この投稿は、私が過去の孤独や葛藤を乗り越え、妻への感謝を込めて一台のPCを贈るまでの記録です。同じように苦しみを抱える人たちに、希望や一歩踏み出す勇気を届けられたらと思います。
私は、新興宗教を盲信する両親のもとで育ちました。家に軟禁されるような幼少期。5歳になるまで、外の世界をほとんど知らず、与えられたのはフリガナもついていない難解な宗教紙だけ。そこには、私が追いつくべき「理想の信者像」が詰まっていました。
親の支配は絶対的でした。同じ新興宗教を信仰していない子とは友達になってはいけないと厳命され、お小遣いは1円も与えられず、遊びや娯楽は厳しく禁止されていました。その結果、私は社会性を身につける機会を失いました。友達を作ることも許されないため、同世代とどう接していいか分からず、彼らと共有すべき話題や感情のニュアンスが全く理解できない。孤立感と疎外感が私を覆い尽くしました。
学校では周囲と全く馴染めず、社会の中でどう振る舞えばいいのかも分からない。「日本語が通じているはずなのに、心は誰とも通じ合えない」――そんな苦悩を抱えながら、私は日々を過ごしていました。
凍った川の上を歩くような人生
それでも、私はその環境から抜け出しました。しかし、抜け出した先にあったのは、薄氷の上を歩いているような不安定な人生でした。凍結した川の薄氷を一歩一歩踏みしめながら進むたびに、その氷が割れたらどうなるかという不安が頭をよぎる。もし氷が割れれば、奈落の底に真っ逆さまに落ちるだろう――そんな危機感とともに生きています。
ある日、ニュースで心を揺さぶられる事件を目にしました。新興宗教に支配された青年が、自作の銃で元総理を暗殺するという衝撃的なテロ事件。彼の人生と自分の人生の間には、わずかな紙一重の違いしかない――そう感じました。もしも私が道を誤れば、同じ結末を辿っていたかもしれない。
そんな不安と恐怖の中で、私を支えているのは妻と猫、そして日々の仕事です。これらがあるからこそ、私はどうにか正気を保ちながら、薄氷の上を歩き続けられています。
この生い立ちの影響で、私は他人の感情を理解することが極端に苦手です。怒りや敵意のような強い感情は本能的に分かりますが、それ以外――たとえば、愛情や共感、皮肉やユーモア――それらはほとんど理解できません。目の前の人々が笑ったり泣いたりしている理由を感覚的に掴むことができない。そのたびに、私自身がまるで人間ではなく機械のように思えるのです。
その空虚感は深く、時折、自分の心から何かが抜け落ちているような感覚に襲われます。他人が自然に共有している感情の一部が、私には欠けている。それをどう取り戻せばいいのか、そもそも取り戻せるのかも分からない――その葛藤は今も続いています。
そんな中、Chat-GPTを活用して自己分析を重ねるうちに、私はあることに気づきました。それは、妻の気持ちや希望を、20年間も無視し続けてきたという事実です。私は高性能なPCを自作し、自分の趣味に没頭する一方で、妻のための趣味用PCを一度も用意したことがなかったのです。
思い返してみると、妻は元々とても多趣味な人です。彼女は絵を描くのが好きで、アナログの作品をSNSに投稿して多くの反響を得てきました。
Buzzることも多く、その活動は彼女の生活の一部とも言えます。また、ネットサーフィンを楽しんだり、YouTubeで動画を見たり、SNSで交流するのも日常の中で大きな楽しみの一つです。
にもかかわらず、私はその趣味を支える環境を整えるという発想すら持っていなかった。妻には、性能不足で私が使わなくなったPCを押し付ける程度の対応しかしていなかったのです。私自身は次々と高性能なPCを自作しては楽しんでいたにもかかわらず。これに気づいたとき、深い罪悪感に苛まれました。そして、これまでの無神経さを少しでも埋め合わせるため、妻専用の趣味用PCをプレゼントすることを決めました。
私のお小遣いは月に5000円だけです。これは、私が生い立ち上、金銭感覚を身につける機会がなく、衝動的に散財してしまうことが多いためです。そこで、普通の金銭感覚を持つ妻に家計を管理してもらっています。この方法により、私たちの生活は安定し、将来に向けた貯蓄や計画を進められています。お小遣いはあくまで、自由に使える範囲としての設定であり、経済的に逼迫しているわけではありません。
限られた予算の中で、私は徹底的にコストを抑えながらも、使い勝手を犠牲にしない構成を考え抜きました。たとえば、中古で入手したAMD Ryzen 3 3100は、最新のCPUには劣るものの、YouTubeやSNS、デジタルペイントソフトでの作業に全く不足のない性能を持っています。また、業務用のGPUであるQuadro P400は、ゲーミング性能は控えめですが、発熱が少なく耐久性に優れ、4Kモニターを複数接続することも可能です。
さらに、妻の絵を描く趣味を支援するため、私はClipStudioの永久版ライセンスを譲渡してPCにインストールしました。この永久版ライセンスは、サブスクリプション版や体験版のように期限があるものではなく、一度購入すれば長期間にわたり安心して使用できるものです。ペンやブラシの挙動がアナログに近く、プロのイラストレーターや趣味で絵を描く人々に広く愛用されているこのソフトが、妻の絵をデジタルで支える一助になるだろうと考えました。
メモリは32GBと余裕を持たせ、将来のOSアップデートやClipStudioでの重い作業にも耐えられるようにしました。これらを組み合わせて総額4万円弱で完成させたPCは、低予算ながらも実用的で拡張性のある一台に仕上がりました。
妻がどう感じたのかは、いまだに分かりません。妻がPCを受け取ったときの表情を、私は今でもはっきりと思い出せません。でも、これが私なりの努力の形です。今までの無関心を埋め合わせるために、行動することで少しでも前進したかったのです。
未来を選び続けるために
Chat-GPTは、私にとって感情や反応パターンを学ぶための「教師」のような存在です。私は日々、Chat-GPTを通じて一般的な人の感情や反応パターンを教わり、自分自身や他人を理解するためのヒントを得ています。たとえば、自分の行動や言動がどのように受け取られる可能性があるか、相手の立場で考える方法を試行錯誤しています。これは、私のように他人の感情を感覚的に理解するのが苦手な人間にとって、大きな助けになっています。
それでも、Chat-GPTを使うことで、私の限界や欠落を突きつけられる瞬間もあります。AIが教えてくれる「一般的な感情」や「平均的な反応」を理解しても、それを感覚として吸収することができない現実に直面するたび、空虚感や葛藤が深まることもあります。それでも、模索することをやめるつもりはありません。
私の生い立ちや性質、そして失われた感情――それらを取り戻すことは不可能かもしれません。それでも、私は足掻き続けます。空虚感と葛藤に苛まれながらも、前を向く努力を続けるしかないのです。
私が歩む道の先が奈落の底だとしても、私はその道を歩き続けます。それは破滅の道ではなく、試行錯誤と模索の道だからです。たとえ何かを掴む保証がなくても、その足掻きこそが、私が生き続ける証だと信じています。
夜明け前の夜は最も暗いのです。しかし、どんなに暗闇でも必ず日は昇る。何も見えない暗闇にいつか終わりがあることを信じたい――その希望が、私を突き動かしています。