フリーゲーム作家の本棚3 「無責任の構造」
(この記事は、2016年6月4日にTKR雑記帳に投稿した記事を一部修正したものです。)
「無責任の構造 -モラル・ハザードへの知的戦略-」
岡本 浩一 著、PHP新書、2001年
この本、Amazonで新刊が手に入らなかったのですが、内容はとても良かったです。
今、このご時勢だからこそ、求められる内容なのではないでしょうか。
では、内容のご紹介。
そもそも、無責任の構造とは何か、ということですが、
>無責任の構造は、外形的には「不正確な状況判断」と「倫理規範違反」という
>形をとっているが、実際には、盲目的な同調や服従が心理的な規範となり、
>良心的に問題を感じる人たちの声を圧殺し、声をあげる人たちを排除していく
>構造をもつ。これを本書では「無責任の構造」と呼ぶ。
(本書より抜粋)
とされています。
これだけだとわかりにくいかもしれませんが、
本書では、JCO臨界事故を例に、現場でのルール変更によって、
徐々にあるべき規範が崩れていく様を示しています。
JCOのように特に規範が求められるような現場でさえ、
それが崩れてしまうというのは怖いものですね。
人間が作る組織、あるいは人間そのものの脆弱性ですね。
初めはきちんとした規範に則って動いている組織、人間であっても、
いわゆる"大人の事情"という言葉が象徴するような、
いろいろな要因によって、徐々に規範が崩れてしまう。
無責任の連鎖反応が、最終的にとんでもない結果を生んでしまう。
その過程で、良心的な人が意見を発することができない立場に
追い込まれるというのも、見逃せない点ですね。
本書では、こういった、無責任の構造を社会心理学の立場から分析し、
その対応策を示しています。
もちろん、本書を読めば、その対応が簡単に
できるようになるというわけではないですが、
確かな指針を与えてくれている、と思います。
上司、同僚、家族、その他周りの人々のために
自分の良心に反した行動をせざるを得ない立場に置かれている方、
置かれる可能性のある方(<まあ、人間全員ですよね。少なくとも大人なら。)
にオススメの本です。
以下、私が注目した点の紹介です。'>'で開始するのが引用箇所です。
>「無責任の構造」は、人間社会が古くからもつ病巣の一つである。
>一つ一つの社会的無責任には、その無責任に内部で声をあげようとして、
>さまざまな形で圧殺されてきた多くの声なき声がある。良心の喘ぎがある。
>彼らの圧殺された良心を思うとき、私は刺すような痛みを心に感じる。
>しかし、それでも酷なことを書くが、圧殺され表明されなかった良心は、
>究極のところ、存在しなかったのと同じである。
著者の岡本先生の優しさを感じる文ですね。
(追記:"属人主義"に陥らないように注意。)
ただ、圧殺されたからといって、仕方なしとはしないところが、
真に大人らしい姿、人間のあるべき姿だと思います。
>不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の
>背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。
これは背筋が寒くなる文ですね。
仕方なく従っているうちに、自分もいつの間にか、
無責任の構造に加担することになっている。
肝に銘じておかなくては…。
>なにかの問題提起をしたとする。そして、そのことによって、
>望んだような改善への動きが起こらず、大きな圧迫を受けたり、
>あるいはまったく聞き流されたりするとする。
>不十分な報酬である。そうすると、自分のなかで「正しい問題提起をした」
>「職場には短期的には不利益な発言だ」という二つの認知が不協和を起こす。
>それに対する強化が不十分だと、外的合理化が不足し、内的合理化を
>大きくすることで対応しなけれあならなくなる。そのため、価値観的に
>「自分の指摘は正しい」という認知を強めることとなり、
>これが続くうちに、次第に意固地となる。
受け入れてもらえなさそうな提案をする際には要注意ですね。
人と視点が違う、斬新なアイデアであればあるほど、
受け入れられないまま放置されてしまうわけですから…。
一方で、自分が問題提起される側だったら…
ということも考えておかないといけないですね。
>ステージ(1)―間接的言及のステージ
>はじめは、問題のあることにぼんやり気付いているような様子で、
>問題に言及するステージがあったほうがよい。
このブログでは結構、自分が指摘したい問題を
直接言わずに、仄(ほの)めかすようにしているつもりですが…(笑)。
間接的に指摘するだけでも、以心伝心、
有効な対策が取られることが多い。
常にストレートの直球勝負だけでは、逆にダメだと…。
>人格は総合的な能力である。
>能力である以上、ピークがあり、下り坂がある。
人間は、優れた人格者であっても、
いつまでもその人が優れているとは限らない。
人格も衰えてしまう。
これは自分の中にはなかった考えです。
歳を取れば取るほど、人格は磨かれていくような幻想を持っていました。
確かに、心身ともに疲れているときは、"やらかし"てしまうことがある。
歳をとって、体力や気力が衰えたら…
と考えると、人格にもピークがあるというのは納得です。
無責任の構造から逃れるのは困難ではあるけど、手がないわけではない。
無責任の構造が跋扈(ばっこ)しないよう、
私たち一人ひとりが、勇気を持って、
努力を重ねていかないといけないと思いました。
「無責任の構造 -モラル・ハザードへの知的戦略-」
岡本 浩一 著、PHP新書、2001年
この本、Amazonで新刊が手に入らなかったのですが、内容はとても良かったです。
今、このご時勢だからこそ、求められる内容なのではないでしょうか。
では、内容のご紹介。
そもそも、無責任の構造とは何か、ということですが、
>無責任の構造は、外形的には「不正確な状況判断」と「倫理規範違反」という
>形をとっているが、実際には、盲目的な同調や服従が心理的な規範となり、
>良心的に問題を感じる人たちの声を圧殺し、声をあげる人たちを排除していく
>構造をもつ。これを本書では「無責任の構造」と呼ぶ。
(本書より抜粋)
とされています。
これだけだとわかりにくいかもしれませんが、
本書では、JCO臨界事故を例に、現場でのルール変更によって、
徐々にあるべき規範が崩れていく様を示しています。
JCOのように特に規範が求められるような現場でさえ、
それが崩れてしまうというのは怖いものですね。
人間が作る組織、あるいは人間そのものの脆弱性ですね。
初めはきちんとした規範に則って動いている組織、人間であっても、
いわゆる"大人の事情"という言葉が象徴するような、
いろいろな要因によって、徐々に規範が崩れてしまう。
無責任の連鎖反応が、最終的にとんでもない結果を生んでしまう。
その過程で、良心的な人が意見を発することができない立場に
追い込まれるというのも、見逃せない点ですね。
本書では、こういった、無責任の構造を社会心理学の立場から分析し、
その対応策を示しています。
もちろん、本書を読めば、その対応が簡単に
できるようになるというわけではないですが、
確かな指針を与えてくれている、と思います。
上司、同僚、家族、その他周りの人々のために
自分の良心に反した行動をせざるを得ない立場に置かれている方、
置かれる可能性のある方(<まあ、人間全員ですよね。少なくとも大人なら。)
にオススメの本です。
以下、私が注目した点の紹介です。'>'で開始するのが引用箇所です。
>「無責任の構造」は、人間社会が古くからもつ病巣の一つである。
>一つ一つの社会的無責任には、その無責任に内部で声をあげようとして、
>さまざまな形で圧殺されてきた多くの声なき声がある。良心の喘ぎがある。
>彼らの圧殺された良心を思うとき、私は刺すような痛みを心に感じる。
>しかし、それでも酷なことを書くが、圧殺され表明されなかった良心は、
>究極のところ、存在しなかったのと同じである。
著者の岡本先生の優しさを感じる文ですね。
(追記:"属人主義"に陥らないように注意。)
ただ、圧殺されたからといって、仕方なしとはしないところが、
真に大人らしい姿、人間のあるべき姿だと思います。
>不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の
>背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。
これは背筋が寒くなる文ですね。
仕方なく従っているうちに、自分もいつの間にか、
無責任の構造に加担することになっている。
肝に銘じておかなくては…。
>なにかの問題提起をしたとする。そして、そのことによって、
>望んだような改善への動きが起こらず、大きな圧迫を受けたり、
>あるいはまったく聞き流されたりするとする。
>不十分な報酬である。そうすると、自分のなかで「正しい問題提起をした」
>「職場には短期的には不利益な発言だ」という二つの認知が不協和を起こす。
>それに対する強化が不十分だと、外的合理化が不足し、内的合理化を
>大きくすることで対応しなけれあならなくなる。そのため、価値観的に
>「自分の指摘は正しい」という認知を強めることとなり、
>これが続くうちに、次第に意固地となる。
受け入れてもらえなさそうな提案をする際には要注意ですね。
人と視点が違う、斬新なアイデアであればあるほど、
受け入れられないまま放置されてしまうわけですから…。
一方で、自分が問題提起される側だったら…
ということも考えておかないといけないですね。
>ステージ(1)―間接的言及のステージ
>はじめは、問題のあることにぼんやり気付いているような様子で、
>問題に言及するステージがあったほうがよい。
このブログでは結構、自分が指摘したい問題を
直接言わずに、仄(ほの)めかすようにしているつもりですが…(笑)。
間接的に指摘するだけでも、以心伝心、
有効な対策が取られることが多い。
常にストレートの直球勝負だけでは、逆にダメだと…。
>人格は総合的な能力である。
>能力である以上、ピークがあり、下り坂がある。
人間は、優れた人格者であっても、
いつまでもその人が優れているとは限らない。
人格も衰えてしまう。
これは自分の中にはなかった考えです。
歳を取れば取るほど、人格は磨かれていくような幻想を持っていました。
確かに、心身ともに疲れているときは、"やらかし"てしまうことがある。
歳をとって、体力や気力が衰えたら…
と考えると、人格にもピークがあるというのは納得です。
無責任の構造から逃れるのは困難ではあるけど、手がないわけではない。
無責任の構造が跋扈(ばっこ)しないよう、
私たち一人ひとりが、勇気を持って、
努力を重ねていかないといけないと思いました。