はてなキーワード: 弱虫とは
仕事から帰ると妻はソファに寝そべり、両手でスマホを持って見つめていた。
ソファの片隅にはブランド品の紙袋。クリスチャン・ディオール。
晩御飯に吉牛を頼まれ、テイクアウトの袋をテーブルに起きながらコートを脱いだ。
妻は顔を上げない。
「晩飯、買ってきたよ」
「…ん? ああ、おかえり」
妻はスマホから目を離さない。ちらりと覗くとメルカリの画面が目に入る。
微かな舌打ち。SOLDの赤白文字。
「クリスチャンディオールはもう死んだよ」
「はっ?」
妻は初めてこちらを見た。
「デザイナーのクリスチャンディオールはとっくに死んでるってこと」
妻は微笑を浮かべる。
「だから何?」
「クリスチャンディオールはとっくにもう死んでるんだよ」
僕は妻が聞こえないほどの小声で繰り返した。暗唱するように。
それでも妻は再びクリスチャン・ディオールの紙袋を並べるだろう。
無地の袋から吉牛二つを取り出すと、割り箸が入っていないことに気が付いた。
仕方がないのでキッチンへと向かう。
子供の頃、母ががんになった
酷い泣き虫でとても一人にはしておけない娘を前に、母は何がなんでも生き残らねばと決意した、と聞いた
無事手術は成功したが、その後も長く放射線治療と検査を受けていた
他にも腫瘍ができ、これが悪性だったら余命はもう数えるほどだと宣告されたこともある
それでも母は苦しい治療を受け続けていた
主治医に完全寛解と経過観察の終了を告げられた時、私はもういい大人になっていた
つい数年前のことだ
今日で長い病院通いもおしまいになったよ、と聞いた時、私は最初に「生きていてくれてありがとう」と言おうとした
母がそばで生きて育ててくれたから、泣き虫で弱虫な私は一応の大人になれたのだ、それは当然じゃない、母の決意に支えられた私の幸運だったのだ
でも、まるでそれは「あなたの人生は私のためにあった」と言っているみたいで
母の生は母だけのもののはずで、生きようとしたのもそれは彼女個人の決意とその結果であって、そこに他者である私が感謝を表明するのは筋違いでは、と思ってしまったのだ
ただでさえ、まだ女性が自由にはライフプランを選べなかった時代の人に、「母として生きてくれてありがとう」というのは失礼なのではないか、と
そして「生きててくれてありがとう」ということで、私はこの先の彼女の人生の自由もやんわりと縛ってしまうのではないか、と
結局私は、「私は、お母さんがこれまで生きていてくれて本当に助けられた」という、謎に突き放したような感想を表明したのみだった、母はリアクションに困った顔をしていた
なにか贈り物なんかもしなかった
某SNSで似た言葉を見かけ、自分のそのことを思い出して、もっとちゃんとお祝いすれば良かったと後悔しているような、でもやっぱり私にとってはあれで正しかったと思うような、割り切れない気持ちでいる
正解はなんだったんだろうか
今だって母にはこれからも元気に長生きしてほしいが、それを彼女が望んでいるかはわからないし
人をおもうというのは難しいことだ
病気でも育休でもサボりでも人が抜けた分の穴を気にするのは管理職の仕事であって、末端の労働者が考える事ではないと思う。じゃなきゃ管理職って何をすんのって話だし。
誰かが休んで迷惑だってんなら、その程度で回らなくなる環境にしてる管理職に文句を言ったらいいと思うけど、そんな勇気はない。
いくら正論であっても、感謝や助け合いが絶対だ。それが常識だ。みたいな宗教の前には無力。あるいは別の正論をぶつけられるかもしれない。
そんな弱虫達の会社での処世術が積み重なって、社会人の常識とやらになっていく。
そんなもんなのかもしれない。
強くなりたいぜ。
でも労働如きのために動くのも怖いし、同僚を責め立ててその時を凌げるならそれで良いかもしれない。
労働者達よ立ち上がれ!と声を上げてただただヤバい奴と認識されるよりは、その方がラクかもしれない。
でもせめてもの抵抗として、対等な立場にある同僚を非難しないようにはしている。
さりとて、私が欠勤する事は事前に想定されるべきものであり、業務に多大なしわ寄せが生じようとも私の責任ではありません。あなた方が私を責めるのは全くもって見当違いです。
と面と向かって言われて、そうだその通りだと思えるだろうかとも思う。
働きたくないンゴねぇ……
働かずに金がないなりの暇潰しをして生きるよりもそれなりに良い暮らしをしたいから、それを秤にかけて嫌々働きはする。けどやっぱり労働はダルいって言ってんの。
それくらいの事もいちいち説明されねーと分かんねーのか?バカが。
そんな陳腐な相対化をした所でおれの心が瘉える訳でも余暇が増える訳でもないが?バカが。
そうやって謙虚さと弱腰を履き違えてる労働者が資本家をつけ上がらせてナメられんだよゴミが。
自分の欲求も分かってねえ弱虫、自ずから湧いてくる欲求もなくなった老人は感謝とか義務とか、外から与えてもらえる宗教がねーと働いてらんねーもんな。働いてねーと暇で仕方ねーもんな。雑魚が。
敵「金で得られる快楽やモノなんて虚しいよ?」
一億歩譲って浪費に飽きたド級の金持ちに言われるのならまだしも、テメーは誰なんだよ。
俺は車を乗り回す楽しみも高級時計を着ける満足感も知らねー。資本主義に刷り込まれた欲求だろうが、一度おれの心に入り込んだのならそれはもうおれのものなんだよ。
たとえ後になって虚しいものだと思ったとしても、それはおれが実際に体験して初めて納得が生まれんだよ。
手にした事のないものを最初から諦めて腐しても、それは酸っぱいブドウにしかならねーんだよカスが。
いくら金のかかんねー読書が素晴らしかろうが、知識が散歩を豊かにしようが、別種の飢えから目を逸らす言い訳にはならねーんだよゴミが。
ゴータマ・シッダールタが捨てるものすらなく最初から持たざる者だったら悟りを開けたか?自分を差し置いて豪邸の門の前で苦しむ者を見て、何かを思えたかよ?