両統迭立(りょうとうてつりつ)

両統迭立(りょうとうてつりつ)
鎌倉時代に皇統がわかれ、かわるがわるに天皇を出したこと。
後嵯峨上皇は二人の子の後深草天皇と亀山天皇を続けて天皇としていた。
1272年に後嵯峨上皇が死去したが、治天の君の後継を決めていなかったため両統が対立することとなった。
鎌倉幕府が斡旋することとなり、後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統が迭立した。
1317年に文保の和談で条件が整えられたが後醍醐天皇は守らず、鎌倉幕府の滅亡後に建武の新政を経て南北朝時代となった。
1392年の南北朝合一では両統迭立に戻るとされたが、持明院統が単独で天皇を出し続けた。

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後深草天皇(ごふかくさてんのう)、後深草上皇(ごふかくさじょうこう)

後深草天皇(ごふかくさてんのう)、後深草上皇(ごふかくさじょうこう)
1243年-1304年
在位:1246年-1259年
院政:1287年-1290年
第89代に数えられている天皇。
諱は久仁(ひさひと)。
後嵯峨天皇の子。
母は西園寺姞子(さいおんじきっし。大宮院(おおみやいん)。西園寺実氏の娘)。
亀山天皇は同母弟で、宗尊親王は異母兄。
幼くして天皇となり父の後嵯峨上皇が院政を行なった。
成長すると父の命で弟の亀山天皇に譲位させられた。
持明院を住まいとし、持明院統の祖となった。
父の死後に亀山上皇と治天の君を争ったが、母の意向もあって後宇多天皇の父である亀山上皇の院政となった。
このときに不満を持った後深草上皇は関東申次の西園寺実兼に鎌倉幕府へと運動させ、自らの子が次の天皇となることを内定させた。
1287年、子の伏見天皇が天皇となったことで院政を始めた。
1289年には子の久明親王を鎌倉幕府の将軍とした。
1290年に出家したが、持明院統への影響力は保った。

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亀山天皇(かめやまてんのう)、亀山上皇(かめやまじょうこう)

亀山天皇(かめやまてんのう)、亀山上皇(かめやまじょうこう)
1249年-1305年
在位:1259年-1274年
院政:1274年-1287年
第90代に数えられている天皇。
諱は恒仁(つねひと)。
後嵯峨天皇の子。
母は西園寺姞子(さいおんじきっし。大宮院(おおみやいん)。西園寺実氏の娘)。
後深草天皇は同母兄で、宗尊親王は異母兄。
大覚寺統の祖となった。
父の後嵯峨上皇による院政のもと、兄の後深草天皇より譲位された。
1274年に子の後宇多天皇に譲位し、母の意向により兄の後深草上皇を抑えて院政を始めた。
1287年に兄の子の伏見天皇が天皇となると後深草上皇の院政となり、1289年に出家した。
1291年、母のために造っていた離宮を禅寺とし、これが後に南禅寺になった。

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持明院統(じみょういんとう)

持明院統(じみょういんとう)
鎌倉時代から南北朝時代に分裂した皇統の一つ。
後嵯峨天皇の子の後深草天皇を祖とする。
京都にある寺院で後深草天皇の院御所だった持明院が名の由来。
1272年に後嵯峨上皇が死去したのち、亀山天皇を祖とする大覚寺統と皇位継承などを巡って対立した。
鎌倉時代には両統迭立となって伏見天皇、後伏見天皇、花園天皇を出し、光厳天皇から北朝となった。
1392年、南北朝合一後は現在までの皇統として続いている。
長講堂領を経済基盤とした。

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大覚寺統(だいかくじとう)

大覚寺統(だいかくじとう)
鎌倉時代から南北朝時代に分裂した皇統の一つ。
後嵯峨天皇の子の亀山天皇を祖とする。
京都嵯峨にある寺院で後宇多天皇の院御所だった大覚寺が名の由来。
1272年に後嵯峨上皇が死去したのち、後深草天皇を祖とする持明院統と皇位継承などを巡って対立した。
鎌倉時代には両統迭立となって後宇多天皇、後二条天皇を出し、後醍醐天皇から南朝となった。
八条院領を経済基盤とした。

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後宇多天皇(ごうだてんのう)、後宇多上皇(ごうだじょうこう)

後宇多天皇(ごうだてんのう)、後宇多上皇(ごうだじょうこう)
1267年-1324年
在位:1274年-1287年
院政:1301年-1308年、1318年-1321年
第91代に数えられている天皇。
諱は世仁(よひと)。
大覚寺統の亀山天皇の子。
1274年、天皇となると、父が院政を行なった。
1287年、持明院統の伏見天皇に譲位した。
1301年、2代続いていた持明院統側に譲位させ、子の後二条天皇が天皇となると院政を行なった。
1307年に出家した。
1318年に子の後醍醐天皇が天皇となると二度目の院政を行なった。
1321年、鎌倉幕府の同意を得て白河上皇以来の院政を停止し、後醍醐天皇の親政が始まった。
院御所とした大覚寺の伽藍を整え再興した。

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伏見天皇(ふしみてんのう)、伏見上皇(ふしみじょうこう)

伏見天皇(ふしみてんのう)、伏見上皇(ふしみじょうこう)
1265年-1317年
在位:1287年-1298年
院政:1298年-1301年、1308年-1313年
第92代に数えられている天皇。
諱は煕仁(ひろひと)。
持明院統の後深草天皇の子。
亀山天皇、後宇多天皇と大覚寺統が2代続いていたため、父の抗議により次の天皇となって両統迭立が確立した。
当初は父の後深草上皇が院政を行なった。
大覚寺統との争いが激化し、1290年に浅原為頼による暗殺未遂事件が起きた。
1298年に子の後伏見天皇に譲位すると院政を始め、後に花園天皇のときも再び院政を行なった。
1313年に出家し、院政を後伏見上皇にさせた。
能書家で子らも書に秀でており、特に尊円入道親王(尊円法親王)は青蓮院流の祖となった。

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後伏見天皇(ごふしみてんのう)、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)

後伏見天皇(ごふしみてんのう)、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)
1288年-1336年
在位:1298年-1301年
院政:1313年-1318年、1331年-1333年
第93代に数えられている天皇。
諱は胤仁(たねひと)。
持明院統の伏見天皇の子。
花園天皇は異母弟。
父の伏見天皇から譲位され、持明院統の天皇が続いた。
伏見天皇による院政が行われた。
1301年、大覚寺統の後二条天皇に譲位。
1313年に花園天皇の院政をしていた父が出家し、院政を引き継いだ。
大覚寺統の後醍醐天皇が天皇となると院政を止めたが、1331年に元弘の変で後醍醐天皇にかわって光厳天皇が天皇となると父として再び院政をした。
1333年、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が復権すると院政を停止し、出家した。

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後二条天皇(ごにじょうてんのう)

後二条天皇(ごにじょうてんのう)
1285年-1308年
在位:1301年-1308年
第94代に数えられている天皇。
諱は邦治(くにはる)。
大覚寺統の後宇多天皇の子。
後醍醐天皇の異母兄。
伏見天皇、後伏見天皇と持明院統が続いたため、大覚寺統の次の天皇となることになった。
1301年、天皇となると、父の後宇多上皇が院政を行なった。
若くして死去した。

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花園天皇(はなぞのてんのう)、花園上皇(はなぞのじょうこう)

花園天皇(はなぞのてんのう)、花園上皇(はなぞのじょうこう)
1297年-1348年
在位:1308年-1318年
第95代に数えられている天皇。
諱は富仁(とみひと)。
持明院統の伏見天皇の子。
後伏見天皇は異母兄。
1308年、大覚寺統の後二条天皇から譲位された。
当初は父の伏見天皇による院政が行われ、後に兄の後伏見天皇の院政となった。
1317年に文保の和談がなされ、翌年に大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。

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文保の和談(ぶんぽうのわだん)

文保の和談(ぶんぽうのわだん)
鎌倉時代後期にあった皇位継承についての協議。
1317年から1318年にかけて行なわれた。
鎌倉幕府が出した案によって、持明院統の伏見上皇と大覚寺統の後宇多上皇の間で妥協が成立した。
持明院統の花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位することとなった。
また、在位10年になったら両統で交替すること、その次の天皇は邦良親王(大覚寺統の後二条天皇の子)でさらに次は量仁親王(持明院統の後伏見天皇の子で、後の光厳天皇)とすることも提案されたが合意されなかった。

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北条高時(ほうじょうたかとき)

北条高時(ほうじょうたかとき)
1303年-1333年
鎌倉幕府の14代執権。
北条貞時の子。
1311年、父が死去したため得宗となった。
政治の実権は、外戚の安達時顕と内管領の長崎高綱(長崎円喜)が握っていた。
1316年、執権となるが内管領の長崎高綱・長崎高資父子が実権を持ち続けた。
1317年の文保の和談で翌年に後醍醐天皇が天皇となり、1324年には正中の変が起こり倒幕計画が顕かになった。
1326年、出家して執権を金沢貞顕(北条貞顕)に譲ったが、得宗としての地位は保った。
病弱で、闘犬や田楽、酒にふけったとされる。
1333年、新田義貞に鎌倉を落とされて、一族とともに東勝寺で自害した。

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長崎高綱(ながさきたかつな)、長崎円喜(ながさきえんき)

長崎高綱(ながさきたかつな)、長崎円喜(ながさきえんき)
?-1333年
鎌倉時代の武将。
長崎光綱の子。
得宗被官(御内人)。
1305年、北条貞時が得宗のときに内管領となった。
1311年に北条貞時が死去して北条高時が得宗を継ぐと、安達時顕とともに政治の実権を握った。
1317年、子の長崎高資に内管領を譲った。
その後、出家して円喜と称した。
1333年、鎌倉幕府の滅亡時に東勝寺で自害した。

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長崎高資(ながさきたかすけ)

長崎高資(ながさきたかすけ)
?-1333年
鎌倉時代の武将。
長崎高綱(長崎円喜)の子。
得宗被官(御内人)。
1317年、北条高時が得宗のときに、父より内管領を譲られた。
安東氏の乱(安藤氏の乱)では紛争当事者の両方から賄賂を取り悪化させた。
1326年、北条高時が出家して執権を辞すると、金沢貞顕(北条貞顕)を次の執権に擁立したが反対にあい失敗した。
それでも執権や得宗を凌ぎ、権勢を振るった。
1331年には北条高時によって殺害されそうになるが防いだ。
1333年、鎌倉幕府の滅亡時に父や北条氏らとともに東勝寺で自害した。

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正中の変(しょうちゅうのへん)

正中の変(しょうちゅうのへん)
後醍醐天皇の最初の倒幕計画が発覚した事件。
1324年に起こった。
親政を行なっていた後醍醐天皇は、皇位継承に干渉する鎌倉幕府を倒す計画を日野資朝、日野俊基らと進めていた。
六波羅探題はそのことを知ると、計画に加わった武士を滅ぼした。
日野資朝が責任を負って、佐渡に流された。
後醍醐天皇や日野俊基は許された。

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日野資朝(ひのすけとも)

日野資朝(ひのすけとも)
1290年-1332年
鎌倉時代の公家、公卿。
日野氏は持明院統に仕えたが、父や兄弟と別れて大覚寺統の後醍醐天皇の側近となった。
蔵人頭、参議などを歴任し、権中納言となった。
後醍醐天皇による倒幕計画に日野俊基らとともに参画したが、1324年、正中の変で鎌倉幕府の知るところとなり捕らえられた。
一身に責任を負い、翌年に佐渡に流された。
1331年に元弘の変で再び後醍醐天皇による倒幕計画が発覚すると、関係者として翌年に佐渡で処刑された。

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日野俊基(ひのとしもと)

日野俊基(ひのとしもと)
?-1332年
鎌倉時代の公家。
日野資朝の遠縁で、大覚寺統の後醍醐天皇の近くに仕えた。
1324年、正中の変で捕らえられ、鎌倉に送られたが許された。
1331年に元弘の変で捕えられ、後に鎌倉で処刑された。

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金沢貞顕(かねさわさだあき)、北条貞顕(ほうじょうさだあき)

金沢貞顕(かねさわさだあき)、北条貞顕(ほうじょうさだあき)
1278年-1333年
鎌倉幕府の15代執権。
金沢顕時(北条顕時)の子で、金沢実時(北条実時)の孫。
評定衆、六波羅探題、引付頭人などを歴任。
1315年、執権北条基時のときに連署となり、北条高時が執権となっても続けた。
1326年、北条高時が出家すると、内管領の長崎高資に推されて執権となった。
幕府内の対立から反対する者が出たため、短期間で執権を辞任して出家した。
1333年、鎌倉幕府の滅亡時に東勝寺で自害した。
金沢流に伝わった金沢文庫の整備を進めた。

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北条守時(ほうじょうもりとき)、赤橋守時(あかはしもりとき)

北条守時(ほうじょうもりとき)、赤橋守時(あかはしもりとき)
?-1333年
鎌倉幕府の16代執権。
北条久時(北条長時の孫)の子。
妹の北条登子(赤橋登子)は足利尊氏の妻。
評定衆、引付頭人などを歴任。
1326年、金沢貞顕(北条貞顕)が執権を辞任して、執権となった。
実権は得宗の北条高時、さらには内管領の長崎高資が握っていた。
1333年、新田義貞の軍が鎌倉を攻めると応戦したが自害した。

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元弘の変(げんこうのへん)、元弘の乱(げんこうのらん)

元弘の変(げんこうのへん)、元弘の乱(げんこうのらん)
正中の変に続く後醍醐天皇による二度目の倒幕計画の発覚、さらに挙兵した事件。
1331年、後醍醐天皇に近かった吉田定房による密告で発覚。
日野俊基らは六波羅探題に捕えられ、後醍醐天皇は笠置山に移って幕府の軍に抵抗した。
また、幕府に対して楠木正成が赤坂城で挙兵、護良親王らも挙兵した。
幕府側は後醍醐天皇を廃して、持明院統の光厳天皇を即位させた。
笠置山で後醍醐天皇が捕えられ、赤坂城が落城すると一時的に戦いは止んだ。
1332年、後醍醐天皇は隠岐への配流となり、日野資朝は佐渡で、日野俊基は鎌倉で処刑された。
この年、護良親王が再度挙兵し、千早城で楠木正成が、播磨国で赤松則村らが挙兵した。
1333年、後醍醐天皇は名和長年の手引きで隠岐を脱出し、伯耆国の船上山に入った。
各地で鎌倉幕府側が敗れるようになり、足利尊氏に六波羅探題を落とされ、新田義貞らに鎌倉を落とされて鎌倉幕府は滅んだ。

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