2009.07.31
昨今は、不況だからと、長年会社に貢献してきた者でも非情に解雇したり、退職に追い込むようなことも当たり前であるようだ。
プロ野球でも、球団を支えてきた貢献者を、力が無くなると、紙切れ1枚であっさり戦力外通告する。
戦力外通告が悪いというのではなく、球団の貢献者に対する礼の心が無いことが忌々しいのである。
プロレスのジャイアント馬場さんは、選手だけでなく、全日本プロレスの社長で世界的な大プロモーターであった。
馬場さんは、昔はスターレスラーであったが年をとって力の無くなった外国選手でも定期的に来日させ、高いギャランティを支払った。
なぜだったのだろうか?そんなことをするプロモーターは他にいない。
馬場さんが初めてアメリカに行った時は、修行のための渡米であり、今の野球選手のイチローや松井などとは全く違った。飛行機の切符1枚渡されて「行け」とだけ言われただけだった。
二十歳そこそこの、ほとんど金もない若者が、右も左も分らないアメリカでただ一人、不安にならないはずがないし、実際、何をどうして良いのかさっぱり分らなかった。そんな中、ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー、ボボ・ブラジルやその他のレスラー達が世話を焼いてくれた。馬場さんは、その恩を一生忘れず、やがて自分が大スターになっても、控え室では常に小さくなって先輩レスラーを立てていただけでなく、彼らが年をとっても日本で稼がせて恩返しをしたのである。
馬場さんが亡くなった時、「地上最強の鉄人」と言われた史上最高のプロレスラー、ルー・テーズさんは、朝日新聞にこんなコメントを述べた。「プロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」。自分が完敗したせいか、レスラーとしての馬場さんに対しては良いことを言わなかったビル・ロビンソンすら、「馬場さんには、プロモーターとしては本当によくしてくれた」と感謝していた。
※ロビンソンは、アントニオ猪木と61分フルタイム戦って1-1で引き分けた名勝負の半年後、馬場と戦い、初めて2フォール取られる完敗となった。この時は、ロビンソンも「馬場は大きいだけでなく、スピードも十分だった」と認めた。
私が崇敬する、江戸時代の天下一の観相家、水野南北の一番最初の弟子は、八助という元浪人だった。
だが、八助には観相の才能は全く無く、南北の弟子が大変な数となり、優れた弟子も出てくる中で、八助は肩身の狭い思いをするようになった。
その中で、南北は「南北相法の手引き」を発行する際、八助に序文を書かせ、八助の面子を保たせる。
それでも、八助がやっていけなくなった時、八助は、南北に、家財道具一切と若い女中まで付けた店を1件渡される。八助は観相は駄目でも、料理は上手かった上、愚直なほど真面目な男だった。その店で飯屋をやり繁盛した。女中に関して、南北は「好きなようにしろ」と言ったが、当然、女房にしろという意味で、良い娘を探してきたのであろう。南北の意図通り、八助は娘を女房にし、仲睦まじく暮らした。
縁あって、何度もお逢いした政木和三さんは「情けは人のためならず」の意味を、「情けをかけると、結局は自分のためにもなる」と言われていた。見えない世界のつながりを知るなら、それは明らかなことであろう。
ラマナ・マハルシは言った。「他人などいない。全ては自分である。それならば、施しをせずにいられようか?」。
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2009.07.30
たまたまテレビを付けたら、ロック歌手の矢沢永吉さんが話をされていました。
矢沢さんは、酒を飲みに行くとき、イメージに反し、華やかな場所を好まないようです。夫婦でやってる小さな飲み屋が好きで、その夫婦もテレビを勝手に見ていて自分など完全にシカトされている中で飲むのが良いのだそうです。
矢沢さんが、なぜそんなのが好きなのかは分りませんが、非常に親近感を感じました。
私は、お祈りをする時、仏壇や神棚に向かって、ちゃんとした身なりで正座し、きちんと手を合わせて・・・というのが好きでありません。
田舎のおじいさんやおばあさんのイメージですが、好きなように手を合わせて「ありがたや、ありがたや」と言っているようなのが好きで、実際にそんな風にやります。そりゃ、15才の乙女なら、きちんと正座してきれいに手を合わせ、敬虔な表情で祈りを捧げる姿は良いものですが、こちとら、そんなガラではありません。
さすがに、神道の最高神である天照大神の御名を唱える十言の神咒(とことのかじり) をする時は、少なくとも背筋は伸ばしますし、家で、天照大神の御開運をお祈りする時は手を合わせます。しかし、普段の祈りは、「ありがたや、ありがたや」でやりたいと思います。ただし、1日中。
尚、天照大神の御開運を祈るというのは、神道黒住教の開祖、黒住宗忠が始めたことで、多くの神道家と同じく、私も大変に共鳴し、これをやらせていただいております。
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1日中、ことあるごとに、「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」や「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、あるいは、「アーメン」と唱える人が、打ちのめされたり、自殺することはない。
あるいは、1日中、腹に力を込めていたり、常に「ありがたい」と思っている人もそうである。
今年の日本の自殺者は記録的だそうだ。不況の影響も大きいのだと思うが残念だ。
誰でも、心を締める鍵を持っていないといけない。
尚、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏を完全に信頼し、全てをお任せしますという意味だ。
「天照大神」は、神道の太陽神である天照大神の名前そのままの「アマテラスオオミカミ」の十語を唱える「十言神呪(とことのかじり)」という神道の呪文だ。
「アーメン」は「同意」とか「然り」という意味らしいが、神様の御心のままになるようにとの意味と思う。
尚、これらの言葉は声に出さないといけないという人もいるし、それも一理あることとは思うが、私は声に出さない。心で唱える。ラマナ・マハルシは、心で唱える方が良いと言った。
ある男は、別に特定の宗派の仏教徒ではなかったが、それこそ、食事の時の箸の上げ下げをする度にでも念仏を唱えた。彼は、特に何かの才があったわけではなく、育ちも良くはなく、ある時期までは不遇の人生であったが、そんな中でも本人は割合に気楽であった。そして、やがて裕福になり、幸福な生涯を送った。彼には過ぎた欲望がなく、不要なものも求めず、ただ念仏したのである。
打ちのめされたり、自殺する必要など全く無い。心を締める鍵を持ち、気楽にいきたいものである。
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2009.07.29
幸いにして学業がうまくいき、有名中学、高校と進み、さらに、東大など一流大学や大学院まで出る人もいる。
私はそうではないが、そういった人達をいくらか知っている。
そういった人達は、もちろん自分の努力もあるだろうが、実際は、たまたまそんな運命であったことを認識した方が良い。
そして、学校卒業まで、あるいはその少し先の就職まではうまくいっても、その先が悲惨な人が多い・・・いや、ほとんどが悲惨なのだ。
「列子」の中に、1人の男が出世コースに乗って成功の人生を送っていたが、スタートは自分と変わらなかったのに、さっぱりうまくいかない男を見下す話がある。
しかし、彼は師である賢者に、「単に運命でそうなっているのであり、お前の徳ではない。それなのに傲慢になるとは見下げたやつ」と言われ、大いに恥じ入るのであった。
また、見下された方の男も劣等感を消し去った。
世間の評価に関わらず、その後の彼らは幸福であろう。
しかし、賢者の言葉を解しなかったなら、その後の人生は悲惨だったかもしれない。
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2009.07.28
感謝が開運の、ひいては幸福の秘訣だとよく言われます。
私もその通りと思います。
それで、「ありがとうございます」という言葉を呪文のように頻繁に唱える人もいると思います。それを薦める聖人のような人もいると思います。
しかし、「ありがとうございます」を唱える人を見ていると、どこか妙なものを感じることがよくあります。
「ありがとうございます」というのは、言う対象があるように思われます。
その対象は、神仏かもしれませんし、八百万の神々、あるいは、あらゆるものかもしれません。
しかし、そこに何か分離があるのです。
神仏に「ありがとうございます」と言うとき、神仏と自分の間に分離があります。
あるいは、「感謝するのだから、福を下さい」という取り引き、あるいは、命令を感じます。
私なら、「ありがたい」、あるいは、「ありがたや」と言います。
神仏と一体であるはずの、本当の自分に感謝するわけです。
それに、「ありがとうございます」なんて気取り過ぎと私には感じられます。こちとら、ど庶民です。アニメの昔話で、山奥なんかに住むおじいさんやおばあさんが、特に理由もなく「ありがたや、ありがたや」といって手を合わせている姿に親近感を感じるのです。
また、いつ感謝するかですが、1日中でないといけません。いつでも、どこでもということです。
良いことがあった時だけではありません。すべって転んで頭を打ったり、脚を折った時でもです。
「良い方に解釈せよ」という意味ではありません。どんなことでも「本当に」ありがたいのです。
「有難いと思わないといけない」ではありません。「本当に」有難いのです。
普通の人には、そのあたりが全く分かりませんので、常に感謝するわけです。そうすると、やがて分かってきます。
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2009.07.27
社会主義国家の中で、生活が保証されると、働く意欲がなくなり、仕事の効率が悪くなって、結局貧しくなるなんてよく言われる。
そんなことは嘘である。
ほぼ全ての社会主義国家で、人々が意欲を失くし、貧しい状態にある理由は全く別のところにあるのだ。
競争こそ進歩の原動力だというのは、豪華で贅沢な暮らしがしたい者達が人々を馬や牛のように働かせるための騙し言葉だ。
競争や、その根本にある欲望で達成したものには心がなく、それは人々の心を汚していくだけである。
人間にとって、あらゆる生命や自然の幸福に貢献することほど大きな喜びを感じるものはないのだ。
自分だけ贅沢をしたい者達にとって、これは「不都合な真実」であり、人々に決して知られてはいけないことだ。
質素な衣食住を誰もが簡単に得られるようにして、皆がそれに満足し、その上で人々が自分の本当にやりたいことをやれば、世界は正しく進歩し、真に豊かになり、世界は幸福になる。
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たまに土曜や日曜の朝にテレビを付けると、食べ物の話がやたら多い。
美味しい食べ物を実に美味しそうにカメラで映し、美人のアナウンサーがいかにも美味しそうに食べるといったパターンだ。実際に美味しいのだろうが。
私は、本当に空腹な時に食べる、ごく質素な食べ物がどれだけ美味しいか教えたいものだと思う。
それはまさに天国の食事である。
実際、そこは天国になる。
幸福を味わうなんて、実に簡単なことなのだ。
そして、毎日それを味わえるほどに空腹になれば、身体はたちまち健康に強健になる。
大抵の病気は治るだろう。
肥満は解消し、理想のスタイルになる。それはあっという間だ。
そして、食べ物にかかるお金は、本当は少しで良いと分かる。
身体が細く引き締まれば、特別な服がなくても十分に格好良いことも分かる。スリムな身体に優るファッションはない。
後は、衣食住の中の住だけだ。先進国、ことに日本は、住むだけのために恐ろしいまでのお金が必要だが、それは間違いだ。
簡素で良いので、無償の住居を全ての国民のために用意しなければならない。私が政治家になったら、そこを目指すだろう。
それで皆、幸福になれるのである。
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2009.07.26
無駄なことを考えなければ何事もうまくいくというのは、発明家で能力開発指導者の中山正和さんの著書から学んだことだ。
その後、多くの優れた人の著書や私自身の実践を通し、ますますそうであると確信するようになった。
私は、科学研究者で発明家の政木和三さんには、著書と共に、幸いにも直接お話する機会を多く得られた。
結局のところ、政木和三さんも、中山正和さんと同じことを言われていたと思う。
お2人とも、偉大な実績のある天才的な発明家であるところが共通している。
中山正和さんは、脳のイメージ配列が自在な状態、政木和三さんは、脳波がシータ波の状態が、最高の状態であると言った。
これらは共に、宗教的には神と一体である状態であると言えると思う。
さて、面倒なことは言わず、どうやればその、神と一体の状態になれるかである。
中山正和さんは、まず、確かな情報だけ頭に入れろと言った。嘘の情報を入れてはいけないということだ。
しかし、我々の頭の中は嘘の情報だらけだ。学校教育、マスコミの煽動、大企業や国家の洗脳・・・まともな人間を見つけるのが困難な状況だ。
では、どうすれば良いか?
中山正和さんは、般若心経が良いと言った。それの最後の呪文の部分を唱えれば良い。その呪文の全文は、「ガテーガテーパーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スバーハ」だ。三蔵法師も、これを常に唱えていたおかげで、あらゆる困難を乗り越えて中国からインドに渡り、経典を入手し、中国に持ち帰ることができたという伝説がある。
政木和三さんは、自身は腹式呼吸をしたという。しかし、自分の発明したパラメモリーやアルファシータ(後に、林原生物化学研究所がバイオソニックとして製品化)を使えば、すぐにでも脳波はシータ波になると言った。ただし、欲望があっては駄目であり、そこが難しい。逆に、完全に欲望を捨てれば、何も使わなくても脳波はシータ波になる。
今は、パラメモリもアルファシータもバイオソニックも入手困難だ。
では、般若心経の呪文を唱えれば良いが、実際は、南無阿弥陀仏でも何でも良いと思う。意味が分らなければね。
神と一体という状態。それは無の状態と言えると思う。
いろいろな優れた真の指導者が教えたのは、結局のところはこれを実現する方法である。
ただ、指導者達は頭が良過ぎ、なんとも難しい教え方をしたものだと思う。
道元や岡田虎二郎のように「ただ坐れ」とか、法然、親鸞のように「ただ念仏せよ」で十分である。
道元のような超天才で、かつ、学識の塊のような人が、最後には「ただ坐れ」と言ったのは面白いことである。
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2009.07.25
成功する方法というものは無いが、失敗する方法ならあると思う。
そして、大半の人が、失敗する方法を熱心にやり、見事に失敗することに成功しているようだ。
なぜ成功する方法が無いかというと、元々が成功しかないからだ。
成功しないことは難しいだけでなく、本来は不可能なことだ。
失敗する方法とは、一言で言うなら、頭の無駄使いをすることだ。
そして、ほとんどの思考が頭の無駄使いだ。
つまり、何も考えなければ全てうまくいくのである。
「よく考えろ」という言葉は「何も考えるな」というのと同じなのだ。
考えなければ正解が出てくるのである。
ただ、考えないということは、現代人には難しい。
そこで、マシな考え方をする方法を頭の良い人がいろいろ考えたわけだ。その根本は哲学や論理学である。
そして、哲学や論理学の限界を悟るまでに究めた時、やっと真の知恵に向かうわけだ。なんともご苦労なことである。
法然が1日6万回も念仏を唱えたというのは、本当に鬼気迫る、そして納得できる話だ。法然は善意の志のためとはいえ、勉強し過ぎたので、考えるクセを払うために、それだけやらないといけなかったのだ。
そして、それだけやった成果は、実際には、無教養で素直な人が、「天に任せておけば大丈夫」と信じていることと同じなのだ。
岡田虎二郎が、1日中腹に力を入れろと言ったのももっともなことだ。
腹ってのは非常に神経が集中していて、ここに意識をかけておくと、脳はあまり働かない。つまり、下手なことを考えずに済むのだ。
神道黒住教の教祖、黒住宗忠が、盲目の人に言ったそうだ。「ありがたいを1日百回言いなさい」と。それで治らないと、「では千回」。それでもダメだったので、「では1万回」。その人は見えるようになった。これは歴史的事実であるらしいが、そのようなことは、宗忠の周りではザラにあったらしい。
1日中、頭の無駄使いをしないための工夫をすることだ。
そうすれば奇跡も起こるだろう。
天に任せておけば大丈夫だと素直に信じられるなら、そんなことも不要であるのだが。
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2009.07.24
私は、約1年前に、神様の恩寵(恵み)により、段階を追って食を慎むようになった。
まず最初に、お菓子などの間食をやめた。
私は元来、甘いものが大好きで、特にチョコレート、ケーキ、シュークリーム、プリン、アイスクリームといったところには目がなく、ポテトチップスやクッキーも、カロリー高めのこってりしたものが大好きだった。
しかし、これらだけでなく、あらゆるお菓子を、この1年間、正月を除き全く食べていない。一生食べないつもりだ。
その1週間後、昼食を食べるのをやめた。
それまでは、昼食も大食で、ミートスパゲティなら大盛り、トンカツ定食はご飯をお代わりし、ラーメン定食もご飯大盛りの店に行っていた。大盛りカツカレーも大好きだった。
しかし、それらを食べるのもぴたりとやめた。
これらの料理は一生食べないと決め、実際に、もう1年近く、一度も食べていない。
その数日後には、朝食も食べなくなり、2008年8月7日から一日一食となった。同時に、菜食主義になった。
このようなことは、最初に書いたように、神様の恩寵が無いとできるものではない。
つまり、我が力で食を慎んでいるとは言えない。自分の意思の力しか頼れないとしたら、まず不可能であったはずだ。
確かに今は、飽食、美食に耽り、肥満している者があらゆる年代に非常に多い。
しかし、彼らを責める気はない。残念なことに、彼らにそれを避ける方法はない。
食を慎む者は、神の恩寵を得た者である。
単にスリムで美しく、健康的な身体を得るだけのためではない。
水野南北は、食を慎む者は健康や福寿に恵まれると断言するが、必ずしも安楽で試練に遭わないとも言っていない。
適度に食を慎む者は安楽な幸運に恵まれるかもしれない。
しかし、少食、粗食の度合いが大きいほど試練も大きくなる。やはり特別な天命があるのだと思う。
現在、飽食、美食であれば、食を慎むための神の恩寵を願うと良い。
今、適度な少食であるなら、そうであることを神様に感謝し、常に慎みの心を忘れないことだ。
かなりの少食であるが、試練に耐えられないなら、神様にお詫びの上、適度な少食に変え、平和に暮らせば良いと思う。
だが、食の慎みが進み、もはや避けられない運命であれば、天命に備えるしかない。何をすれば良いかは、やがて知らされるはずである。
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2009.07.23
私の経済に対する考え方はいたってシンプルだ。
売る、作る、あるいは、サービスをすることの代償以外のお金は絶対に得ないことだ。
これらの対価以外で得るお金は天からの借金であり、いずれ利息を付けて返すことになることが間違いないことは誰でも分かっていると思う。
言うまでも無く、政治も教育も絶対にサービスである。サービスでないと思ってやっているなら、かならず障害、困難が起きているはずだ。
投資は、あくまで、その事業の発展を本気で願うという理由以外でしてはならない。儲けようという目的だけの投資が集まれば、その事業は必ず駄目になるものだ。
尚、販売、サービス以外の収益には実体がなく、金融で収益を得てもやがて破綻すると言ったのは、フォード自動車創業者のヘンリー・フォードだ。世界は、いつまでたってもフォードから学ばないようだ。
ニューソート(聖書の新思想)の源流である偉大な思想家、科学者、政治家であったエマニュエル・スウェーデンボルグの影響を受けたアメリカの賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンを崇拝し、その名を借りたラルフ・ウォルドー・トラインの偉大な著書“In Tune with the Infinite”(邦題『人生の扉をひらく「万能の鍵」』がある。フォードはこの本を熱心に読み、自分の成功の要因はこの本であったと言っていた。そして、この本を自宅に多数用意し、訪れてくる人達皆にプレゼントしたそうだ。
この本には、徹底した楽天主義が説かれているが、同じくスウェーデンボルグに強い影響を受けたヘレン・ケラーが、学生の時に「楽天主義」という名著を書いていることは感慨深いものである。
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食を慎んだり、陰徳を積むと、すぐにも良いことが起こる人がよくいる。例えば、良い就職ができたり、素晴らしい恋人ができたりである。
そのような人は、人間としては平凡というか、有体に言うなら、小物かもしれない。だが、人間は、当たり前に幸せな人生を送るのが一番かもしれない。
偉大な人間というものは、ほぼ例外なく、大きな試練に見舞われる。志を神に試されているのだと思う。多くの場合、病気になったり、お金で苦しんだり、また、自ら悪に染まり裁かれるということもあるかもしれない。
だが、偉大になった者は、他の者には易行、つまり、容易くできる幸福の道を教える。
ちょっとした苦難でアタフタする者は偉大なリーダーには向かないようである。
そして、困難や不幸に見えることを有難く感じることができる者であれば、幸福は約束されたようなものと思う。あるいは、何か人がやらない徳行を長く続けた人もそうなると思う。例えば、公園の掃除を無償で何十年もやったとかである。
特に何も良いことはしなかったが、苦労もない一生であったという者は、そのような者と思う。
もし、偉大なリーダーや、人々に大きな影響を与える芸術家を目指すなら、大いなる試練を覚悟しなければならないだろう。
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2009.07.22
皆既日食で、あらゆるメディアは大騒ぎだったが、誰か、地球から見た太陽と月の大きさが同じであることの驚異に気付いたろうか?
こんな大事な話をまるで見ないし聞かない。
私は、涼宮ハルヒの聖地、阪急西宮北口駅の北側の駅前公園で日食を見ようと思ったが、なんと工事中だった。基礎工事だけで8月半ばまで。本格工事はそれからだそうだ。
作者は言ってないと思うが、「ハルヒ」は、神道的には、「張(は)る霊(ひ)」で、「張る」は生命力の膨張を示す「春」だ。
もしかしたら、ハルヒは天照大神の化身かもしれない。長く中断している小説の今後が、そんな話にならないだろうかと思う。
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インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある女が尋ねた。「私は教養がなく、聖典を読んだこともない。こんな私でも真我を実現(悟りを開くのと同じ意味と言って良いと思う)できますか?」
マハルシは「当然できる」と答えた。そして、そのための最もシンプルな方法を教えた。「自分に対し、私、私・・・と心の中で言い続ければ良い。そうすれば真我を実現できる」。
「私」は、あらゆる想念の源である。いかなる想念にも、まず、「私」という想念が先立つ。どんな想念も「私」に起こるからだ。
その「私」に意識を集中すれば、どんな想念も起こらず、やがては、「私」という想念も破壊される。それが自我の終焉であり、真我の実現である。
だが、マハルシは、もう1つの易しい方法として、「明け渡し」を教えている。これは、一切を神に任せ、神を信じ切るということだ。任せたからには、何が起ころうと不満を言うことは赦されない。
私の知る限り、明け渡しの方法を選択した人の方がうまくいっているように思う。
明け渡しは、絶対他力である。自分の力は無力として放棄している。これは、運命論に近いか同じと思う。
仏教学者のひろさちやさんは、子供の頃、毎日、祖母に仏前(神前だったかもしれない)にお祈りをさせられたが、お祈りの内容を報告させられた。お祈りの内容が「ありがとうございます」以外であれば、やり直しを命じられた。
私は、なんと素晴らしい教育であることかと感動した。
春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんも、神様へのお祈りは、ただ感謝するのみと著書に書かれていた。そして、取り越し苦労や持ち越し苦労(後悔)は、神様への侮辱であると言う。神様が良くしてくれないはずがないからだ。
ただ、見返りを求めての感謝では全く意味がないはずだ。下心があれば、いかに形ばかりの感謝を示しても神様にバレないはずがない。まあ、それでも大目に見てもらえているのだとは思う。だから、政木和三さんは、「欲望を捨てれば不可能はない」と言ったのだと思う。
しかし、考えてみれば、それを宗教、あるいは、宗教的と言おうが、あるいは、古代の英知、真の知恵、至高の哲学と呼ぶかは人それぞれであろうが、およそ本物の教えで他力でないものはないと思う。
最も徹底した他力であるのは、親鸞の弟子の唯円が書いたと言われる「歎異抄」と思う。ここでは徹底して自力が排除される。
無為を徹底して説く老子、荘子もそうであるし、「天の父はお前達に必要なものなどとっくにご存知で、それは必ず与えられる」と言ったイエスの教えもそうであるはずだ。
だが、ニサルダガッタ・マハラジが言ったように、「不要なものを求めなければ必要なものが与えられる」のであることを忘れない方が良い。
そして、不要なものを求めて、それが得られたとしたら、それは単に人生における借金のようなものと思う。
どこかの国で、ある富裕な人たちの社交界に入る条件は「働かずに2億円以上の年収があること」だそうだが、昨今、「働かずに高収入」といった不労所得が人気である。これらは宇宙スケールの借金であり、その結末は、我々の知る普通の借金と変わらず、ただ、前世、来世も含めた壮大なものなので、見え難いだけのことかもしれない。恐ろしいものである。
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2009.07.21
明治、大正の偉大な思想家、岡田虎二郎が、「聖書よりイソップに良いことが書いてある」と言ったことがあるらしい。
イソップ寓話は、「アリとキリギリス」「ウサギとカメ」「犬と肉」など、動物が登場するものが多く、シンプルながら深い教訓を秘めていることで知られる。
イソップ寓話は、紀元前6世紀にギリシアの奴隷だったイソップ(アイソーボス)によって作られたと言われるが、奴隷が作った御伽噺(本来は日本の童話という意味だが、現在は童話一般を指す)のような寓話であったため、学者が余計な改変をすることもなく、素晴らしいまま残ったのだと思う。
尚、イソップ寓話は、全てイソップの創作ではなく、民話や伝説も含まれているようである。
一方、聖書は、政治的、宗教的権威に結びついてしまったので、歪められた部分もあるかもしれない。
また、別の言語に翻訳する際の齟齬が無かったとは言えない。
イエスが比喩を使って教えを説いたことは知られているが、あくまでイエスは、庶民に分りやすいようにと比喩を使ったのであり、学者がその意味を解釈しないと分らないようなことを言ったのではない。ただ、これも、あくまで当時の庶民に分かりやすく説いたがゆえに、その当時の風俗や習慣に配慮して読まなければならないところもあるかもしれない。例えば、著名なSF作家であるアイザック・アシモフが指摘したように、イエスは奴隷制を批判していない。当時は、奴隷の存在はあまりに自然なことであったらしい。
イソップは、決して子供を対象にしているわけではないのだが、子供でも分かりやすいシンプルさのために、真意が伝わりやすい。ただ、子供が読めるお話の宿命として、あまりに悲劇的、あるいは、残酷な結末のお話をハッピーエンドに書き直されてしまうことはあったようだ。例えば、「アリとキリギリス」の結末に様々なバージョンが作られ、アリがキリギリスを暖かく迎え入れるというものまで存在するが、それはやや困ったものだと思う。一方、生物学的な真理として、アリがキリギリスを捕えて食べてしまったというのが本来の話であるが、残酷過ぎるので改変されたという説もある。
ただ、旧約聖書はやはり貴いものであると思う。日本の古事記同様、古代の賢者が知恵を封じ込めたものであり、神話の形で書かれたものは、元のまま残る。そして、その真の意味は、世俗の考え方では理解できないが、無心にただ読めば自ずと分るようなものである。
また、新訳聖書についても、実際に読んだ感じでは、特定の教団の教えに特化した場合は知らぬが、翻訳者は原文をはじめ、各種の異本を調査したり、イエスの言葉の真意を熟考し、霊感を得て解釈したのであり、素晴らしいものも多いのではないかと思う。
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2009.07.20
生産本能を持たない人間がいる。
そんな人間は、働くことが出来ない。
全くできない訳ではないが、働くことに喜びややりがいを全く感じない。
普通の人には、そんな人間がいることは想像できないかもしれないが本当である。
よって、そんな人が働いても、仕事は非常に辛いものになる。
引きこもりが全てそのような人間でないのかもしれないが、引きこもりのかなり多くはそうだろうと思う。
なぜそのようなことになるかであるが、吉本隆明さん(思想家、詩人)の説では先天的なものであり、母親の胎内にいた時の母親の精神状態の影響が大きい。戸塚宏さん(戸塚ヨットスクール校長)の説では後天的なもの、即ち、幼児期の家庭環境、家庭教育が原因である。
いずれの場合もあるのかもしれないが、私は、戸塚さんの考えの方が正しいと思うし、私の場合も確かにこちらだ。
しかし、いかに働くことが苦しくても、働かないと生活していけないのが世の中だ。
私もいろいろな仕事をしたし、傍目には大変に精力的なサラリーマンに見えたかもしれず、休日や深夜に自主的に働くなどの経験もザラだが、仕事が楽しいとか面白いと思ったことはただの一度もないことに気付く。
しかし、それでも言っておく。
誰でも絶対に働かないといけないし、スタートするのは若ければ若いほど楽だ。「良い」ではなく「楽」なのだ。
若い時の方が絶対に苦しさは少ないというだけの意味だが、それはあまりに確かだ。逆に、年をとればとるほど、スタートの辛さはひどく大きなものになる。どんなに遅くとも26歳までには働き始めた方が良い。
そして、働いてさえいれば、神の助けだってあるし、奇跡だって起きるかもしれない。
なぜなら、引きこもりや生産本能のない人間になったのだって偶然ではない。絶対に必然である。ならば、その意味に見合った運命は必ず用意されている。
いかなる宗教も神秘思想も安心を説く。神と言うか、仏と言うか、あるいは、宇宙のエネルギー、タオ・・・何と言うかは様々であるが、何かを信じ、それに任せ切れば不幸にはならない。これを他力という。
一時的には不幸や災難と思えることも起こるかもしれない。しかし、後になれば、それが恵みであったことも分かると思う。
これらについて知りたければ。「荘子」を読むと良い。
仏教なら、親鸞の弟子と言われる唯円の書いた「歎異抄」が分かりやすい。
「ラマナ・マハルシの教え」(ナチュラルスピリット)の「第7章 明け渡し」にも非常に分かりやすく書かれている。
神道では、黒住教の始祖、黒住宗忠の教えを説いた「いのちの教え」(山田敏雄著)が、ラマナ・マハルシの教えとほぼ同じと思うが、より丁寧に、しかも、日本人に馴染みやすく書かれているので有難い。個人的には、これを強くお薦めする次第である。
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2009.07.19
本日も、日中に3時間、外を歩き回った。今日は、少しは空が曇ることもあったが、照るときには容赦なく日射が降り注いだ。
十数キロ、ただ黙々と歩いた。
もちろん、いつも通り、朝食も昼食もとらず、家に戻るまで水分の補給もしなかった。
だが、本日から帽子を被ることにした。市松柄のリボンの入った中折れハットで、色はカーキだ。
黒の細身のジーンズに、黒のスニーカー。真っ白のポロシャツ姿で、とにかく、ただ歩いた。
車道脇の歩道を歩いていても、横から度々車が出てくる。いつでもダッシュできる私でも少し恐いのは、自分もよく運転していたせいもあるが、やはり危険だ。
歩行者優先なんてのはもはや死語で、あらゆる道が車優先のように感じる。
普通の道でも、できるだけ脇に寄って歩いていても、身体のスレスレのところを、決して遅くないスピードで通り過ぎる自動車が多い。「お前なんか、死んでも怪我しても別に構わない」という露骨な意志表示のようだ。
午後1時過ぎにいったん家に戻る。クーラーなど付けない。
水を少し飲んだが、食事はとらない。
汗もほとんどかいていなかったので、そのままの姿で本を読んでいたが、1週間の疲れが残っているのか、いつのまにかうたた寝してしまった。
2時半頃、目が覚めると、少しだるい。
家では、この数週間、昼にコーヒーは飲まなかったが、本日は1杯飲んだ。
さらに本を読む。「大祓詞」を2本上げる。
そして、午後4時頃、再び散歩に出る。他にやることがないのかと言われれば、正直、無い。
今度はブルーのジーンズに真っ白なTシャツと帽子。
近所の神社にお参りし、神社の境内を散策して浄化される。
その後、大きな池の回りを黙々と3周歩く。1時間近くかかる。夕陽とはいえ、かなり強い日差しで、やや汗をかく。
歩いている間、ジャパを行う。これは、崇拝する神の名を心の中で繰り返すことで、ラマナ・マハルシによると、マントラ(真言、呪文)よりはるかに効果が高いとしている。
もちろん、仏教徒であれば、南無阿弥陀仏といった念仏でも良いと思う。
神社から始まり、池、水鳥、亀、カラス、ハト、そして、自然林・・・本当に良い散歩コースだ。
昨日は、やはりここを散歩していたら、実に久々に会う人がいた。私には向こうが分からなかったが、向こうは後姿で私が分かったという。もう60歳も過ぎた、以前、近所に住んでいた男性だ。
結婚しろと言われる。
私の歩き方は独特であるらしい。今日、近所の奥さんに聞いたら、それは本当だと言う。胸を張り、威風堂々と歩いているらしい。う~ん、もっと控え目にしようか・・・
帰宅して、海草と菜食の食事をする。
この後、更に読書と、最近熱心に取り組んでいる、スクワットとプッシュアップをやる予定。
午前0時に、ワインを少し飲んで就寝する予定。明日も休みで、午前中の天気は悪いかもしれないが、午後は問題なさそうなので、また歩こう。
これがお決まりの、私の地味な休日の過ごし方だ。
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我々は、やってしまったことを後で後悔し、ひどく心を痛めることがある。
1591年、伊達政宗は佐沼城を攻め落とすと、城にこもっていた武士はもちろん、百姓、女、子供にいたるまで、1万人を全てなで斬りにするよう命じ、その通りとなった。
一説では、政宗はその後、狂乱するほどに悩んだとされる。
信長や秀吉らも、武士ではない僧侶などまで皆殺しにした話はよくある。彼らとて人の子。平気であったわけでもないと思う。
南インドの聖者、ラマナ・マハルシに、ある男が言った。隣の家の若い娘が魅力的で、いつも淫らなことを想像する。それを実際にやってしまわないとは限らない。どうすれば良いかと。
マハルシは答えた。誘惑されているのは身体であって、お前は純粋である。仮に姦淫をしたとしても忘れよ。
ヒンズー教の聖典「バガバッド・ギーター」に書かれている。戦で人を殺さねばならないとしても悩んではならない。お前が殺すのではない。彼らは神によって殺されていたのだ。
全ては運命である。
起こるよう定められていることは避けられない。起こるよう定められていないことは、どうやっても起こらない。
だが、自己を行為者と同一化してはならない。あなたはただ、運命の目撃者に過ぎない。
あなたにできるただ1つのことは、純粋な自己として、ただ存在することだけである。
荘子は、全てをなりゆきにまかせ、一切の思慮分別をしてはならぬと言った。
全てを虚心に受け入れる者には、鬼神も従うであろうと。
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2009.07.18
少食、粗食を実践することの恩恵は計り知れない。
世間一般、あるいは、医学的、栄養学的に必要と言われているよりはるかに少ない量の食事をしても、不足や不健康の原因ではないばかりか、非常に健康になり、通常は痩せて美しい身体になる。
大抵の病気は少食にすれば治ると思うし、難病も少食で治った例が数多くある。
また、精神への優れた影響も疑いない。少食、粗食でありながら、ひどく野蛮、粗雑、幼稚な精神性の人間を想像することも出来ない。
私の場合、昨年(2008年)8月7日から、1日1食の菜食とし、間食もやめた。現在の1日1度の食事である夕食は、米1合と豆腐、根菜、野菜、豆類で、たまに魚や卵を食べるが肉類は一切食べない。以前は、肉食中心の大食で、甘いものも大好きで大いに食べていた。
体重は94kgから現在61kgまで減った(身長約180cm)。
以前は、狭心症とメニエール病の発作や症状に襲われることが時々あったが、それが全く無くなった。
1日1食を開始してから3ヵ月後の健康診断では、毎年、肝機能異常を始め、多くの項目で警告があったが、全て最高評価の完全な健康体となった。
上記のような、表に表れたことだけでなく、空腹という不快感を耐えることで脳幹が鍛えられ、本能の力が強くなると思う。
最近では、冷暖房を使わずに暑さ寒さに耐え、休日は日中に何時間も歩くが、これができるようになったのも確実に少食のおかげと思う。これらにより脳幹がさらに鍛えられ、肉体面はもちろん、精神面での強靭さが確実に向上したと思う。
現在、こちらでは気温35度近い猛暑の日が多いが、長袖で何キロ歩いても、うっすら汗が浮かぶ程度だ。以前は大変な汗かきであったことが夢のようである。
そして、江戸時代の偉大な観相(顔や身体の相で鑑定する運命学)家、水野南北が生涯をかけた探求により、人の運命はただ食で決まることが明言されている。驚くべき的中率で水野南北の名を天下に知らしめた南北相法で貧窮短命と鑑定される相であっても、食を慎む者は、必ず、あらゆることに恵まれ、健康に長寿を得た。南北自身が、最悪と言えるほどの悪相であり、若い時は半端もののチンピラで、牢屋敷に入ることになってしまったほどだが、後の相法の師、水野海常と出会い、厳しく食を節することで、運勢は向上。南北相法により、天皇から貴族(位は従五位)に叙せられるまでになり、孫弟子などを含めると千人の弟子があった。有力な後援者も多く、大変な財産を持つ長者となり、当時異例の78歳まで幸せに生きた。
悪妻ばかりであったらしいが、18人の妻は全て正妻として迎え、不出来の弟子も見捨てず面倒を見る情の人でもあった。
現在はまだ少数派と思うが、医者の中にも超少食が健康によく、病気治療に効果があることを認める者も出てきた。
やがて、朝からしっかり食べろとか、病気中に沢山食べて栄養を付けるなどの指導を行う医者は時代遅れのヤブ医者と言われることになるだろう。
少食、粗食によってもたらされる恩恵は、それを隠したい者も多いのだが、実際は驚くべきものであることは間違いが無い。
しかし、少食の実践は非常に難しい。
最近、私が感じているのは、意思の力で少食を実践するのは、おそらく不可能だということだ。
私も、意志の力で少食、粗食を実践できたわけではなく、おそらく、たまたまだ。
中国の道教の古典とされる「列子」にこんな話がある。
2人の男があり、同じ位の年齢で、同じような境遇からスタートしたが、片方は出世しお金持ちになるが、もう一方は落ちぶれ貧乏だった。
出世した方はもう一方を見下し、貧乏な方は引け目を感じていた。
しかし、2人の先生が、出世を果たした方に言う。「お前が出世したのは、ただ運命であり、お前に徳があったわけではない。それを自分の徳のように勘違いして尊大になるとは愚かなことだ」。
出世した方は恥じ入り、貧乏な方は自分を卑下することをやめた。
自分に食の慎みが出来たからといって、飽食、美食の者に無理に少食、粗食を薦めても仕方がないかもしれない。
飽食、美食の者には、多くの困難があるのも確かである。健康を損ない、心は休まらず、不幸は多いだろう。努力しても報われず、金に窮し、恋愛も成就しないに違いない。だが、それが彼らの運命なのである。それは、どうにもならないことである。
少食、粗食になれば、幸運も得られよう。しかし、そのような運命になっていなければ、自分の意思で思うがままにできることではない。
「美味しいものを沢山食べずに、何のための人生だ」と言う者を、説得して食の慎みを持たせることが、どうやって出来るであろうか?そんなことは不可能である。
人の運命に介入することはできないのだ。
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2009.07.17
社会で生きていくための基本的能力を持たない者がいる。
子供の頃から集団生活に馴染めず、友達が少なく、一人でいることが多かったという人は間違いなくそうであると思う。
引きこもりは、皆そうであると思う。
それが良いか悪いかといった話はもう飽きた。
問題は、そんな人が今後、どうやって生きていくかだ。
まず第一に、脳幹を鍛え、本能の力をつけることで、人間として強くならないといけない。
そのためには、不快な状況に身を置いて耐える訓練が必要だ。
具体的には、エアコンを使わずに、暑さ寒さに耐え、車を使わずに長時間歩くことだ。1日20km以上は歩くのが良い。
食を慎み、少食、粗食とし、おやつは絶対に食べてはいけない。
これを1年もやれば、かなり本能の力が付き、生命力もあがっていると思う。
問題はその次で、強い自我を作ることだ。
強い自我を、わがままな性格と勘違いしてはいけない。幼児のようにわがままな人間は自我が弱いのだ。
しかし、自然な形で強い自我を作ることは、成長してからでは不可能で、おそらく、中学生にもなってしまっていればどうにもならない。
残る方法は、借り物の自我を作ることくらいである。
しかし、自我を借りる対象がとんでもないものだと大変だ。高尚な哲学では実社会で生きていけない場合が多いが、英雄として知られていても、独断的な人物の自我を真似た場合、犯罪者や狂人になりかねない。
イエスや釈迦を表面上真似ただけなら、ただの変な人、あるいは、危ない人だ。
英雄や聖者といった特別な人間には、表には顕れないが、普通の人にはないものがあるのだ。
私の場合、身近にいた超有能な人物の自我を吸収した。これは無意識的に、しかし、熱意を持って行った。
具体的には、セールスマンをやった時は、スーパーセールスマンだった営業所長の言動に注意を注ぎ、その自我をコピーした。
ある時、その営業所長をよく知る、他の営業所のマネージャが私を見て、その営業所長とそっくりのタイプと言ったことがある。外見が似ているわけではなかったので、自我のコピーがかなり成功していたのだろう。
営業所長は、私を非常に可愛がり、世話を焼いてくれた。
確かに、私のセールスの能力は高くなったが、営業所長との違いは、本能の力である。私はまだまだ脳幹が鍛えられていなかった。
私が、伝記や自伝を乱読したのは、やはり、有名な人物の自我をコピーしようとする無意識の行動だったかもしれない。そのため、色々なタイプの自我が混在することとなったかもしれない。
また、映画やテレビドラマのカッコいい登場人物達の雰囲気もかなり取り入れた。ただ、モノマネを行ったのではなく、彼らのバックグラウンドを深く想像して、自分の中で再構築したのだが、いずれにしても表面的なものなので、いかにも人工的だったはずだ。
結局、自我の構築は、現在でもまだ成功していないし、一生、達成できないと思う。ある時期からは、特定の個人の自我ではなく、理想的な自我を自分で考えて、その通りに構築しようとした。しかし、それはやはり、本来は不自然なことで、それこそ、フロイトの言う幻想の自我であるのだろう。
しかし、辛いながら働けている。
最近は、脳幹をかなり鍛えるようになり、生命力がついてきた。確かに、会社がいくらか楽に感じるようになった。
参考になればと思う。
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2009.07.16
初代横綱若乃花の二子山勝治さんの有名な言葉に「人間、辛抱だ」というのがありますが、これは単なる根性論ではなく、論理的な至上の言葉であり、現代の引きこもりやニート対策に実に有効なものであるとの認識を持つべきです。
私は、子供の時、何かの雑誌で、この「人間、辛抱だ」という言葉を見て、印象強く憶えていました。しかし、うかつにも、あまり重視しなかったことで、なかなか成功しませんでした。
最近、この言葉の偉大さを心から認識し、震えるほどに感動しております。
なぜ引きこもりになるかですが、詩人、思想家の吉本隆明(よしもとたかあき、あるいは、よしもとりゅうめい)さんは、子供が母親の胎内に居る時に、母親が精神的に欝状態にあったことの影響が大きく、生まれつきの傾向ではないかと言います。
また、引きこもりは、自己を深く見つめることにもつながり、必ずしも悪いものではないと言います。
これらのことに私も賛成ではありますが、だからといって、ニートになってしまってはいけません。引きこもりの長所は生かしつつも、やりたいことが出来るようにならないといけません。
私自身もそうですが、引きこもりの人を見ていて気付くのは、生命力の弱さです。それは、動物的な本能の力の欠如と思います。
私が、日本最高の教育者と思う、戸塚ヨットスクールの戸塚宏さんは、現代の若者は、脳幹が鍛えられていないので、本能の力が弱いと言われていますが、まさに、これこそが、引きこもりをはじめ、現代日本の子供や若者の大きな問題であると確信しました。
そう確信した背景には、私が長い間、中山正和さんのHBC(ヒューマンブレインコンピュータ)モデルや、苫米地英人さんのホメオスタシスの活用理論に興味を持っていたことがあります。
彼らの理論で、人がより良く生きるためには、是が非でも脳幹の力を高める必要があると思うようになりました。
中山正和さんのHBC理論を考えれば、潜在意識の法則で願望を達成するにも、脳幹の力が必要であることがよく分ります。苫米地英人さんは、ホメオスタシスの力は凄いので、それにまかせることができれば、願望を達成する巨大な力になると言いますが、ホメオスタシスが強力であるためには、脳幹が強くないといけないはずです(そのあたりは、苫米地さんは特に書いてはいませんが)。
そうなれば、問題解決のためには脳幹を鍛えれば良いのであり、どうやれば脳幹を鍛えられるかを知り、実践するのみということになるはずです。
まず、なぜ今の子供や若者は脳幹が弱いかを述べます。
生まれた時から家に車があって、外出にはいつも車で出かける子が実に多いです。食べることに関しては、ひもじい思いをするどころか、美味しい食べ物をいつもふんだんに与えられています。
また、家にもどこにもエアコンが設置され年中快適です。
そして、子供の権利が過剰に保護され、痛い思いや恐い思いをすることがありません。
そして、これらのことは、脳幹を全く鍛えることのない状況なのです。
脳幹はどうすれば鍛えられるのでしょうか?
1つは、戸塚宏さんもよく言われているように、生命の危険を感じることです。人間の脳の中にある、ほとんど唯一の司令は「生きる」ことです。よって、その司令を阻害される状況には強い衝動を感じ、脳幹に刺激を与えます。脳幹は生命の危険を回避するために、脳や身体を活性化します。
もう1つは、我慢することです。二子山勝治さんは、我慢することが人間の本質的な能力(その大きなものが本能です)を向上させることに気付いていたのでしょう。それで、「人間、辛抱だ」と弟子に言ったに違いありません。
我慢というのは、不快感に耐えることです。
中山正和さんは、その状態を「生命のピンチ」と表現しました。脳の中には、理想の状態というものが設定されているのですが、そのズレが不快として感じられるのです。なぜ不快かというと、生命維持のために最適でないからです。これにより、生命の危機を感じて脳幹が刺激され、脳幹は不快を解消し、生命維持に最適な状態になるような意思と力を発動させます。
また、脳には神秘な力もあり、外界すら変化させる可能性があることを、中山正和さんは指摘しています。それは潜在意識の法則として知られているものの根本原理と思います。理想の状態を強く思い描くことにより、その理想状態になるようホメオスタシスが働くのです。これは、苫米地英人さんの理論と同じものだと思います。
よって、我慢することなく、いつも快適な状態が与えれると、脳幹が刺激されないのです。
強い不快状態は生命の危機と同じです。では、より大きな我慢を必要とする状況に置くことで脳幹が鍛えられます。
暑い時には暑さを、寒い時には寒さを味わうべきです。
電車の中でも、今の若者は我慢することなく、席を奪うように座りたがります。これでは絶対に脳幹が鍛えられません。
そして、空腹に耐えることが何よりも脳幹を鍛えます。人間にとって、食べることこそ最大の欲望だからです。
これに関しても、特に若者がそうですが、年配者でも、駅の構内や電車の中など、いつでもどこでも口をモグモグさせて何かを食べているのを見かけますが、彼らは脳幹が弱い、何もできない哀れな弱者であると言わざるを得ません。
ちょっと下品ですが、マスターベーションをすぐにする者も脳幹を鍛えていません。強い性欲は、個人および種族の維持に必要で、禁欲により強くなった性欲は脳幹を刺激し、体力や若さ、魅力を向上させ、理想の相手をたやすく獲得できるようにするでしょう。
ところが、食を厳しく慎むと、簡単に禁欲できるようになります。1つには、我慢の力が付くからですし、さらに、それで強くなった脳幹は、本能の力をみだりに低下させる行いを抑制します。
水野南北が、「食が全て」と言ったのは全く正しいのです。
気を抜くと生命の危機に繋がる状況に身を置くことは良いことです。たとえば、厳しい自然環境に身を置くことです。
本来、若者とは危険を好むものです。脳幹を鍛えたいという自然の衝動があるからでしょう。
もっとも、車やバイクをぶっ飛ばすというのは、ある意味、若者らしくて良い部分も無い訳ではありませんが、慣れてしまえばさして恐くはないですし(実は、私にも経験があります)、車やバイクの本当の恐さを知るのは、取り返しの付かないような事故を起こした時ですので、どう考えても、ロクなことではありません。言ってみれば、ほとんどの場合、テレビゲームのレースみたいなものです。
本当に車やバイクで恐さを味わいたいなら、本格的なレースをやるしかありません。
幼い頃から快適な状態ばかりの中に居る今の若者は脳幹が弱く、危険を伴う冒険を避けます。
文明というものの大きな弊害がこれでしょう。
それならば、是非、我慢しなければならない状態に身を置く必要があります。
冷暖房を使わず、車に乗らずに歩き、欲しいものを我慢し、マスターベーションをせず、そして、何よりも空腹に耐えることです。
これらにより、引きこもりの弱点を克服し、ニートを確実に脱出できます。
それができないのは、上にあげたようなことをやらないので、脳幹が弱いままなのです。
二子山勝治さんの「人間、辛抱だ」を忘れず、それを実践すれば、必ずうまくいきます。
「ローム太霊講和集」にも、「神は自らに課した制限に応じて人に力を与える」と書かれていますが、これは理論的にも確かであるようです。この本には、他にも、「苦に苦をもとめよ」と教え、やせ我慢を薦めていますが、これらは脳幹を鍛える方法を示す素晴らしい言葉であると思います。これらの言葉を時代遅れだとか格好悪いと感じる者は、脳幹が鍛えられていない、弱い人間であることは間違いないと私は思います。
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高藤聡一郎さんは、仙道の世界では知られた人だ。
かつて、比較的若年層向けと思える仙道の本を多く書かれていて、現在もいくつかは出版され続けている。
自らも仙人のような存在であると著書の中で述べられていたように思うが、単なる学問的な研究者ではなく、超実践派である。
仙道に強い興味を持つ私は、彼の本を何冊か読んでいるが、どれも非常に面白い。その中で、どの本だったかは忘れたが、頭の中でのおしゃべりをやめれば精神の力が飛躍的に向上するといったことを書かれていたと思う。
そして、最近読んだ、メキシコのナワール(シャーマン)である、ドン・ミゲル・ルイスの「パラダイス・リゲイン」という本でも、我々の不幸の根源が、頭の中の会話であると書かれていたが、彼の説明は驚くほど納得できた。
頭の中の会話を止めれば、我々は驚くべき力を得ることができる。その方法は、ドン・ミゲル・ルイスの世界的ベストセラー「4つの約束」に書かれているが、多少の訓練は必要である。
心の中の会話を止めるには、一時的なものであれば、しばらく何も考えないとか、心を別のものに集中させれば良い。
つまり、マントラを唱えたり、呼吸制御に集中している間は心は静かである。しかし、それが終ると心が再び立ち現れ、その心は迷い、悩んで動き回る。
行というのは、1日中、どんな時でも行うのが良い。
ラマナ・マハリシは、「私は誰か?」と問い続けることを教え、ニサルダガッタ・マハラジは、存在の感覚に常にしがみつくよう教えた。
般若心経や大祓詞を1日中上げることは難しいが、般若心経の最後の呪文や、神道の短い祝詞であれば可能かもしれない。
法然上人は、1日中、念仏を唱えていたし、岡田虎二郎は1日中、腹に力を入れるよう教えている。岡田虎二郎は、「岡田式静坐法」を考案し、普及させ、その中で、人の根源の力である腹の力をつけさせようとした。もちろん、本当に座る静坐は、1日1~2回で、1回30分ほどになると思うが、虎二郎は、「法然は、生活しながら念仏したのではない。念仏しながら生活したのだ。生活しながら静坐しているのでは駄目で、静坐しながら生活するようでなければならない」と説いた。
行とは、1日中行うものであるのだ。
これらの霊的な行は、心に火をつけて燃やし尽くしてしまうようなものである。
ただ、そのためには、心が成熟している必要がある。
いったんは強い個性を育て上げ、堅く乾燥した木のように燃えやすくしておかないといけない。
そのためには、世間で鍛えるしかない。
そして、そのために、子供の頃から寺などで修行ばかりしているのは、前世においてそのような縁を作った者以外は良いことではなく、ヒンズー教では、世間での義務を果たした後に修行生活に入ることを推奨している。
つまり、壮年期までは社会で働かなければならない。
世間を騒がすような事件を起こした若者の部屋を調べたら、宗教書や霊的な教えの書でいっぱいであったということがあるが、この若者はニートであった。彼は、そのようなものを読むより先に、働くことで学ばなければならなかったのである。
若年者も霊的修行をしても良いが、あくまで主体は社会的な活動、即ち仕事でないといけない。ニートであれば、精神を磨く機会を得られないのであるから気の毒である。
社会で働く力が無いのは、脳幹を鍛えておらず、生命力が弱いからであると思われる。
このような若者のために、戸塚ヨットスクールがあるが、とりあえず自分でできる方法としては、不快な状態に耐えること、つまり、我慢をすることである。
エアコンを使わず、車に乗らずに歩き、常に姿勢を良くし、何よりも食を慎んで空腹に耐えることに効果があると思う。
私も暇になると、頭の中で会話が始まり、それはほとんど嘘や妄想である。学校、大企業の宣伝、テレビ、マスコミによって植えつけられた観念が心の中に巣食っているのだ。それらのことに猛反発してきた私でさえである。
少し前の私は、思い出すたびに、般若心経の真言を唱えたり、念仏を唱えたり、「私は誰か?」と問うたり、存在の感覚に浸った。どれか1つにすれば良いとは思うが、どれも面白くて止められなかった。また、毎日、「大祓詞」を必ず上げることにしている。
数息観(すううそくかん)という禅の修業も面白い。
単にゆっくり呼吸しながら、その数を数えるのである。私の場合、吐く息を数える。10まで数えたら、1に戻る。
すると、頭の中で会話が起こった時などは、数が20とか、ひどい時は百までいっていて気付かないことがある。ある禅僧は、最初から10できっちり1に戻せる人はむしろ少ないと言う。
頭の中の会話を止めることができれば、人生は自由なアートとなる。
H.G.ウェルズの「ポーリー氏の物語」で、ポーリーが言ったように、「人生が気に入らないなら、気に入るように変えてしまえばいい」のである。
しかし、頭の中の会話が続く限り、潜在意識の法則も引き寄せの法則も効果は少ない。
なんとしても、まずは頭の中の会話を止める必要がある。
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2009.07.15
潜在意識の法則や、引き寄せの法則で願望を実現するのは難しいが、ヨーガや仙道などで精神を磨くことに成功すれば、望まずとも自然に幸運に恵まれることになる。
欲望にギラギラしている間は、願望が叶うことはまず無いと思って間違いない。
仙道の高藤聡一郎さんが、それに関する面白い話を著書に書かれていた。
高藤さんはひたすら仙道の修行に打ち込み、かなり修行が進む、いよいよ解脱間近となった。だが、解脱してしまえば、親きょうだいでも情愛を感じず、他人のように思うようになり、一切の欲望も消える。
それまで、貧乏で楽しみの少ない人生を送ってきた高藤さんは、世俗の喜びに未練があり、まだまだ解脱などまっぴらと思ったらしい。
しかし、その後、次々に不思議な幸運に恵まれ、自然にお金も出来、良いマンションに住み、有名になり、美女達も選んで付き合えるまでになった。
メキシコの著名なナワール(シャーマン)である、ドン・ミゲル・カルロスもまた、この世は確かに幻想であるが、精神を高めれば、人生をアートとして、自分の好きなように制作することが可能であると説く。
精神を磨くには、ヨーガ、仙道、シャーマニズム、カバラ、気功、古神道、その他の道があると思う。
自分の気質に合うものを選んで修行することは良いことと思う。
ただ、ルドルフ・シュタイナーは、「42歳までは職人をやれ」と言っていたが、その位の年齢までは、世俗で何かの道に進めということと思う。
大切なことと思う。
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プロレスリングのトレーニングは非常に独特である。
それは、かつて、「プロレスの神様」カール・ゴッチがよく言っていた「スクワット1万回、プッシュアップ(腕立て伏せ)3千回で一人前」の言葉がよく表していると思う。
プロレス式のスクワットは、ヒンズースクワット(インド式スクワット)と言われているもので、腕を振りながらしゃがんだり、立ち上がったりを延々と繰り返す単純なトレーニングで、長時間やると、床に汗の水溜りが出来ることで有名な非常に苦しいものだ。
しかし、常識的なスポーツトレーニングの専門家なら、こういったトレーニングは不合理な運動と見るに違いない。
スポーツ運動理論から言えば、筋力の強化には数回、筋持久力なら十数回繰り返せる程度の負荷の運動が適当で、このように、数百回、数千回繰り返す筋肉トレーニングはあまり聞かないと思う。
しかし、プロレスラーが強くないかというと、昔から異種格闘技戦があり、さらに、現在ではより多く行われるが、プロレスラーは非常に強い。また、これは他の格闘技には無いものだが、日本、アメリカを問わず、体力的にはピークにある若いアマチュア格闘家の挑戦(いわゆる道場破り)はよく受けているらしいが、およそ無敗であるらしい。
プロレスに限らず、「ゴッドハンド」と呼ばれた世界的な空手家で極真空手の創始者、大山倍達さんの本を見ても、大山さんはやはり腕立て伏せを重視し、毎日大変な数を行い、また、親指だけの腕立て伏せ連続百回を5年かけて達成した時、無敵を確信したらしい。この確信も不合理といえば不合理であるが、実際、無敵だったのだから文句は言えない。
プロレスラーは選手寿命が長いことでも、他のスポーツ、ことに他の格闘技と比べれても異例だ。先日、惜しくも亡くなられた三沢光晴さんは46歳でトップで活躍されていたし、天龍源一郎さんにいたっては現在59歳だ。
このあたりも、プロレスラーには本質的な強さがあるように思う。それを作っているのが、ヒンズースクワット、プッシュアップという、苦行的な独特のトレーニングではないかと思う。
いかなるスポーツのハードトレーニングにも楽なものはないだろうが、プロレスのスクワットやプッシュアップほど忍耐を要するものは、ちょっとないと思う。
この苦痛に長時間耐える訓練が脳幹を鍛え、本能そのものを強くし、肉体を若返らせ、闘争心を強くする効果が極めて大きいのではないかと思う。
スクワットやプッシュアップは、少しの面積さえあれば道具もいらず、誰でもすぐにできる便利で素晴らしいものだ。
やり方はネットで調べれば沢山見付かるだろう。
最初は、そんなに多い回数をやれなくても、若い人なら、みるみる回数が増え、励みになるし、自信も付くだろう。
思えば、私は中学時代から、スクワット、プッシュアップを趣味としていたくらいで、おかげで脳幹が鍛えられ、一時期はニートも経験したが、無事社会に出ることができたのは、そのおかげと思う。
幸運だったのは、小学生の時の夏休み、レスリングの名門大学の主将だった従兄の家に泊まった時、彼が毎晩日課のトレーニングをしていて、腕立て伏せをパワフルに50回こなすのを見て驚いたことがあった。私は当時10回もできなかった。それ以来、腕立て伏せ、スクワットに取り組み、腕立て伏せは中学生の時に30回、高校1年生で百回に達した。スクワットも高校1年生で千回を達成した。さぼることが多かったが・・・。
現在は、休日に何時間も歩くことを行っているが、再び、スクワットやプッシュアップに取組もうと思う。非常にワクワクしてきた。
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2009.07.14
アーサー・ケストラーは、人間の脳は出来損ないであると「ホロン革命」に書いていた。
生命維持のための本能を司る動物脳を、理性を司る大脳皮質が被っているのだが、大脳皮質は動物脳の影響を受けやすく、例えば、本能の攻撃欲求が理性をコントロールし、冷静さを簡単に失うというわけである。
フロイトは人間がなぜ自我を作ったかというと、本能が壊れているからであると言った。
壊れている本能では不足するところを補うために自我を作ったが、自我は自然に立脚したものではなく、幻想のようなものであると言う。
確かに、動物においては本能だけで十分であり、自然のままでは逸脱した行動をしない。それは、人間のような発達した大脳皮質がないからだ。
しかし、人間の発達した大脳皮質は本能と争うこともあるが、それで異常な行動をするとなると、それはむしろ大脳皮質の問題と思う。
本能は壊れてもいないし、異常行動の原因でもない。
それは逆であって、本能が強くしっかりしていれば、理性を正しくコントロールして異常行動をさせないはずだと思う。
動物を見れば分る通り、動物は無駄な殺生や、レイプなどしない。大脳皮質が人間にそのような異常行動をさせるのであり、それは本能が弱いことが原因である。
本能が強い人間は、殺人やレイプをしない。
本能が弱く、思考が作る異常な欲望を制御できない人間が、そういった異常行動をするのである。
本能が弱いとは、本能を司る脳幹の機能が低いのだが、脳幹は不快な環境を耐えないと発達しない。それは当然のことで、不快な状況でも生存確率を高めるための機能が本能なのであるから、不快な状況がなければ、本能を発揮させるための脳幹は発達しない。
つまり、生まれた時からエアコンがあり、いつも快適な温度であれば、体温調節のための本能の出番はなく、脳幹が発達する必要がない。同じく、飢えることがなければ、食料を求める本能が不要で、やはり脳幹は鍛えられない。
こう考えると、不快な状態を知らない、甘やかされた人間が殺人やレイプをするのだと推測される。
戦争なんてのも、やはり快適な条件で育ったエリートが起こすことである。
2世議員は駄目なんて議論があるが、2世議員は大抵恵まれた中で育っているので、確かに危ないことは間違いあるまい。
子供を、エアコンの効いた部屋で育て、お腹が好かないよう、いつも食べ物を与え、外出は車に乗せてばかりでは脳幹が鍛えられず、異常な行動を起こす子供に育てているようなものである。
私は、遅い感じもするが、家ではエアコンを使わず、きちんとした格好で今は暑さを十二分に感じている。休日は、日中に4時間は歩く。食事は、夕食だけの1日1食で、肉は食べず、間食も全くしない。脳幹を鍛えるためなら、さして辛くはない。それで確実に強くなれるのだから。
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シュバイツァーは、音楽家、神学者として成功と栄光の真っ只中の29歳の時、アフリカ原住民が医療サービスを受けることができず、難病に苦しんでいる現実を知り、「主よ、私が行きます」と決意し、30歳で医大に入学。38歳で医学博士となり、アフリカに向かいます。
戦争の中、ドイツに強制送還されたなど、苦難もありましたが、90歳を過ぎてもアフリカで治療を行い、さらに「生命の畏敬」という哲学を確立しました。
偉大な一生でありましたが、その行いは運命によるものです。誰もができることではありません。
真に偉大であると言えるのは、シュバイツァーが、その運命の中で、どのような思いを抱いたかです。
人は運命を選べません。しかし、必然たる運命は誰もに用意されています。
その中で、どんな思いを持つかが重要で、我々の一生が、シュバイツァーに必ずしも劣るものとは言えません。
実際、シュバイツァーより偉大な、片田舎の平凡な農夫がいても、なんら不思議ではありません。
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2009.07.13
この数週間、休みの日にかなり長時間の散歩をするようになってから思った。
散歩には、2種類がある。
1つは、歩くという軽い運動でリラックスし、美しい風景を見て楽しむというもの。
もう1つは、長時間、そして、今の季節であるから、暑い中をただ歩くという苦行のようなものである。
散歩が楽しいとか、リラックスして気分転換になるとかは、短時間、それも、夏であれば、早朝や夕暮れに行う散歩で、日中、数時間、20キロ以上も散歩すると、それは確かに苦行以外の何物でもない。
そして、私自身は、楽しい散歩ももちろん良いと思うが、苦行の散歩を求めているのである。
暑くても、疲れても歩き続けるには忍耐がいるし、我慢が必要だ。
いったい、何のためにそんなことをするのかというと、これにより、脳幹が鍛えられ、本能の力が増すと思われるのである。
脳幹を鍛えるには、生命の危険を感じるとか、不快さを我慢することが効果的だと言われる。
現代人がストレスに負け、元気がなく、人間性も歪んでいるのは、生命エネルギーに直結する本能の力が衰えているからであるが、それは脳幹が弱いからである。
引きこもりやニートは本能の力が弱いのである。彼らは、小さい頃から何でも与えられ、美味しいものを好きなだけ食べ、エアコンの効いた快適な環境で過ごしてきたせいで我慢をせず、そして危険な遊びもさせてもらえず、脳幹が鍛えられる機会が全くなかったのだ。
ひきこもりやニートは、まず、1日20km以上歩けば良いと思う。
さらに、家でも、エアコンを使わず、暑さに耐えることだ。
そして、私が思うに、最も脳幹を鍛えるのは空腹に耐えることと思う。間食などもっての他であり、食事を減らして空腹を感じるべきと思う。
空腹を耐えることが、最も大きな我慢を必要とすると思われるからだ。
私自身が、これら全ての実験をしているという訳であるが、まだ始めたばかりで何とも言えないと思うが、恐らく間違った方法ではないと思う。
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私が教育者としては唯一尊敬する、戸塚ヨットスクールの戸塚宏さんの著書「本能の力」を読み、大変に考えさせられた箇所があります。
引きこもりには、非常に重要なことであります。
それは、子供の時に、本能を正しく育てられておらず、生産本能が「解発」されていない場合、働く喜びを感じることができないということです。
(「解発」は生物学的な難しい言葉だが、要は、脳および精神がきちんと成長していないということと考えて欲しい)
つまり、普通の人間のように生産本能によって働くことが出来ないので、義務として働かないといけないことを理解させ、仕方なく働かなければならないということです。
当然、仕事は辛いものになりますが、働かないと暮らしていけないのですから仕方がありません。
私は、大変に納得したわけです。自分の経験からも確かです。
では、どんな人が、生産本能が解発されていない人でしょう?
戸塚さんは例として、子供達の潮干狩りの思い出をあげています。
ある子供が、あさりを見つけて取り、笑顔を見せました。しかし、誰も見ていないと、その子は、ぼーっとしてあさりを取ろうとしません。さっきの笑顔は大人向けのポーズだったのです。
その子は、あさりを取る喜びなんて、全然感じていないのです。
こんな子は、中学生や高校生からどうにかしてやろうとしても手遅れです。
私も、子供の頃、学校ではグループで何かをやらされた時、非常に非協力的と怒られたものですが、とにかくやる気がないのです。
無理に活動に参加し、目的を達成したり、賞をとっても、少しも嬉しくはありませんでした。
仕事でも同じです。
会社では、営業グループでは、売上目標を設定し、グループでは、それを達成することを目指します。とんでもない高い目標を強いられるのが普通ですが、仕事なのですから、それは努力目標ではなく、至上命令です。
そして、大変な苦労の末、売上目標を達成したり、私個人がセールスコンテストで優勝したこともあります。その時は、大きな喜びを表現してみせるのですが、実は、全く嬉しくなかったのです。
そんな仕事があまりに空虚で、ソフト開発に転進しましたが、ソフト開発で困難な仕事を達成したり、結果、高い収益を上げて褒められても、やはり少しも嬉しくありませんでした。まあ、上司は形だけ褒めるだけで、手柄は自分のものにするのですが、それに関しても、私にはどうでも良いことでした。
仕事というのは確かに辛いものであり、誰しも本音ではしたくないでしょうが、普通の人は仕事の喜びというものも必ず感じています。
しかし、生産本能の無い引きこもりにはそれはありません。
ただ、生産本能が無いにも関わらず、作り物の生産本能もどきを持つ者もいます。それは、それらしく見えるだけで、役に立たないものです。そんな人をや雇ってしまう会社もありますが、鋭い経営者は直感的にそれを見抜き、そんな人には、なるべく仕事をさせず、周りとも接触させないようにします。それが一番、会社にとって被害がないのです。
この難しい問題に対し、私にもどう問題解決を計れば良いのかは不明ですが、引きこもりは、芸術家か宗教者にでもなるしかないと思います。そう言ったら、芸術家や宗教関係者に怒られるかもしれません。ただ、ベケットは、まさにそのような引きこもりで、彼はノーベル文学賞すら受賞しました。しかし、当然ながら、彼はノーベル賞授賞式を、「特に理由はない」という理由でキャンセルしました。彼は、1日中、ベッドの中で過ごす方が快適でした。本能、あるは、自我が無いのが、ある意味、芸術家や宗教家に適合するかもしれません。
もう1つ、方法があるかもしれません。やはり、仮の本能、あるいは自我を自分で構築することです。心理学者の岸田秀さんによると、三島由紀夫がその例でした。彼は、自我的には死人でしたが、自分で自我を構築しました。私も、ある程度はこれをやりました。自分のものの考え方が、時期により極端に変わる可能性もありますが、それも楽しいかもしれません。
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2009.07.12
1974年、当時、プロボクシングの無敵の世界ヘビー級王者と言われていた25歳のジョージ・フォアマンに、かつての世界王者だが、32歳の老雄モハメド・アリが、アフリカのザイールで挑戦した。
当時の人気漫画「愛と誠」で、主人公の1人、太賀誠(たいがまこと)は、壁のカシアス・クレイ(モハメド・アリの別の名)のポスターに、「お前は、絶対に勝てないやつにケンカを売っちまった。だから、俺の部屋を飾る価値がある」と言った。これは、原作者の梶原一騎の思いであったことは容易に想像できる。
史上最高のハードパンチャーと言われるフォアマンのパンチが、ロープに追い詰められたアリに容赦なく連打で叩き込まれる。
勝負あったかに見えたが、アリは倒れない。
そして、フォアマンのパンチをかいくぐり、アリのパンチがフォアマンを捕え、フォアマンが倒れる。フォアマンは立ち上がれなかった。この大方の予想を裏切ったアリの勝利は「キンシャサの奇跡」と呼ばれる。
後にフォアマンは、殺人的だったに違いない自分のパンチを浴び続けたアリが倒れなかったことについて、こう言った。
「人間は、苦しみに耐えるだけの訳があれば、耐えられるんだ。アリには耐えるだけの訳があった」
その後、まもなく、フォアマンはアリに挑戦することもなく引退した。
しかし、フォアマンは40歳を過ぎてから現役に復帰し、45歳で世界王者に返り咲くという、アリ以上の奇跡を行って見せた。
昔のナチスの収容所に強制収容された人には、現在の我々には想像もできない残酷な拷問に耐え続けた人がいる。当時のナチスでは、拷問が上手いことが出世の条件だった。
彼は、拷問の後遺症で、歩くことも喋ることも不自由になったが、拷問に負けなかったと言う。彼には、苦痛に耐えられる訳があったのだ、
人間にとっての最大の徳は食の慎みであるが、これができる人は滅多にいない。
人間にとって、食は最大の楽しみであると同時に、それを節することは最大の苦痛だからだ。
それに耐える理由がないと耐えられるものではない。
単に、健康やダイエットを目的にやれるような甘いものではないだろう。
もし、ダイエットのために食を絶てるとしたら、よほど心に強い劣等感を持っているか、本能そのものが弱いのである。
あまりに甘やかされて育った場合には、脳幹が鍛えられておらず、本能が弱いので、ある程度までなら、さほど空腹を感じないということはある。
食を節すれば、強い不快感が生じ、それに耐えることで脳幹が鍛えられ、強い人間になれる。
強い人間になりたいという願望が強ければ、厳しい食の慎みに耐えられるのである。それには、自分が弱いということを思い知る必要がある。引きこもりやニートを決して甘やかさず、彼らに、自分は何もできないクズであることを思い知らせる必要がある。特に、たまたま一流大学を出たような、自分に能力があると勘違いしているニートは徹底的に鍛えてやって欲しい。
脳幹を鍛え、生命力が増せば強くなる。そのためには、不快感に耐える訓練が必要だ。エアコンを切って暑さ寒さに耐え、車に乗らずに長時間歩き、電車では座らず、いつもびしっとした姿勢をすれば良い。
そして、厳しい食の慎みこそ、脳幹を最大に鍛える。
ニートにおやつを出すようなことは絶対にしてはいけない。3度の食事以外には決して何も食べさせず、美食や、満腹するまで食べさせてもいけない。最も良いのは、肉体労働でもさせていない限り、朝食、あるいは、朝食と昼食を抜き、夕食も菜食にすることだ。働かざるもの食うべからずであるから、別におかしなことではないと思う。
だが、引きこもりやニートも、自ら鍛え、食を慎むべきだろう。なにごとも人にやらされるのは面白くないはずだ。
そして、いくらか強くなれば、次の手はあると思う。
そのためにも、まずは、不快感に耐え、強くなることだ。
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親は、なぜこれほど私の嫌なことばかりするのだろうと思ったことがありませんか?
まるで、わざとやっているのではないかと思えてならないほど。
それは正解です。
親は、子供が嫌がることをするのです。それは本能的行動です。
ただ、本能的行動なので、悪意はないのです。自然なことなのです。
ただ、親が子供の嫌がることをするのは、子供が大人になるまでです。
子供に不快さを与え、鍛えているわけです。
それで、子供が強くなれば、もう嫌なことはしなくなります。それよりも先に、子供が身近に居ないのが普通ですが・・・
しかし、現代の日本では、子供の権利を優遇するあまり、子供が小さい時から、子供に不快な思いをさせない、つまり、満足ばかり与えるようになってしまいました。むしろ、子供は、親が与えてくれている不快さに文句を言うのが当然のようになっています。
子供が、親が与えてくれる不快さに文句を言うのをワガママと言いますが、これが通るようになってしまったのです。
それが現代社会の深刻な問題を作っています。
20歳になっても、30歳になっても、親に文句を言う間は子供です。いや、40歳、50歳でもです。親は本能的に、子供がまだ幼いことが分かるので、わざと子供の嫌がることを言ったりしたりするのです。
親の悪口を言う人は、間違いなく幼い人間です。
面白いことに、人間として幼い子供が、年齢的にだけは大人になると、子供が小さい時には甘やかしていた親も、子供にとって不快なことを言ったりやったりします。
親は、無意識的に、いつまでも幼い子供に焦って、子供を鍛えようと、どんどん不快さを与えているのかもしれませんが、子供の方は、甘やかされて不快さに慣れていないのと、自分は家の中だけでは一人前のつもりですから、猛烈に反発します。そして、身体だけは一人前ですから、家庭内暴力を起こすこともよくあります。引きこもりやニートではよくあることですね。
人間は、不快さに耐えることで強くなります。
論理的には、脳幹が鍛えられ、本能が強くなるのです。それにより、一人前のことができるようになります。
ひきこもりやニートは、脳幹が鍛えられていません。
不快な状態を我慢する訓練が足りていないのです。間違いなく、幼い頃から何でも与えられ、甘やかされたのでしょう。
そもそも、生まれた時から家に車やエアコンがあり、美味しいものやお菓子をいくらでも食べられる中で脳幹が鍛えられるはずがありません。
暑さ寒さを我慢し、長時間我慢して歩き、決まった時間にだけ、親が決めたものを食べ、食事前には強い空腹感を感じるといった当たり前の状態で成長すれば、10歳にもなれば、少々ひどい親にも文句を言わないものです。
しかし、いい年になっても、いまだ脳幹が鍛えられていないなら、少々手遅れでも仕方ありません。自分で自分の脳幹を鍛えないと、残りの人生で生きていけません。
エアコンを切り、車に乗らずに、長時間歩き、食を慎んで脳幹を鍛え、生命力を向上し、少しでも強い人間になることです。
実は、私もそうしています。引きこもりですので。
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2009.07.11
昔から、登山家に「なぜ山に登るのか?」と問うと、「そこに山があるから」という禅問答のような答があるという話があります。
登山家自身も、本当の訳は理屈では分からないのです。
答を言うなら、「不快なことや危険があるから」です。
不快さに耐え、危険を感じることで脳幹が鍛えられ、生命力が強くなるから、不快さや危険が必要なのです。
人間は、本当の意味で強くなりたいのですね。
旅が病みつきになって、生涯、旅をする人がいます。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンがそうでした。
映画「南から来た用心棒(原題:アリゾナ・コルト)」の主人公、流れ者ガンマンのアリゾナ・コルトは、そこに留まれば快適に過ごせることを保証されたような街も、そこにいる相思相愛の美女も捨てて再び旅に出ます。
アニメ「エル・カザド」の2人の少女は、苦しい旅の末、優しい老夫婦が娘として迎えようとしても、そして、彼女達もその老夫婦のことは好きでも、再び旅立ちます。
人間は「生きて」いたいのです。そのためには、生命力が必要です。
不快さや危険を背負うことで強くなりたいのです。
「人間は安定を求めた時に生きることをやめるのですね」
昔、週刊プレイボーイ誌に連載されていた「涙弾」という漫画の至高の言葉です。
せめて日常で不快感を求めることです。
特に、ひきこもりは脳幹が鍛えられておらず、本能の力が弱いのが大きな原因ですから、本気で取り組む必要があると思います。
エアコンを使わず、暑さ、寒さを感じ、車に乗らず長時間歩き、電車では立っていることです。
運動もすれば良いですが、運動なんてのは、気持ち良いからするのではない。辛いからするのです。
そして、ある程度生命力が付けば、空腹に耐えることで脳幹はぐっと鍛えられます。
不快さを求めることは旅のようなものです。
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田村正和さんが、なぜいつまでも若く、格好良いのかに対する、かなり確信ある想像である。
田村さんは、8月には66歳になるらしい。これは、今時では、老人というほどの年ではないが、男盛りとも言い難いだろう。しかし、田村さんは、ますます渋く、格好よくなるばかりである。
若い頃に格好良いタレントは掃いて捨てるほどいる。しかし、ほとんどが、年を取ると見る影もなくなるものだ。
田村さんは、妖怪の仲間ででもあるのだろうか?
しかし、田村正和さんに関するエピソード(人気芸能人にありがちな風説もあるとは思うが)を見ると、なるほどと強く感じるものばかりである。
田村さんは、脳幹をかなり鍛えている人と思う。
脳幹は、脳の下部に位置する動物的本能に関係する部位で、現代人は非常に弱くなっていると思われる。脳幹が鍛えられていると、本能が活性化され、生命力が強いと言って良いと思う。
脳幹を鍛えるには、不快に耐える、即ち、我慢をすることが効果的だ。
なぜなら、不快を快に戻すのが生命を司る脳幹(特に視床下部)の働きであり、我慢が必要な状況では、脳幹が刺激されるからだ。
田村正和さんは、多くの俳優さん達の証言では、普段でも撮影の時の雰囲気のままであると言う。つまり、いつも格好を付けているのだが、これは大変にしんどいことであり、我慢を要することだ。
常に格好の良いポーズを決め続けるのは、肉体的にも苦痛であり、さらに、精神的緊張や忍耐も要する。
それを我慢して、自分のイメージ通りの状態を維持することで脳幹が鍛えられている。田村さんは、東京から大阪の新幹線の中で、格好良く膝を組んだポーズのまま、ピクリとも動かなかったという。親しい俳優に、「実はしんどかった」と漏らしたらしい。本当の話かどうかはともかく、田村さんならありえそうな話である。
また、田村さんは、人前で決して食事をしないことはよく知られている。
飲みに行っても、つまみには決して手を付けず、やはりポーズを決めたまま、酒だけ格好良く飲むらしい。
そして、田村さんは、超少食であるらしく、身体つきも非常にスリムだ。
私は、田村さんは、食べたくなくて食べないのではなく、厳しく食を節しているに違いないと思っている。空腹ほど不快で苦痛なことはない。それを我慢することは、脳幹を最大に鍛えるのである。
ただ、いかに少食が良いことでも、「お腹が空かないから食べない」というのは問題がある。それは脳幹を鍛えておらず、生命力が弱っているだけのことだ。暑さ寒さに耐え、車に乗らずに長時間歩くといった我慢をすれば、脳幹が鍛えられ、生命力が高まり、空腹を感じる。そこで食を慎んでこそ、本格的に脳幹が鍛えられるのである。
わがままで我慢を知らない人間は、幼い点は確かに若く見えるが、それ以外は老けるのが早いものである。
また、嫌々の我慢は不満を増大させ、むしろ脳や神経に歪みを生じさせてバランスを崩し、やはり老ける。
前向きな我慢こそが脳幹を鍛える。
不快を求めて我慢をし、美しく若々しくなろうではないか。
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2009.07.10
時々、「私が少食なのは、お腹が空かないからです」といったことを言う人がいる。
それは、本能が弱まっている、つまり、生命力が枯れかけているのではないだろうか?
いい女を見て興奮しない男というのも、立派と言うよりは、やはり本能の力がないのではと思う。
これらの者がなぜ本能の力が無いかと言うと、脳幹が鍛えられていないからである。生命の危険や、不快感を耐えることで脳幹を鍛えていないと、生命力が弱くなり、本能の力が発揮されないのである。それを、精神的な高さと誤解するのは甚だ危険であるし、愚かである。
婆子焼庵(ばすしょうあん) という有名な禅の公案がある。
お婆さんが、若い修行僧を長年に渡って世話をしていたが、ある時、自分の美しい娘にその僧を誘惑させる。
しかし僧は、「私は冬の枯れ木」とばかりに全く平気だ。
さすが修行の進んだ僧と思うかもしれない。
しかし、それを知り、お婆さんは僧を追い出す。
当たり前だ。本能の力の衰えた僧が立派なはずがない。この僧は、脳幹を鍛えていなかったのだ。つまり、長年の修行は偽物だったということになる。娘を抱く以前の問題である。
私は、1日1食、間食なしで菜食と言うと、きまって、「お腹空かないですか?」「どうやって空腹をまぎらわしますか?」と聞かれる。
おなかはすごく空く。生命力が高いからである。
人によっては、空腹をまぎらわすために、飴を舐めたり、水を沢山飲むとか言う。
これでは、せっかくの少食の意味がない。
不快感を耐えることこそ、脳幹を鍛えることになるのである。人間にとって、空腹とは最大級の不快感だ。この空腹を耐えてこそ、脳幹が鍛えられ、本能の力が強くなるのだ。そうすれば、元気になり、身体は強くなり、精神の力が高まる。
お腹が空かないから食べないとか、食べると体調が悪いから食べないというなら、まずは脳幹を鍛え、身体を強くしないといけない。
私は、ある大変に少食な女子高生を知っている。
身体は非常に細い。ウエストが細過ぎて、ピッタリのジーンズが無いという。性格は良く、友達も多い。しかし、人間として非常に弱いのである。大変に可愛いが性的魅力はあまり無い。同性に人気があるようで、自分でも男の子にさっぱり興味がないと言う。
生まれた時から家に車もエアコンもあった。父親が車好きなので、外出や旅行は常に快適な車でした。子供の頃には毎日長時間ゲームをし、今は片時も携帯を手放さず、次々に来るメールに返答している。
これでは脳幹を鍛えることがまるでなく、生命力が乏しくて当然で、少食の意味がない。
脳幹を鍛えるには、生命の危険のあることをするのが一番であるが、それが難しければ、不快な状況に自分を置いて我慢をすることだ。
エアコンを使わずに暑さ、寒さに耐え、長時間歩くなどをしなければならない。
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私も子供の頃からよく聞いたことに、「食事を抜くとかえって太る(脂肪が付く)」というものがある。これを根拠まで付けて、まことしやかに語った人も多く、私はすっかり信じてしまっていた。
そりゃ、食事を抜いた分、お腹が空くので、間食が増えたり、食事の時に多量に食べればそれは太るだろう。ダイエットに良いと言われる食べ物を大量に食べて太るようなものである。
細かく言うと、それまで、1日3食で合計2000キロカロリー食べていた人が、朝を抜き、1日2食で合計1700キロカロリーになったとしたら、300キロカロリー分は必ず痩せる。
しかし、朝を抜き、マイナス300キロカロリーとしたはずが、余分な間食をプラス200キロカロリー、夕食が増えてプラス300キロカロリーであれば、2000-300+200+300で、従来より200キロカロリー多く、その分太る。
つまり、食事を抜けば太るというのは、本当であるとも、そうでないとも言えるが、他の食事条件が変わらなければ確実に痩せる。
しかし、一般に言われる「食事を抜けば太る」とは、食事を抜いただけで、他の条件が同じでも太るというものであり、それは絶対に嘘である。
さらに、食事を抜けば体調は確実に良くなる。それは、誰でもやってみれば分る。ただ、最初は思い込みや、習慣の変化のせいもあり、一時的に体調が悪化したと感じるのが普通であるようだが、慣れれば体調がぐっと良くなる。
また、食事を抜けば、消化吸収のための神経活動が休息できる。消化吸収は決して胃腸の筋肉的な、あるいは化学的な活動だけでなく、脳を中心とした精妙で高度な神経活動だ。よって、大食して胃腸を鍛えれば胃腸が強くなるというわけではない。
神経活動は電気的活動であり、消費エネルギーは大きくはないが疲労は大きい。よって、大食すると、非常にだるく感じるのである。
痩せたければ、そして、元気になりたければ、迷うことなく食事を抜けば良い。
朝は食べる必要がない。日本人は、元々が朝は食べない1日2食であった。いや、1説では、アメリカ人もそうであったが、トースターが発明された時に、それを売るために、トースターメーカーが朝食を普及させたと言われる。ありえる話で、もし、誰かが、アメリカ人にうまく1日4食を流行らせたら、あっという間に普及するはずだ。実際、3時のおやつはアメリカではかなり沢山食べるので、事実上、1日4食と言えるかもしれない。
朝を食べないから、子供が朝礼で倒れるなんて大嘘もいいところだ。
戦時中や戦後、ほとんど誰も朝食を食べてこなかった時代に、朝礼で倒れる子供なんていなかったそうだ。現代の子供がひ弱な原因が全く別のところにあるのは明白であろう。
最近、私はよく話題にしているが、朝礼で倒れる子供は、脳幹が鍛えられていないので生命力がないのである。これに関しては、また別に述べる。
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2009.07.09
日本人の若い(主に10代から20歳前後)男は、見ていて非常に気持ちが悪いと思っていた。
それがなぜなのかは、ずっと大きな疑問だった。
最近では、韓国や中国でも同じような気がしてきた。
もっとも、テレビで見られる韓国、中国の若者は富裕層が多い。
だが、どこの国であれ、生命の危険を感じる状況にある若者は、日本の若年男子と違い、精悍で絵になる。
戸塚宏さんの「本能の力」を読んで気付いた。
つまり、かなり以前から、日本人は、快適、安全な環境の中に置かれ、脳幹が鍛えられていないのだろう。
脳幹が鍛えられておらず、本能の力が弱いので、いつも与えられるのを待って物欲しげにしている姿が気味悪いのだろうと思う。
人間は、他の動物と違い、男の方が狩猟向きに出来ている。だから、本能の力の弱い男は、狩猟型であるべき自然な状態とのギャップが大きく、奇異に映るのである。
こういった男は、流行の言葉で言えば、草食系男子と言うらしい。
幼い時から何でも与えられ、快適な環境で育ち、生命の危機を感じたこともなく、我慢を知らないマザコンのガキ。
ところが、女というのは、同じ環境で育っても、男よりは脳幹が鍛えられるものである。
男より小さくて弱いので、常に危険は感じるし、事実上男尊女卑の世の中で我慢も強いられる。
もっとも、男より多少割合は少なくても、放っておいても魅力を放つ年頃の女の子に魅力がなくなってきた。やはり、甘やかされ、あまりに我慢を知らないせいと思う。
脳幹を鍛える鍵は、生命の危機感と共に我慢である。
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思い込みの力の恐ろしさについて聞いたことがあるかもしれない。
心から出来ると信じれば、平素の実力をはるかに超えることをやってしまうことがある。
悪い方に働けば悲惨なことが起こる場合もある。例えば、自分は心臓麻痺で死ぬと思い込めば、本当にそうなることになる。
人間の力なんて神秘なものだ。
窓から落ちかけた我が子を救うために、平凡な主婦がオリンピックの短距離ランナーでさえ不可能な速さで走ったり、トラックの下敷きになった息子を救うために、やはり小柄な女性が、大の男数人がかりでも持ち上がるはずのないそのトラックを持ち上げたなどという記録は少なくはない。
あるいは、催眠術を使って、怪力を発揮させるようなことも可能だろう。
江戸時代、病気になった農民や町人が、少しの白砂糖を与えられたらすぐに治ってしまったり、白米を振る音を聞かせるだけで具合が良くなったという話がある。
当時、庶民には、白砂糖も白米も、手の届かないものであったのだ。
しかし、ただ思い込めば良いというわけではない。
例えば、精神病院には、自分が神様だと信じ込んでいるような者もいるが、さっぱり神様らしくない。
以前、自分は最強の格闘家だと信じているらしい中学生をテレビで見たことがあるが、実際に戦わせると、やはりプロのK-1選手に指1本触れることすら出来なかった。
この2つの思い込みの違いは何だろう?
私は長い間、ずっと考えてきた。
そして、理解した。だが、説明ができない(笑)。
言葉で言えば、その人間を支配しているのが、自我かエスかの違いということになる。もちろん、こんな説明では説明になっていない。そもそも、自我とかエスは説明できない。ためしに、自我やエスを専門書で調べれば分かるが、訳の分からない説明が書いてある。Wikipediaでも同じだ。難しいからではなく、誰もはっきりとは分かっていないのだ。
あえて分かりやすく言うならこうだ。
普通の、つまり、日常の心で思い込んだところで無駄だ。むしろ逆効果になる。
だが、我々の知りえない、神秘な心で信じ込めば全て可能だ。この神秘な心を、潜在意識だとか言う者もいるが、潜在意識なんてのも、本当は分からないものなのだ。
この神秘な心は、通常の心からみれば、無である。
つまり、無心、無我になれば、何でもできるというわけである。
成功哲学なんてのは、あの手この手で、無心の心に願いを伝えようとするものであるが、上手くいったためしはほとんどない。
政木和三さんが、このあたりを実にシンプルに語ってくれた。欲望を捨てれば、不可能はない。即ち、思いのままであると。
それを真言にしたものが、内海康満氏の著書で公開されている。最初に本に書かれたのは、竹内満朋(たけうちまんぽう)氏の「ローム太霊講話集」である。
後は、自分で考え、試し、工夫するしかないと思う。それができる者だけが超人になるのである。そして、超人は少ないのである。
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2009.07.08
私は普段は飲酒はほとんどしないのですが、洋酒を中心に30本程度は家に置いています。
来客の際に振舞うという理由もあるのですが、最近では、来客は焼酎や梅酒を好む場合が多く、その目的では洋酒はあまり必要ないかもしれません(焼酎も梅酒も、各種良いものを用意しています)。
洋酒を置いてあるのは、ボトルが美しかったり雰囲気があるからです。一種のコレクション感覚かもしれません。
また、洋酒の香りには特別な思い入れがあります。
洋酒には、実に香りの良いものがあります。この点は、我が国の日本酒や焼酎にはないものと思います。
ところで、香りというのは記憶に強く残るものであるらしいです。
例えば、子供の頃によく遊びに行った家に常に漂っていた香りと似た匂いを感じると、その頃の記憶が鮮明に蘇るということがよくあるもののようです。
当然、悪い思い出と共にある香りの場合は、あまり楽しくない場合もあるでしょうが、時が経てば、よほどの悪い出来事でない限り、それなりに懐かしくて良いものに変わる可能性もあります。過去というのは解釈の問題でもあります。ずっと悪い思い出だと思っていたのが、解釈を変えて良い思い出になることも必ずあります。文字通り「過去を変える」のです。
私は、最初にジン(オランダを起源とする蒸留酒)の香りを嗅いだ時、杜松(ねず)の実(ジェニバーベリー)の独特な香りにあまり良い印象を持ちませんでしたが、やがて大好きになりました。
長く苦しいニートや辛く厳しい仕事をしていた時代を経て、能力が認められ、調子に乗ってセミナー講演も行い(最高で70人程度までですが)、収入も大幅アップした頃、たまたまスーパーで英国のゴードン・ドライ・ジンを買って帰り、その香りを味わったのでした。
今でも、このジンの香りを嗅ぐと、当時の希望に満ちた心が蘇り、実に気分が良くなります。
また、フランスのブルゴーニュワインのボジョレーヴィラージュの香りは最初から実に気に入りました。いわゆる、「何とも言えない」良い香りというわけです。
ジンはそのまま飲むよりも、カクテルの材料にする場合が多いかもしれませんが、昔は専らストレートで飲まれていました。
私は、あらゆる酒はストレートで飲んでこそ、その良さが分ると思います。ストレートで飲むと言うと、驚いて「お強いですね」とか言われますが、少しの量を味わって飲むのが私のスタイルです。私にとって、いかなる酒も水で割って飲む意味は全くありません。
英国のゴードン・ドライ・ジン。最も有名なジンだ。ラベルのサイド部に杜松の実の絵が描かれている。
酒の歴史には、いろいろ興味深いお話があります。
ジンは、もともと庶民の安酒で、これを好んで飲んでいたために爵位を次ぎそこなった貴族がいたりしました。
このジンは、最初は薬として薬屋で売られていたそうで、薬草も含まれており、今でもオランダでは風邪の特効薬です。ロシアでは当然ウォッカがその役ですね。
ジンやウォッカは、日本の焼酎と同じ蒸留酒の仲間で、スピリッツと呼ばれます。ウイスキーやブランデーなどのように樽で熟成させません。蒸留酒は、いわゆる身体に残らず、健康に良いと言われます。
しかし、ウイスキーもまた、もともとは薬で、アイルランド語の「生命の水」を意味するウシュク・ベーハーが語源と言われます。さらに、現在、フランスでブランデーを意味するオードヴィーも「命の水」の意味です。
酒が身体に良いというのは、1つには血行の促進作用があり、また、思考能力を麻痺させることで、余計なことを考えてクヨクヨすることがなくなるということが考えられます。ただ、あくまで限度を守ってのことですね。
酒は百薬の長とはよく言ったものです。
また、「聖なる量子力学9つの旅」(フレッド・アラン・ウルフ。徳間書店)の著者で、世界的量子物理学者F.A.ウルフは子供の頃の神秘体験から量子物理学の研究者になったのですが、シャーマニズムに深い興味を持ち、自ら実践する中で、優れた何人かのシャーマンに出逢います。シャーマンは、アヤワスカ等の植物から作る幻覚剤を用い、変性意識状態に導くことで異世界と交流するのですが、効果に大差があるとはいえ、アルコールにも幻覚剤としての効果があり、非常に有益であると語ったシャーマンもいるようです。
酒には、興味をもって調べていると、ロマンに満ちた話が沢山あります。
どうせなら、優雅かつ風流に味わって飲みたいものと思います。
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6月末あたりから、天気予報では「今日は真夏日で暑く・・・」と言われるようになったが、私は、今でも、今年の夏はさっぱり暑くないなと思っていた。
当然、家でクーラーを付けたことはないし、扇風機は出したが、単に風にあたるのが気持ちいいという理由で、たまにつけるくらいだ。
家の中でもきっちり着る。
昨年までは、ややだらしない格好をしていたものである。
外出時も、今でも上着を着ることが多い。シャツだけだと、クーラーの効いた電車では寒いのだ。
会社では、すでにクーラーを入れているので、かなり寒い。羽織るものが必要だ。
昨年8月7日から、1日1食の菜食とし、間食もやめたので、脂肪がすっかりなくなり、体重も94kgから63kgまで減ったせいである。
冬はやはり寒く感じたが、夏は大変に快適だ。
プロサッカー選手の三浦知良さんは、真夏でもスーツ・ネクタイ姿が好きだという。彼の場合はお洒落であるというのが大きいが、それが快適でもあるらしい。それに、暑い中でビシっとした格好をするのは気分の良いものだと言うが、私にもそれは分かる。彼は177cm、69kgで、大変に筋肉質なこともあり、かなり細身に見える。食事も大変に節制しているようで、おはぎが好物だが、それも滅多に食べず、食べても半分だけとかであるらしい。
外でだけでなく、家の中で1人できちんとした格好でいても、やはり良いものだ。その場合、身体を締め付けない和服が良いと思う。
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2009.07.07
少食を実践できるのは、人生に崇高な目的を持つ者だけである。
つまり、人生に崇高な目的を持たない者に、少食を薦めても意味がないだろう。
人生に崇高な目的を持たない者は、たとえ健康のためとかダイエットのためであっても、よほど危機的な状況にでもならない限り、少食を実践することはない。彼らは、お腹一杯食べて、健康増進やダイエットをしたいと思うだろう。その結果、取り返しが付かないくらい、身体にダメージを与えることになる。
しかし、彼らを救う方法はない。
逆に、こんなことは確実に言える。
もし、少食を実践できるなら、自分では気付かなくても、人生に崇高な目的を持っているのだ。
逆に、立派な人に見えても、少食を実践できないなら俗物である。もちろん、俗物でも良い人はいるが、賞賛されるような成功者ではあっても、所詮は先祖の徳などでエネルギーが大きいだけの、理屈と自己満足優先の人間なのである。
さて、少食の基準であるが、1日、1食か2食で、間食をほとんど、あるいは、全くしないこと。そして、食後でも、その気になれば、もう一度同じ食事を美味しく食べられるくらいであれば良いのではないだろうか?
私は、誰もが今、少食を実践しないと、そろそろ手遅れになると思う。そして、確かに、少食を実践する人が確実に増えてきている。
食事の量や内容で、人類の選別は始まっている。
今後は、1日1食の人間は、驚くほど増えていくと思う。これまでは、そのような者は笑われたり、馬鹿にされることが多かったが、今後は大食、美食の者が苦しむ世の中になるだろう。
大食者は哀れではあるが、人生に崇高な目的が無い者は、どうやっても食を慎むことができないのだ。彼らは、「食べることを楽しまずに生きている意味があるのか」「美味しいものをいっぱい食べてこその人生だ」と常に主張する。彼らを変える術は無い。説得しようとするだけ無駄である。
もう、彼らを見捨てるしかない時期に来てしまっている。
取り立てて彼らを攻撃することもなく、穏やかに接し、なるたけ好きなようにさせてやるしかない。家族にそのような者が居る場合は辛い面もあるだろうが、残り少ない時間を、出来るだけ幸福に過ごさせてあげようと思う。それで、彼らがあまり恨みの気持ちを持っていないなら、事故やなるべく苦しまない病気で、短い時間で死ぬものであると思う。
我々に出来る最大限がそれである。
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新約聖書は分かりやすいだろうか?
解釈に関する多くの議論や、際限もなく解説が次々出てくるところを見ると、決してそうではないと思う。
しかし、イエス自身は、本当は大変に分かりやすく話したはずなのだ。
ましてや、お釈迦様が、仏典のような難解至極なことを語ったはずがない。
いずれも、長い年月の間に、歪められ、難解に改変され、いまでは何の役にも立たないものになったに違いない。
それは、宗教団体や学者が権威を持つのに必要なことと思えるので、そうなった理由は推測できると思う。
だが、神話や伝説、あるいは、もともとが象徴として書かれた聖典は、歪められないまま残っているものだ。
日本で言えば、「古事記」である。
そして、世界各地には、必ず代表的な神話がある。
古代の賢者達は、神話の中に真理を封じ込めた。
でないと、表面的にはただのお伽噺であるこれらのお話が、これほどまでに根強く残るはずがない。
より面白い神話のようなものなら、いくらでも作れたはずなのだから。
中国の「老子」や「荘子」すら、かなり改変されていると思う。
特に、やたら重々しく書いてしまった「老子」はそうで、比較的軽い調子の「荘子」はまだ被害が少ないと思う。
「神仙伝」「列仙伝」「列子」のような、学者には評価され難いが、庶民に愛されるお話の方に真理がある。
我が日本には、沢山の素晴らしい昔話がある。そして、なんと言っても「古事記」がある。
これらこそ、至高の真理の書なのだ。
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2009.07.06
昨日の日曜日。
私は、朝10時過ぎに歩いて出かけた。歩く以外に、特に目的はない。
ブルーのスリムなジーンズに白のポロシャツ姿。小さなショルダーバッグの中には、携帯と財布と短刀型木刀(笑)。
どの道を歩いても、人とすれ違うことはほとんどないが、やたらに車が多く、車が近くを通るたびに、慌てて避けなければならず、自分が邪魔者であるように感じる。
車に乗っている連中を見ると、断言するが、車に乗らなければならない必然性はないはずだ。
いや、実は私も、つい最近まで、外出する時は常に車であったから分るのである。そんなのが当たり前になっている日本。そうでなければ、自動車産業の発達と、それが圧倒的な影響力を持つ経済の強力さが維持できない日本。
自動車産業は苦境と言われるが、今のところ、以前と何の違いもない。それを、さらに自動車産業を盛り返そうとしているのである。
レストランや百貨店や電気店等には、広大な駐車場がある。皆、車で来ることが前提であるかのようだ。
こういった店が沢山ある賑やかなところに来ても、本当に歩行者が少ない。
かつて、私も車で来ていた処なのだが、車で来るほどの距離でないことが分る。余計なものまで買ってしまうのも車で来ていたからだ。まあ、それも店の狙いではあるだろう。しかし、歩いて来てみれば分るが、本当に必要な商品なんてほとんどないのだ。
しばらく歩いて、歩行者ではないが、自転車で連れ添った5人くらいの中学生くらいの女の子達が私を追い越した。すらりとした身体つきの子が多い。自転車の走らせ方がサマになっているようなので、いつもこんな感じなのだろう。
一方、駐車場で、車から出てくる大人はもちろん、子供達や若者も肥満体形が多い。車で来て、脂肪たっぷりの美味しいものでも食べていくのであろう。
私は、既に5kmは歩いているが、夜まで何も食べないのである。
日照りが強くなってきた。
だが、私は、いわゆる、汗一つかいていない。以前の私は、かなりの汗かきだった。
汗は、汗が蒸発する際の気化熱により身体を冷やすために出る。実に精妙な天然クーラーだ。私はあまり暑いと感じておらず、風を感じれば涼しいと思った。
水分の補給なんてものも必要なかった。汗が出ないのだから当然かもしれない。
歩行者といえば、ネギが見えている買い物籠を持った年配の女性と、後は、シルバーカーと呼ばれる手押し車を押す老人の女性を何人か見た。しかし、歩道ですら、横からたびたび車が出てきて、見ていて危なくて仕方が無い。ましてや、歩道、車道の区別のない道は、お年寄りが安心して歩けるシロモノではない。お年寄りなら、多少は車も良いと思うが、多くのお年よりは車を所有しておらず、誰も乗せてあげない。
そして、子供から壮年までは車ばかり。日本がどんな国かを、よく表しているではないか?
ちょっと電気店に寄った。
インクジェットプリンタのインクカートリッジを買っておこうと思ったのだ。
浴衣を着た可愛い女の子達(間違いなくバイトだ)が出迎える店内。しかし、客は少ない。客の数に比べ、店員がやたら多い。たまたま客が少ない時間に来た訳ではないと思う。以前に何度か来た時もそうだったからだ。今や電気店は安売りが宿命である。ごった返すほど客が来てこそ採算が合うのであるが、そのための店員も必要なので、客が少ない時には(今ではいつもそうだろうが)、こんな妙なことになるのである。
私の欲しいインクカートリッジは「お取り寄せになります」とあった。そりゃ、少々古い機種ではあるが、何の不足もないので、新しいプリンタを買う気はない。
インクカートリッジの値段もAmazonの方が安い。ちなみに、日本人がいくらAmazonで買い物をしても、Amazonは日本に税金を全く納めていないことをご存知だろうか?全てアメリカに納税しているのである。
試しに、大型百貨店にも寄ってみた。
こちらは、いくらか客がいる。しかし、店員はやる気がなさそうだ。日曜なのだ。いくら別の日が休みになっているとはいえ、休みたいはずだ。
売れない電気店は、スペースが非常に縮小されているようだ。そもそも、プリンタのインク自体が見当たらなかった。
高校生までの女の子は、すらりとした子が多いが、男の子は肥満が多いように思う。
今の10代の男の子のジーンズのはき方は、相変わらず下にずり下ろした、どう見てもみっともないとしか思えないものが多いが、その他でも、ゆるめのものを履いていることが多い。
女の子は、すっきりしたものを履いている。流行のスキニータイプがよく似合っている子も何人か見た。やはり、脚がすらりとした子はこれがベストと思う。
単に男の子はスタイルが悪いのではないかと思う。脚がすらりとしている限りは、男だろうが女だろうが、ぴしっとしたジーンズがカッコいいのは当然のはずである。
午後1時過ぎに家に帰った。
たった3時間歩いただけで疲れる私は体力がないと思う。
こんなことでは、インドやペルーやエジプト、ましてや、アマゾンは放浪できない。
まずは、四国八十八箇所の巡礼をしようかと思う。誰か一緒に如何?(笑)
午後4時を過ぎたら、近所の大きな池に行き、その周囲をひたすら歩いた。
他にやることが何もないというのも幸いである^^;
本当に幸福になりたければ、政府や大企業の宣伝やテレビ放送全般を決して信じず、以下のことを行うように。
・食を慎め。
・歩け。できるだけ多く。
・車を使うな。
・どうしても必要でないなら何も買うな。そして、欲しがるな。
不幸になりたいなら、この真逆、つまり、大多数の日本人のやる通りにやれば良い。
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我々は「ロマン」なんて言葉をよく使う。
私は、あるビッグビジネスマンから、長年に渡って多くの話を聞いたが、結局、彼の話の中で私が憶えているのは、「ビジネスはロマンだよ」というものだけである。
音楽家にとっては音楽はロマンだろうし、格闘家にとっては格闘技がロマンなのだろう。
おそらく、ロマンとは、ロマンチシズム(ロマン主義)のことで、ある種の芸術の精神的傾向のことである。
元はと言えば、通俗ラテン語にロマンス語というものがあり、ロマンス語で書かれた中世の騎士物語をロマンスと言ったらしい。
しかし、一般的に、ロマンとは、精神に情熱、高揚、憧憬を起こさせる何かと言って良いと思う。
一般的には人は損得で動くと言うし、ディール・カーネギーは、人が最も求め、行動の最大要因となるものは自己重要感であると著書「人を動かす」に書いている。ナポレオン・ヒルは、いや、性エネルギーだとしていると思う。
アメリカ的自己啓発では、目標設定の力が、人を行動させるのに最も効果的であると言うものもある。
しかし、私は、人を人らしく動かすのは憧憬だけであると思う。
いかなる自発的な動機の中にも憧憬があるのだ。
だからこそ、何かにエネルギーを注いできた人たちは、自分のやっていることをロマンと言うのだと思う。
情熱や元気、勇気も、憧憬を根源として生まれるものであることは間違いない。
そして、10代の時の憧憬というものは一生を左右するものであろう。
画家の横尾忠則さんもそのことを指摘し、自分の芸術の源泉が、少年時代に夢中になった冒険小説やターザンであるということを本に書かれていたと思う。
死後半世紀が過ぎても、多くの巡礼者の絶えない、南インドの聖者ラマナ・マハリシは16歳の時、たまたま家にやってきた親類の男に聞いたアルナチャラという場所に憧憬を持ち、ついには家を捨ててそこに行き、一生をそこで過ごすことになる。
作家のよしもとばななさんは、横尾忠則さんとの対談で、やはり自分の想像力の源が子供の頃に見た特撮ドラマ「河童の三平」(原作は水木しげるさん)だと言われていたようである。
子供の頃に「ルパン三世」を夢中で見た人なら、ワルサーP38の精巧なエアガンは生命力を高めてくれるお守りになるに違いない。そういえば、初代仮面ライダーの変身ベルトは、やはり当時のファンであるおじさん達に売れているようである。
多少高価でも安い投資である。それで生きる力を得られるなら。
もっとも、人の中にある最も深い憧憬は神話や伝説の中にある。
そこには、古代の聖者によって究極の真理が埋め込まれている。
畏敬を感じるものの中に深く分け入った時に光に触れる瞬間がある。
生命である我々がそれに憧憬を抱かないはずがない。
我々にとって、「古事記」や日本の昔話の貴重さは、いくら強調してもし過ぎることはない。かぐや姫が、いかに地上で精神的にも大きく成長し、ひときわ憧憬に足る存在になったことを我々は見逃している。
古典の熟読をお薦めする次第である。
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2009.07.05
水野南北は、道中差しを肌身離さなかったようだ。
道中差しというのは、日本刀の一種である。刃渡りが2尺(約60cm)以上の刀の帯刀は町人や農民には許可されなかったので、それよりも短いものを道中差しと呼んだのである。
水野南北が持っていた道中差しは1尺2寸7部、約48cmである。
水野南北は、生涯、よく旅をした。江戸や大阪といった都市は、取締りが厳しく、牢屋敷にでもいれられたら生きて出られないことも珍しくなかったせいか治安は良かったのだが、やはり都市を離れると、危ない場所もあったのであろう。それに南北は、元々はハンパ者とはいえヤクザである。人間の危なさをよく知っていたはずだ。
ただ、水野南北が、その道中差し以外のものを何か持っていたという話も聞かない。
天下に鳴り響く観相家で、大金持ちであったが、厳しく食を節し、あらゆることに質素であった南北に必要だったのは、この1本の道中差しだけだったのかもしれない。
あるマタギの首領が、コヨリと呼ばれる小刀を、肌身離さず身に付けていたという話を聞いたことがある。やはり護身の目的が強い。
宮本武蔵もまた護身のために、いかなる時も木刀を手元から離さなかった。
彼らも、モノには執着しなかったと思う。
1つの武器は、モノへの執着を絶ったことを示す証にも思える。
不思議なことに、私は水野南北の教えに傾倒し始めた頃から、南北を想像でイメージすると、腰に短い刀(道中差しであろう)を付けている様子が浮かんだ。そして、最近、上に書いたように水野南北が、道中差しを常に身に付けていたことを知り驚いた。
水野南北の道中差しの名は池田鬼丸国重。
この道中差しは、南北の死後、八助という男の手に渡っていた。
八助は、元武士である。それが、ヤクザ時代の南北の弟分で、南北が観相家になった時もヤクザ者を続けていた男の手下になっていた。
南北は、この元弟分に足を洗うよう薦め、死相が出ていることを告げるが、元弟分は聞き入れず、南北にすらすごんでみせる始末であった。元弟分は殺された。
ところが、その遺体をわざわざ寺まで運んだ八助の人の良さに惚れこみ、南北は八助を弟子にしたのだ。
しかし、八助は、観相の才能は全くなかった。
それでも、南北は、「南北相法手引き」の序文を八助に書かせ、八助を感激させた。
時が過ぎ、南北の弟子が増えていく中で、才のない八助は肩身が狭かった。
そんな中、南北は、汁屋1件に家財道具を付けて買い整え、おまけに可愛い女中まで付けて、八助に渡す。八助は、観相は下手でも料理は上手かったのだ。その女中は、最初から八助の女房にさせるつもりだったのだろう。そして、実際に八助はそうした。八助の店は繁盛し、幸福な一生を送ったようだ。
~以上、神坂次郎著「だまってすわれば 観相家・水野南北一代」より~
水野南北の人柄を知る良い話と思う。
私は、ますます、南北の教えを貴び、食を慎もうと思った。
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2009.07.04
今日、スーパーに買い物に行ったら、スーパー内に、自由に七夕の短冊を書いて、その場でかけられるようにしたものが設置されていた。
高さ1.8メートルくらいの、笹の木に見立てたものには、ぎっしりと短冊がかけられていた。
文字の様子から見て、ほとんどが、子供か、せいぜいが高校生くらいまでが書いたものと思われる。
内容は、あれが欲しいこれが欲しいとか、CMに出たいとか、試験の順位向上といった、渦巻く欲望で、その場の気がすっかり汚されていたように感じ、近付くのも嫌だった。
先月放送された、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の新作作品「笹の葉ラプソディ」で、SOS団団員達が、ハルヒに命令されて急遽書いたものだが、私は、長門有希と朝比奈みくると古泉一樹が書いたものを見て楽しく思ったものだ。ただし、25年後か16年後に叶えて欲しい夢である。これは、織姫、彦星にあたるベガとアルタイルまでの距離が、それぞれ、25光年と16光年であるからだ。ちなみに、それなら往復時間で考えなければいけないのではという指摘は、ハルヒの「神様なんだから、それくらいなんとかしてくれるでしょ」という見解で一掃された。
SOS団団員の願いは以下の通りだ。
◆朝比奈みくる
お裁縫がうまくなりますように
お料理が上手になりますように
◆長門有希
調和
変革
◆古泉一樹
世界平和
家内安全
である。恥じ入れ!欲深なガキ共!
ちなみに、主人公2人は、
◆涼宮ハルヒ
世界があたしを中心に回るようにせよ
地球の自転を逆回転にして欲しい
◆キョン
金くれ
犬を洗えそうな庭付きの一戸建てをよこせ
である。
ちなみに、私の理想は、長門有希が書いたものと同じだ。
しかし、今はまだ、個人的な夢もなくはない。長門までの距離は遠い。
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私は、喉が弱いこともあり、また、仕事がら目と頭脳を酷使するので、ブルーベリーエキス入りと、低カロリーのココア味のキャンディを摂っていたが、やはり1日1食の常に空腹な身には、あまりに美味しすぎて快感なので、どんどん量が増えてきた。煙草や酒も、このようなものかと思った。1日にそれぞれ3~4個ずつでは、体重が増えることもなかったのだが、先々週に、これらを摂るのをピタリと止めることにした。そして、簡単に止められたので満足できた。こういう経験をするためなら、時には余計なものを食べてみても良いかもしれないと思った。
今年98歳のはずだが、相変わらずご活躍と思う医師の日野原重明さんは、夕食だけの1日1食であるが、昼にビスケット1~2枚を食べるらしい。ただ、ビスケットをたかだか1、2枚食べても栄養を摂るというほどではないので、おそらく、単なる気分転換や、ちょっとした楽しみみたいな感覚ではないかと思う。
また、水野南北は、大金持ちでありながら、常に麦飯で、野菜は市場に落ちているものを集めて汁を作ったというくらいの粗食で少食であったが、酒は1日1合(約180CC)は飲んだと言う。
このように、食を厳しく慎んではいても、ちょっとした楽しみはあっても良いと思う。
ただ、私の場合、上に書いた通り、どんどん量が増えるようなので、やはり食事以外は何も摂らないことにした。意思の弱い者の哀しさである。
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2009.07.03
我々は、単に作りものの権威を盲目的に信じていることに気付いていないこともある。
例えば、プロボクシングの世界王者にはWBC王者とWBA王者があることをご存知かもしれないが(他にもIBF王者があるがここでは省く)、これは、「WBCという団体の認定する世界王者」、「WBAという団体の認定する世界王者」といった意味である。では、そのWBCとかWBAとは何かというと、実際のところは、単にお金持ちのプロモーターが設立した団体に過ぎない。
いや、オリンピックを管理するIOCだって、単に規模の大きな私的団体である。
ボクシングの世界王者にしろ、オリンピックのメダリストにしろ、それをどのように評価するかは全く個人の自由である。何の評価にも値しないと考えたって、その価値観に何の欠点もないのである。
あなたがボクシングの世界王者を認定する団体を作り、そこで世界王者を認定しても良いのである。自分を世界王者に認定すれば、あなたもボクシング世界王者である。
プロレスリングでは、そんな雰囲気のことがよく行われ、世界王者という者が非常に沢山いたりするのである。ただ、その団体の営業力が大きいほど権威があるように見せられるに過ぎない。
さらに言えば、国家なんてものも、富や軍事力の運営団体に過ぎないとも考えられる。
ただ、国家に精神的な何かが存在することで、次元の異なる権威を持つことになるのかもしれない。とはいえ、その場合も、その権威が単なる幻想であると言えるかもしれないのである。いや、幻想と言い切っても良いのであるが、幻想が必ずしも悪いわけではない。幻想とは美しいものでもある。
日本のように、皇室の起源が、ほとんど国家の成立と共に始まるというのは、海外に例がない。しかも、歴史の中で、皇室に大きな財力や軍事力がなかった時期も少なくなかったにも関わらず、全く途絶えることがなかった。
さらに、実権のある将軍も、天皇には必ず平伏した。権力よりも権威を重んじる美徳がいかなる時にもしっかりとあったのだ。これを見ても、日本が、非常に精神性を重んじた国であることは間違いないと思われる。
だが、近年では、精神性よりも物質性を明らかに重んじ、精神を非常に軽く見なすようになった。
物質次元を超える幻想こそ芸術であり、そこに高貴な秩序を備えたものが本来の宗教であった。
物質を過剰に追い求めることが、日本という国の滅びに結びつくのである。逆に、日本が、本来持っていた高い精神性を発揮するようになれば、世界の精神的な主になるのであるが、現在のところ、それは有り得ないことであると言うしかない。
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2009.07.02
嬉しい本が先月出版された。
「新修 南北相法・修身録(全)―開運の善導とその極意」(水野南北著。水沢有訳。東洋書院)
この本は、水野南北の「南北相法」と、「相法修身録」を同時に収録した貴重なものである。
私は、あらゆる書物の中で、これほど重要と思うものは他に知らない。
それぞれについて、簡単に説明する。
●南北相法
相法とは、顔をはじめ、身体全体の様子から、運命を鑑定する占術である。
学問のなかった水野南北は、水野海常に相法を3日3晩にわたって口頭で教わり、後はひたすら実践で磨く。その実践は半端ではなく、髪結い、銭湯の三助(背中流し等のサービスマン)、埋葬屋などで10年以上に渡り、人間の相の観察と鑑定を行った。加えて、南北は、天来の才能と、ヤクザ家業で磨いた人間に対するカンや話術も大いに活かし、やがて、「黙って座ればぴたりと当たる」とまで言われる、天下に鳴り響く観相家となる。
南北の鑑定料は高額であるにかかわらず、鑑定希望者は押し寄せ、南北は大金持ちとなるが、家屋敷などは後援者も喜んで提供していた。
尚、お気付きと思うが、水野南北は本名ではなく、相法の師匠である水野海常にもらった名前である。
水野南北が完成させた南北相法のテキストの第一部は、南北の高弟達が著したが、第二部は南北自身が10年以上をかけて著し、最初の千部は無料で配布されたという。
南北相法は分りやすい図入りであり、さらに、この東洋書院の本は、実に分りやすく記述されている。
何と言っても、「ぴたりと当たる」南北相法がそっくり入手できるのは凄い。
●相法修身録
南北相法は完璧であり、欠点はない。
だが、実際の鑑定においては、百発百中とはいかない。
しかし、南北は、鑑定に「食」を取り入れることで万に一つの外れもなくなったと言う。
相法的には幸運であっても、飽食、美食であれば悪運であり、逆に、相が悪いはずの者でも、食を慎むなら幸運である。
そもそも、水野南北自身が、最悪と言えるほどの貧窮短命の相であり、実際、16歳の時にはチンピラヤクザの兄貴分を気取っていたが、捕えられ、牢に入れられる。当時の牢屋敷は、今の刑務所とは全く異なり、生きて出られる保証など全くなかった。それでも気力を振り絞って刑期を務め、牢から出た後、水野海常に出会うも、後半年の命と言われる。しかし、麦と白豆しか食しないなら助かると言われ、その通りにして命拾いをする。その後、水野海常の弟子になったのは上に書いた通りである。
私は、この「相法修身録」さえあれば、極論すれば相法の方はいらないと思う。そして、実に水野南北自身もそう言っているのだ。水野南北は「食が全て」と言う。食を慎みさえすれば幸運となり健康でいられる。逆に、食の慎みがなければ、相法的にはいかに幸運長寿の相であっても、貧窮短命である。
水野南北自身、相法的には最悪の相であるに関らず、大長者となり、当時では異例の78歳まで生きた。
「相法修身録」は、別の著者による翻訳が、私の知る範囲で3度ほど出ているが、そのどれもが絶版となっている。このような素晴らしいものが入手できないとは世も末と思っていたが、完全版が今回出た。
3990円とやや高いが、購入、熟読をお薦めする次第である。
余談である。
ソクラテス、孔子は、天下に鳴り響く賢者ではあるが、悪妻に悩まされた。
水野南北は、これら学問の人とは全く異なるが、賢者と言って良い。
その水野南北はどうだったかというと、やはり最悪であった。
実に18人もの妻を娶るも、ことごとにひどい悪癖(淫乱、浪費等)に苦しめられた。
弟子達は、「南北先生ともあろう人が、自分の嫁の鑑定を誤るとは・・・」と呆れたが、好きな女とは鑑定外のものなのであろう。もちろん、自分のそのようなことを著書に書くはずもないが、著書の中に「男は小人物であっても理を解するものだが、女はそうではない」とか、「志あるものは妻をもらってはならない」と実感のこもった箴言を忘れない。
だが、南北の立派なところは、18人もの妻を全て正妻として迎え、妾などではなかったことである。
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少食を行うには、精神的な楽しさのようなものが励みになるのではないかと思う。
高貴で美しいことをしているというすがすがしさ。
神秘なことをしているという喜び。
徳を積んでいるという満足といったことを感じても良いと思う。
そして、これらは、全くその通りなのだ。
食を慎むこと以上の高貴なことはないし、食を慎んでいる者以上の美しい存在もない。
食を自らの意思で慎むことは神秘であるし、食を慎むことに優る徳はない。
よって、食を厳しく慎む者には、あらゆる福寿が与えられるし、天もこれを守護するのである。
また、食を慎むと、苦しみと同時に不思議な感動が沸いてくる。
時には、大きな力が与えられることもあるが、それはない方が幸福であると思う。
与えられた力に応じた魔も降りかかるからである。
魔に対抗するには、さらに大きな力が必要であるが、それには、食の慎みに加え、更に自らに制限を加える必要がある。
食の慎みもそうであるが、人の力というのは、自己に加えた制約(掟)に応じて顕れるものなのである。
力となる制約を加えるべきものは、まずは食、そして、その他のあらゆる欲望である。
力ある者は、あらゆる欲を捨てなければ破滅するのである。
秘密裏に存在する、強力な術者の集団に厳しい掟があるのは当然のことなのである。
参考程度に述べるが、仙人という者の中には、美味しいものを食べ、美しい乙女を抱き、心地よい住居を得、幽玄な音楽を聴き、素晴らしい自然を堪能するという、個人的満足に撤する者もいる。だが、それらとて修行の成果であり、ごちそうや酒を存分に楽しんでいるかと思うと、何年も食を絶って過ごしたりもするのである。
御殿のようなところに住んでいるかと思うと、次の日には乞食になっている。
風流なプレイボーイとして、毎夜、乙女の吐息を聞いているかと思えば、禁欲的な僧侶になることもある。
そのような自由自在な存在でなければ、最下級の仙人である氷解仙にすらなれない。
いずれにしても、まずは食の慎みであり、同時に特別な心の修養を重ねることで仙人になれることもあると思う。
尚、仙人そのものにならずとも、仙人の術を授けられるという例は時たまあることを述べておく。
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2009.07.01
NLP(神経言語プログラミング)の気楽な話をする。
NLPは、アメリカで生まれた能力開発技術だ。
良きにしろ悪しきにしろ、私には随分と縁があるようだ。
NLPを作ったのは、リチャード・パンドラーだ。
リチャード・パンドラーは、元々が数学者で、コンピュータの研究をしていた。
それが、何らかの理由で精神療法や心理学を学ぶようになったのが、NLPを作るきっかけになった。
パンドラーは、世界的な催眠療法家である精神科医、心理学者のミルトン・エリクソンを崇拝し、その技法をNLPに取り入れている。さらに、パンドラーは専門である数学やコンピュータ理論を効果的に活用している。
ところで、私がNLPという言葉を知ったのは、いまや自己啓発の世界的カリスマである、アンソニー・ロビンズによってである。
ロビンズは、元々、パンドラーの弟子であった。
それが、どういう経緯かは知らないが、独自に能力開発セミナーを行うようになった。最初の頃は、NLPを前面に押し出していたと思う。
ロビンズは、空手の板割りや煉瓦割りを披露したりもしたが、何といっても、ロビンズを有名にしたのは火渡りだ。燃えている炭火の上を裸足で歩き、また、セミナー受講者を誰でも歩かせるのである。
ロビンズの活動を、師匠のパンドラーがどう思っているのかは知らなかったが、パンドラーの本に、誰のこととは書いていなかったが、明らかにロビンズの火渡りを批判することを書いていた。あんなことは簡単に出来ることであり、NLPとは関係ないといったようなことだったと思う。
かつての師弟は良い関係にないことが感じられた。
では、師匠のパンドラーと弟子のロビンズのどちらが優れており、また、どちらが成功しているかというと、何とも言えない。
一般向けに派手な宣伝が上手いこともあり、ロビンズの方がはるかに売れている印象はあり、書籍のベストセラーも多いが、パンドラーのNLPやエリクソン療法に関する書籍もロングセラーとして着実な支持があるように思う。
さて、先程も書いた、パンドラーがロビンズの火渡りは簡単なことと本に書いていることであるが、本当に火渡りは簡単なのであろうか?
実際、ロビンズの火渡りについて、多くの人が意見を出しているようである。
ここで、物理学者(専門は量子物理学)である、フレッド・アラン・ウルフの著書「聖なる量子力学 9つの旅」を取り上げたい。
フレッド・アラン・ウルフによる、一般向けの量子物理学の入門書である「量子の謎をとく」は全米書籍賞“The American Book Award”を受賞しているが、他にも多くの書籍がある世界的な量子物理学者だ。
フレッド・アラン・ウルフは、実際にロビンズの火渡りを体験しているのだ。
熱さは感じなかったが、足に火ぶくれは出来ており、間違いなく高温であったと言う。
そして、論理的には、この火渡りがなぜ可能かは不明だと言う。
フレッド・アラン・ウルフは、ロビンズを評価している。ただし、それは、例えロビンズの火渡りが、パンドラーの言うとおり、簡単な子供騙しであったとしてもだ。
優れたシャーマンの中にも、明らかにトリックを使う者もいるらしい。
しかし、そのパフォーマンスにより、人々に意識変革を起こさせることこそが、シャーマンの目的なのであり、その意味でも、ロビンズの火渡りには大きな価値があると言えるかもしれない。
日本でも、セミナーで、名刺による割り箸切りや、スプーン曲げ、電話帳裂きなどを取り入れている人がよくいる。
あるいは、風船を割らずに針や、そればかりか、割り箸を突き刺すようなパフォーマンスをしたりする。
これらこそ、ある意味、子供騙しと言えるほど簡単なことで、私にだって全部簡単にやれる。
しかし、初めて見る人はやはり驚くし、演出によっては、程度の大小はあっても、意識変革を起こさせることが可能かもしれず、決して馬鹿にしたものでもない。
尚、私は、NLPのテクニックを使って、かなりの飲酒癖のある女性を、酒が飲めないようにしてしまったことがある。
考えようによっては、これもシャーマンの技のように感じるが、NLPの効果は大したものである。
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古代マヤ暦は、2012年12月22日にあたる日に終わっているという。
その日に、現在の人類は終焉すると予測されるが、私には、それは当然と思える。
その根拠を尋ねる人を私はむしろ疑う。
私だって、「分かってしまうんだから仕方ない」とまでは言わないが、ごく自然なことに思えるのだ。
人々を、社会を、日本を、そして、おぼろげながら世界で起こっていることの情報を得ると、それは純粋にして明晰なことだ。
2012年12月22日に、現在の地球文明は終わる。それまでに破滅が訪れるように思うが、詳細までは分からない。
ただ、最近、エハン・デラヴィの「地球巡礼者」(ランダムハウス講談社)という本を読んだが、デラヴィは「恐れることはない」と言う。私もそう思う。
もちろん、意識を変革できない人は、恐れるも何もない。新しい地球があるとしても、そんな者はその新しい地球に適合しないだろうし、実際に消え去ることになる。だが、全く消滅するわけでもないように思える。かなり過酷なことになるかもしれないが、進化のチャンスが奪われることはないように思うが・・・私には何とも言えない。そもそも、私がアセンションできるか今のところ全く不明だ。別に謙虚になった訳でも何でもない。イエスの言うように、私財全てを捨てる必要があるように思う。私は持ち過ぎている。
ただ、お金もすぐに不要になる。お店に行っても、食べ物なんか置いていない世の中になる。とりあえずは、カップラーメンが1つ5千円とか、もっと高くなる。そして、それすら無くなる。お金なんかいくら持ってても何の役にも立たなくなる。
私は一応、食料の備蓄はしているが、そんなに大量ではないし、多分、近所の人なんかに一瞬で全部あげることになるとは思う。そうしたら、公然と餓死できるのである。だが、そうなったらなったで、ブリザリアン(食べずに生きられる生物)になるような気もする。別にどちらでも良いが。
新しい地球・・・見れるなら見てみたい気もする。
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