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「晴れた空はスゴイきれい」

kage

2005/02/18 (Fri)

「晴れた空はスゴイきれい」

 「バラの花はすごくきれいだ」「料理はすごくおいしかった」とかの強調語として「すごく――」という表現は、小生の知るかぎり日本人が日常使っていた言葉である。ところが「すごく」と表現すべきところ「ズゴイ」という表現が使われている。
 言葉のプロであるべきアナウンサーまでが「花はスゴイ美しい」というふうに表現している。老人ボケの性かなと恐る恐る妻に聞いてみたら「私も先から気になっているんだけど――」ことばの乱れですよという。
 それからというもの「スゴイきれい」だとか「スゴイおいしい」ことばに悩まされている。「すごくきれいな花」だとか「すごくおいしい料理だった」と素直なことばが使えなくなったものか、あるいは単なる流行語的に遊び心で使っているのだろうか。
 ほどなくして「観れてない」「着れてない」という言葉に遭遇した。話している本人は「まだ観ていない」「まだ着たことがない」という意味で話しているらしい。
 料理番組の会話で「妙めてあげる」「バターを入れてあげる」と、ありったけの敬語を使って調理するオバサン先生のことばもなじめない。「よく妙める」「ここでバターを入れる」でよいのではないかと思われるのだが、「切られていない」は「切れてない」だけでよい。箸の持ち方も正常にできない人たちに、もはや遊び感覚で正常な日本語をかえてほしくないと考える。
 とはいえ世はあげてIT時代だ。変換違いクイズが出ていた一部をご紹介してみる。

①テレビの「痛斑」番組で、電子辞書を購入
②卒業前に友達同士で「差院長」を交換
③与党幹部の「様鷲冊」に非難続出
④ゲバラはキューバの「画目以下」
⑤非破壊検査にも用いられる「願増せん」
⑥独禁法でA社に「配女官国」
⑦どこでもネットワークにアクセスできる「指きたす」社会
⑧金融機関の「華氏は餓死」が横行
⑨少ない資金で始められる「かぶし君に問うし」
⑩お父さんの「中年部鳥」が気になります

卑怯なり! 安部三十郎! 実行委員会の陰に隠れたテメエの陰謀だ!

kage

2005/02/16 (Wed)

卑怯なり! 安部三十郎! 実行委員会の陰に隠れたテメエの陰謀だ!

 本会は成人式会場設定にまつわる市民の疑惑に答える。はじめは実行委員会の若者たちによる会場設定だと考え、少なからず社会常識論を持ち出し社会に巣立ちゆく新成人に向かって教訓をたれた感がある。

 グランド北陽に成人式の場を移すように命令したのが安部三十郎市長であることが判明した。以下、事情関係者の証言によるものである。証言によって、会場変更は三十郎が己れの野望を満たすための陰謀だった。

     [グランド北陽に会場を設定した理由は?]
①来期の市長戦で市民の支持をうるためには、地元のメデアNCVを利用
 する以外にないこと。会場変更はNCVに擦り寄るための貢ぎものに使わ
 れた。
②NCVの金子社長は高橋・大久保ラインで、安部三十郎とは相反する立
 場に立つ人物だから安部には介入できない。逆に米沢市がNCVに出資
 している5千万円を「財政が困難のようですからお返ししましょうか?」と出
 られたら実も蓋もなくなる。安部は「いつまでも株主でいた方がよい」として
 慌てて逃げ帰る以外に手はなくなる。
③そこで、金子との直接交渉を断念して、NCVナンバー2なる酒井彰に接
 点を替え酒井に癒着構造を求めた。「会場の変更と設定」はその貢ぎ物
 だ。
④会場設定は実行委員会の自主的な要望によるものとして、いつもながら
 責任回避を労し、決して表面に出ようとしない三十郎の陰湿なパターンか
 らだ。

     [三十郎の選挙秘策とは]
①時間の制約から選挙時の個別訪問が不可能になっている物理的な理由
 がある。
②三十郎はそこでメデアを効果的に利用する方法を戦術として考えた。
③三十郎の映像が常時流れる番組編成をNCVに要請するための手段とし
 て。
④金子は同意しまいから次期社長と噂の高い酒井彰に擦り寄ったのが実
 情だ。
⑤野村研三が次期市長に立候補する声明を出したことによる三十郎渾身
 の秘策。
⑥「勝てば官軍」市長の立場で選挙に勝つには何でもやるという思いあが
 り。
⑦歴代の首長は立場をフルに活用した市民不在の選挙をやってきたという
 思いが三十郎にもある。勝つためには何んでもやる典型的な人物像が露
 呈した。

         [会場変更は市民不在だ]
①財政困難な折から、130万円の支出を決定した疑問。例年通り会場費
 0円の式典を挙行すべきだった。
②なぜ? 数少ないとはいえ「死活問題だとして」反対する特定者に背を向
 け、一企業たるグランド北陽に会場変更の設定を策したのか?

三十郎、本会の暴露に異議があるなら即日申し入れよ。


成人式実行委員会のみなさんに一言

kage

2005/02/16 (Wed)

成人式実行委員会のみなさんに一言

 若いということはすばらしいことだ。どんな未来も望めば自分の手の中にある。一人ひとりがデッカイ夢に囲まれてよい。それが若者の特権だから。

 社会にはばたいてゆく君たちに一言だけ耳を傾けてほしいことがある。冬の競技の華とされるスキージャンプ競技の目標はより遠くまで飛ぶことにある。急勾配のアプローチを急速に下り、台を蹴って空中に飛び出して行く。あの競技にも鉄則がある。鉄則を追って日夜ジャンパーは努力するのだ。
①アプローチを滑り下りる姿勢が完壁であれば
②台を踏み切る完壁なサッツで、空中姿勢が保たれる。
③完壁な空中姿勢が、より遠くにジャンパーを運ぶのだ。

 スポーツの全ての競技に通ずることだが、より遠く、より高く跳ぶためには跳ぶ瞬間まで力をため姿勢を低くする「こごむ姿勢」が必要条件となる。
 伸びきったバネやゼンマイのように、体を伸ばしたままではジャンプができない。おなじ理屈で社会に飛び出すと、自分流の解釈だけで行動できない場面が住々に出てくるものだ。それらの抵抗を少なくするために自分で学び備えておかねばならない社会には常識というものがある。
 まず、先輩の言葉に耳を傾け式典での祝辞や訓示などに、仮に意に沿わないとしても、祝福される者たちの儀礼として節度をわきまえた態度で接することが大事なことのひとつだ。
 社会では時間の厳守はもとより、上司の話中に私的な駄弁を労したらどうなるか。社会では決して許されるものではない。

 成人式は日本国家の公式な行事である。それだけに式典に望む人間として厳粛に受けとめた態度で会場におもむく謙虚な心根でありたい。
係員の入場願いの掛け声を尻目に、私語に興じる人々は誰の目からも醜いものだ。会場に遅れた人たちはシャットアウトし、会場と場外とを区別するぐらいの節度ある会場設営と運営が肝心だと考える。「折角着飾って会場に集まったのに」などの非難は無視するぐらいの覚悟がないと教育的見地から運営はできないと考えてよい。
会場に入らないでいる人たちには社会のキマリを肌で教育してみせることだ。仮に意に沿わない祝辞や訓示であっても「ヤメロッ!」などの暴言を吐くような不届き者は即時退去命令を出すことの勇気が不可欠であろう。

 安部米沢市長は「17年度の成人式は実行要員会組織で」と見せ掛けは開かれた市長に見えても、内容は成人式を挙行する自信喪失が本音である。 各地で荒れる成人式である。だからこそ教育の市を標榜する以上、不埒者の出現を防止し、会場が私語で占拠されるような会場の設営は知恵がなさ過ぎるというものだ。
 主催者が被祝福者たちに実行方を任せて、想定される責任を実行委員会にふって責任を逃れようとする意図が見え見えだ。「成人式に集まるのはたくさんの友人と会うため。つまらない祝辞などは迷惑。式典より新成人同士が集う楽しきパーティ風を重視する」という実行委員の本音のようだ。
が、君たちは伸びたバネのままで社会に出るつもりであるか。

「成人式」は、厳かな公式行事に

kage

2005/02/15 (Tue)

「成人式」は、厳かな公式行事に

 鷹氏のいう駐車場が問題であれば、市営体育館で「式典を挙行」すればいい。小生の意見は公式な行事は公的な施設で行なうべきがスジだという意見だ。
 各地の成人式の模様を見せられるにつけ、これが次世代を担う新成人の挙動であるのかとニガニガしい思いでみてきた。幸いにして米沢市での成人式では破壊的な暴挙はなかったにしても、祝辞の最中、携帯電話でのメールのやりとりや私語が多く、肝心な祝福を受けているはずの本人たちの態度は決して立派なものだとはいえない。その点では小学生にも劣る新成人たちの態度だと深く理解し反省すべきことだ。

 昭和30年が小生たちの成人式だった。第一中学校の体育館で挙行された式典には、新成人ひとしく平服での参加であり、記念品として頂いた粗末な木彫りの印鑑は数年前まで小生の実印として登録し大切に使用してきた。
 三人の娘たちも文化会館で成人式を向かえて社会に旅立っていった。三人の娘たちの希望もあって平服での出席だった。
 時代の趨勢というものか、成人式の意義が軽んじられてきたように思う。荒れる成人式という行政感覚から、行政はその対策としてか実行委員会制度による逃避とも思われる式典の変革こそがベターだという腰の抜けた方向に走りつつある。その悪しき例が米沢市長の選んだ成人式の路線だ。

 あくまでも前例主義を建前としてきた行政が時にはとんでもないことを先走るものである。市民が選別した「古紙の処分」を安価な業者に永年に渡って買い取らせていたり、成人式の会場を一企業の宴会場に決めようとしたり、行政のやることは市民がなんといおうと押し通そうとする住民無視がいつまでも許されるものでない。
 安部三十郎市長は昨年度の成人式「やる」とか「やらない」とか物議を醸し出した市長である。「17年度の成人式は実行委員に任せたてやる」会場の設定も実行委員会の設定によるものだという。

 市の総務に事のいきさつを電話で問い合せた。「市長の考えで実行委員会が任されたもので実行委員長は山形大学の学生だ」なぜ、グランド北陽なのか?、について総務では「式典も同時に会場で行なうし、市長の祝辞もいただく、ジュースで乾杯する予定などが盛り込まれているんだ」という。
 おそらくジュースで乾杯することに主体的な意義を感じているようだ。が、それはあくまでも二次的なものであり、主体である式典は公的な施設において厳粛に行なうべきだという考え方が市民の多くにあるものと考えられる。
 祝福を受けるべき立場の人たちに、成人式のありかたを丸投げするのは行政の指導力の不足と行政の責任逃れだと評されるのは必至だ。

 行政に式典に寄せる高潔な意識が存在するならば「厳かな式典」を挙行した後に「新成人が望む会場で高らかに祝杯をあげるべきものだ」 問題が広がればグランド北陽にとっても迷惑なはなしである。駐車場の問題と会場の距離間を解決するには市営体育館での式典挙行であれば、乾杯会場までの移動に関する距離的な問題は解決する。

雪崩氏のご質問について

kage

2005/02/14 (Mon)

雪崩氏のご質問について

 拙文に対するご指摘感謝いたします。ご指摘の「時流に棹さす」の意は「得手に帆を上げ」とほぼ同意語として使われております。
小生の文中での使用は誠に椰楡的な使い方をしているもので、言葉本来の意味に反するのではないかと誤解されたものと考えられます。
小生の本意はこの不況だからこそパイオニア開拓精神の発露で、熟慮に熟慮を重ねた結果を行動に移す態度こそが望ましいのであるが、失敗を恐れてその元気すらもなく、加えて失敗した後の世間の謗りを憂いているばかりでは何も生まれてこない。そんな不遜な小生の表現でありました。
ご指摘の「時流に棹さす」はまさしく「得手に帆を上げ」の心意気を持たぬ同商店街の人たちへエールを送り、奮起を促すつもりの表現として使いましたが、誤解されがちな表現を反省しているところです。ご指摘に感謝申しあげます。

こんな監査役いらない

kage

2005/02/14 (Mon)

こんな監査役いらない

 多少は別として、米沢市民には市行政に対する不平不満が有ると思うが、市民はどんな形でその思いを市政に反映させることが出来るのであろうか。

通常考えられる手段として、
 ・直接市民が担当職員に意見・要望を述べる。
 ・地元選出の市議会議員に相談し、彼が行政に働きかけ問題解決に当
  たる。
 ・複雑な問題なら、市政協議会・定例議会等で審議される。
以上で問題が解決されるのであれば「目出度し、目出度し」というところであろうが、それでも満足の行かない場合、住民の権利として「監査委員」に住民監査を請求出来る制度がある。

◆ 監査委員とは、地方自治体において一般的に次のように理解されてい
  る。
 ・監査委員は、長の指揮監督を受けない独立の第三者執行機関の一つ
  として法律の上で明確に位置付けられている。
 ・法において、監査委員は普通地方公共団体の財務に関する事務の執
  行及び経営に係る事業を監査すると規定されているように、監査委員
  の役割は、不正又は非違の摘発を旨とするものではなく、財務や経営
  に関する監査を通じて地方公共団体の行政の適法性、あるいは妥当性
  を確保・保障することにある。
 ・地方公共団体が、その事務を処理するに当たって、住民の福祉の増進
  に努めているか、最少の経費で最大の効果を挙げるよう努めている
  か、常にその組織及び運営の合理化に努めているか等に意を用いて指
  導する。
 ・監査委員は、識見を有する者(人格が高潔で、普通地方公共団体の財
  務管理、事業の経営管理その他行政運営に関し優れた識見を有する
  者をいいます。)および議員のうちから、市長が議会の同意を得て選任
  します。ただし、市長又は助役と親子、夫婦又は兄弟姉妹の関係にある
  者は監査委員になることができない。

◆「鬼の会」は監査委員に対して、昨年8月「住民監査請求」を行った。
内容を簡単に説明すると「米沢市の廃棄物処理を、長井市と同じシステムで業者に発注すれば、年間1億円の経費節減が減出来るのに、改善しないのは不当である」というものである。(詳細は当会ホームページを遡って参照のこと)

 しかしながら、その監査結果は、却下・棄却と住民の意見に耳を傾けない、甚だ不当な行政擁護であった。
例えて言えば、監査委員が自ら収集した調査資料の写真に「黒いカラス」が写っているのに「このカラスは白い」と言っているのである。
 本来、住民の立場・目線から行政を観察・指導しなければならない監査委員が、なぜにこのような行政擁護を行うのか、訳を知りたく会見を申し込んだが、「監査請求に関する役務は終わった、あとは住民訴訟が有る」と市民との対話を拒み続けるのである。
何故に市民の声を聞かないのかと疑問に思い、その背景を洗ってみた。

 米沢市の監査委員は、安田道隆氏(識見を有する市民)・遠藤宏三氏(議員)である。
市長にしてみれば市民サイドでの厳しい監査をする人物より、茶坊主的な監査役の方が都合の良いことは容易に想像出来る。

 安田道隆氏は、碁を通じて親交のある高橋前市長の推薦により監査委員に就任した経緯があり、月額52万円の報酬と高額な賞与を手にした時、高橋市政を曇り無き眼鏡にて監査出来たのか甚だ疑問である。
そして安田氏が、監査役の条件である「識見を有する者」(人格が高潔で、普通地方公共団体の財務管理、事業の経営管理その他行政運営に関し優れた識見を有する者をいいます。)としての能力を備えていたかという点が問題になる。
 氏は民間企業の経理畑の出であり、当会の監査請求に対する見識は希薄なのか、監査結果の通知は杜撰なものであった。
あまりの杜撰さに「この通知書は誰によって作成されたのか」を監査委員会事務局に問い合わせたところ、金沢裕局長は「私が作成したと理解してもらって結構です」と明言するではないか。
なんと監査委員は、監査される側の市の職員に、作業を丸投げしたのである。よって行政に都合良く、市民にとっては甚だ納得し難い結果が通知された訳である。

 遠藤宏三氏は議会選出の監査委員で、議員報酬の他に月3万5千円の監査委員手当が支払われる。
遠藤監査委員にもこの杜撰さを問い合わせしたところ「事務局が作成したので分からない」との返答であった。

 かように、当市に於ける監査委員はその役務を全うしていない事が判明した訳で、支払われた報酬は不当なものと考えられる為、お二方とも、この際責任を感じ、自ら職を辞するのが良識というものであろう。
安部氏にあっては、そして手にする法外な退職金は辞退するのが筋というものであろうと考えるが、市民の皆さんの考えはいかがなものか。

前代未聞!!米沢市の成人式会場は「グランド北陽!?」

kage

2005/02/13 (Sun)

前代未聞!!米沢市の成人式会場は「グランド北陽!?」

 行政というものは、いったい何を考えているものか、市民の感覚とかけ離れたところで事を起こすことがある。
 まだ、噂の段階だが「今年の成人式会場は文化会館からグランド北陽に移して挙行されることに決まったようだ。今年にかぎらず例年通りに米沢市文化会館で行なうにどんな弊害があるのだろうか。全国津々浦々での式典を全て調査したわけではないが、成人式典が結婚式場で行なったという事実は知らない。市に会場に適した公的な施設がないのであればだが、小生の知るかぎりにおいては市町村の公的な施設で挙行しているようだ。
 近年、新成人たちによる暴挙が問われている成人式である。 式典を挙行する立場にある行政もそうだが、祝福をうける立場にある新成人との間に「国家の公的な式典」だとする緊張感が枯渇しているように思える。祝福を受ける側にある新成人が会場の雰囲気を壊すなどの暴挙は問題外で決して許されるべきものではないが、式典を準備施行する行政側の弱腰も情けないところだ。

 聞くところによると、成人式は実行委員会が準備し施行するのだという。祝福される新成人たちが式典の準備施行すること自体がおかしいのであり、大人になじむはずがない。どうしても新成人たちが会の企画運営に加わりたいというのであれば、会場を別にしてパーティなり懇親会を楽しめばよい。
 式典は行政主導型に厳粛に挙行することが第一義であり、式典終了後はそれぞれの企画によって行なうことだ。厳かであるべき式典の重さと、懇親会での楽しみかたとの区別を厳格に分離して考える事が本筋である。米沢市の文化会館に問題ありとするなら、体育館もある。公的な会場には事かかない米沢市が何故、事もあろうに一企業に会場を移すことに決定しようとするのだろうか? 前例を金科玉条とし、後生大事にしてきた行政である。何を勘違いしたのか、前例を覆すという挙動に出たのだ。しかも、会場は一企業が経営している結婚式場なのである。
 噂は噂を呼んで「行政の北陽寄りだ」と噂スズメがしきりに囃子出す。噂のように本末転倒の行政感覚を捨てないかぎ、ほどなく行政不信の大合唱が市民の中から生まれ出るのは必至だ。

 だれが考えても理不尽な式典の進め方だ。「行政マンに汚い金が動いた!」「毒饅頭を食わされた公務員たち」の謗りを甘くみないことだ。行政よ!例え実行委員会の要請でも、日はまだある。市民に理不尽な行政と言われないためにも、式典は公的施設で挙行せよ。会場をグランド北陽にすることによって、さらに深刻な問題が発生してくる。市民の中には成人式の日のために準備して待機している業界が多数存在している事実がある。それら業界と会場との噂の「グランド北陽の業種」は全ての点で、結婚式場だけにバッティングする。業者にとって死活問題のなにものでもない。「美容関係者」「貸し衣裳関係者」「写真館経営者」はモロに打撃を受けることは必至。グランド北陽の一人締めとなる危険性は大だ。

 行政のあるべき姿勢は、実行委員会の要請であるとしても、公式な式典は公的施設で厳かに挙行すべし。若者が望むならば懇親会は自分たちの手で開けと諭し、行政がやるべき責任とを分離することの大切さを指導すべきがスジだ。

「三回遅れるとシベリヤ送り」

kage

2005/02/11 (Fri)

「三回遅れるとシベリヤ送り」

 「スターリンの時代まではよく働いたよ。何しろ勤め先に三回遅刻したら、シベリヤ送りだったからね。ま、冗談だけどね。フルシチョフの頃からあんまり働かなくなったなあ」

 フルシチョフの失脚は農業政策の誤りだとされているが、もしその基盤に働かなくなった農民がいたのでなければ、不幸中の幸いと言うべきであろうか。
 同じように19世紀までのイギリスは「世界の工場」と謳われた時期があった。あらゆる製品を輸出して、世界の富を独占した。ところが第二次世界大戦で、輸出品を運んでいた船の半数以上を失った上に、農地を潰して工場を建て農家人口を一割そこそこの線まで陥込んで時給自足が不可能になったので、あっと言う間もなく昔日の面影がなくなってしまった。
そこでエリザベス王女の婚約を発表するなどして国民の士気を高めることを計ったが、すべて手遅れであった。英雄チャーチルが死亡すると精神的支柱すら欠けてしまい、植民地財産を売り払って細々と暮らすようになった。イギリス人は口々にいう「イギリス人は努力をしない怠け者になったからだ」

 今の日本人はどりょくしなくても人並みに暮らしていける社会になった。努力家が軽視される時代である。ましてや2国同様農業政策に見るべき政策はない。現時点での農業人口はいかほどであろうか。自給自足などは夢また夢の世界である。
 日本の数少ない一次産業の繁栄に手をこまねきながら、大企業オンリーの政策を続けていくならば、戦後のエネルギー源を賄ってきた炭鉱の疲弊を思い出す。一国の舵取りは交替によって休めるだろうが、大海原を航海する船は世界の歴史を熟視し、先見の目を兼ね備えた強健な目的意志をもった舵取りにお願いしたいものだ。

あの寅さん語録から

kage

2005/02/10 (Thu)

あの寅さん語録から

 国民的な英雄あの人気者寅さんが、日本国中の旅の空で本音で吐いた語録が面白い。ただ面白いだけでなく寅語録から読み取れる人間本来の生きる哲学が読み取れなぜか哀感が漂う。
 「腹の底から笑ったことのない人間は度しがたい悪人に違いない」と、しっかり人物風刺をしながら「その日その日が、一年中の最善の日である」と、エラの張った顔で説教しては悦に入っている様は何んとも可笑しい。
 そこで「教養の真のあらわれは、その人の"はにかみ"にある」と気取って見せる。 なけなしの金で呑んで居酒屋で垂れる言葉は「金は天下の回りものよ。いつもコチトラをよけて回るのが気にくわないがナ」
 また「何様の能事持ちたりとて、人のすかぬ者は役に立たず」と、痛烈に学歴社会を批判する。「学ぶに暇あらずと謂う者は、暇ありと雖も亦学ぶこと能わず」と寅さんらしくもない諳じてる中国の古人の教えなどを垂れる。
 さすがの寅さんも寄る年波には勝てず「われわれは まあこの世に間借りしているようなもので 何もムキになることはない」と悟ったような事を口走る。
 「家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり」「長生きするためには、ゆっくりと生きることが必要である」そして「出ずる月を待つべし。散る花を追うことなかれ」とのたまい「水を飲みて楽しむ者あり。錦を着て憂ふる者あり」と椰楡し「神はこの世における心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与え給うた」と悟って人に知られずに永の眠りについた。
 飄々と本音で生きつづけた寅さんの四角な顔が妙に懐かしい。今、寅さんが生きていたとしたら、混濁ずくめの現世に向かって何を垂れるのであろうか。
 寅さん語録の中でもっとも好きな語録は「死ぬまで少年の心でいることの出来る人は実に幸いである」だ。
 農耕民族である日本人は、もっとゆったりとお天気まかせで暮らしてきたが、動いているエスカレーターでさえも慌ただしく駆け足で上っていくご時世に変わった。
 もはや人間社会は「考える葦」不用論から経済至上主義オンリー社会に闇雲に突っ走ってきたツケが今、青少年犯罪の多発となってシッペ返しがきたように思える。人間のシツケの大事さを割愛してきた教育と家庭環境を見るにつけ寅さん語録が現社会に訴えていること深さを汲み上げ、道徳後退社会の歪みに、理屈抜きで歯止めをかけねばならない時にきていると考えるものだが広く市民のみなさまのご意見をぜひ拝聴したいものである。

竈に煙が立つのはいつの日か

kage

2005/02/09 (Wed)

竈に煙が立つのはいつの日か

 何十年ぶりだという豪雪との日々を闘う市民の疲弊した姿を見ながら事務所に向かう小生の目に映るのは、明かりの灯らない小売店の多さだ。
 香港島や九竜地区をおとずれた人なら納得がいくが、有名な香港の夜景とはうらはらに日中は明かりの灯らない大店舗が多い。観光客目当ての店舗がそうで観光バスが到着するまでは店舗の中は真っ暗である。バスが到着すると慌てたようにして店内に明かりが灯る。交通機関がいまいちの香港島や九竜地区の目抜き通りは別として、町はずれに構えている店舗には一様に明かりが点灯していることはない。明かり消えた米沢市内の通りを見て香港島の商店街を思い出す。

 小売店の仕事はあくまでも来客を待つ姿勢にある。店舗のガラスを磨き品揃えに気を配りながら、客を歓迎する心根を保ち一日を商売に撤したものである。いま街からその商人の心意気が消えつつあるように思える。来客があるとしても決まった客だけがくるだけで、新しい客を望むべくもない。ならば電気や暖房代が無駄である。店の体裁のために仕入れを起こしたところで客は安価な大型店で購入する。仕入れた商品は単なる店番にして型遅れの売れない商品になる。まず、家庭電化製品の小売店から品物が消え明かりも消えた。街のどこにもあった八百屋や魚店が消え、車を持たない年寄家族は不便さを嘆く。
 これが時流だと言ってしまえばそれまでのことだ。が、なぜか割り切れないものがあって無性に淋しくなる。経済至上主義の落し子だとはいえ生計を小売商に求めてきた人たちにとって、竈に煙の立つ日はあるのだろうか。
 問題の中央商店街再開発地区の真っ只中にいる人たちの本音は「補償金で現在の土地が売れたら商売をたたんで撤退する」と語る人たちが大半のようだと聞く。大方の住民は小売商の人だから時流に竿さすことの惨めさを骨の髄までしみ込んでいるからに違いない。いよいよ経済至上主義の影響が人間本来の地域住民の融和を蹴散らし生活の格差は広がりを見せていくだけだ。

 行政にこの危機感は薄く税金の無駄遣いに相変わらずの無頓着ぶり。三位一体の皺寄せを国民への支給減と増税で成立させようとする、国民にとって最悪な政策の実現だが、これも国民の税金と巨額な貯蓄を無駄に遣った高級公務員たちのツケの結果だと思うと怒りは心頭に達する。
 民主主義国家だといいながら高級官僚たちが己れの利得権のためにだけ跋扈する北朝鮮と何処が違うというのだ。
 「来ない客を待つのは無駄というもの、早晩店を閉めて大型店の従業員となり糊口の生活に入るべき」とは政府の本音であるか!?

投稿者「たく」殿へ・小生の考え方

kage

2005/02/08 (Tue)

投稿者「たく」殿へ・小生の考え方

 一国の首相の給料が「モーニング娘の加護ちゃんよりも安い?」この話が本当ならば、首相は給料の面で負けているということになる。これはおかしいのではないかというお説でした。

 小生は次のように考えます。
問題が中学生であることで少々悩みますが、首相より収入の多い人は日本中にはゴマンと実在されているはずです。収入の多少については避けますが、チョット出のタ レントなるものは人気先行型が優先する世界だけに人気持続期間にかぎっては高収入もあるでしょう。いつまでも初々しい中学生のアイドルとしていられるはずもなく、やがては年令とともにチョウチン皺やカラカサ皺が出始める時代がやってくる運命にあります。
 そんな時を覚悟して「中学生の若さと初々しさとで人気を博している」ものでありましょうから、余程、本人の自覚がなければ一時代の「偶像」として早晩人々の記憶から忘れ去られる存在になることだろう。
 芸能人に限らず野球選手などの多額な契約金などを考えてみると、首相の報酬をはるかに凌駕しているスポーツ関係者などがいるのではありませんか。首相の俸給は国家の定めにしたがって払われているものですから人気に左右されるものではないが、加護ちゃんなるタレントさんの場合、プロダクションが人気を基準として支払う報酬だと言えます。吉本興行に集まるお笑い芸人たちも ゴマンといて、1ステージ500円程度の収入にも耐えているなど、いずれも一発当てようと夢見て頑張っているのが実情のようだ。
 「英語でノーってのはないという意味だ。おれたち芸能人は芸が無いってことになる」といって落語の世界では笑いをとっている。が、彼らは自分の選んだ道をまっしぐらに夢見て千か万分の一の可能性に賭けて努力しているのだ。それはそれとして立派な生き方だと思う。小生のまわりにも新劇俳優をめざして頑張っている青年たちはひとしく毎日を自分の夢を追って努力しつづけている。人には無駄な努力に見えても彼らは確実に舞台を夢見て生きてゆく。困難な道を承知で努力している姿はなんとも美しい。シラー(ドイツの詩人)は次のような言葉を残している。

 未来はためらいつつ近づき
   現在は矢のように飛び去り
     過去は永久に静かに立っている。

弱り目に祟り目――― だが、雪害に挑む人間の雄姿を見る

kage

2005/02/05 (Sat)

弱り目に祟り目――― だが、雪害に挑む人間の雄姿を見る

 連日の報道は国会中継と中越地震災害につづく大雪害に挑む人たちの姿だ。
国会中継のダラシナサに比べ、豪雪と闘う中越の被災者の姿とでは雲泥の差が感じられる。国会中継では論旨の入口だけの論争で肝心な問題の中枢にまで議論が進んでいない。暖房の利いた委員会室では居眠りも出ようというものだ。
 一方、中越の被災地では数年来の豪雪と闘う人たちの大雪に挑戦する姿が映し出されてくる。国会での議論も無論重要な案件審議であろうが、豪雪と闘う人たちに言葉はない。ただ黙々と屋根に積もった雪を下ろすことだけが目的である。その作業に理屈はいらない。ただ、手に持ったスコップで言葉や会話もなく無言のまま屋根に降り積もった大量の雪を下におろすことだけ。
 豪雪に挑まなければわが家が崩壊し明日からの暮らしのメドがたたなくなる必死で挑戦する姿に理屈はなく、国会中継で見られるような入口だけの議論で遊んでいる場合ではない。二つの場面に触れて人間の生きようとする理屈なき中越の画面と、国会で質疑応答している画面とを見比べたら、国民の判定は人間がもつ尊厳の高さについてどちらに軍配をあげるのであろうか。

 増税につぐ増税で国民に負担を強い、一向にてめえ達が犯した無駄使いの是正や改善などは先おくりしているのである。
 この方式は平安の時代から改善されるどころか…一歩も改善に向かって進展する気配がないのだ。なぜならば己れが痛みを感じていないからだ。「人は人の上に人をつくらず、人の下に入をつくらず」冗談じゃない。てめえらは己れの下にだけ人をつくりたいのが本音というもので、間違っても己れの上に人をつくることなどは一番の禁句というものだ。議員になれば JRはグリーン席、一般の指定席では何が不都合か。村の悪代官の所業を思い出す。
 議員の命脈は票数にあり、命永らえるための金づくりに休まる日はない。どこかに旨い金づるはないかと議員諸侯は鵜の目鷹の目での生活が実情なのだろう。日本にデモクラシーは根づいていないのだ。
格好だけは民主国家であったとしても本音でいえば日本国は官主主義の最只中にある。

今夜は鬼の厄日「節分」

kage

2005/02/04 (Fri)

今夜は鬼の厄日「節分」

姿ある 鬼あわれな 鬼やらい

 雪国に住む人たちにとって明日は待望の立春。その前日が節分である。
国語学者の金田一春彦は、日本の鬼を称して「来年のことをいうと笑いだすユーモアを解し、同情すべき場面では目に涙をためるやさしさをもち、十八才の年頃になればちょっと色気も出ようという、うれしい存在」と書いている。が、十八才の娘鬼ならばいざ知らず、小生、今年は年男とはいえ71才の老鬼であれば打豆の総攻撃にあいそうだから、故事にしたがい、戸口に立っている柊の枝に刺したイワシの頭に近づかないことにしよう。家からの打豆を避けるには一番の防御らしい。
 福島県二本松市では豆まきの掛け声は「鬼ソト、鬼ソト、福はウチ、福はウチ!」である。二本松の城主の名が丹羽公であったからだ。地域によって風習は異なるものだが、節分の行事風習もごたぶんにもれず地域によっては奇異と思われるめずらしい風習もあるようだ。

 さて、憎まれついでに一言。
高橋前市長の評判がよろしくない。長元市長の葬儀の際の出来事だ。僧侶の入場を前に全員着席して葬儀の開始を待っている葬儀場にツカツカと入ってきて、喪主を尻目に正面祭壇に歩み寄り焼香を済ませてそのまま葬儀場から出ていったという。
参列者は口々に「何だ?あのパフォーマンスぶりは不遜の極みだ!」と誠に不評をかっている。が、「いつものパターンだ、鈴木金造の葬儀でもそうだった」と話題ひとしきりだ。

 勝負ごとに目のない高橋前市長、碁で付き合いのあった人物を米沢市の監査委員に仕立てあげた。民間登用で月給は52万円、当然ながらボーナスもある。
この民間からの登用監査委員、当会の住民監査請求にろくな精査もしないで、行政寄りの監査報告書を出してきた。
 報告書に添付された資料を当会が精査したところ、デタラメな監査報告であったことが証明された。その報告によって新たな古紙問題が噴出。行政側は監査報告書によって、隠したい証拠があからさまになって蓋をするのにテンヤワンヤの大騒ぎ。これが現在の行政の姿である。
 又、一般廃棄物処理業の許可をめぐってその攻防のために13社は全国からオルグの応援を頼んで市助役を「相手に飯も食わせねえで吊しあげてやんべ!」と意気軒高に「新規参入者に許可を出すな!」と圧力をかけた。

 鬼の会は古紙業者でもなければゴミ屋でもない。闘いの標的は「市民利益を考えない業者寄りの市行政」である。この闘いに同調しているのが、新たに一般廃棄物処理業に参入しようとして、行政に血の出るような要望を行ってきた業者たちである。
時代は自由競争が原則になっている経済界だ。なぜ、この時代に逆行するような縛りを行政側がするのか。
だれもが言う言葉は「毒饅頭?を食わされているからだよ」

 市民からの疑問が多すぎることに、議会が動き行政も縛りをゆるくせざるをえない立場に追い込まれたが、これは市民運動の成果なのであろう。
 中央政界に見るまでもなく政官界の考えることは大同小異、自分たちの無駄使いを是正する努力もせず、福祉の切り下げをはじめ止むことのない増税につぐ増税で国民の負担を一層重くするだけだ。
 市の行政をみても一般的な常識では通用しないようなことを平常心で行なってくる。雲井龍雄ならずとも暴力に訴えても改革のために革命を起こしたい気持ちにもなろうというものだ。

 米沢市では来年度の「庁舎内古紙売買」について本日競争入札の説明会があった。
庁舎内から出る新聞紙その他ダンボール類であろうが、昨年度は北関東通商に買取りさせていたという。買取り価格が他の業者より優位な価格であったことの証左だ。が、同じ庁舎でありながら環境生活部では超低価格でしか買い取らない山形古紙回収㈱に売却していたが、いかがなものだろうか?
どう考えてもわからない永遠の謎として追求しつづけるほかはないのだろうか。

 市民が行政のやり方に不満をぶつける場所が住民監杳請求であるが、多額な報酬を得ている割合には監査能力に欠ける人物と課だと結論づけられよう。
また、市民の声に耳を傾けようとする気持ちはサラサラないらしく本会からの会談申しこみには未だにナシのツブテ状態だ。
 議会選出の監査委員・遠藤宏三議員は本会が送付した書類については「受け取ったが、まだ中身を見ていないな」などと自分の責任分野を果たそうとする気構えはゼロだ。どれもこれも無責任な上に能力に問題ありとする人間たちだ。
こんな風だから問題にするほうが疲れてしまう。疲れ、アイソをつかしてあきらめるのをさも待っているかのような行政手段だ。

 古紙問題を追求して、あれから1年はとうに過ぎた。性格からか本音でものを言い過ぎたようだ。
今夜は節分、鬼の厄日である。 今夜は足元の明るいうちに家路を急がねばなるまい。

一般廃棄物業の許可をめぐって市助役に詰め寄る

kage

2005/02/03 (Thu)

一般廃棄物業の許可をめぐって市助役に詰め寄る

 古紙の超低価格販売は「米沢市に著しい損害を与えてきた」として再生資源協同組合の行動は「米沢市民に対する背任だ」そしてその事実を知りながら協同組合の行為を見逃してきた責任は「市担当職員の怠慢であり監督不行き届きだ」とする本会の追求に対して担当職員の回答は、あまりにも的のはずれた子供だましだった。

 新聞紙上で読まれた方も多いと思われるが、市民が分別した古紙売却に際して買取り価格の高い業者に売却せず、なんでわざわざ低価格でしか買取りしない業者を選んで売却しているのだ?との単純な追求に担当者は、低価格で買い入れした業者の内部に踏み込んで粗利益率を以て正当な価格であると説明した。頭の構造が疑われる担当者たちである。

 一方では一般廃棄物業の「許可をめぐって」許可を取得している既存業者の13社が「新規参入許可業者」を増やすなと連日市役所に押し掛けて談判。
 今日は米沢市助役を相手に文化センターに集結し激しい抗議集会をもった。助役の1時間という制限時間を無視して12時30分まで昼食時間をとらせないで集会をつづけた。
 地元許可業者の13社に加えて山形、仙台、東京からの応援を受け総計20名による抗議集会となった。労働組合がやる常套手段による他市からのオルグを加えて多人数による圧力集会であったことは否めない。「ゴミ問題に精通してない助役に何がわかるか!」などの怒号がつづく圧力的な会合となっていった。
 他市からオルグに駆けつけてきた人たちには、吉田環境生活部長がその後対応することにして会合が終了したものの今後の動きが注目されている。
 会話の中には「鬼の会に通報している職員がいるに違いない内部の情報が筒抜けだ!」などの意味不明の抗議もあれば、助役の言葉尻を掴んで助役に頭を下げさせる場面もあったという。

 既存の許可業者13社の言い分はこうだ「われわれは困っている米沢市に頼まれて引き受けた経過がある。いままでに不都合なことはなかったはずだ。それなのに今頃になって新規許可業者を増やそうとするのだ!」が言い分。
 しかし、当時と情況が異なっていることや、競争の原理が働かない仕事をいつまでも容認することはできない時代である。加えて特定の許可業者による高値安定も市民には不利益なことだ。古紙売却行為についても競争原理を取り入れないところに米沢市の沈滞がある。

 横井助役は「何が米沢市民のためになるかの立場に立って判断する」と明言して文字どうり抗議集会をしめくったようだ。
 廃棄物関連の問題には「市町村長に裁量権がある」のだから米沢市の問題に他地域から来て口を挟むのは越権行為というべきもので、オルグを依頼した13社の行動にも幼稚さが見える。
 過去において他市ではオルグによる参加で成功した地域があったようだが、米沢市は毅然として行政の示す方向を見失わない行動を期待する。

視点をズラそうとする行政の対応はもはや末期症状だ!

kage

2005/02/02 (Wed)

視点をズラそうとする行政の対応はもはや末期症状だ!

 最初に米沢市民各位に問う。
「あなたの所有物を売却しようとする場合、買値の高い業者と安い業者のどちらを選んで売却しますか?」
 この問いに対しては「高く買ってくれる業者に売却する」という答えが100%であろうと考えられる。
 ところが本会が「米沢市の財産である資源物を、なぜ、安いところを選んで売却するのだ!」と、行政に迫った問いに、行政は「安く買いとった業者はことさら儲けていない」と、業者の粗利益を示して正当性を説明してきた。

 米沢市民が分別して拠出した資源物(古紙・ビン・缶・古布)は、年間約6千万円の価値がある「米沢市の財産」である。その財産の収集運搬を本市より委託されたのが「米沢再生資源協同組合・原理事長」であり、契約書には、市況を注視しながら経済効果(買取り価格の高い業者に売却するなどの要努力)を高め、売却額は米沢市に還付するという条文が明記されている。

 当該協同組合が市況相場を注視しないで、相場の46%(大口取引なので実際には市況相場の20%)という超低価格で資源物を売却する行為は、本市に還付される売却額が減じられることから損害が発生することは明らかである。

 だから、担当職員は当該協同組合を管理監督し、高く売るよう指導し本市への還付金を多くする責任があるはずである。

 しかし驚いたことに、担当職員は「超低価格で売却した先の経営内容」をもって「あまり儲けていないので売却額は正当である」と主張してきたのである。
 米沢市の管理監督権限が及ぶのは、契約相手の「米沢再生資源協同組合」に対して「市況相場に沿って米沢市の財産を売却しているか否か」と言うことであり、組合が売却した先が儲けているか否かは関係ない。

 米沢市民は「なぜ?当該協同組合は米沢市の財産を安く売却したのだ!」という明確な説明を求めているはずなのに、買取り業者の粗利益などを示して「業者は暴利をむさぼっていないし正当な買取り価格だ」と特定業者側に立った余計な説明で正当性を説明しようとするのだ。

 買い取り業者の内部を精査する必要はサラサラないのであって、売却側はより優位な価格で販売できる業者を選択すればいいだけのことだ。同じ町にはるかに高い価格で買取りする業者がいたら、素直にその業者に搬入して経済性をあげればよいだけのことだ。市民が日常やっていることの自然の行為ではないか。
 川西町の自治会・西部小学校の義援金のための古紙回収などの売却先は北関東通商を選択している。優位な買取り価格を示しているからだ。単純明快な行動である。こんな明快の行動を起こさないで低価格でしか買取りしない業者を選定して、なぜ?米沢市民の財産を超低価格で売却したのだ? なぜ?市の担当者はその不当行為を黙認し業者擁護をするのだ? なぜ?限りある市税を有効に使おうとしないのだ? 

 行政は米沢市の財産たる再生資源物を超低価格で売却した協同組合に対して、契約違反を盾に損害賠償をすべきであり、長年にわたって市況相場を無視した行為をなじることであり、それらの行為を精査しなかったのは行政の怠慢であり、ゆえに米沢市に損害を与える結果となった。
 協同組合の背任行為と位置づけし行動を起こすべきところ、逆に業者の正当性を証明する行為は行政と特定業者との癒着による不当行為である事が、今回の回答により明らかになった。
 この事は、当該協同組合理事長の本市に対する背任行為、並びに市職員の市民に対する背任行為とも考えられ、調べる必要が有りそうだ。