武士道にみるモダニズム

2004/06/15 (Tue)
大伴家持の和歌に「かきつばた衣に摺りつけますらおの競い狩りする月は来にけり」とある。長井市で求めたカキツバタの古来種が一輪、真紫の花をみせる。カキツバタの紫の花を小袖に摺りつけて、むら染めにした衣を身にまとい狩りに興じる馬上の男たち。古代のカキツバタは花を布染めに用いたことが知られている。露に濡れればたちまち消えてしまう紫、なんと斬新なおしゃれであったことだろう。
明日の命もわからない武士たちにさえ、心に一瞬の美をとどめて息づいていたモダニズムは、現代人の乾いた心に活を入れられたような気がする。
一面、明治維新前夜にはこんな戯れ歌が庶民の間に流れていた。トコノセ節だ(長くなるからその1節だけ)
♪七ツとせ 何をいうても 雉と鷹 上はわからぬ事ばかり この口惜しや。
今世界中では、さかんに武士道が取り沙汰されている。生と死を紙一重に生きた武士達は、瞬時々々を研ぎ澄ませた感覚をもって生涯を全うしたに違いない。それは一枚の写実であり、連続する映像ではなかったはずだ。それに比して、現代に生きる我々は有り余る情報と映像に流されてきたとはいえまいか。だから我々には静止した瞬時の真実が捉えられなくなってしまっているのではあるまいか。
この不幸が社会をわけもなく複雑怪奇な構造に仕立てあげているとしか思えない。数多い書込みの中にもそれらが見受けられる。
付和雷同ということばがある。自分の考えをもたない人達が、無批判に人の言説に従うことだが、匿名であろうとも自分の考え方を素直に述べれば感動はある。だが、多くの書込みは始めに自分の立場を勘定に入れた書込みになっている。申せば男のヒステリックさを恥ずかしげもなく露呈した哀れな人たちの戯れ言である。言論には責任を持つことが大事であることは申すまでもないが、男ならば筆を労する以上、命を賭した文言を記すべし。時代は変わったが大和魂や武士道は人間の摂理として、己れを男子よばわりする以上は肝深く受け止めるべし。おのずと森羅万象が囁く声に真実を読み取る度量も備わってくるというものだ。

| HOME |