凡人氏と大市民氏に

2004/06/08 (Tue)
昨年の市長選挙時に「どちらが市長になっても米沢市の不幸だ」と書いた。大久保候補は前高橋市長時の行政経験豊かな助役であり、安部三十郎氏はあくまでも泡沫候補だった。大久保候補は高橋前市長の院政を継承する傀儡市長となり、高橋前市長の引いた路線を、背後に高橋が操る糸を感じながら、マリオネット市長になるのではあるまいか。これを市民か嫌った結果だった。
高橋前市長は小生のクラスメートであり、何でも言える刎頸の友である。初めての選挙から、小生は力の限り応援してきたものの、さすがに4期目は「長期の市長職では、水が腐るから立候補は止めるように」と諌言してきたのが真実だ。以後、高橋の選挙には関係をもたなかった。
野村の挫折によって、追い風が吹いたのは安部候補だった。野村支持者の票の大半が安部候補に流れた結果、安部市長誕生となったものである。安部であれば、野村の体調復活を契機に票は手元に帰ってくるという野村陣営のご都合主義であったのだ。
だから、安部の再選はないと断言する人たちが多いのだ。加えて、トップとしての認識も薄く、指導力すらない。トップとしての第一の仕事は「米沢市を方向づける哲学」を持つことである。まず安部市長はその資質に欠ける。したがって再選はない。
そこで凡人氏のいう「米沢市を託すに足る人物を育てる」という意見は正しいが、育てる過程を人に託すだけでは解決は望めない。凡人氏も行動を起こすことだ。
大市民氏は、市民の投票によって選んだ市長だ。仕方なく選んだ、というのは当を得てはいるが、米沢市民の恥辱だったとは思えまいか。
氏の言われる、展望無きリコールではなく、米沢市を託せる候補者は実際には存在する。
ところで大市民氏は米沢市の展望をどんな思いで描かれているのだろうか。
展望は市民全員が描くものであり、それを首長に託し、首長はその負託に応える責務がある。もし付託に応えうる器に無き場合には、市民として男子ならずとも、時代の不合理に怒る度量があってこそ大人というものだろう。
山形県内の多くの市町村では、すでに増税のプランが立てられている。米沢市政はやがて来る地方交付税の削減に何の策も立てず「合併問題、機はいまだ熟さす。期が来たら私の考えを話す」と、時流の速さを感知していないかの当米沢市長だ。呑気といえばたいした度胸だと思えなくも無いが、脳裏で葛藤しているような風情でもない。
やはり、米沢市は滅びの道を選択するのか。

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