鬼の会の提唱は「古紙で歳入を計るべし」

2004/06/26 (Sat)
他の市町村が素直に実行している行為を、なぜ? 米沢市だけが頑なに実行を拒みつづけているのか。小生は不思議でならない。しかも、最高裁判所が違憲だという判例を下しているのにもかかわらず、自由競争の原理を阻害しようとする行政とはいかなるものか。吉田環境生活部長は「随意契約は良いのだ」と法律を拡大解釈する不埒さ。議会の答弁にあたっては、訳のわからない法律論を延々と並べ立てて悦に入っている低能な感覚は見上げたものだが、鬼の会はどこまでも行政の思い上がりと市民を軽蔑した発言を追求する手は一向に休めない。
行政は、高値で売れる古紙を業者に買い取らせることを考えなければならない一番の課題なのに、業者癒着を優先させる行政感覚は打破しなければならない。鬼の会の目的はそこにある。こんな単純なことが理解と実行に移せない担当部署の職員たちと、裁量権者の市長を弾劾するのは市民として当然の行為であり、哀れな闘いなのである。
行政職員の無知さが一般社会から遊離していることさえも思い至らない哀れさ。こんな職員が在職しているうちは米沢市の未来は開かれるものではあるまい。
加えて裁量権者の無能さは、いかばかりか。これに怒らない市民の体質とはどんなものであるか。市民よ、ともに行政の頑なな姿勢に怒りをもとうじゃないですか.

吉田茂と徳田球一との関係

2004/06/26 (Sat)
共産党議員の高橋ひさし氏なら知っていることだろうが、「共産党の活動資金はどこから出ているのか?」という素朴な疑問が国民の中にあったはずだ。古田茂は徳田球一を大変かわいがったことで知られている。ところで共産党の活動資金の出場所はというと意外にも株価操作によるものだった。労働組合最盛の頃、某会社の直系労働組合にストライキを命じる。ストライキに入れば、会社の株価は必然と下落する。下落したところで株を購入し、予定通りの購入をおわったところで、ストライキの中止命令を出す。ストライキがおわれば確実に株価は上がる。頂点に達したところで全株を放出する。そのカラクリで資金を作っているのだと聞いた。しかもその指南番が吉田茂だったという逸話を知っている。共産党といえども、実際には資本主義経済を巧みに操作して実益を得ていたということだ。また、「日曜版赤旗」の講読については故桐生元市議の豊かな人格が講読者を増やしたものだ。
高橋ひさし議員に一言。
貴殿は「議事録を読め」とさかんに言うが、議事録はどうして出来上がるものか、そしてその時期とは何時か?貴殿の意見は希薄すぎる。
6月議会の議事録が出来上がるのは9月頃であること、その作成は議会事務局職員の手になるものでなく、なぜか外部への業者委託だということ、を熟知しておくことが大事である。
共産党の元県会議員、鶴岡の小竹氏・山形市の元県会議員松浦氏とは親交があり、奨められて「文化評論」誌を廃刊まで読み続けた実績が小生にはあるのです。したがって、共産党とはなにか?ぐらいは教養の域を出ないまでも存じあげての批判であることをご承知おきくださるよう。
政治の矛盾や汚濁などに対して純粋に闘う党であるべきです。その点で国民の支持があるのであって、貴殿のように与党側にスタンスをとるようでは魅力半減するものだということを肝に命じて行動されんことを、党の理念を尊重して日々活動に邁進していただくことを願うものです。
そんな折り、鬼の会が提唱する行政側の古紙問題に矛盾に力を貸していただきたいと思うものです。全国の市町村がこぞって、古紙で歳入を計ろうと知恵を絞っている現在、なぜ行政は頑なに、一社との随意契約を継続し、米沢市に入るべき年間5~6千万円にものぼる収入の道を閉ざそうとしているのか。
当会が住民監査請求をする前に、議員たちなかんずく共産党議員団が取り上られないのか不思議でならないのです。当該問題の裏側に何が、誰が、策動しているのか、それを暴くためにも我々は努力しているわけで、議員報酬を得ながらノホホンとしている人達とは一体何だろうかと疑心暗鬼が実情です。
左翼思想も右翼思想も本来は人間がもつ自由な思想信条であるわけで、一般大衆が共産思想を嫌うにはそれだけの理由があるからです。それは党みずからの体質にゆらいするものだと考えるものです。公明党の思想も然りで、号令一発で右向く不思議を考えて見たことがあるでしょうか。それは統制主義ともいえる党理論であるに過ぎないものです。
統制主義はひいては独裁主義に繋がっていく危険な思想だと考えるものであります。人類の本質は本来自由勝手主義であり、その証拠には確たる教育を受けていない小中学たちの行動からも伺えるものではありませんか。これでは困るので学校教育の実情を察知し、家庭教育いわゆるシツケなるものが第一義として認識しなければならないものと小生は実施しているつもりであります。
人間の基本を疎かにして、その他に何を学ばせようとしているのか。教育長の思想信条がわからないまま議会は人事を承認した議員の無責任さに怒りを感じているのは小生だけであろうか。

「逢魔の時」という言葉がある

2004/06/26 (Sat)
逢魔の時とは、災いの起きやすい時刻の意味で薄暗い黄昏時を指していう。昔は黄昏に道行く者が、互いに声を掛合うのは礼儀のみでなく、自分が化物でないことを証明する鑑札も同然の行為だった。「たそがれ」は「誰が彼」からの言葉の変化したものだという。
昔の旅人は行き違う入ごとに「もしや?」と用心の目を懲らしたのだろう。さびしい道で妖怪に逢いたくないが、白昼しかも繁華街でも堂々と、平然と出没する現代の魔物に比べれば、まだしも始末が良かったのかも知れない。
現代の魔物の住む所といえば、まず永田町界隈を一にして官僚街に巣食い公金を食してのうのうと生き長らえている妖怪官僚、地方も同様に行政癒着で市民の血を吸う小型妖怪の群れたち。生血を吸われながらも体勢や権力に屈している哀れな市民たち。
議会にも妖怪がはびこっているようだ。教育委員人事は前代未聞の採決によって議会を通過したが、議長の懇願によって賛成派にくらがえった会派もあって議員も支離滅裂の風情のようだ。
議長にして見たら、議長在任中に前代未聞の人事採決は避けたかったのであろうが、あまりにも貧弱な議長であり会派の議員だとの謗りは免れまい。少数だが最後まで反対人事に撤した議員がいたことはせめてもの救いだった。
これが市民の負託をうけた米沢市の議員たちの実情なのだ。議会にも時として妖怪は出没するのである。

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