源頼家(みなもとのよりいえ)

源頼家(みなもとのよりいえ)
1182年-1204年
征夷大将軍:1202年-1203年
鎌倉幕府の2代将軍。
源頼朝の子。
母は北条政子で、源実朝は同母弟。
1199年、父が死去したため、鎌倉殿を継いだ。
十三人の合議制によって実権を失っていった。
妻の父の比企能員が外戚として力を持ち、祖父の北条時政と対立した。
1203年に病になると北条時政によって比企氏が滅ぼされ、頼家は出家して伊豆国の修禅寺に幽閉された。
翌年に暗殺された。

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修禅寺(しゅぜんじ)

修禅寺(しゅぜんじ)
静岡県伊豆市にある寺。
平安時代に真言宗の寺院として開かれた。
1193年、源頼朝の弟の源範頼が幽閉され殺害された。
1203年には鎌倉幕府の2代将軍源頼家が幽閉され、翌年に殺害された。
蘭渓道隆が入ってから臨済宗となり、戦国時代からは曹洞宗となった。
修善寺とも書く。

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十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)
鎌倉幕府の2代将軍源頼家のときの御家人による合議制。
1199年に源頼朝が死去し源頼家が鎌倉殿を継いだが、源頼家の専制を抑えるために有力御家人による合議が行なわれたという。
幕府の要職にいた人物や源頼朝・源頼家の外戚、側近たちで、京下り官人と関東の有力武士がいた。
その年のうちに梶原景時が失脚し、翌年には三浦義澄と安達盛長が病死した。
北条氏と比企氏が対立するようになり、1203年には比企能員の乱が起こって源頼家は幽閉された。

十三人に数えられる御家人
北条時政(ほうじょうときまさ)
北条義時(ほうじょうよしとき)
大江広元(おおえのひろもと)
三善康信(みよしのやすのぶ)
中原親能(なかはらのちかよし)
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
梶原景時(かじわらかげとき)
三浦義澄(みうらよしずみ)
安達盛長(あだちもりなが)
比企能員(ひきよしかず)
足立遠元(あだちとおもと)
和田義盛(わだよしもり)
八田知家(はったともいえ)

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梶原景時(かじわらかげとき)

梶原景時(かじわらかげとき)
?-1200年
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
桓武平氏で、坂東八平氏の一つ鎌倉氏の一族。
1180年、石橋山の戦いでは平家側だったが、敗れた源頼朝をわざと見逃して助けた。
その後、御家人となって重用され侍所所司となり、さらには和田義盛から侍所別当を奪った。
1183年に頼朝の命で上総介広常を討ち、平家との戦いでは軍奉行となるが対立した源義経を失脚させた。
1199年、十三人の合議制の一人となり、2代将軍となった源頼家を支えた。
同年、結城朝光を讒言したが、他の有力御家人からの反感によって逆に景時が失脚した。
翌年に武田有義を擁立しようとしたとされ、京へ向かう途中の駿河国で滅ぼされた。

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安達盛長(あだちもりなが)

安達盛長(あだちもりなが)
1135年-1200年
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
源頼朝の乳母であった比企尼の娘を妻としたことから、流人として伊豆にいた頼朝の側近となっていた。
1180年、源頼朝の挙兵後も行動をともにし、有力御家人となっていった。
上野国奉行人、三河国の守護などを歴任した。
1199年、十三人の合議制の一人となる。
子孫は北条氏の外戚となり栄えた。

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足立遠元(あだちとおもと)

足立遠元(あだちとおもと)
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
武蔵国足立郡を拠点とした。
1159年、平治の乱では源義朝に従った。
1180年に源頼朝が挙兵すると御家人となり、鎌倉幕府では公文所の寄人などを務めた。
1199年、十三人の合議制の一人となる。

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八田知家(はったともいえ)

八田知家(はったともいえ)
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
下野国の宇都宮氏の一族で、常陸国(茨城県)の八田を得て拠点とした。
源頼朝の御家人となって平家との戦いに加わり、奥州合戦では東海道大将軍となった。
1199年、十三人の合議制の一人となる。
常陸国の守護となり、その後も子孫の小田氏などがなった。

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比企氏(ひきし)

比企氏(ひきし)
武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族、武家。
秀郷流藤原氏。
平安時代末期に比企掃部允の妻の比企尼(ひきのあま)が源頼朝の乳母となった。
比企尼は伊豆に配流中の源頼朝を支援し、娘たちが安達盛長や川越氏、平賀氏の妻となり、孫には源範頼の妻、源義経の妻、平賀朝雅らがいるなど鎌倉幕府関係者に縁戚が多くいた。
比企尼の甥の比企能員は源頼朝の側近となり、比企尼の娘や比企能員の妻らが源頼家の乳母となった。
比企能員の娘が源頼家の子の一幡を産んだことで、鎌倉殿の外戚として権勢を振るった。
北条氏と対立するようになり、1203年に比企能員の乱で比企氏は滅ぼされた。

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比企能員(ひきよしかず)

比企能員(ひきよしかず)
?-1203年
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
源頼朝の乳母だった比企尼の甥。
比企尼の養子となって比企氏を継いだ。
源頼朝の挙兵後に御家人となり、平家との戦いや奥州合戦などに参加した。
上野国、信濃国の守護となった。
一族が2代将軍となった源頼家の乳母となり、さらに娘の若狭局が頼家の子の一幡を産んだ。
1199年、十三人の合議制の一人となる。
鎌倉殿の外戚として権勢を振るい、北条氏と対立した。
1203年に北条時政を倒そうとしたが、逆に殺害された(比企能員の乱)。

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比企能員の乱(ひきよしかずのらん)

比企能員の乱(ひきよしかずのらん)
1203年に比企氏が北条氏に滅ぼされた事件。
比企氏は鎌倉幕府の2代将軍源頼家の乳母として、また比企能員が頼家の子の一幡の外祖父として権勢を振るっていた。
頼家が重病になると、北条時政によって関東は一幡、関西は頼家の弟の千幡(源実朝)に割り当てた。
これに反発した比企能員は北条時政を除こうとしたが、その計画が漏れておびき寄せられた北条時政の邸宅で殺害された。
次いで、一幡とともに比企氏一族も滅ぼされた。
源頼家は出家させられて、伊豆の修禅寺に幽閉された。

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執権(しっけん)

執権(しっけん)
鎌倉幕府の将軍を補佐し、政務を統轄した役職。
1203年に北条時政がなってから、北条氏が世襲した。
初期は政所の別当のことだったが、1213年に北条義時が侍所別当になってからは両職を兼ねた。
鎌倉幕府の実権を握って執権政治を行なったが、得宗専制政治になると得宗以外の執権は影響力が低下した。

鎌倉幕府執権一覧
1 北条時政(ほうじょうときまさ)
2 北条義時(ほうじょうよしとき)得宗
3 北条泰時(ほうじょうやすとき)得宗
4 北条経時(ほうじょうつねとき)得宗
5 北条時頼(ほうじょうときより)得宗
6 北条長時(ほうじょうながとき)
7 北条政村(ほうじょうまさむら)
8 北条時宗(ほうじょうときむね)得宗
9 北条貞時(ほうじょうさだとき)得宗
10 北条師時(ほうじょうもろとき)
11 北条宗宣(ほうじょうむねのぶ)
12 北条煕時(ほうじょうひろとき)
13 北条基時(ほうじょうもととき)
14 北条高時(ほうじょうたかとき)得宗
15 北条貞顕(ほうじょうさだあき)
16 北条守時(ほうじょうもりとき)

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北条氏(ほうじょうし)

北条氏(ほうじょうし)
鎌倉幕府の執権などを輩出した武家。
桓武平氏。
平安時代に伊豆国(静岡県)の北条を拠点としていた在庁官人だったとされる。
平安時代末期に北条政子が源頼朝の妻となり、その父の北条時政が鎌倉幕府の御家人となった。
源頼朝の死後、北条時政は他の有力御家人を倒して幕府の実権を握って執権となった。
その後は一門が幕府の要職の多くに就き、嫡流の得宗が特に力を持った。
1333年、鎌倉幕府とともに得宗の北条高時ら一門の多くが滅亡した。
1335年に中先代の乱を起こした北条時行が南朝方として行動したが、1353年に滅んだ。
戦国時代には関東地方に勢力を広げた伊勢氏が北条氏を名乗った(後北条氏)。

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北条時政(ほうじょうときまさ)

北条時政(ほうじょうときまさ)
1138年-1215年
平安時代後期から鎌倉時代の武将、初代執権。
伊豆国(静岡県)の豪族で、流人だった源頼朝を監視していた。
娘の北条政子が源頼朝の妻となってからは、頼朝に従った。
1180年、源頼朝とともに挙兵し、石橋山の戦いや富士川の戦いを共にした。
1185年、大軍を率いて京に上って初代京都守護となり、源義経追討と守護・地頭の設置を後白河法皇に認めさせた。
1199年、源頼朝の死後に十三人の合議制の一人となる。
1203年、2代将軍の源頼家や比企能員と対立し、比企能員の乱で比企氏を滅ぼして頼家を伊豆の修禅寺に幽閉した。
源実朝を擁立して政所別当となり、初代執権になったとされている。
1205年、畠山重忠を滅ぼしたが、その後に牧氏の乱で失敗。
子の北条政子と北条義時によって、出家、伊豆で引退させられた。

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源実朝(みなもとのさねとも)

源実朝(みなもとのさねとも)
1192年-1219年
征夷大将軍:1203年-1219年
鎌倉幕府の3代将軍。
源頼朝の子。
母は北条政子で、源頼家は同母兄。
幼名は千幡(せんまん)といった。
1203年、比企能員の乱で源頼家が幽閉されると、鎌倉殿・3代将軍となった。
1205年、牧氏の乱で外祖父の北条時政によって廃されそうになったが、北条政子と次の執権となった北条義時によって防がれた。
1209年に従三位となり政所下文を出すようになり、政所を強化して政治を行なった。
後鳥羽上皇との関係は良好で、昇進を重ね右大臣にまでなった。
1219年、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式のときに甥の公暁に暗殺された。
京風の文化を取り入れ、和歌や蹴鞠を得意とした。
『金槐和歌集』を残した。

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畠山重忠(はたけやましげただ)

畠山重忠(はたけやましげただ)
1164年-1205年
平安時代後期から鎌倉時代の武将。
桓武平氏で、三浦義澄の甥(母が三浦氏)。
武蔵国畠山荘を拠点とした。
1180年、石橋山の戦いでは平家側として源頼朝と戦ったが、房総半島から武蔵国に向かった頼朝に従い御家人となった。
宇治川の戦いや平家との戦い、奥州合戦で功があり、頼朝の信頼も厚かった。
1205年、子の畠山重保(はたけやましげやす)が平賀朝雅と争って、朝雅の妻の父である北条時政の命令によって殺害された。
謀反を疑われた重忠は、鎌倉に向かう途中の武蔵国二俣川で北条時政に派遣された北条義時によって討たれた。
この一件は牧氏の乱に影響した。
重忠の妻は足利義兼の子である畠山義純(はたけやまよしずみ)と再婚させられ、畠山義純が畠山氏を継いだ。
このことにより畠山氏は桓武平氏から清和源氏の足利氏の一門へと変わった。

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平賀朝雅(ひらがともまさ)

平賀朝雅(ひらがともまさ)
?-1205年
鎌倉時代の武将。
清和源氏で、源義家の弟の源義光の子孫。
源頼朝の猶子となった。
父の平賀義信は源頼朝に従い、源氏一門として御家人筆頭となっていた。
母は比企尼の娘で、妻は北条時政と牧の方の娘。
武蔵守、京都守護などになった。
1203年、比企氏の縁者であったが、比企能員の乱では北条時政側についた。
乱後に京都守護として京に上った。
1205年、京で畠山重保(はたけやましげやす)と争い、讒言をして畠山重忠らを滅ぼす原因を作った。
同年、北条時政や牧の方が朝雅を将軍に擁立しようとする牧氏の乱が起き、北条義時の命令で討たれた。

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牧氏の乱(まきしのらん)

牧氏の乱(まきしのらん)
1205年に執権の北条時政とその後妻の牧の方が3代将軍の源実朝を殺害しようとした事件。
この年、北条時政と牧の方の娘婿である平賀朝雅の讒言によって、畠山重忠が滅ぼされていた。
次いで、源実朝を殺害して平賀朝雅を将軍にしようと画策したが、露見して北条政子と北条義時が実朝殺害を阻止した。
北条時政は出家して引退し、伊豆に帰った。
京にいた平賀朝雅は北条義時の命令で討たれた。
牧氏の変、平賀朝雅の乱ともいう。

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北条義時(ほうじょうよしとき)

北条義時(ほうじょうよしとき)
1163年-1224年
鎌倉幕府の2代執権。
北条時政の子で、北条政子の弟。
1180年、源頼朝の挙兵に父と加わった。
1199年、父とともに十三人の合議制の一人となる。
1205年、畠山重忠を擁護したが、父の命でこれをを討った。
同年、牧氏の乱では北条政子とともに北条時政を追放し、政所別当となった。
1213年、和田合戦で和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼ねた。
1219年、3代将軍源実朝が暗殺されると、摂家将軍を迎えた。
1221年、承久の乱では朝敵とされたが、これに勝利した。
徳宗と称され、義時の嫡流は得宗といった。

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和田合戦(わだかっせん)

和田合戦(わだかっせん)
1213年、北条義時と和田義盛の間であった戦い。
和田義盛は、泉親衡の乱に加わった甥の和田胤長の処遇を巡って北条義時と対立していた。
三浦義村は一族の和田氏側で戦う約定をしていたが、戦いが始まると北条義時側に付いた。
和田義盛は鎌倉にある御所や北条義時の邸宅などを襲ったが由比ガ浜の戦いで討ち取られた。
この後、北条義時は政所別当の他に和田義盛が務めていた侍所別当を兼ねるようになった。

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北条政子(ほうじょうまさこ)

北条政子(ほうじょうまさこ)
1157年-1225年
北条時政の娘で、北条義時の姉。
源頼朝の妻で、大姫、源頼家、源実朝の母。
1199年、源頼朝の死後により出家した。
1203年、北条時政とともに2代将軍源頼家を廃した。
1205年、牧氏の乱では父の北条時政を追放した。
1218年に京に上ったときに二位となった。
1219年、3代将軍源実朝が暗殺されると摂家将軍となる藤原頼経を迎えたが、まだ幼少だったため代わりに尼将軍として政治を行なった。
1221年、承久の乱では動揺する御家人たちをまとめたとされる。
1224年、執権となっていた北条義時が死去すると、北条泰時を次の執権にして支えた。

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