後三条天皇(ごさんじょうてんのう)

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)
1034年-1073年
在位:1068年-1072年
第71代に数えられている天皇。
諱は尊仁(たかひと)。
後朱雀天皇の子で、母は三条天皇の娘の禎子内親王。
父が病死により異母兄の後冷泉天皇が即位し、その皇太子となった。
1068年に後冷泉天皇が男子のないまま病死し、天皇となった。
藤原頼通が関白を辞めて藤原教通が関白となったが、藤原氏が外戚でなく親政を行なった。
延久の荘園整理令を出して記録荘園券契所を設置し、宣旨枡を定めた。
藤原氏を外戚とする白河天皇に譲位したが、その弟で藤原氏を外戚としない実仁親王を次の皇太子とした。
院政を行なおうとしたともされるが、譲位の翌年に病死した。

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即位灌頂(そくいかんじょう)

即位灌頂(そくいかんじょう)
天皇が即位するときの灌頂。
灌頂は水を頭の頂に灌ぐ(そそぐ)ことで、もとはインドの国王の即位や立太子で行なわれた儀式。
それが仏教、特に密教に取り入れられ、日本に伝わってさらに天皇の即位儀礼に取り入れられた。
日本では中世から近世に行なわれ、11世紀後半の後三条天皇の即位のときから始まったともされる。
明治天皇のときから仏教色が廃され、行なわれなくなった。

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宣旨枡(せんじます)

宣旨枡(せんじます)
後三条天皇が制定した公定枡。
1072年に定められた。
都や諸国で使用された。
鎌倉時代まで機能していたが、室町時代に廃れた。

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荘園整理令(しょうえんせいりれい)

荘園整理令(しょうえんせいりれい)
荘園を制限するために出された法令。
902年の延喜の荘園整理令が最初で、以後何度も出された。
特に1040年の長久の荘園整理令からは荘園と公領を区分して、新立荘園を制限した。
1045年には寛徳の荘園整理令、1055年には天喜の荘園整理令が出された。
1069年には延久の荘園整理令が出され、記録荘園券契所(記録所)により厳格に実施された。
1056年には保元新制のなかで保元の荘園整理令が出された。

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寛徳の荘園整理令(かんとくのしょうえんせいりれい)

寛徳の荘園整理令(かんとくのしょうえんせいりれい)
1045年に出された荘園整理令。
後冷泉天皇、関白藤原頼通のときに出された。
1040年の長久の荘園整理令で当任国司以降の新立荘園を停止したのを受けて、前任国司以降の新立荘園を停止とした。
これ以降の荘園整理令で、新立荘園を停止する際には寛徳の荘園整理令が出された1045年が基準となった。

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延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)

延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)
1069年に出された荘園整理令。
後三条天皇のときに出された。
寛徳の荘園整理令が出された1045年以後の新立荘園を停止した。
またそれより前のものでも、記録荘園券契所(記録所)で券契が明白でない場合、国務の妨げとされた場合も停止された。
摂関家の荘園も厳密な調査の対象となり、条件を満たさない場合は停止されることもあった。
石清水八幡宮の荘園は、34カ所のうち13カ所が停止された。

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記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)、記録所(きろくじょ)

記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)、記録所(きろくじょ)
延久の荘園整理令を実施するための機関。
1069年に後三条天皇が太政官の朝所(あいたんどころ)に設置したのが始まり。
荘園として認められたときの証拠書類である券契を審査した。
長官の上卿の下に弁、その下に寄人がいた。
上卿は源経長や源隆俊、弁は大江匡房がなった。
従来の荘園整理令では国司が券契を審査していたが、天皇のもとで厳密に行われるようになった。

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大江匡房(おおえのまさふさ)

大江匡房(おおえのまさふさ)
1041年-1111年
平安時代後期の公卿、学者。
大江匡衡、赤染衛門の曾孫。
文章道を学び、後三条天皇、白河天皇、堀河天皇の東宮学士となった。
後三条天皇が天皇となってからは、蔵人や記録荘園券契所(記録所)の寄人、弁となった。
白河上皇が院政を始めてからは、参議、権中納言、大宰権帥などを歴任し、院別当となった。
儀式書の『江家次第』、日記の『江記』、往生伝の『続本朝往生伝』などを著した。
談話が『江談抄』として残されている。

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江家次第(ごうけしだい)

江家次第(ごうけしだい)
大江匡房による儀式書。
1111年に成立。
21巻のうち19巻が現存。
関白の藤原師通の依頼によって書かれたという。
江家は大江氏のこと。

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江記(ごうき)

江記(ごうき)
大江匡房が書いた日記。
現存せず、引用された一部が復元されている。
『匡房卿記』『江都督記』『江中納言記』ともいう。

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太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)、上皇(じょうこう)

太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)、上皇(じょうこう)
譲位した天皇のこと。
律令では太上天皇といい、上皇は略したもの。
最初の太上天皇は持統太上天皇(持統天皇)。
平安時代の初期までは天皇と同格だった。
平城太上天皇の変(薬子の変)では同格の嵯峨天皇と平城太上天皇が対立したため、嵯峨天皇が太上天皇となるときには天皇から任じられる形式をとった。
特に歴史学ではそれまでを太上天皇、それ以降を上皇と区別して表記することが多い。
嵯峨上皇以降も有力な上皇は影響力を持つことがあった。
平安時代後期の白河上皇からは、上皇のうち治天の君となった人物が院政を行なうようになった。
承久の乱ののちには、後高倉院のように天皇になったことがない太上天皇もいた。
明治時代からは天皇が譲位することがなくなり、太上天皇(上皇)もいなくなった。
平成の天皇が譲位した際に上皇の称号が使われている。

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法皇(ほうおう)

法皇(ほうおう)
太上法皇を略したもの。
太上天皇が出家した場合の通称。
9世紀末の宇多法皇(宇多天皇)から使用されるようになった。
それ以前も聖武天皇や孝謙天皇のように出家した太上天皇はいたが、太上法皇(法皇)とはいわなかった。
最後は江戸時代の霊元法皇(霊元天皇)。
平安時代後期に院政を行なった白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇はいずれも法皇となった。

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院(いん)、院御所(いんごしょ)

院(いん)、院御所(いんごしょ)
上皇(太上天皇)の居住地のこと。
院はもとは朝堂院や正倉院、勧学院のように一般の建物をいったが、上皇の居住地のことをいうようになり、さらに上皇のことを指すようにもなった。
嵯峨天皇が上皇となったときから院号で呼ばれ、後には在位中に死去した天皇でも院号で呼ばれた。
上皇が複数存在した場合は、本院・中院・新院のように区別した。
また、皇后などに女院号が与えられるようになり、さらに摂政・関白や幕府の将軍も院号で呼ばれ、やがて庶民にも広がった。
上皇の御所としては、院御所、仙洞(せんとう)、仙洞御所などともいわれた。

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女院(にょいん)

女院(にょいん)
院号を与えられた女性。
上皇(太上天皇)に準じた待遇であることが多い。
三后(三宮)の太皇太后・皇太后・皇后・中宮、内親王などに与えられた。
991年に一条天皇の母である皇太后藤原詮子に東三条院を与えたのが最初。
1026年には後一条天皇の母である太皇太后藤原彰子に上東門院が与えられ、このときからは門院号となった。
明治時代になって廃止された。

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治天の君(ちてんのきみ)

治天の君(ちてんのきみ)
実質的に天下を治めている君主のこと。
天皇や複数の上皇(太上天皇)がいる中で、政治を主導している人物をいう。
特に院政を行なっている上皇のことをいった。
白河上皇が最初とされ、鳥羽上皇、後白河上皇と続いた。
室町時代の途中から譲位が行なわれなくなったため上皇がいなくなり、そのころからは治天の君とはいわない。

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院政(いんせい)

院政(いんせい)
治天の君である上皇(太上天皇)が行なった政治。
1086年に白河上皇が始めたとされる。
自分の子孫を天皇とし、天皇の父系の尊属として影響力を持つようになった。
院庁を設置して院宣や院庁下文を出し、律令制の枠組みの外から太政官などを動かした。
受領層などが院の近臣として集まり、武士は北面の武士などになった。
荘園が集まり、知行国制を始めたことで、それらが経済基盤となった。
白河上皇に続いて鳥羽上皇も専制的な院政を行ない、後白河上皇のときには院庁で国政の中心になることもあった。
後鳥羽上皇が承久の乱で敗れてからは武家政権の影響を受け、鎌倉時代が終わるころには院政の実質的な政治権力は失われた。
江戸時代後期の光格上皇(光格天皇)の院政が最後で、明治になって廃止された。

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院政期(いんせいき)、院政時代(いんせいじだい)

院政期(いんせいき)、院政時代(いんせいじだい)
院政が政治を主導した時期のこと。
主に白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇が院政をした時期をいう。
白河上皇が院政を始めた1086年から鎌倉幕府が成る1185年までとされる。
後三条天皇の頃を含める場合や後鳥羽上皇の院政の頃を含める場合もある。
摂関期と鎌倉時代の間で、荘園公領制が成立していく時期で、院政期の文化の時期でもある。

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白河天皇(しらかわてんのう)、白河上皇(しらかわじょうこう)、白河法皇(しらかわほうおう)

白河天皇(しらかわてんのう)、白河上皇(しらかわじょうこう)、白河法皇(しらかわほうおう)
1053年-1129年
在位:1072年-1086年
院政:1086年-1129年
第72代に数えられている天皇。
諱は貞仁(さだひと)。
後三条天皇の子。
母は摂関家の出ではない藤原茂子(閑院流の藤原公成の娘)。
父が即位した翌年の1069年に皇太子となり、1072年に譲位された。
その際、藤原氏を母としない異母弟の実仁親王が父の意向で皇太子となった。
実仁親王が1085年に病死すると、1086年に子の堀河天皇を皇太子としたうえで譲位し、上皇(太上天皇)となって院政を開始した。
1096年には出家して法皇となった。
堀河天皇の病死後は孫の鳥羽天皇を即位させ、鳥羽天皇が成長すると曾孫の崇徳天皇に譲位させて白河院政を続けた。
鳥羽天皇は幼帝でさらに摂関家が弱体化したため、専制的な政治を行なうようになった。
受領層などを院の近臣とし、北面の武士を設置した。
白河に法勝寺を建て、白河殿(白河離宮)を院御所とした。

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堀河天皇(ほりかわてんのう)

堀河天皇(ほりかわてんのう)
1079年-1107年
在位:1086年-1107年
第73代に数えられている天皇。
諱は善仁(たるひと)。
白河天皇の子。
母は源顕房の娘で藤原師実の養女となった藤原賢子。
1086年に白河天皇の皇太子となり、その日のうちに譲位された。
当初の治世は、院政を行なう白河上皇と摂政の藤原師実が協調して政治をしていた。
成人してからは親政をして白河上皇の影響力は小さくなり、関白の藤原師実・藤原師通と協調した。
親政が評価され、後世に「末代の賢王」と称された。
若くして病死したため、子の鳥羽天皇が幼少のまま次の天皇となった。
六勝寺の一つである尊勝寺を建てた。

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院庁(いんのちょう)

院庁(いんのちょう)
院(上皇)や女院の家政機関。
特に上皇による院政の執行機関であった。
職員は院司。
発給する文書は院庁下文などがあった。

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