足利義持(あしかがよしもち)

足利義持(あしかがよしもち)
1386年-1428年
征夷大将軍:1395年-1423年
室町幕府の4代将軍。
足利義満の子。
1395年に幼くして征夷大将軍となったが、3代将軍だった父が引き続き政治を行なった。
1408年、父が死去すると斯波義将や畠山満家らの宿老による合議で政治を行なった。
父に贈られることとなっていた太上法皇の称号を辞退した。
1416年に上杉禅秀の乱が起こると鎌倉公方の足利持氏を支援したが、その後は関係が悪化した。
1418年、上杉禅秀の乱に関わったとして、弟の足利義嗣を殺害した。
1419年、日明貿易を中止した。
1423年、子の足利義量に将軍を譲って出家した。
1425年、足利義量が病死すると、新たな将軍を置かずに自ら政治を行なった。
病となっても後継者を指定せずに死去した。

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足利義嗣(あしかがよしつぐ)

足利義嗣(あしかがよしつぐ)
1394年-1418年
室町時代の武将。
足利義満の子。
足利義持の異母弟。
三千院に入って僧になる予定だったが、1406年に還俗した。
父に寵愛され、親王に準じた扱いを受けた。
皇位継承者にさせられたが、1408年に父が死去すると中止された。
4代将軍になった兄の足利義持とは不和になり、1416年に上杉禅秀の乱に加わろうとしたとして捕らえられた。
幽閉された後、殺害された。

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上杉氏憲(うえすぎうじのり)、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)

上杉氏憲(うえすぎうじのり)、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)
?-1417年
室町時代の武将。
上杉氏のうちの犬懸上杉家。
出家して禅秀と称した。
父の犬懸上杉朝宗は鎌倉公方足利満兼に重用され関東管領を務めたこともあったが、1409年に足利満兼の死去により隠居した。
上総国と武蔵国の守護を継ぎ、1411年には関東管領となった。
新たな鎌倉公方の足利持氏や山内上杉家と対立し、1415年に関東管領を辞任した。
1416年、上杉禅秀の乱を起こして、足利持氏から鎌倉府の実権を奪った。
室町幕府4代将軍足利義持が足利持氏に送った援軍に敗れ、翌1417年に鎌倉で自害した。

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上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)
室町時代に東国であった内乱の一つ。
1416年から1417年まで、前関東管領の上杉禅秀(上杉氏憲)と鎌倉公方の足利持氏が戦った。
犬懸上杉家の上杉禅秀は山内上杉家と対立しており、山内上杉家の上杉憲基を関東管領とした足利持氏とも争うようになっていた。
1416年、上杉禅秀は甲斐国の武田氏など東国の豪族とともに持氏の叔父である足利満隆を奉じ、さらに室町幕府4代将軍の足利義持の弟である足利義嗣とも通じて挙兵した。
鎌倉の邸宅を襲われた足利持氏は駿河国に逃れ、上杉禅秀は鎌倉府を掌握した。
室町幕府は当初は静観していたが、足利義嗣の関わりがわかると足利持氏を支援することを決めた。
駿河守護の今川氏や越後守護の上杉氏らが幕府によって派遣されて足利持氏への援軍となり、戦いを有利に進めた。
1417年、鎌倉に攻め込まれた上杉禅秀や足利満隆は自害した。
犬懸上杉家は力を失い、甲斐国の武田氏も一時期滅んだ。
足利義嗣は捕えられたのちに殺害された。
戦い後の処理を巡って、室町幕府と足利持氏と対立するようになった。

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足利義量(あしかがよしかず)

足利義量(あしかがよしかず)
1407年-1425年
征夷大将軍:1423年-1425年
室町幕府の5代将軍。
足利義持の子。
1423年に父に譲られて将軍となったが、政治の実権は父が持ち続けた。
若くして病死した。
死後は将軍を置かず、父が政治を行なった。

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畠山満家(はたけやまみついえ)

畠山満家(はたけやまみついえ)
1372年-1433年
室町時代の武将、管領。
1399年、応永の乱で大内義弘を討ち取った。
足利義満に冷遇され、父が死去した際には弟が畠山家を継いだ。
1408年に足利義満が死去すると弟から家督を譲られ、河内国・紀伊国。越中国などの守護となった。
4代将軍足利義持のときに二度にわたり管領となった。
二度目のときは5代将軍足利義量、義量死後の義持執政期、6代将軍足利義教の初期と長期間務めた。
1428年、足利義持の死後、6代将軍を満済とともにくじ引きで選んだ。
同年には山城国の守護となり、正長の徳政一揆(正長の土一揆)が起こると管領としてこれを鎮圧した。
管領を辞めた後も足利義教への影響力を保っていた。

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土一揆(つちいっき、どいっき)

土一揆(つちいっき、どいっき)
室町時代に土民が起こした武装蜂起。
年貢や徳政を巡って、荘園領主や守護大名、酒屋や土倉といった高利貸しを対象に争った。
徳政一揆では、私徳政の他に徳政令が出されることもあった。
正長の土一揆、播磨の土一揆、嘉吉の土一揆、享徳の土一揆などがあった。

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土民(どみん)

土民(どみん)
その土地に住む民のこと。
古代では戸籍に載る公民を指していった。
中世には荘園や公領の民のことをいった。
室町時代には土一揆を起こすことがあった。

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徳政一揆(とくせいいっき)

徳政一揆(とくせいいっき)
徳政を求めた土一揆のこと。
室町時代に、酒屋や土倉といった高利貸しが襲撃された。
徳政令が出されることを求めたが、それがかなわない場合は私徳政となった。
正長の徳政一揆(正長の土一揆)では徳政令は出されず、私徳政にとどまった。
嘉吉の徳政一揆(嘉吉の土一揆)では室町幕府が徳政令を出した。
享徳の徳政一揆では幕府が分一徳政令を出した。

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徳政(とくせい)

徳政(とくせい)
債権・債務を破棄して、借金を帳消しにすること。
もとは仁徳のある善政のことで、免税や大赦などをいった。
鎌倉時代には徳政令が幾度も出されたが、永仁の徳政令によって借金の帳消しの意味が強くなった。
室町時代には徳政を求める徳政一揆が起き、徳政令が出ないときは私徳政も行なわれた。

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徳政令(とくせいれい)

徳政令(とくせいれい)
徳政の対象などを定めた法令。
内容は売却した土地の返還、質入れや金銭の貸借の破棄などで、朝廷・幕府・守護大名などが出した。
鎌倉時代から南北朝時代に度々あり、1297年には鎌倉幕府による永仁の徳政令が発せられた。
室町時代には徳政令を求める徳政一揆(土一揆)が多く、室町幕府も徳政令を頻発するようになった。
正長の徳政一揆(正長の土一揆)では徳政令は出されなかったが、嘉吉の徳政一揆(嘉吉の土一揆)では嘉吉の徳政令が出された。
享徳の徳政一揆からは、分一徳政令が出されるようになった。

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私徳政(しとくせい)

私徳政(しとくせい)
私的に徳政を行なって、質入れや貸借を破棄すること。
朝廷や幕府などが出す徳政令によらないものだった。
地域を限定したものに在地徳政(ざいちとくせい)があった。
土一揆(徳政一揆)などで高利貸しが威圧されて出したり、土一揆側が宣言して質物や借金の証文を奪い去ったりした。
正長の徳政一揆(正長の土一揆)では徳政令は出されず、私徳政に留まるものだった。
嘉吉の徳政一揆(嘉吉の土一揆)では、私徳政ののちに嘉吉の徳政令が出された。

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正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)、正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき、しょうちょうのどいっき)

正長の徳政一揆(しょうちょうのとくせいいっき)、正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき、しょうちょうのどいっき)
1428年に起きた徳政一揆、土一揆。
この年に足利義持が死去して足利義教が6代将軍になることが決まり、天皇も称光天皇が死去して後花園天皇にかわったばかりだった。
代替わりの徳政が期待される中、近江国(滋賀県)坂本の馬借が蜂起して始まった。
近江国守護の六角氏が独自の徳政令を出すと、一揆は京都やその周辺諸国に広がっていった。
奈良の興福寺のように地域で独自の徳政令を出したりもしたが、室町幕府はついに徳政令を出すことはなかった。
京都では酒屋や土倉が襲われて私徳政が行なわれたが、山城守護で管領の畠山満家が鎮圧した。
柳生徳政碑文、興福寺の『大乗院日記目録』といった史料が残されている。
翌1429年の播磨の土一揆に影響を与えた。

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柳生徳政碑文(やぎゅうとくせいひぶん)

柳生徳政碑文(やぎゅうとくせいひぶん)
奈良県奈良市の柳生にある石碑の碑文。
疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)と呼ばれる石像が彫られている石の下方に刻まれている。
碑文には、正長元年(1428年)より前の神戸四箇郷(神戸郷)の負債がなくなったとある。
正長の徳政一揆(正長の土一揆)のときに興福寺が出した徳政令のこととされている。

史料

正長元年ヨリ
サキ者カンへ四カン
カウニヲ井メアル
ヘカラス


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大乗院日記目録(だいじょういんにっきもくろく)

大乗院日記目録(だいじょういんにっきもくろく)
戦国時代にまとめられた年代記。
興福寺大乗院の記録などから尋尊が抄出したもの。
平安時代後期から戦国時代初期まで、1065年から1504年までが対象。
興福寺や春日大社のことが中心だが、他の地域のできごとについても書かれている。
正長の徳政一揆(正長の土一揆)について書かれた部分が著名。

史料

天下の土民蜂起す。
徳政と号して酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、……
日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり。


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播磨の土一揆(はりまのつちいっき、はりまのどいっき)

播磨の土一揆(はりまのつちいっき、はりまのどいっき)
播磨国(兵庫県南西部)で起きた土一揆。
特に1429年のものをいう。
前年の1428年に正長の徳政一揆(正長の土一揆)が広がって、播磨国でも土一揆が起こっていた。
1429年になると再び土一揆が起こり、守護代や荘園の代官が攻撃された。
守護の赤松満祐によって鎮圧された。
『薩戒記』に「侍をして国中に在らしむべからず」とのスローガンなどが書かれている。

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薩戒記(さっかいき)

薩戒記(さっかいき)
中山定親(なかやまさだちか)の日記。
中山定親は室町時代の公卿で、朝廷と幕府の連絡役だった。
1418年から1443年までの日記を中心に残っている。
書名は、定親の最初の「サ」と最後の「カ」に別の漢字の「薩」と「戒」を充てたもの。
足利義持や足利義教のころの重要な史料で、1429年の播磨の土一揆についての記事が著名。

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足利義教(あしかがよしのり)

足利義教(あしかがよしのり)
1394年-1441年
征夷大将軍:1429年-1441年
室町幕府の6代将軍。
足利義満の子で、足利義持の同母弟。
青蓮院に入り、出家して義円(ぎえん)と称した。
1419年、天台座主となった。
1428年に兄の足利義持が死去すると、宿老たちは後継者をくじ引きで決めることとなり、その結果として選ばれた。
還俗し、翌1429年に征夷大将軍となった。
初期は足利義持のころからの畠山満家や満済ら宿老による合議を引き継ぎ、一方で途絶えていた明との勘合貿易を復活させた。
次第に将軍専制へと移行し、守護大名の家督継承に介入したり有力守護大名を粛清したりした。
1439年、永享の乱で鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした。
1440年に起きた結城合戦で追討軍を派遣し、翌1441年に勝利した。
同年、嘉吉の変(嘉吉の乱)で赤松満祐に謀殺された。

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足利持氏(あしかがもちうじ)

足利持氏(あしかがもちうじ)
1398年-1439年
室町幕府の4代鎌倉公方(関東公方)。
3代鎌倉公方(関東公方)の足利満兼の子。
1409年、父の死により鎌倉公方(関東公方)を継いだ。
1416年、上杉禅秀の乱で一時、鎌倉を追われた。
翌年、4代将軍足利義持の支援を得て、上杉禅秀らを滅ぼした。
乱後の処理などを巡って幕府と対立したが、足利義持と和睦した。
1428年に足利義持が死去して、翌年に足利義教が6代将軍となると対立が激化した。
1438年、幕府側に立った関東管領の上杉憲実を攻撃して、永享の乱を起こした。
上杉憲実や幕府側に敗れ謹慎したが許されず、翌年に鎌倉で自害した。

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永享の乱(えいきょうのらん)

永享の乱(えいきょうのらん)
室町時代に東国であった内乱の一つ。
1438年から1439年まで、鎌倉公方の足利持氏と室町幕府が戦った。
足利持氏は室町幕府に対抗していたが、特に6代将軍足利義教になってからは対立が激しくなった。
関東管領の上杉憲実は間に入って取り持っていたが、足利持氏と不和になった。
1438年、足利持氏は上野国(群馬県)に退いていた上杉憲実を追討するための兵を挙げた。
上杉憲実は室町幕府に援軍を求め、足利義教は足利持氏を追討する命令を出した。
駿河守護の今川氏、甲斐守護の武田氏、信濃守護の小笠原氏は、幕府の命を受けて東国に攻め入って箱根で足利持氏を打ち破った。
裏切りにあい鎌倉を失った足利持氏は金沢の称名寺に入り、武蔵国に攻め上ってきた上杉憲実に降伏した。
上杉憲実は足利持氏の助命を嘆願したが許されなかった。
翌1439年、鎌倉の永安寺に移されていた足利持氏は上杉憲実の軍に囲まれる中で自害させられた。
鎌倉公方は一時途絶え、上杉氏が力を持つこととなった。
1440年には足利持氏の遺臣たちが結城合戦を起こした。

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