書いてありますが、この写真を拡大すると分かる様に手すりが壊れただけで本体はしっかり残っていたのが分かります。

がれきが散乱している被災後間もなくの非常通路記事画像に戻る(←頁内ジャンプ)


60746_1 スクロールして見るなら

←被災前の「越喜来小学校前から三陸駅方面」by haw**even*40
撮影日: 2010 年 7 月 4 日(グーグル「未来へのキオク」


60746_2 スクロールして見るなら

←アップ、撮影時にはまだ避難スロープはありません。(避難通路が出来たのは、撮影日5ヶ月後の2010年12月)前記元画像が大きかったので画質を落とさず螺旋階段の右奥を見られます。また、坂を二度登り切った先に第1避難所三陸駅のホームが写ってます。


Photo スクロールして見るなら

←避難用スロープで出た標高約9mの県道9号線(緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )から南方向を望む。既に越喜来小の校舎は取り壊され、校庭跡の先に越喜来湾まで見渡せます(2013/06のグーグルアース)なお、縁石に避難スロープ鉄枠の右パイプ残り、左パイプの抜けた穴が写ってます


1 スクロールして見るなら

←被災後取り壊される前の越喜来小。坂下から坂上の三陸駅方向を望む(以下4枚はグーグルの過去イメージより、2013/10/09取得)


2 スクロールして見るなら

←アップ。螺旋階段右奥に非常通路が見えます


3 スクロールして見るなら

←さらに手前の正門をアップ。


4 スクロールして見るなら

←さらにアップで、くずれた正門の表札部分「大船渡市立 越喜来小学校」の表示。(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" 大船渡市三陸町越喜来字沖田47)


Photo_2 スクロールして見るなら

←越喜来小の東、小さな橋の手前、刈谷薬店前(道路北側にあった)あたりから越喜来小を望む。越喜来小正門前、避難用スロープで出た道路前を通り、右手奥三陸駅まで続く道路。


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

大船渡小は標高約12m(正門前の緯度経度 +39 03 25.656",+141 43 07.312" )で、
避難所の大船渡中は標高約63m(正門前の緯度経度 +39 03 13.430",+141 43 02.940" )
越喜来小の緯度経度位置データは前の記事参照。

機転きかせて避難、全校無事 大船渡小と越喜来小(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110323_13
Internet Archive

Newsy2011m03d23hinan0323 津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来

 津波襲来時、大船渡市の大船渡小(柏崎正明校長、児童268人)と越喜来小(今野義雄校長、同73人)は状況に応じた対応で、児童全員が生き延びた。事前の想定を大きく上回る津波を前にマニュアルにとらわれない学校の判断が、児童の命を救った形だ。

 越喜来小は第1避難所に三陸駅、第2避難所に南区公民館を設定。通常は揺れが収まってから避難するが、今回はあまりにも揺れる時間が長すぎた。細心の注意を払いながら、揺れている間に避難を開始した。

 大津希梨さん(4年)は「大きな揺れのときにしゃがみ、小さい揺れのときに急ぎ足で逃げた。揺れが止まるのを待っていたら波にのまれたかもしれない」と振り返る。

 大きな揺れに泣きだす子もいたが、昨年整備した県道との連絡通路などを使って避難。校舎を破壊する津波の猛威に危険を感じ、南区公民館からさらに背後の山に登らせた。

 遠藤耕生副校長は「津波到達まで30分ないと想定すると、揺れが収まってからでは間に合わないと思った。校舎が壊れることも考えた」と説明する。

 大船渡小は学校が近所の住民も逃げてくる避難場所。11日も地震発生後、児童はマニュアル通り校庭へと避難した。

 ところが、津波が街をのみ込みながら、迫るのが校庭から見えた。柏崎校長はさらに高台にある大船渡中への移動を決断。児童は校門より山手のフェンスをよじ登り、1、2年生は教職員が持ち上げた。全児童が避難後、津波は校庭をのみ込み校舎1階に浸入した。

 柏崎校長は「まさか地域の避難所であるここまで津波が押し寄せるとは。それでも児童は冷静に行動した」と語る。

【写真=津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来】

(2011/03/23)

SOBA追加関連画像:
(↓クリックすると拡大します)
Photo_11 スクロールして見るなら

←右上の大船渡市立大船渡小と、南南東方向にある市立大船渡中の周辺地図。


Photo_9 スクロールして見るなら

←大船渡市立大船渡小学校の正門、標高約12m(正門前の緯度経度 +39 03 25.656",+141 43 07.312" )


Photo_10 スクロールして見るなら

←大船渡小避難所の大船渡市立大船渡中学校北門、標高約63m(正門前の緯度経度 +39 03 13.430",+141 43 02.940" )


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

岩手県岩泉町立小本小学校は 標高10m(正門前の緯度経度 +39 50 35.218",+141 58 06.875" )で、
校舎(体育館)裏から南へ伸びる、国道45号へ続く避難階段(登り口の緯度経度 +39 50 30.850",+141 58 06.060" )を登り切った国道45号は標高40m。国道45号を南に150mの右側に高台の広場があり標高が55m。

【東日本大震災】児童88人を救った「運命の避難階段」 岩手県岩泉町(産経)
2011.3.20 20:08 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110320/dst11032020090083-n1.htm
Internet Archive

Dst11032020090083p1 小本小学校の校舎(体育館)裏から伸びる国道45号へ続く避難階段=岩手県岩泉町

 東日本大震災による津波は、岩手県岩泉町小本地区にある高さ12メートルの防潮堤を乗り越えて川をさかのぼり、家屋をのみ込みながら小学校まで迫った。間一髪で児童88人の危機を救ったのは、2年前に設置された130段の避難階段だった。(原圭介)

 太平洋に臨む岩泉町小本地区は、小本川沿いに半農半漁の住民158世帯、428人が暮らしている。小本小学校は同地区の奥に位置し、背後には国道45号が横切っているが、高さ十数メートルの切り立ったがけに阻まれ、逃げ場がなかった。

 同小の避難ルートは以前は別だった。数年前の避難訓練の際、伊達勝身町長が「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と国土交通省三陸国道事務所に掛け合って変更。平成21年3月に国道45号に上がる130段、長さ約30メートルの避難階段が完成した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110320/dst11032020090083-n2.htm
Internet Archive
 今回の巨大津波は小本地区と川を挟んだ中野地区(175世帯、422人)を直撃。130棟の家屋をのみ込み、校舎手前の民家もなぎ倒した。児童は予想外のスピードで迫る津波から逃れるため、避難階段を必死に駆け上り、高台の広場に逃げ込んだ。校舎と体育館は水に浸かり、今も使えない。

 高橋渉副校長(51)によれば、階段のおかげで避難時間が5~7分短縮できたという。広場の倉庫には毛布やテントも用意してあった。児童88人を救った130段の階段、高橋副校長は「あと10分、避難が遅れていたらどうなっていたか分からない。少なくとも何人はけがをしていたかもしれない」と胸をなで下ろした。

 卒業式と入学式・始業式は延期した上で町役場近くの町民会館で実施する。校舎での授業にはめどがたっていないという。

SOBA追加関連画像:
(↓クリックすると拡大します)
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←岩泉町立小本小学校の正門。校舎は一見きれいですが記事中にあるように水に浸かったようです。(正門前の緯度経度 +39 50 35.218",+141 58 06.875" )


 

日本テレビ ズームイン!!SUPER2011-03-24(木) 05:20~08:00
岩手 小本小学校 子どもたちの命救った階段
http://6mj.tv/episode_32D070EDDF309CB57CD4EF46D45BCF9B.html

    岩手県岩泉町の小学校には校舎裏側に高台への避難階段が設置されていた。これにより、児童らはスムーズに高台に避難することができた。また、小学校でもこの階段を使った避難訓練を行っていて、今回の地震では落ち着いて避難することができた。

 

 古人の教え「津波てんでんこ」を実践した、鵜住居小と釜石東中学校の関連記事です

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。(鵜住居関連の画像と動画はこちら←頁内ジャンプ)

釜石東中学校正門は標高約4m(正門前の緯度経度 +39 19 38.687",+141 53 33.968" 釜石市鵜住居町第19地割28-3)※

鵜住居(うのすまい)小学校正門は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 19 38.859",+141 53 32.656" 釜石市鵜住居町第18地割5-1, 0193-28-3705,)※

※釜石東中学校正門と鵜住居(うのすまい)小学校正門は道路を挟んで向かい合わせで、ほぼ同位置(以下、両校正門前と略記)

最初の避難場所、ございしょの里は標高約11m(入口前緯度経度 +39 19 21.170",+141 53 15.700" )両校正門前から約860m。
次の避難場所、やまざき 機能訓練デイサービスホームは標高約20m(入口前緯度経度 +39 19 13.290",+141 53 07.690" )両校正門前から約1170m
更に次の避難場所、仲野石材店鵜住居展示場は標高約63m(入口前緯度経度 +39 18 58.210",+141 53 02.360" )両校正門前から約1680m
屋内の避難場所を求め、釜石山田道路(縦貫道)を南下し、
旧釜石第一中学校体育館は標高約11m(入口前緯度経度 +39 16 35.950",+141 53 06.400" )
最終的な避難場所、
釜石市立 甲子小学校は標高約61m(正門前の緯度経度 +39 15 19.890",+141 47 51.000" )
釜石市立 甲子中学校は標高約55m(正門前の緯度経度 +39 15 15.546",+141 47 48.875" )

以下サイトが参考になります。
群馬大学広域首都圏防災研究センターHP
http://www.ce.gunma-u.ac.jp/bousai/research02_3.html
Internet Archive

 

防災の教え、命救った 釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散
 (2011/03/27 06:55)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/earthquake0327/124759.html
Internet Archive 

5363_1 避難の様子を話す釜石東中の3年生たち。一帯では津波で学校や多くの家屋が流された

 東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが子供たちの命を救った。(報道本部 枝川敏実、写真も)

 釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。

 立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。

 校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。

 子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。

 教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。

 津波は地震発生後、いつ来るか分からない。教師の指示が遅れると、逃げ遅れることになる。釜石市内の小中学校は指示されなくても「とにかく早く、自分の判断でできるだけ高いところ」に逃げるよう指導してきた。

 釜石市は昭和三陸地震(1933年=昭和8年)やチリ地震(60年)などの津波で大きな被害を受けた。市内の各小中学校は津波を経験した高齢者の講演会などを開いたり、当時の映像を見せたりして津波の恐ろしさを教えてきた。釜石東中の場合、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行っている。

 市教委などによると、今回の震災で、釜石市内の小中学生2923人のうち、死者と行方不明者は5人。ほとんどが学校を休んでいた子供で、学校からの避難がほぼうまくいったことを裏付ける。

 一方、釜石港沖には2009年、マグニチュード(M)8・5の地震を想定し、高さ約6メートル、全長約1・6キロの防波堤が建設された。耐震性を増すなど最新の技術が駆使されたが、10メートル以上とされる今回の津波であっけなく破壊された。

 船や家を失い、避難所に身を寄せる漁業者からは「防波堤があるから、(津波対策は)万全だと思っていた」との声が多く聞かれた。釜石市の幹部は「津波対策は防波堤の建設などのハード面と、津波の恐ろしさを啓発するなどのソフト面があるが、今回の震災でソフト面の大切さを痛感した」と話している。 〈津波てんでんこ〉 岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん(87)が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったとされる。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責任で守れという教訓として使われている。

 

SOBA追加関連画像:お勧め記録映像
Photo スクロールして見るなら

←釜石東中学校と鵜住居小学校周辺地図。矢印の所が釜石東中正門。道路を挟み東南に広がる鵜住居小。なお、左下に最初の避難場所で危ないと通過した、ございしょの里が見えます(標高約11mなるも津波被災)。鵜住居駅北西「146」表示の左にある建物が下の動画で紹介する防災センター。


Photo_2 スクロールして見るなら

←釜石市立釜石東中学校正門の所、標高約4m(正門前の緯度経度 +39 19 38.687",+141 53 33.968" )


Photo_3 スクロールして見るなら

←鵜住居小学校正門は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 19 38.859",+141 53 32.656" 釜石市鵜住居町第18地割5-1, 0193-28-3705,)グーグルのストリートビューで見ると正門の所が土砂の山になっており校舎が見えないので鵜住居川の向かい側からの画像です。


22a_l スクロールして見るなら

←子どもたちが難を逃れた、釜石山田道路(震災伝承館より


20131015_152303 スクロールして見るなら

←釜石東中と鵜住居小から仲野石材店鵜住居展示場までの避難ルート。


20131015_152734 スクロールして見るなら

←屋内の避難場所を求め、釜石山田道路(縦貫道)を南下し、旧釜石第一中学校体育館にたどり着くまでの避難ルート。なお、仲野石材店鵜住居展示場横の釜石山田道路(縦貫道)から旧釜石第一中学校体育館までは輸送に協力したトラックなどでのピストン輸送。


「三陸の奇跡」と「命の道」~東日本大震災から学びました~
http://www.youtube.com/watch?v=6Gph1MM9lrQ

公開日: 2012/02/29

 念の為mp4 

↑↓両校正門前から標高63mの仲野石材店鵜住居展示場までのルートをたどっている動画です。

津波てんでんこ(釜石市鵜住居)
Pon Boko
http://youtu.be/pbgU9Ad97wU

2011/10/22 にアップロード

1分58秒の所から、ございしょの里。2分58秒から、やまざき 機能訓練デイサービスホーム。3分57秒から、仲野石材店鵜住居展示場(ここの字幕「国道45号まで距離約1560m」と言う表現は拙劣。本来なら「両校正門前から約1560m」とすべき。国道45号は車が走っている目の前の道路です。両校生徒が取りあえずの最終避難先までたどった釜石山田道路は仲野石材店鵜住居展示場の奥、土手を少し上った所の道路。)

 

SOBA:↓下記動画で、鵜住居地区の惨状を見ると、鵜住居小学校と釜石東中学校の生徒が全員助かったのが、どんなに幸運だったか分かります。

釜石市 鵜住居地区の津波被害
yoyoino4141
http://youtu.be/ARv_4a_8FBA

2012/03/14 に公開

 念の為mp4 

関連:〈 「鵜住居防災センター」の悲劇 〉 防災施設への避難で多数の犠牲――調査報告

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

宮城県山元町立中浜小学校は標高2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.440",+140 55 1.760" )で、
北西方向の高台にある避難所の坂元中学校は標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )だったが、そこまで約2km。ラジオで津波到達10分と聞き、児童の足では坂元中まで間に合わないと判断し学校屋上に避難し全員助かった。

頑丈な校舎、児童救う 宮城・中浜小
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110330k0000e040023000c.html
Internet Archive

20110330k0000e040025000p_size5 海岸のすぐそばに建つ中浜小学校=宮城県山元町で2011年3月18日、津久井達撮影 


20110330k0000e040048000p_size5荒れ果てた校舎内でランドセルを拾う岩崎教諭=宮城県山元町で2011年3月18日午後3時49分、津久井達撮影 


 大地震の際、宮城県山元町立中浜小学校の児童らは「徒歩での避難では間に合わない」との井上剛校長(53)の判断で、校舎の屋上に避難した。周囲は家屋が押し流され多数の犠牲者が出たが、児童52人は全員無事だった。井上校長の判断の背景には、津波対策が施された校舎への信頼があった。

 がれきの中にぽつんと残った中浜小は、海岸から200メートルしか離れていない。津波を想定した避難計画では高台にある町立坂元中学校に徒歩で逃げることになっていた。しかし今回、実際に中学に向かった多くの住民が途中で津波にのまれた。

 「予想到達時間10分」の大津波警報を聞いた井上校長は町教委に相談する時間もなかった。「避難しても間に合わない」と判断し、校庭で遊んでいた1、2年生を急いで校舎に呼び戻した。児童や教諭、住民ら計90人で屋上に向かった。

 2階建ての同校は、周囲より約3メートル高く盛られた土地にあり、屋上は海抜10メートル以上になる。校舎は細長く海岸に垂直に建ち、他の学校より多くのドアや窓が設けられているなど、津波の威力を逃がすための構造が施されていた。

 第2波の波しぶきは屋上に達した。続く第3波は更に高かったが、引き波と打ち消し合い、次第に引いていった。子供たちは訓練通りに配布されている防災頭巾をかぶり、泣くこともなく静かに耐えていたという。

 井上校長は「子供たちの命を預かる責任は重い。校舎が頑丈と知っていたから、残す決断ができた。今後の参考になると思う」と語った。

 地震から1週間後、笹森泰弘教頭(50)と岩崎信教諭(50)が校舎を点検した。原形はとどめていたものの、教室の天井ははがれ落ち、図書館の本が校内に散らばっていた。校舎にはランドセルが二つだけ残されていた。岩崎教諭は「閉校になるかもしれないと思うとため息が出るが、何より子供たちが無事でよかった」と話した。2人は「子どもたちが喜ぶと思う」とランドセルを持ち帰った。【津久井達】

英訳

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毎日新聞 2011年3月30日 10時43分(最終更新 3月30日 17時40分)

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←山元町立中浜小学校(A)と、北西方向の高台にある避難所の坂元中学校(高度が上がるようにルートをとった経路をグーグルアースで計測すると約2kmの距離)


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←中浜小学校正門は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.340",+140 55 01.920" )


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←中浜小学校の校舎裏側から海の方向を望む。記事中の「周囲より約3メートル高く盛られた土地にあり」がうかがえる写真です。


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←中浜小学校が避難場所に予定していた山元町立坂元中学校の正門 標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )。中浜小から約2kmの所にあり、間に合わないと判断し行かなかった。


 

Quick-thinking principle saves students from tsunami
http://mdn.mainichi.jp/mdnnews/national/news/20110330p2a00m0na020000c.html
Internet Archive

20110330k0000e040025000p_size5 Nakahama Elementary School stands by the sea in Yamamoto, Miyagi Prefecture, in this March 18 photo. (Mainichi) 



YAMAMOTO, Miyagi -- An elementary school principal's quick thinking saved his students' lives here after March 11's colossal tsunami hit their school building.

Takeshi Inoue, 53, principal of the Nakahama Elementary School, led his students to the roof of the school building shortly after the Great East Japan Earthquake hit the region.

"We won't make it if we walk to a designated evacuation site," Inoue thought, and his swift decision saved the lives of all 52 students at the school, located only 200 meters from the coast. Many houses nearby were swept away by the tsunami, taking the lives of many residents, and the school building is surrounded by rubble.

Inoue had faith in the tsunami-proof schoolhouse, which has many windows and doors that are meant to redirect the power of a tsunami out of the building. Though the students were supposed to be evacuated to Sakamoto Junior High School up on a hill under the town's tsunami evacuation plan, many of the residents who headed to the school on foot were engulfed by the wave.

20110330k0000e040048000p_size5Makoto Iwasaki, a teacher at Nakahama Elementary School, picks up two school bags from the tsunami-ravaged building in Yamamoto, Miyagi Prefecture, on March 18. (Mainichi)


When Inoue heard the alert that a major tsunami would hit the area in just 10 minutes, he had no time to consult with the municipal board of education. He immediately called the first- and second-graders who were playing outside into the school before guiding a total of 90 people -- students, teachers and residents -- onto the top of the two-story school building.

The school stands on a three-meter-high mound, making its rooftop more than 10 meters above sea level. The building's narrowest side faces the coastline, so the structure can avoid being hit by the full brunt of the waves.

After the second surge of the tsunami splashed the rooftop, the third surge -- even higher than the previous two -- had threatened to swamp the rooftop before the waters finally began to pull back.

Students, clad in anti-disaster hoods, remained calm during the ordeal just as they were instructed to during past tsunami drills.

"We have the grave responsibility of protecting the lives of our children. I was able to make the decision to keep them at the school because I knew the building was firm," said Inoue.

A week after the catastrophic quake and tsunami, Vice Principal Yasuhiro Sasamori, 50, and teacher Makoto Iwasaki, 50, inspected the school building. Though the original structure of the building was intact, the ceiling panels in the classrooms had fallen off and the library's books had been scattered everywhere.

"We are sad to think that the school might be closed down, but we're glad our children are all safe," Iwasaki said.

The teachers found two school bags left behind in the ravaged school building and decided to bring them along, saying, "The children would be happy to have their bags back."

Click here for the original Japanese story

(Mainichi Japan) March 30, 2011

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

山元町立山下第二小は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 57 49.984",+140 54 36.125" )で、
避難場所の山元町役場は標高約30m(玄関前の緯度経度 +37 57 44.520",+140 52 40.230" )

山下第二小から南に約5キロの山元町立中浜小は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.440",+140 55 1.760" )で、避難場所は山元町立坂元中学校標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )だったが、距離が約2km※。ラジオで津波到達10分と聞き、児童の足では坂元中まで間に合わないと判断し学校屋上に避難し全員助かった。(※記事中、約1・5キロとあるも高度が上がるようにルートをとって、グーグルアースで計測すると約2kmの距離)

証言3・11:東日本大震災 宮城・山元の2小学校、素早い判断児童救う
毎日新聞 2011年04月26日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c.html
魚拓

20110426dd0phj000008000p_size5 児童を車で避難させた山下第二小学校=宮城県山元町で2011年4月21日、本社ヘリから梅村直承撮影


 ◇「逃げろ」怒声に即決

 福島県境にある宮城県南部の山元町。津波は高さ約6・2メートルの防波堤を越え、美しい砂浜とのどかな田園が広がる町を襲った。いずれも海岸から約300メートルの低地にある町立の山下第二小(児童数202人)と中浜小(59人)は津波で校舎が壊れ、児童は25日からの新学期を別の学校で迎えた。あの日、山下第二小は先生が児童を車に乗せて逃げ、中浜小は全員が2階建て校舎の屋上に駆け上がった。それぞれの学校が誘導した児童は全員無事だった。子どもたちの命を守ったのは、判断の速さと、幸運だった。【遠藤浩二、澤木政輝】

 ◇確認作業打ち切り、車でピストン輸送−−山下第二小

 3月11日午後2時46分。激しい揺れに山下第二小の作間健教頭(55)は校内放送のマイクをつかんだ。「机の下にもぐりなさい」。テレビをつけたが、揺れがひどく見られない。教務主任の太田久二男教諭(52)は職員室を飛び出し、1年生の教室に走った。泣き声が聞こえる。

 揺れが収まり、訓練通り全員が校庭へ出た。巡視係の太田教諭は校舎を一巡し、全員の避難を確認して最後に校舎を出た。その直前、1年生の教室のテレビで大津波警報が出ているのを知った。

 午後3時10分。校庭に保護者が次々に駆け付けた。学校は身元を確認せずに子どもを引き渡せない。氏名や家族構成、連絡先を記載した「非常持ち出し簿」と照合して児童を引き渡した。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c2.html
魚拓
 怒声が響いた。「何やってんだ。早く逃げろ。津波が来るぞ」。走ってきた男性が言った。太田教諭は振り返る。「こんなことやってる場合じゃないと気付いた。もしあの時、あの一声がなければ、逃げ遅れて全滅していたかもしれない」

 瓦ぶきの校舎で屋上避難はできない。渡辺孝男校長(52)は確認作業を打ち切り、即決した。「車を出せる先生は車で子どもを役場へ。他は残った子と歩いて役場へ」。役場は学校から約4キロの小高い場所にある。保護者の迎えがなく残った児童は約70人。太田教諭ら6人が車6台に子どもを乗れるだけ乗せ、残った30人ほどを作間教頭ら5人が連れて役場へ急いだ。

 PTA会長の岩佐政公さん(38)は学校に向かう途中、小走りの作間教頭と子どもたちに会った。「車が足りない。頼みます」。作間教頭の言葉に、自宅にワゴン車を取りに戻り、児童の列に追いつきドアを開けた。その瞬間「どでかい雷がずっと続くような音」を聞いた。津波だ。乗ったばかりの十数人の子どもたちが泣き始めた。

 教員の車6台は、役場と徒歩組の間を往復し、児童をピストン輸送した。学校の北西約500メートルのJR山下駅近くで、車に乗れた3年の渡辺志乃さん(9)は「乗車後、家をのむ青い波が見えた。『先生、早く早く』ってせかした」。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c3.html
魚拓
 JR山下駅付近で徒歩組の最後に車に乗った作間教頭は「駅に津波が来たのはそれから5〜10分後だったと聞いている。全員が歩いていたら、とても間に合わなかった」。

 渡辺校長は一人で学校に残った。その後に来る保護者に児童の避難を伝えるためだ。校門で20人前後に対応し、振り返ると、約300メートル先の防波堤を越える津波が見えた。2階に走った。水は2階に届かなかったが、図書室の本棚から本を出した。「万が一の時はいかだにするつもりだった。でももっと波がきたらアウトだと覚悟していた」。翌朝、渡辺校長は自衛隊のヘリで救出された。

 ◇「低学年の足では間に合わぬ」屋上へ避難−−中浜小

 山下第二小から南に約5キロ。中浜小の井上剛校長(53)は、強い揺れに校長室を飛び出した。職員室のテレビは津波到達予想時刻を10分後と流している。

 中浜小の危機管理マニュアルは津波到達まで20分以上の場合、北西約1・5キロの町立坂元中への避難を定めている。しかし、時間は10分。「低学年の足では間に合わない」。井上校長は校内の全員に校舎の屋上に上がるよう指示した。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c4.html
魚拓
 児童、教職員に近所の人たちも加わり、90人が屋上に。20分、30分……。津波は来ない。井上校長は「学年別に1列に座っていた子どもたちも保護者もおしゃべりしたり、海を見たりしていた。だが誰も『下りよう』とは言わなかった」と振り返る。井上校長は「必ず来る」と思っていた。既に到達した場所があると、テレビが伝えていたからだ。

 笹森泰弘教頭(50)は第1波が浜辺の松をなぎ倒したのを「午後3時40分」と記憶している。「キャー」「お母さん」。悲鳴が上がった。子どもたちと保護者を屋上にある約200平方メートルの屋根裏部屋に入れた。

 第1波は津波対策で高さ約2メートルにしていた校舎の土台がつかる程度。だが約1分後に来た第2波は2階に届いた。5年生の小林裕己さん(11)は「ガシャガシャ、ダーン、とガラスが割れたり机が倒れるものすごい音がした。耳をふさいでいる子も多かった」。

 緊張は極限に達する。沖合に第2波の倍以上ある巨大な波が見えた。「終わりだ」。見張っていた笹森教頭は誰かがつぶやくのを聞いた。「そのまま来たら屋上も丸ごとのまれる」。井上校長は、引き波が第3波を崩すことを祈った。

 次の瞬間、1〜2キロ沖で、第3波は引き波とぶつかり、波が小さくなった。それでも第3波は2階に達し、しぶきは屋上に降った。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c5.html
魚拓
 翌12日朝、自衛隊のヘリに全員が救助された。日下泰憲教諭(37)はヘリから見た風景が忘れられない。「学校以外は何も残っていなかった。よく無事だったなと、今でも思う」(肩書と学年、年齢などは当時)

 

SOBA追加関連画像:中浜小の追加関連画像はこちらで
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←「A」の山元町立山下第二小学校正門は緑矢印の所で、標高約2m(正門の緯度経度 +37 57 49.984",+140 54 36.125" )、西に行った6号線沿いの避難先山元町役場が標高約30m(玄関入口前の緯度経度 +37 57 44.520",+140 52 40.230" )。


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←山元町立山下第二小から避難場所山元町役場への車ピストン輸送ルート(約4.1km)


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←山元町立山下第二小学校の正門あと。標高約2m


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←被災前の山元町立山下第二小学校の正門。

震災前後の画像を比較できるGoogle ストリートビューへのリンク(グーグル「未来へのキオク」)

 

Quick-thinking school staff saved children's lives from March 11 tsunami
http://mdn.mainichi.jp/mdnnews/news/20110506p2a00m0na022000c.html

20110426dd0phj000008000p_size5Yamashita Daini Elementary School, whose students were evacuated by car, is pictured on April 21. (Mainichi)

YAMAMOTO, Miyagi -- In this idyllic Miyagi Prefecture town on the border with Fukushima Prefecture, the decisions and actions of leaders at two coastal elementary schools saved the lives of students and staff from tsunamis that washed over breakwaters following the massive quake that struck northeast Japan on March 11.

When the school began to shake violently at 2:46 p.m. on March 11, the assistant principal at Yamashita Daini Elementary School grabbed a microphone linked to the school's public address system. "Take cover under your desks!" he said, and turned on the television. It shook too much, however, for him to decipher anything on the screen. Another teacher, Kunio Ota, dashed out of the teachers' office toward the first graders' classrooms. He could hear children's cries.

When the shaking stopped, the students and staff all gathered in the schoolyard, just as they'd practiced during their emergency drills. On his final walk-through of the school building to make sure there were no stragglers, Ota learned from a television in one of the first-grade classrooms that a major tsunami warning had been issued.

By 3:10 p.m., parents were arriving at school to collect their children. Since school policy dictates that students cannot be handed over to guardians without identity checks, teachers tediously checked names off a list of family members before handing off students.

It was then that someone bellowed, "What are you doing?! Get out of here! There's going to be a tsunami!" It was a local resident who had come running to the school.

"I realized then that we didn't have time to be doing what we were doing," Ota recalled. "If that man hadn't yelled at us at that moment, we might all have died."

Going up to the roof was not an option, because it was tiled. The principal, Takao Watanabe, quickly decided to start transporting the students to safety.

"Teachers who have cars here, take as many children as you can and drive them to the town office," he said. "Other teachers, take the remaining children with you on foot in the same direction."

The town office was located on a hill, some four kilometers from the school. Around 70 students whose parents had not come for them were left in the care of the school staff. Six teachers took as many children as they could in their cars, and the vice principal and four other staff left the school on foot with the remaining children.

Seiko Iwasa, who chairs the PTA, was heading toward the school when he ran into the vice principal with a group of children rushing for higher ground. At the vice principal's request, Iwasa returned home to get his minivan. When he caught up with the last of the students with his car and opened the sliding door, he heard what sounded like huge thunderclaps that went on forever -- the sound of an approaching tsunami. The dozen or so children who had just climbed into the car began to cry.

The six teachers continued to shuttle back and forth in their cars, carrying students to higher ground. Third grader Shino Watanabe, who was among a group of students picked up by one of the teachers near the train station located about 500 meters northwest of the school, said, "After I got in the car, I saw blue waves swallowing up houses. I told the teacher to hurry."

As it turned out, it had been a particularly close call for the vice principal, who was bringing up the rear with the last group of students. He, too, was picked up near the train station. "I found out afterwards that the tsunami reached the station only five or 10 minutes later," he said. "If we'd all tried to walk to town hall on foot, there's no way we would've made it."

Meanwhile, Watanabe, the principal, had stayed behind at the school by himself to let parents who might come looking for their children know that they had been evacuated. After dealing with 20 or so parents at the school gate, he turned around to see waves surging over the 6.2-meter-high breakwater just 300 meters away. He ran to the second floor of the school and grabbed a book from the library, hoping it would help him stay afloat when the wave hit. Luckily, the water never got to the second floor.

"I was going to use the book as a raft if it ever came to that," he said. "But I knew that if more waves were to come, I stood no chance."

Watanabe was rescued the next morning by a Self-Defense Forces (SDF) helicopter.

Located five kilometers south of Yamashita Daini Elementary School is Nakahama Elementary School. When the temblor hit, principal Takeshi Inoue rushed out of his office. The television in the teachers' office warned that a tsunami was expected to reach nearby shores in 10 minutes.

According to the school's emergency manual, students are to be evacuated to a junior high school located 1.5 kilometers northeast of Nakahama Elementary if tsunamis are not expected to strike for 20 minutes or longer. On March 11, however, they had only half that time. Judging that it would be impossible for the younger students to make it in time, the principal instructed everyone to go up to the school roof.

About 90 people, including students, staff and local residents, filled the roof of the school. Twenty minutes went by with no tsunami, then 30. Looking back, the principal said that as time passed and tensions waned, students and parents who had joined them became chatty or looked out toward the ocean. But, he said, "No one suggested that we go back downstairs." He, for one, was certain that the waves would come, as there had been television reports that tsunamis were already reaching other areas.

The vice principal, Yasuhiro Sasamori, remembers that it was 3:40 p.m. when the first round of tsunamis knocked down the pine trees on the beach. Cries went up from the group on the roof, and students and parents were then led into a 200-square-meter attic space. The first wave barely soaked the foundations of the building, which were raised about two meters from ground level as an anti-tsunami measure. The second surge, however, which arrived a minute later, came up all the way to the second floor.

"I heard terrible sounds of glass breaking and desks flipping over," said Hiroki Kobayashi, a fifth grader at the school. "A lot of kids were covering their ears."

Tension reached its peak as some members of the group caught sight of an enormous wave that was easily twice the size of the last one. Sasamori overheard someone whisper, "This is the end." It was clear that if the wave reached the school without breaking, it would swallow it whole. Inoue prayed that the undertow of the last surge would break the one approaching.

In the next instant, the third tsunami hit the backwash of the preceding one, and the waves shrank. Still, the tsunami reached the second floor and sprayed water onto the roof.

The following morning, everyone on the roof was taken to safety by SDF helicopters. Teacher Yasunori Kusaka said he'd never forget what he saw when he looked down from the helicopter. "There was nothing left, except for our school. Even now, I'm surprised that we made it."

Click here for the original Japanese story

(Mainichi Japan) May 6, 2011

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

岩手県 大槌町の大槌保育園は標高約3m(緯度経度 +39 21 21.080",+141 53 31.840" )

園児をおんぶ「山に逃げろ」 大槌保育園、30人救う(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110403_8
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 女性保育士とスーパーの従業員らは、四つんばいでしかはい上がれない急斜面を園児30人を背負って夢中で駆け上がった—。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた大槌町の大槌保育園。園舎も避難場所も津波に襲われたが、必死の避難で園児を守った。

 八木沢弓美子園長(45)によると、地震発生時は昼寝が終わったばかり。園児約100人はパジャマのまま防災ずきんをかぶり外に。向かったのは国道沿いの小高い丘にあるコンビニ。町の指定避難所は空き地で寒さをしのぐ建物がない。保育園は、津波浸水想定区域のぎりぎり外にあるこのコンビニを独自の避難場所と決めていた。

 八木沢さんはコンビニ店内で、迎えに来た親に園児のうち約70人を引き渡し、外を見た。「家の屋根をたくさん浮かべた高い波」が迫ってきた。「怖い、怖い」と泣きじゃくる園児ら。覚悟を決めた。「山に逃げよう。先生のそばにいれば大丈夫」

 国道は市街地から逃げる人や車で大渋滞。八木沢さんらは、1歳から年長まで残っていた園児30人を散歩用の台車に乗せて車道を駆け上がり約300メートル先の山のふもとへ。近くのスーパー従業員約30人も避難していた。

 さらに津波が迫ってきた。もう考えているひまはなかった。目の前には30度を超えるような急斜面。でも登るしかない。八木沢さんら女性保育士20人と男性保育士1人、さらにスーパー従業員の男女が手分けして園児をおんぶし、斜面に張り付くように四つんばいになって、切り株や木に手をかけて登り始めた。上へ、上へ。

 必死だった。登りながら振り返った。大槌湾から押し寄せる波が、コンビニと園舎、指定避難所の空き地に向かう道路をのみこんでいった。

 山頂は雪。眼下で火事も起きていた。山頂まで何分かかったか覚えていない。20分だったか、30分だったか…。

 気持ちが落ち着いたら、山頂からふもとにつながる細い山道があることに気付いた。歩いてふもとに下りたのは真夜中だった。

 コンビニで親に引き渡した園児のうち9人が、死亡または行方不明になっていた。最後に引き渡した女児は、乗用車の中で防災ずきんをかぶった姿のまま遺体で見つかった。

 「あそこで引き渡さなければ、あの子は助かったんだろうか」。八木沢さんは保育士を辞めようと思い詰めたが、保護者の声に支えられ保育園再開のために汗を流そうと決めた。亡くなった子どもや親の分まで、自分にできることを精いっぱいやるつもりだ。

(2011/04/03)

平成24年度受賞者:社会福祉法人 大槌福祉会 大槌保育園
fescojp
http://youtu.be/aRUHiFQ7Fds

SOBA追加関連画像:
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←岩手県大槌町の大槌保育園周辺地図。南にある山に登ったと思われるも、どのあたりかルートは不明。大槌保育園は標高約3m(緯度経度 +39 21 21.080",+141 53 31.840" )


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

陸前高田市立 気仙小学校は標高約10m(正門前の緯度経度 +39 0 24.630",+141 36 54.700" 岩手県陸前高田市気仙町字愛宕下64 029-2204)

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←陸前高田市立気仙小学校周辺地図。矢印の所が正門。右上に見えるのは気仙川。


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←同じく航空画像で。西南に広がる小山に避難した


津波から命救った教師の機転 陸前高田の気仙小(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110409_15
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 先生に命をもらった—。東日本大震災で被災した陸前高田市の気仙小の全児童92人が、教師たちの機転で津波から逃れた。命を救った瞬時の判断に保護者や児童からは感謝の声が上がっている。

 3月11日午後、激しい揺れが教室を襲った。児童たちは避難訓練通りに机の下に身を隠した後、上履きのまま校庭に整列した。海岸から約2キロ離れ、地域の一時避難所に指定されている気仙小。地域住民も集まり、避難は無事終わったかのようだった。

 教師たちが一安心して児童の点呼などをしている時だった。普段は静かにしていないと聞こえない防災無線から、かすかな音が響いた。「津波が堤防を越えました」。学校は堤防から約500メートルの地点。

 「まずい…。逃げろ」。非常事態を察し、すぐさま学校の裏山に児童を誘導した。山には竹やぶが茂っていたため、比較的体格がいい高学年を先に登らせて低学年のための道をつくらせた。

 何が起きたか分からずに目を赤くして登る児童の後ろから、「振り向くな」「上がれ」と叫び続けた。大谷蓮斗君(当時5年)は「怖かったけど先生が『大丈夫だ』って背中を押してくれた。とても心強かった」と振り返る。

 校庭から12メートルほど高台に移って約1分後、ごう音と共に「茶色の水壁」が姿を現した。3階建ての校舎はのみ込まれ、逃げ遅れた人や家は流された。

 佐々木歩実さん(当時3年)は「上がれと言われ、夢中で逃げた。お母さんに会えて良かった」、母の光代さん(50)は「先生に守ってもらった命。感謝してもしきれない」と頭を下げた。

 教師たちは震災後も数日間、被災した自宅にも戻らず、児童の健康管理や精神状態を考えて避難所で過ごしたという。

 当時6年の担任だった菅野一孝教諭(44)は「とにかく何も考えず行動した。児童が助かって本当によかった」と胸をなで下ろした。

 今春退職した菅野祥一郎前校長(60)は「少しでも声掛けが遅れていたら駄目だった。先生も児童もみんな頑張った」と目を細めた。

(2011/04/09)

 

防災関連エントリー:
3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。

始めに戻る

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ←スマホ等 手回し充電可能タイプの

LEDランタン、お勧めは Colemanのランタン

・火を熾すもの(チャッカマン西洋 火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

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 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

Kato_asbestos1
知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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