【自己紹介】seiblogとは?
「このブログでは、30代サラリーマンの僕が、年間300冊の読書から学んだことや、職場で感じたリアルな経験を、読者の方の学びに繋げられることを意識して綴っています。」
自己紹介
名前は「せい」と言います。
「せい」というのは、自分の本名の一部から取っているハンドルネームで、アイコンキャラクターであるセイウチも、この「せい」と絡めています。
年齢は30代で、小売業でマネジメントの仕事をしています。
趣味に関しては、「読書」「コーヒー」「サウナ」…
割とインドア派です。
- 読書は、ビジネス書を毎日1冊。
- コーヒーも、毎朝365日。
- サウナは、週2回。
こんなルーティンで生活しています。
そして、ブログは基本的に週5回更新をしています。
曜日ごとにテーマを決めています。
月曜日…書評
火曜日…マーケティング
水曜日…雑記
木曜日…上司とのコミュニケーション
金曜日…部下とのコミュニケーション
ブログを始めた目的
僕がブログ運営をしている目的は、「自分の提供価値を見つける為」です。
「自分の提供価値」とはどういうことかと言うと、自分個人として人から価値を感じてもらえる「何か」だと思います。
いま自分が務めている会社の給料や福利厚生に関して、大きな不満がある訳ではないんですが、サラリーマンをしていると会社の看板や組織のパワーというものに大きく依存している自分を感じます。
大きな裁量の仕事を任されたり、それなりの額のお金を動かすことができるのは、会社組織の醍醐味の一つかもしれないです。
しかし、僕はもう今の会社には10年以上勤めていますが、会社の看板を外した自分を想像した時に、社会から見てほとんど価値のあるものを持っていないように思えてなりません。
もしくは、持っていたとしても、それが何か「わからない」でいます。
いまこのコロナショックの中で、日本企業が今より良い状態になっていくという未来はちょっと見えないですよね。
ただ、「自分の価値」が見えていれば…
もし仮に明日、会社が突然倒産してしまったとしても、適切な転職先を見つけることや、自分自身で生計を立てることもできるかもしれません。
それは誰かにとっては、
- 文章を書くことだったり…
- 絵を書くことだったり…
- 演技をすることだったり…
色々なことがあると思います。
「自分にとっての提供価値は何か?」
ブログの発信を通じて誰かに文章を届けることによって生まれる、自分の中での気づきやフィードバックから、もしかしたらこの「問い」の答えが見つけられるんじゃないか?という思いを持っています。
そして、自分と同じような思いを持つ人にとって、少しでも気づきを与えられることができれば…と思いこれからも日々ブログを更新しています。
基礎の重要性
基礎の重要性
基礎固めは、どんな物事においても言わずもがな大切なことだ。
だが、それは自分にとっては改めて大きな発見だと思っている。
例えば、筋肉というのは数日の入院などで全くトレーニングができない期間があると、瞬く間に衰えてしまうという。しかし、基礎の筋肉がついている人は、その後のトレーニングによって、すぐに筋肉がついてくるという話がある。
つまり、基礎を身に付けておくことで、多少のイレギュラーが生じたとしても、リカバリーができるということが言えるかもしれない。
この話は、自分のライフスタイルにとっても大きく影響する話だ。
僕は非常に移り気な性格で、様々なことを経験していきたい人間だ。
でも、手当たり次第につまみ食いをするようなことはしたくないし、そのようなことに意味はないと思っている。
そこで、参考にすべきが「基礎」の話だ。
興味を持ったことがあったとしたら、まずやってみる。
その段階では、まだつまみ食いでも良いと思う。
でも、実際にやってみると…
・自分にあっているのか?あっていないのか?
・楽しいのか?楽しくないのか?
・続けられそうか?続かなそうか?
・中長期的に自分の為になるのか?ならないのか?
そんなことが頭を巡るだろう。
その上で、自分がやると決断したものについては、「基礎」が固まるまではやるべきだろう。そして、「基礎」を固める為には、その物事に対して本気でコミットすべきだろう。
なぜなら、1度基礎を身に付けることで、仮に時間を置いてしまったり、別の物事に集中させざる場面になったとしても、より低いコストでリカバリーができるからだ。
ここで、注意しなくてはいけないのは、あくまで目標設定をアマチュアレベルに置く場合だ。ただし、アマチュアレベルであったとしても、一通りの基礎を身に付けているスキルを複数持っているというのは、様々なシーンで生きてくると思う。
例えば、僕はいまゴルフに非常に熱中していてまさに基礎を固めている真っ最中なのだが、仮にそれがスキルとして身に付いたとすると、いままで自分が時間を投下してきたロジカルシンキングや筋トレや歴史の勉強など…いくつかの点のスキルと結びつけることで、新たな可能性が広がるかもしれない。
この基礎固めを通した点をいくつ作ることができるかどうか?というのが、今後の自分の人生の幅にもつながるように思う。
そして、最後にもう一つ大切なことは、リカバリー機能に対して油断しないということだ。このブログを書くということも、数年前は毎日ブログに向き合いながらも数百文字の記事書くのに、1時間以上を費やしていたが、現在は月1回程度の頻度でも、線文字以上を数十分でまとめることができるようになった。
だが、頻度を落とせば落とすほど、文字数だけでなくクオリティにも関わってくる。
毎日とは言わないまでも、一定の頻度でリカバーを続けるということが大切なのだと思う。
そのように、「いつでも使える引き出し」を持っておかなくてはいけないだろう。
今週のお題「大発見」
自己成長のための「記録」
自己成長のための「記録」
年齢を重ねる程に、時間の経過を感じづらくなる。1年という単位が驚く早く過ぎていく。
その一方で、自己成長のスピードというものは、時間の経過の早さに反して変化に乏しいようにも感じる。
社会人になり積み重ねたスキルというのは、どんな職種や人であれ、一朝一夕に身に付けることができるものでないし、また、瞬時に不必要になるものでもない。
だからこそ、一定の年齢にまで達して、かつ自分も周囲も一定のスキルを身に付けたフェーズにおいては、何か新しいものを得ようとしても、そう簡単には満足できる成果が得ることができないように思う。
常に周囲には、自分を遥かに凌駕する人々がたくさんいるからだ。
そんな人たちを目の当たりにすると、すぐに自信を喪失し、自分のテリトリーに戻ってしまう。これは、人間心理として仕方ないことだと思う。
だが、そのような人生は果たして充実しているだろうか?
自分はそうは思わない。では、どうするか?答えはシンプルだと思う。
他人と比較することをやめ、自分なりに満足する形で成長を感じればよいのではないだろうか。
人生における充実度を決めるのは、他人ではなく自分でしかない。
そして、その重要なファクターが自己成長だと思う。
さらに、その自己成長を促進するために必要なアクションが「記録」だと思っている。
だから、僕は「記録」ということをとても大切にしている。
僕自身、昨年から筋トレを始めた。
継続して1年が経過しているが、見た目が大きく変わってマッチョになったかというと、決して、そんなことはない。
しかし、充実感を持って継続はできている。その理由は記録をしてきたからだと思う。
筋トレによって最終的に目指したいのは、彫刻のようなボディだが、ちょっとやそっとのトレーニングでは、全く達成はできない。
いつまでもお腹の脂肪がたるむ自分にげんなりしてしまう。
しかし、よくよく記録を見返してみると、前の月よりも重いダンベルを持ち上げることができるようになっていたり、腹筋のメニューをややハードにしてもこなせるようになったり、微妙な上昇変化が見られるようになる。
これは、他人からしたら全く価値のないことのように思えるかもしれないが、自分にとっては大きな価値となる。
この「できなかったことができるようになった」という感覚は、非常に見過ごされがちだが、実際の目標達成以上に重要な心理的変化をもたらすと感じている。
これが、記録を取って可視化することの重要性だと思う。
さて、今年も筋トレは継続する一方で、新たにゴルフも始めた。
現在は、全くお話にならないレベルだが、それでも自分のできることできないことを記録することを意識している。
そうすると、1週間単位でも微細な変化が見られるものだ。
その変化を見逃さず、継続のモチベーションにしていくことで、必ず自分の目指すレベルに近づいていけると信じている。
このフレームは、筋トレやゴルフに限らず、様々な面で応用ができると思う。
とにかく、時間が過ぎるのは早い、そして「現状の自分」はすぐ忘れてしまう。
だからこそ、常に記録をとって過去の自分と現在の自分を正しく認識することを忘れてはいけないと思う。
2024年の抱負
2024年の抱負
予想だにしないような事態の連続となった24年の幕開けだったが、幸いにも自分は何事もなく、いつも通りの年明けの日々を送ることができている。
年末には1年を振り返ったように、年始には今年1年の目標を立てたいと思う。
それが、今年1年の活力となり、また振り返ることで、また来年につながっていき、その繰り返しこそが自分を形成していく。
その意味で、このブログにおける最も大きな役割は、年末年始にあるといっても過言ではない。
さて、今年は大きく5つの目標を自分に課したいと思う。
1.日常への感謝
国内における年始からの震災や航空機事故、それだけでなく昨年から続くウクライナやガザの戦争によっても、平穏な日常というのがいかに素晴らしいことであるかということをつくづく感じている。
もし、何事になく無事に1日の始まりと終わりを迎えられたのなら、そのことにしっかりと感謝をしていかなければならないと思う。
2.習慣の継続
昨年まで行ってきた習慣は、1年が終わったらそれでおしまいではない。
これまでたくさんのことを習慣化してきた。
- ブログ
- 読書
- 筋トレ
- サウナ
- 料理
- 睡眠
これらに終わりはなく、自分が生きている限りずっと続けていくべきものだ。
これらのことは、過去に習慣化したことで、新たに始めるものよりも圧倒的に低負荷で行うことができるようになっている。
ブログも始めたころは、500字を書くのにも数時間を要していたが、いまでは30分程度で1000字は書くことができる。
筋トレも1年前は、汗だくで持ち上げていたダンベルが、年末には軽く感じるまでになった。
読書に関しても、数年前は何度読んでも理解できなかった本が、今では1回読んでそれを自分の言葉で他人に説明するということまでできるようになった。
つまり、習慣化して習熟できることが増やすことで、時間あたりの密度を大きく高めることができると思っている。
もちろん、すべてを同じペースや分量で続けることは困難だが、自分なりに適切な配分を見つけながら、習慣を継続していきたい。
3.セルフケア
これまでの自分の生活を振り返ると、自己成長に傾くあまりに身体に負荷をかけたり、メンテナンスを怠る機会も少なくなかったと思う。
しかし、年を重ねるにつれ、大切になってくるのは、その能力や知識よりも、健康的であることの方が数倍大切なのだということを感じるようになった。
特に、これまでほとんどケアができてなかった部分として、目と歯がある。
いずれも目立って異常があるわけはないのだが、だからこそなおざりになっていた側面がある。
今年はしっかりとセルフケアも心がけたい。
4.アウェーに飛び込む
人生の楽しみの一つは、新鮮な体験だ。
職場でもある程度、安定的なポジションにつき、習慣化もできる現在の状況はある意味「居心地は悪くない」。しかし、そのような状態が続くと徐々に謙虚さを失って、さらには人が離れていき、あまり明るい未来は見えないように思う。
そのような状況を回避する為には、やはり常に新鮮な体験をすることが大切だと思う。
一方、新鮮な体験というのは、すぐに楽しめるものではない。
必ず、いまの状況よりもアウェーに飛び込まなくてはならない。
謙虚になる必要もあるし、苦しいこともある。
しかし、その先に新鮮な楽しさが待っているように思う。
5.心を落ち着ける
最後に、より長い目で見た時に、自分にとっての幸せとは、心に焦りがないことだと思う。
それを達成するには、ここまで語ったような自分にとっての目標をしっかりとこなし、自分に対して自信を持つことが大切だと思う。
できることをしっかりやっていれば、イライラや不安はなくなると思う。
やるべきことをやり、心穏やかに1年を過ごしていきたい。
2023年の振り返り
2023年の振り返り
しばらく更新ができていなかった当ブログだが、年の最後くらいは締めの記事を書こうと思う。
ブログを初めてからずっと続けている習慣の一つが、1年の振り返りと新年の抱負をしっかり言語化するということであり、それは今年もしっかりと続けていきたい。
さて、今年の1月1日の記事を見返してみると、こんな3つことが書かれていた。
- 思考のアップデート⇒ブログの毎日更新
- 身体を鍛える⇒筋トレで体脂肪率10%
- 精神を安定させる⇒新しいサウナに週1で通う
それぞれの項目について振り返っていきたい。
1.思考のアップデート⇒ブログの毎日更新
結論から言うと、毎日更新については7月でリタイアしてしまった。
ただ、半年以上を続けた自分は褒めてあげたい。
また、それだけ続けいく過程で、自分で思ったこともある。
それは、思考のアップデートという目的に対して必ずしも毎日更新をということが当てはまらないと思ったからだ。
ブログを通した思考のアップデートとは、考えていることの言語化の精度を上げるということだと考える。その訓練のために、ある一定ラインまではひたすら回数をこなすということも大切だと思うのだが、次のステップとしてはしっかりと時間をとってインプットをして考えを深める。ということもフェーズがやってくる。
そのフェーズがきたと感じた時に、ブログの更新頻度が下がってきたように感じる。
一方で、ブログ上では報告できてなかったが、更新がほとんどできてなかった期間については、これまで以上にじっくり本に向き合うということをしていた。
アウトプットに集中した上半期とインプットに集中した下半期という感じだろうか。
また、来年については、このインプットとアウトプットの比率をもう少しバランスの良いものにできたらと思う。
2,身体を鍛える⇒筋トレで体脂肪率10%
運動神経の悪い自分にとっては、運動習慣というのは最も苦手な部類の一つだった。
しかし、それでも自分で決めた平日週5回の筋トレはやり切ることができた。
また、驚くことにやらないと気持ち悪いという感覚さえ芽生えるようになった。
では、その結果はどうだったのだろう。
全体的にスリムになり、多少の筋肉はついたものの、さほど見た目に大きな変化はなく、体脂肪率も10%を切っている様子はない。
現実は厳しい。ただ、筋トレからは非常に学びもあった。
それは、身体を育てるという過程において、ひたすらトレーニングを行うということがすべてではない。という知ったことだ。
筋トレを始めたことで、最も変わったことはむしろ食事内容だ。
1日3食、炭水化物中心からタンパク質と食物繊維中心の内容に切り替える、日常生活でのパフォーマスが大きく改善され、肌の調子も良くなった。
また、これまで以上に睡眠の質にもこだわるようになった。
これら「運動・食事・睡眠」の重要性を身に染みて感じた年であった。
3.精神を安定させる⇒新しいサウナに週1で通う
新しいサウナへ通うことは月1回程度しかできなかったかもしれないが、いきつけのサウナに週2回のペースで通ったと思う。
つまり今年も年間で100回以上はサウナに通ったことになる。
その中で、2023年のマイベストサウナを少しだけ紹介できればと思う。
・サウナしきじ
サウナ―3年目にしてようやく訪問できたサウナの聖地
とろけるような水風呂は至高
・文化浴泉
池尻大橋にある銭湯サウナ。
リニューアルしてモダンなサウナ室に加え、こちらもまわやかな水風呂がGOOD。
・サウナラボ神田
日本にフィンランドを再現した世界観が素晴らしい。
低温でじっくり汗をかけるのもGOOD。
総評
総評としては、50点といったところだろうか?
ある一定まではできたが、それ以上の具体目標までには至らなかった。
しかし、50点を目指す過程において、自分の興味関心の幅が広がったことは具体目標を達成する以上に意味のあることだとも思った。
数値目標がすべてではない。
自分の立てた目標を通して人生が少しでも充実すればそれでいい。
そんな意味も含めて、この年度末の振り返りはとても大切なことだと思う。
そして、来年は自分にとってさらにいい年にしていきたい。
記憶と記録。平凡な日常を記録して記憶に残したい。
記憶と記録。平凡な日常を記録して記憶に残したい。
人の記憶というのは、非常に不思議なものだ。
日々が目まぐるしく変化し、すべてが新鮮な10代20代であれば、いつ・どこで・何をしていたというのは、明確に記憶に刻まれている。
そして、それはいまでもありありと。その風景や音や匂いなどの感覚も含めて鮮明に思い出すことができる。
だが、逆に直近の数年の方が、何をしていたか思い出せないことが多い。
去年したことだと思ったら、もう3~5年前のことだったなんていうことはザラにある。その理由は、ライフスタイルが安定したことで、日々が似たことの繰り返しとなり、新鮮味を感じる出来事が少ないということが起因していると思う。
だからといって、若い時のように常に「新しさ」を求めることが正解なのだろうか?経験を積んでいしまった年齢を経てからの「新しさ」とは、それなりのリスクやコストを伴う。ある程度の「新鮮さ」というのは、そのリスクやコストを飲み込んだ上で、享受することも大切だと思う一方で、常にそれを摂取し続けることは、逆には健全ではないと思う。
では、どうすればよいのか。
個人的な答えは、無意識のうちに見逃している日常の中に新鮮さを見出すことだと思う。他の人が気にも留めないようなに日常の些細なアクションが、自分がこれまで経験したことのない場所に導いてくれるきっかけになるような気がしている。
例えば、僕自身の話だと昨年から始めた食事や運動の習慣がそれにあたると思う。もともとは、ダイエットからスタートしたのだが、1年間継続したことで、それらの習慣が体調や肌、思考にまで変化をもたらすようになった。
食事も運動も非常に地味で、記憶に鮮明に残るセンセーショナルな体験とは程遠い。だが、そのような性質だからこそ、このブログで定期的に記録を残していたことが役に立った。日々ではほぼ変化が生じなくても1か月、3か月、半年というロングスパンで過去の自分と比較すると、そこに大きな変化を実感できたからだ。
それはまさに、記憶に鮮明に残るセンセーショナルな体験であり、その経験から継続のモチベーションにもつながった。
つまり大切なことは、「年を経るごとに新しい経験を増やすことは難しい。」と悲観的になるのではなく、日々やることを決め、そこに対して自分なりの記録をすることで、僕らはいつだって新しい経験に出会うことができるということだ。
継続することへの慣れと新しいことへの恐れ
継続することへの慣れと新しいことへの恐れ
継続は力なり
昔から自分は、他の人よりも比較的この言葉を信じてきた方だと思う。
そして、年齢を重ねるほどに、何かを継続することへの難易度は低くなっているように思う。
それは、自分が継続可能な対象や内容の選別が上手くなったということもあるかもしれない。
一方で、逆に苦手意識を持つようになってしまったこともある。
それは、新しく何かをはじめるということだ。継続との裏返しの概念である。
つまり、新しいことを始めるには、これまで継続していた何かを手放す必要がある。
すべてを手放すことはないにしても、これまでの通りのルーティンやステップ通りにはいかなくなるだろう。
これに、自分は恐怖を抱き、億劫になっている。感覚がある。
何を続け、何を手放し、何を始めるのか?は非常に難しい問題だ。
ただ、自分の中で1つだけ言えることがある。
それは、思考停止したまま続けていることがあるとしたら、手放すべきだということだ。
考えることをやめたらいくら続けていても、それは何の力にもならない。
ひたすらに時間が浪費されるだけだ。
年を重ねて増えてくるのは、この手の「なんちゃって継続」案件かもしれない。
元々の目的や感情を忘れ、盲目的に続けることが目的になってしまうことは、人としては自然だ。だが、そこに抗ってこそ、さらなる成長や発見があるように思う。
ブログ執筆における書く分量と伝わり方の相関性について
ブログ執筆における分量と伝わり方の相関性について
プライベートにおいてゴタゴタがあった9月は、ほとんどブログを更新することができず、そのままずるずると10月に入ってしまった。
そんな少しブログとは距離を置いた生活の中でも、少なからずブログについては考えを巡らせていた。その中でも、特に悩ましかったのが「文字数と伝わり方の相関性」である。
「伝わる」というのは、ブログの読者にどう伝わるか?はもちろんだが、自分にとってどれか響くか?残るか?吸収されるか?という意味合いもある。
今年の入ってからのブログは、更新頻度こそ多いものの、文字数は少なく、備忘録的な役割だけしか果たしていなかったように思える。
書くことで、紡ぎだせる可能性はもっとあるように思う。
しかし、文字数は多ければ多い程、伝わる訳ではないが、逆に少なければよいという話でもない。
自分の中での一旦の結論としては、「一定量の文字数」と「構成」そして「推敲」によって他人にとっても自分にとっても伝わりやすい文章というものが成立するように思う。
だからこそ、いまは更新頻度にこだわらない考えにシフトしている。
このように書くと軸がないように思われるかもしれないが、自分の状態に合わせてブログを書くスタイルも変えていければよいというのが持論だ。
一番勿体ないのは、自分で宣言したスタイルにコミットするばかりに、辟易したものを量産し続けることだ。また、それによって書くことそのものをやめてしまうことだ。
では、もう少しだけ踏み込んで、「一定量の文字数」とは?「構成」とは?「推敲」はどのように行うのか?というところにも触れてみたい。
「一定の文字数」と「構成」
ここ半年くらいかけてブログの毎日更新を行ってきた。
だいたい1記事300文字前後だったと記憶しているが、この文字数だとあくまで主張や結論部分しか語ることはできない。その理由や根拠まで語るには、到底文字数が足りない。
そして、理由や根拠がないものというのは、どうしても伝わらないし、自分の中にも残りにくい。
多くのケースとして主張を行うには、その理由や根拠は2~3つ程度存在するものだ。
(もしかしたら、1つしかないもしくは5つや6つの場合もあるかもしれない。
しかし、それは大切なものが見えていなかったり、余計なものまで気にしてしまっている場合があるが、やはり重要ポイントというのは2~3つ程度に収斂されていくだろう。)
それら2~3つをしっかり語るとなると、各要素に応じて300文字前後は必要になる。
となると、必然的に以下のような具合で、900~1200文字程度に落ち着くのではないかと思う。
- 主張…300
- 根拠1…300
- 根拠2…300
- 根拠3…300
「推敲」
自分の文書を見直すというのは非常に重要だが、見落としがちなポイントだ。
しかし、自分の日々の生活に振り返りの時間をもち修正していくことが大切であるように、文書においても振り返って修正することが重要だと思う。
特に、自分も含めて多くの人が推敲から足が遠ざかってしまうのは、一度つくったものを壊すことに対する恐れからだと思う。せっかく時間が丹念に紡いだ言葉が、一瞬にして霧散してしまうような怖さと似ている。
だが、勇気を持って見返してみると、必ず違和感を持つ部分がある。
その違和感と真正面から向き合うことは、単に文章の表現の修正以上に、自分の考え方に変化にもつながる。
むしろ、推敲によってもたらされる最大の効用は、そこにあるのかもしれない。
以上、2つのポイントを踏まえて、時間はかかったとしても、真正面から書くことと向き合っていきたいと思う。
ブログとキャリア。そして、今の自分に欠けているもの。
ブログとキャリア。そして、今の自分に欠けているもの。
今年に入ってからは、半年以上毎日更新を行っていた。
しかし、8月に少しブログを休んでみて、すくなからず「更新」そのものが目的化していると感じる部分があった。
もちろん、更新が目的となっていても、日々の気づきを綴ることで得られるものが多い。
そんな矛盾を感じつつ、ブログと向き合って側面もあったような気がする。
前置きが長くなってしまったが、結論から言うと、ブログに向き合う「中期目標」が欠落していたということが、最大の原因のように思う。
何かを継続するには、短期―中期―長期のスパンごとの目標が必ず必要だ。
短期目標は、日々の更新
長期目標は、「書く」ということを通して人生を豊かにすること
これまでの自分の中期目標は、「書く」ことを通してキャリアアップをすることだった。
しかし、その中期目標が一定のラインまで達成された今、目標を見失っている自分がいたのだ。
当然、キャリアアップに終わりはない。
しかし、正直これまで自分が目指していたキャリアアップと、今後のキャリアアップには大きな違いがあるように思う。
それは、キャリアがあがることでの幸福度だ。
心理学的にも証明されていることだが、人は一定の年収までは上がれば上がるほどに、幸福度はあがっていく。しかし、あるラインを越えると年収がいくらあがっても幸福度にほとんど影響は出なくなるという。
だから、自分も意識を変えなければいけないのだと思う。
これまでは、キャリアアップ=昇進や年収増加という捉え方をしていた。
だが、そうではなく、もっと別の側面にアプローチする必要があるのかもしれない。
それは「やりがい」と呼ばれるものなのか?何なのかまだ分からない。
ただ、一つ気づいたことがある。
久しぶりにこのようにブログを書いたことで、わりと頭の中が整理されたことだ。
もしかしたら、自分が今後、中期的にアプローチをしていくべきことも、ブログを書くということを通して見つけられるかもしれない。
インプットとアウトプットの比重
インプットとアウトプットの比重
ここ1年ほどは、アウトプットに比重を置いていた。
それ以前は、かなりインプットに比重を置いていたことの反動や、アウトプットそのもののやり方を模索していた側面も理由かもしれない。
しかし、アウトプットばかりに比重を置きすぎていると、しだいにアウトプットすることが枯渇してくる。
栄養補給をするように、インプットの必要性が出てくる。
その考え方から直近では、インプットを意識して、久しぶりに読書なども再開した。
そこで得られる知識はかなり新鮮で、また自分というフィルターを通してアウトプットをしたいとも思った。
決して、どちらかが圧倒的に重要という訳ではないのだ。
このバランスを大切にしていきたい。
メンタルの維持について
メンタルの維持について
どんな強靭なメンタルを持つ人でも、大きなストレスが2度や3度立て続けに起こってしまえば、平常なメンタルを維持することは難しいと言われている。
そこまで強いメンタルを持っていない自分にとっては、どれだけしっかり睡眠をとっても、バランスの良い食事をとっても、やや辛い状態というのが今かもしれない。
ただし、それでもすべきことは一つで、今の状況をポジティブに考えるということだけだと思う。
いま失っているものがあるかもしれないが、失っていないものもある。
それに感謝すること。
感じていることはブログに書いて、自分の内側から吐き出すこと。
そして、それができたら自分を褒めてあげる。それだけだ。
内側の感覚に目を向ける
内側の感覚に目を向ける
外的な要因。
つまり、仕事の忙しさや人間関係のトラブルなど
そのような事象と対峙してしまっていると、無視してしまいがちなのが、自分自身についてだ。
ふと、立ち止まって自分のことに感覚を集中させると、外部要因に忙殺されていた時には感じるとることができなかった、内的な気づきを得ることができる。
そのような気づきは、しっかり意識を集中させないと感じられないものだと思うし、また、一方でそれを放置してしまうことは、後から取り返しのつかないことになる可能性もある。
毎日、ほんの少し、自分の内側に向き合う時間が持っていきたい。
人間の成長ドライバーについて
人間の成長ドライバーについて
「サピエンス全史」の下巻を読み進めている。
その中で、非常に印象的な問いがあった。
それは、中世から近代にかけて、なぜ西洋ヨーロッパが大きな飛躍を遂げることができたのか?という問いである。
その答えは、「無知の知」であるというのが答えだ。
つまり、知らないことを知るという意味である。
近代以前の人々は、意外にも「神」という存在の定義によって、世の中のすべてを規定していた。故に、知らないということはなかった。
しかし、西洋ヨーロッパは、宗教の影響力があまりにも強かったことで、そのアンチテーゼとなる考えが台頭したことが大きい。
これが、啓蒙主義と呼ばれるものであり、「無知の知」である。
身近なものから未知のものまで、決めつけることをせず、なぜ?という探求心から知を求める姿勢こそ、成長における最大のドライバーとなったのだ。
そして、それは現代でも通用する考え方だと思う。
良質なストレスの必要性
良質なストレスの必要性
平坦な毎日というのは、大変なことはないかもしれないが、やりがいや成長実感もない。
筋肉もほどよい負荷をかけることで、成長するように、精神面も似た部分があると思う。
良い意味でのストレスを受け、自分の中で考え、それを消化する。
その過程の中で、平坦な毎日が、刺激的な毎日にかわる側面があるように思う。
ストレスがないと感じるときこそ、あえて1歩を踏み出してみる。
そんなことが大切だと思う。
サウナラボ神田で本格フィンランドサウナを体感
サウナラボ神田で本格フィンランドサウナを体感
以前より気になっていてなかなか足を運ぶことができていなかった「サウナラボ神田」を訪問した。
入館には事前予約が必要ということもあり、館内は非常に静かなでセミプライベートな空間となっていた。
この施設の一番の目玉は、フィンランドサウナだろう。
いわゆるロウリュができるフィンランドサウナという名称のサウナは、いまや至るところに存在するが、この施設のフィンランドサウナは、温度や湿度管理から部材まで、現地のサウナをかなり意識したこだわりを感じた。
特に、温度と湿度の設定については、いつもまでもいられる心地よさを感じた。
それでいて、セルフロウリュがいつでもできる状態になっているのも最高すぎる。
この施設を訪れたことで、より一層フィンランドへの憧憬の思いが強くなった気がする。