摂関政治(せっかんせいじ)

摂関政治(せっかんせいじ)
平安時代中期に藤原氏が摂政や関白として行なった政治。
藤原氏の中でも摂関家が天皇の外戚となり、摂政として幼少の天皇の代理をするか、関白または内覧として成人した天皇を補佐して政治の実権を握った。
9世紀後半に藤原良房が摂政、次いで養子の藤原基経が関白となった。
延喜・天暦の治では、摂政関白は置かれなかったが、10世紀後半に藤原実頼が関白となってからは江戸時代までほぼ常置された。
11世紀前半の藤原道長、藤原頼通父子のときが最盛期で、11世紀後半には後三条天皇の即位、その後の白河上皇の院政により衰退した。

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摂関期(せっかんき)、摂関時代(せっかんじだい)

摂関期(せっかんき)、摂関時代(せっかんじだい)
藤原氏によって摂関政治が行なわれていた時代。
平安時代の中期で、主に摂関が常置される10世紀後半から院政が始まるまでの11世紀中頃をいう。
藤原時代ともいう。

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外戚(がいせき)

外戚(がいせき)
母方の親族のこと。
娘の子は外孫(がいそん)、母方の祖父は外祖父(がいそふ)という。
父方の内戚に対する語。
藤原氏は奈良時代から娘を天皇の后妃として、外孫を天皇とすることで外戚の地位を得ることが多かった。
平安時代中期には天皇の外戚である外祖父や伯父・叔父が摂政や関白となり、摂関政治を行なった。

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摂関家(せっかんけ)

摂関家(せっかんけ)
摂政・関白に任じられる家柄のこと。
藤原北家の藤原良房や藤原基経の子孫が摂政・関白となり、中でも藤原師輔の子孫の九条流、次いで藤原道長の御堂流が独占するようになった。
鎌倉時代には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家となった。

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藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
775年-826年
平安時代前期の官人・公卿。
北家で、藤原内麻呂の子。
嵯峨天皇の信任を得て急速に昇進を重ね、810年、平城太上天皇の変(藤原薬子の変)のときに最初の蔵人頭となった。
翌年に参議となり、その後も中納言、大納言、右大臣を歴任し、825年には長く置かれていなかった左大臣となった。
娘の藤原順子を皇太子時代の仁明天皇(正良親王)の妻とし、子の藤原良房を嵯峨天皇の皇女である源潔姫と結婚させ、北家隆盛の基礎を築いたとされる。
興福寺南円堂を建立し、勧学院を設立した。
『弘仁格式』『内裏式』『日本後紀』の編纂者の一人。

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仁明天皇(にんみょうてんのう)

仁明天皇(にんみょうてんのう)
810年-850年
在位:833年-850年
第54代に数えられている天皇。
諱は正良(まさよし)。
嵯峨天皇の子で、母は橘嘉智子。
淳和天皇の皇太子となり、833年に天皇となると淳和天皇の子の恒貞親王を皇太子とした。
藤原冬嗣の娘である藤原順子との間に道康親王(文徳天皇)を儲け、842年に承和の変で恒貞親王が廃太子となると道康親王を皇太子にした。
深草帝ともいう。

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藤原順子(ふじわらのじゅんし、ふじわらののぶこ)

藤原順子(ふじわらのじゅんし、ふじわらののぶこ)
809年-871年
仁明天皇の女御。
藤原冬嗣の娘で、藤原良房の妹。
仁明天皇が皇太子のときに妻となり、833年に天皇になると女御となった。
道康親王(文徳天皇)を産み、仁明天皇が死去して文徳天皇が即位すると皇太夫人となった。
後に皇太后となり、文徳天皇の死後には太皇太后となった。
出家して、円仁より受戒。
東五条院に住んだことから、五条后(ごじょうのきさき)ともいう。

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女御(にょうご)

女御(にょうご)
天皇の後宮の地位の一つ。
皇后・中宮に次ぐもので、更衣の上。
平安時代から置かれるようになった。
摂関家の女子はまず女御として入内し、皇后や中宮となることが多くなっていった。

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藤原良房(ふじわらのよしふさ)

藤原良房(ふじわらのよしふさ)
804年-872年
平安時代前期の公卿、人臣初の摂政。
北家で、藤原冬嗣の子。
妻は嵯峨天皇の皇女である源潔姫。
仁明天皇が即位すると、蔵人頭、次いで参議、中納言と急速に昇進した。
842年に承和の変で妹の藤原順子が産んだ道康親王を皇太子とし、大納言となり、後には右大臣となった。
道康親王が即位すると(文徳天皇)、外戚として力を持ち、857年には太政大臣となった。
娘の藤原明子を文徳天皇の女御とし惟仁親王が誕生すると、858年には即位させ(清和天皇)、実質的な摂政となった。
866年、応天門の変が起こると、正式に藤原良房を摂政とする詔が出された。
『貞観格式』『続日本後紀』の編纂にも携わった。

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承和の変(じょうわのへん)

承和の変(じょうわのへん)
842年に起こった政変で、藤原良房による他氏排斥事件とされる。
伴建岑や橘逸勢が謀反を起こしたとして失脚し、皇太子の恒貞親王が廃された。
事件の前は、仁明天皇の父である嵯峨上皇の意向で、淳和上皇の子の恒貞親王が皇太子となっていた。
阿保親王の密告により恒貞親王に近かった伴健岑・橘逸勢らが謀反を計画していると告げられ、嵯峨上皇が死去すると二人は逮捕された。
伴建岑は隠岐への流罪となり、橘逸勢は伊豆への流罪となる途中で死去、伴氏(大伴氏)や橘氏だけでなく紀氏・藤原氏など多くの公卿・官人が処罰・左遷された。
恒貞親王は皇太子を廃され、仁明天皇の子で藤原良房の妹の藤原順子が産んだ道康親王(文徳天皇)が新たに皇太子となった。
藤原良房が権力を握ることにつながったため、良房による他氏や藤原氏内の対抗勢力を排斥するための陰謀だったともされる。

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恒貞親王(つねさだしんのう)

恒貞親王(つねさだしんのう)
825年-884年
淳和天皇の子で、母は正子内親王(嵯峨天皇の子)。
833年に仁明天皇の皇太子となったが、度々、辞退を申し出ていたという。
842年、承和の変が起こり、廃太子となった。
後に出家し、大覚寺の開祖となる。
884年に陽成天皇が退位させられると、次の天皇候補となったが辞退した。

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伴建岑(とものこわみね)

伴建岑(とものこわみね)
9世紀の官人。
帯刀舎人として皇太子の恒貞親王に仕えた。
842年に承和の変で謀反を起こそうとしたとして隠岐に流罪となった。
865年に出雲に移された。

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橘逸勢(たちばなのはやなり)

橘逸勢(たちばなのはやなり)
?-842年
平安時代前期の官人。
橘奈良麻呂の孫。
804年に留学生として空海らともに唐に渡り、806年に帰国。
842年に承和の変で謀反を起こそうとしたとして伊豆に流される途中、遠江で病死した。
後に怨霊として恐れられ、御霊会で祀られるようになった。
三筆の一人。

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橘氏(たちばなし)

橘氏(たちばなし)
古代の代表的な氏族。
始めに県犬養三千代が橘姓を授けられ、次いでその子の橘諸兄らが臣籍に降って授けられた。
奈良時代には橘諸兄が左大臣に昇ったが、橘奈良麻呂の変で一時衰えた。
平安時代になると、橘奈良麻呂の孫の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり、仁明天皇の外戚となって公卿を出すようになった。
このころに学館院が設立され、後に大学別曹となった。
承和の変で三筆の一人の橘逸勢が罰せられ、橘広相のときの阿衡の紛議を経て衰退していった。

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阿保親王(あぼしんのう)

阿保親王(あぼしんのう)
792年-842年
平城天皇の子。
810年に平城太上天皇の変(藤原薬子の変)に連座して、大宰権帥に左遷された。
淳和天皇のときになって許された。
842年、伴建岑や橘逸勢から相談を受けるが密告し、承和の変が起こった。
子に在原朝臣を与えられた在原行平、在原業平らがいる。

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文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)

文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
9世紀の官人。
840年に筑前守となった。
辞めた後も九州に留まり、新羅の張宝高と交易を行なっていた。
843年、謀反を企てていると密告され、伊豆に流罪となった。
前年の承和の変では、同族とみられる文室秋津が左遷されている。
後に御霊会で祀られるようになった。

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張宝高(ちょうほうこう)

張宝高(ちょうほうこう)
?-846年?
新羅の商人・武将。
新羅から唐に渡っていたが、828年に新羅に戻ると清海鎮大使となった。
日本・唐・新羅の間で交易を行ない、文室宮田麻呂とも交易をしようとしていた。
唐にも拠点を持って日本の円仁や遣唐使を手助けした。
新羅の王位継承争いが起こると、新王を立てた。
846年に反乱を起こし、暗殺されたという。
張保皋とも書き、弓福ともいう。

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文徳天皇(もんとくてんのう)

文徳天皇(もんとくてんのう)
827年-858年
在位:850年-858年
第55代に数えられている天皇。
諱は道康(みちやす)。
仁明天皇の子で、母は藤原冬嗣の娘の藤原順子。
842年、承和の変で恒貞親王が廃太子となると皇太子となった。
仁明天皇の死により即位し、藤原良房の娘の藤原明子を女御とした。
藤原良房が政治の実権を握っており、857年には良房を太政大臣とした。

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藤原明子(ふじわらのあきらけいこ、ふじわらのめいし)

藤原明子(ふじわらのあきらけいこ、ふじわらのめいし)
828年-900年
文徳天皇の女御。
藤原良房の娘で、母は源潔姫(嵯峨天皇の娘)。
文徳天皇が皇太子のときに妻となり、850年に天皇が即位すると惟仁親王(清和天皇)を産み、女御となった。
文徳天皇が死去して清和天皇が即位すると皇太夫人、後に皇太后、太皇太后となった。
染殿后(そめどののきさき)ともいう。

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清和天皇(せいわてんのう)

清和天皇(せいわてんのう)
850年-880年
在位:858年-876年
第56代に数えられている天皇。
諱は惟仁(これひと)。
文徳天皇の子で、母は藤原良房の娘の藤原明子。
藤原基経の妹の藤原高子を女御とした。
生まれた年に皇太子となり、文徳天皇の死により即位。
幼帝のため外祖父の藤原良房が政治の実権を握っていた。
866年、応天門の変が起き、藤原良房を摂政とした。
876年に子の陽成天皇に譲位し、後に出家した。
子孫に清和源氏がいる。
水尾帝ともいう。

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