ブロ友さんからの贈り物
2024年9月29日(日)
9月も残すところあと一日。秋分を過ぎてようやく季節らしさが
感じられるようになりましたが、厳しい残暑の続いた9月でした。
今月の「my日記」は、9月17日の「中秋の名月」の記事のみ。
つまり、私的なお出掛けはゼロだったということです。そんな
変哲もない日々を送った2024年の9月ですが、先週の日曜日、
とても嬉しいことがありました。
ブロ友さんからの贈り物が届いたのです。
私は和洋を問わず栗のお菓子が大好きで、ブログにも何度も
書いてきました。でも、それを憶えていて下さるブロ友さんから
栗のお菓子のプレゼントが戴けるだなんて、思ってもいなかっ
たので、飛び上がらんばかりの驚きと嬉しさで、「わぁ~」っと
声が出てしまいました。
栗菓子の名店として知られている岐阜県「恵那川上屋」さんの
「栗きんとん」と「きんとん羹」の詰め合わせです。
今の季節、「栗きんとん」はあちらこちらで販売されていますが、
「栗のすべてにこだわりをもって」といわれる「恵那川上屋」さん
の「栗きんとん」は、やはりひと味もふた味も違いますね。口の
中でフワッと溶けるような食感も絶妙です。
仏様にも、いつものおはぎよりこちらのほうが喜ばれそうな気が
して、お供えしました。
私は特別なことなど何もしていないのに、このような贅沢な栗の
お菓子を頂戴して良かったのかしら?と申し訳なく思いながらも、
もう美味しく全部いただいてしまいました(^_^;)
ブロ友さん、心より御礼申し上げます。有難うございました!
9月も残すところあと一日。秋分を過ぎてようやく季節らしさが
感じられるようになりましたが、厳しい残暑の続いた9月でした。
今月の「my日記」は、9月17日の「中秋の名月」の記事のみ。
つまり、私的なお出掛けはゼロだったということです。そんな
変哲もない日々を送った2024年の9月ですが、先週の日曜日、
とても嬉しいことがありました。
ブロ友さんからの贈り物が届いたのです。
私は和洋を問わず栗のお菓子が大好きで、ブログにも何度も
書いてきました。でも、それを憶えていて下さるブロ友さんから
栗のお菓子のプレゼントが戴けるだなんて、思ってもいなかっ
たので、飛び上がらんばかりの驚きと嬉しさで、「わぁ~」っと
声が出てしまいました。
栗菓子の名店として知られている岐阜県「恵那川上屋」さんの
「栗きんとん」と「きんとん羹」の詰め合わせです。
今の季節、「栗きんとん」はあちらこちらで販売されていますが、
「栗のすべてにこだわりをもって」といわれる「恵那川上屋」さん
の「栗きんとん」は、やはりひと味もふた味も違いますね。口の
中でフワッと溶けるような食感も絶妙です。
仏様にも、いつものおはぎよりこちらのほうが喜ばれそうな気が
して、お供えしました。
私は特別なことなど何もしていないのに、このような贅沢な栗の
お菓子を頂戴して良かったのかしら?と申し訳なく思いながらも、
もう美味しく全部いただいてしまいました(^_^;)
ブロ友さん、心より御礼申し上げます。有難うございました!
藤壺の御前での物語絵の「絵合」
2024年9月26日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第50回・通算97回・№2)
今日は良く晴れたこともあり、気温も昨日、一昨日よりも
上がりましたが、それでも30℃の手前。エアコンのお世話
になることなく過ごせました。明日は最高気温が25℃とか。
これまでの猛暑に慣れた身体には、肌寒く感じられるかも
しれません。これからは気温の変化が大きくなりそうなの
で、上手に対応して行かねばなりませんね。
「紫の会」は3クラス共、今月は第17帖「絵合」の2回目です。
絵をこの上なく好まれる冷泉帝の寵愛が、同じ絵を趣味と
する梅壺の女御(斎宮の女御)に移ってしまうことを恐れた
権中納言は、名だたる絵師たちに絵を描かせ、帝の関心
を娘の弘徽殿の女御に向けていただこうと必死になります。
源氏は、手許にある古くからの優れた絵を帝に献上して
対抗します。
それぞれの女房たちも巻き込んで、その頃の話題は「絵」
一色となるほどに盛り上がっておりました。
藤壺も絵には興味をお持ちだったので、ご自分の前で、
左方(梅壺の女御方)と右方(弘徽殿の女御方)に分けて、
それぞれの女房たちに、物語絵の「絵合」をおさせになり
ました。
最初は『竹取物語』(左方)と『宇津保物語』(右方)で競い
ます。
『竹取物語』は9世紀後半に成立しており、ここでも「物語の
出で来はじめの祖(おや)」と言われ、古物語として登場し
ます。
一方の『宇津保物語』は10世紀後半に成立しているので、
当代の物語として扱われています。
『竹取物語』が、竹取の翁夫婦とかぐや姫の私的感情を主軸
としているのに対し、『宇津保物語』は、貴族社会全体の秩序
と価値観が描かれている作品です。『竹取物語』では帝も登場
するものの、物語論理の中心とはなり得ていないこともあり、
内容的にも左方は右方を論破することが出来ませんでした。
また描かれた絵、表装等においても、右方の『宇津保物語』が、
「今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ」(当世風で
素晴らしく、目も輝くばかりに見える)ということで、この勝負は、
右方(弘徽殿の女御方)の圧勝となりました。
この場面でもう一つ注目しておきたいのが、醍醐天皇の時代
の巨勢相覧(絵師)、紀貫之(歌人として有名だが、ここでは
『竹取物語』絵の筆跡担当)、村上天皇の時代の飛鳥部常則
(絵師)、小野道風(能書家で三蹟の一人として知られている)
といった、実在した人物名を効果的に使っていることです。
これによって、当時の読者にとっては、実際にこうした物語絵
が存在し、こうした「絵合」が行われたかのように感じられた
のではないかと思われます。
『竹取物語』と『宇津保物語』の物語絵の「絵合」の場面につき
まして、詳しくは先に書きました「全文訳・絵合(6)」にてご覧
頂ければ、と存じます(⇒こちらから)。
今日は良く晴れたこともあり、気温も昨日、一昨日よりも
上がりましたが、それでも30℃の手前。エアコンのお世話
になることなく過ごせました。明日は最高気温が25℃とか。
これまでの猛暑に慣れた身体には、肌寒く感じられるかも
しれません。これからは気温の変化が大きくなりそうなの
で、上手に対応して行かねばなりませんね。
「紫の会」は3クラス共、今月は第17帖「絵合」の2回目です。
絵をこの上なく好まれる冷泉帝の寵愛が、同じ絵を趣味と
する梅壺の女御(斎宮の女御)に移ってしまうことを恐れた
権中納言は、名だたる絵師たちに絵を描かせ、帝の関心
を娘の弘徽殿の女御に向けていただこうと必死になります。
源氏は、手許にある古くからの優れた絵を帝に献上して
対抗します。
それぞれの女房たちも巻き込んで、その頃の話題は「絵」
一色となるほどに盛り上がっておりました。
藤壺も絵には興味をお持ちだったので、ご自分の前で、
左方(梅壺の女御方)と右方(弘徽殿の女御方)に分けて、
それぞれの女房たちに、物語絵の「絵合」をおさせになり
ました。
最初は『竹取物語』(左方)と『宇津保物語』(右方)で競い
ます。
『竹取物語』は9世紀後半に成立しており、ここでも「物語の
出で来はじめの祖(おや)」と言われ、古物語として登場し
ます。
一方の『宇津保物語』は10世紀後半に成立しているので、
当代の物語として扱われています。
『竹取物語』が、竹取の翁夫婦とかぐや姫の私的感情を主軸
としているのに対し、『宇津保物語』は、貴族社会全体の秩序
と価値観が描かれている作品です。『竹取物語』では帝も登場
するものの、物語論理の中心とはなり得ていないこともあり、
内容的にも左方は右方を論破することが出来ませんでした。
また描かれた絵、表装等においても、右方の『宇津保物語』が、
「今めかしうをかしげに、目もかかやくまで見ゆ」(当世風で
素晴らしく、目も輝くばかりに見える)ということで、この勝負は、
右方(弘徽殿の女御方)の圧勝となりました。
この場面でもう一つ注目しておきたいのが、醍醐天皇の時代
の巨勢相覧(絵師)、紀貫之(歌人として有名だが、ここでは
『竹取物語』絵の筆跡担当)、村上天皇の時代の飛鳥部常則
(絵師)、小野道風(能書家で三蹟の一人として知られている)
といった、実在した人物名を効果的に使っていることです。
これによって、当時の読者にとっては、実際にこうした物語絵
が存在し、こうした「絵合」が行われたかのように感じられた
のではないかと思われます。
『竹取物語』と『宇津保物語』の物語絵の「絵合」の場面につき
まして、詳しくは先に書きました「全文訳・絵合(6)」にてご覧
頂ければ、と存じます(⇒こちらから)。
第17帖「絵合」の全文訳(6)
2024年9月26日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第50回・通算97回・№1)
今月の「紫の会」は、3クラス共、第17帖「絵合」の97頁・8行目
~105頁・1行目迄を読みました。全文訳は3回に分けて書き
ますので、3回目の今日は、103頁・5行目~105頁・1行目迄と
なります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)
藤壺も宮中に参内なさっている頃で、集められた絵のあれこれをご覧に
なり、俗世のこととはいえ、絵は捨てがたくお思いのことなので、勤行も
怠っては絵をご覧になっております。この女房たちが、それぞれに議論
しているのをお耳になさって、藤壺は左右の組にお分けになりました。
梅壺(前斎宮)方には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦、右(弘徽殿)方
には大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦を配し、現在の奥ゆかしい
知識人として、皆が思い思いに論じ合う言い方を、藤壺は面白いとお聞き
になって、先ずは、「物語の出で来はじめの祖」である「竹取の翁」に、
『宇津保物語』の「俊蔭の巻」を合わせて論争しました。
左方は、「これは古くから伝わる物語で、特に目を引く点もありませんが、
かぐや姫が人間世界の濁りにも染まらず、天高く昇って行った宿世は
格別で、神代のことのようですので、浅はかな女は、この絵を見ても
理解できないでしょうね」と言いました。
右方は、「かぐや姫の昇天した雲の上の世界は、なるほど手の届かない
所なので、誰にもわかりません。でもこの世では竹の中に生まれるという
形になっているので、身分は卑しいひとのことだと思われます。竹取の翁
の家という一つの家の中は照らしたようですが、宮中の恐れ多い光り輝く
存在とはなりませんでした。阿部の御主人(みうし)が千金を投じて求めた
火鼠の皮衣も、一瞬のうちに燃えてしまい、それほどの思いも空しく消えて、
たいそうあっけないことです。車持の親王が、本当の蓬莱へなど行ける
はずがない、ということを知りながら、贋物を持参して、玉の枝にケチを
つけてしまったのは、いけないことだ」、と反論しました。
絵は巨勢の相覧、筆跡は紀の貫之が手掛けたものです。紙屋院制の紙に、
舶来の綺を裏打ちして赤紫の表紙、紫檀の軸というのは、よく見受ける
表装でありました。
「俊蔭は、激しい波風に溺れ、見知らぬ異国に流されたけれど、目指して
渡海した志も果たし、最終的には、外国の朝廷にも、我が国にも類まれな
楽才を広め、名を遺した」と、逸話を語り、「絵の描き方も、唐土と日本の
風景を取り合わせて、興味深いことがこの上ない」と言いました。
料紙は白い色紙で、青い表紙、黄色の玉の軸でした。絵は飛鳥部常則、
筆跡は小野道風なので、当世風で素晴らしく、目も輝くほどに見えました。
これに対して、左方は反論の余地がありませんでした。
今月の「紫の会」は、3クラス共、第17帖「絵合」の97頁・8行目
~105頁・1行目迄を読みました。全文訳は3回に分けて書き
ますので、3回目の今日は、103頁・5行目~105頁・1行目迄と
なります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)
藤壺も宮中に参内なさっている頃で、集められた絵のあれこれをご覧に
なり、俗世のこととはいえ、絵は捨てがたくお思いのことなので、勤行も
怠っては絵をご覧になっております。この女房たちが、それぞれに議論
しているのをお耳になさって、藤壺は左右の組にお分けになりました。
梅壺(前斎宮)方には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦、右(弘徽殿)方
には大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦を配し、現在の奥ゆかしい
知識人として、皆が思い思いに論じ合う言い方を、藤壺は面白いとお聞き
になって、先ずは、「物語の出で来はじめの祖」である「竹取の翁」に、
『宇津保物語』の「俊蔭の巻」を合わせて論争しました。
左方は、「これは古くから伝わる物語で、特に目を引く点もありませんが、
かぐや姫が人間世界の濁りにも染まらず、天高く昇って行った宿世は
格別で、神代のことのようですので、浅はかな女は、この絵を見ても
理解できないでしょうね」と言いました。
右方は、「かぐや姫の昇天した雲の上の世界は、なるほど手の届かない
所なので、誰にもわかりません。でもこの世では竹の中に生まれるという
形になっているので、身分は卑しいひとのことだと思われます。竹取の翁
の家という一つの家の中は照らしたようですが、宮中の恐れ多い光り輝く
存在とはなりませんでした。阿部の御主人(みうし)が千金を投じて求めた
火鼠の皮衣も、一瞬のうちに燃えてしまい、それほどの思いも空しく消えて、
たいそうあっけないことです。車持の親王が、本当の蓬莱へなど行ける
はずがない、ということを知りながら、贋物を持参して、玉の枝にケチを
つけてしまったのは、いけないことだ」、と反論しました。
絵は巨勢の相覧、筆跡は紀の貫之が手掛けたものです。紙屋院制の紙に、
舶来の綺を裏打ちして赤紫の表紙、紫檀の軸というのは、よく見受ける
表装でありました。
「俊蔭は、激しい波風に溺れ、見知らぬ異国に流されたけれど、目指して
渡海した志も果たし、最終的には、外国の朝廷にも、我が国にも類まれな
楽才を広め、名を遺した」と、逸話を語り、「絵の描き方も、唐土と日本の
風景を取り合わせて、興味深いことがこの上ない」と言いました。
料紙は白い色紙で、青い表紙、黄色の玉の軸でした。絵は飛鳥部常則、
筆跡は小野道風なので、当世風で素晴らしく、目も輝くほどに見えました。
これに対して、左方は反論の余地がありませんでした。
匂宮の心情の変化
2024年9月23日(月) 溝の口「湖月会」(第184回)
ずっと続いていた高温多湿の蒸し暑い毎日から解放され、
今日は「秋」が実感できる一日となりました。
でも能登半島の大雨による甚大な被害が、ニュースでは
報じられています。大地震から一年も経たない内の、再び
襲った自然災害に心が痛みます。一日も早く、落ち着いた
生活を取り戻していただきたいと願うばかりです。
第2金曜日クラスと同様、このクラスも第51帖「浮舟」に入っ
て2回目となりました。
二条院での儚い出会いの後、忘れられずにいる女を、薫が
宇治で囲っていると知った匂宮は、春の除目で、大内記が
望んでいる任官を叶えるという条件の下、彼を宇治行きの
手づるになさいました。
大内記は、薫が信頼している家司の娘婿なので、薫方の
情報も入手し易く、薫が宇治へ行くはずのない日を選び、
匂宮は、腹心の者だけを供人に選んでお出掛けになりま
した。
ここへ来て、匂宮も「心の鬼」(良心の呵責)に苛まれます。
中の君と結ばれた際、最初に中の君との仲を取り持って
くれたのは薫でした(この場合は薫にも、中の君が匂宮と
結ばれれば、薫と中の君の結婚を望んでいる大君が諦め
て、自分との結婚を承知するのではないか、という思惑が
あったのですが)。
それ以上に薫に恩を感じているは、三日目の夜のことです。
当時の貴族の結婚は、男が女の許に三夜通い続けて、初
めて成立するものだったのですが、一夜目は薫に導かれ、
二夜目は匂宮が一人で宇治へと赴きました。ところが三夜
目は、母の明石中宮に強く戒められてどうしようかと悩んで
いる匂宮を、「後の責任は自分が負うから、君はすぐに宇治
へ行くべきだ」と、薫が力を貸し、背中を押してくれたのでした。
そうした経緯を思い出すと、匂宮にとって薫を裏切る行為は、
気が咎めることでありました。
ところが、法性寺の辺りまでは牛車で行き、そこからは馬で
宇治へと向かわれた匂宮は、「もののゆかしきかたは進み
たる御心なれば、山深うなるままに、いつしか、いかならむ、
見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべ
けれ、とおぼすに、心も騒ぎたまふ」(女性に対する好奇心は
人一倍強いご性格でいらっしゃるので、山深くなるにつれて、
早く着きたい、どうなることか、女と逢うこともなく帰ることに
なったら、物足りなく不都合なことであろう、とお思いになると、
胸がざわざわなさるのでした)と、心情に変化が見られます。
京内から離れるにつれ、裏切りの後ろめたさから、女と首尾
よく逢えるかどうかということのほうに、匂宮の関心は移って
いるのです。それが絶妙な筆致で描かれているところに唸ら
されますね。
ずっと続いていた高温多湿の蒸し暑い毎日から解放され、
今日は「秋」が実感できる一日となりました。
でも能登半島の大雨による甚大な被害が、ニュースでは
報じられています。大地震から一年も経たない内の、再び
襲った自然災害に心が痛みます。一日も早く、落ち着いた
生活を取り戻していただきたいと願うばかりです。
第2金曜日クラスと同様、このクラスも第51帖「浮舟」に入っ
て2回目となりました。
二条院での儚い出会いの後、忘れられずにいる女を、薫が
宇治で囲っていると知った匂宮は、春の除目で、大内記が
望んでいる任官を叶えるという条件の下、彼を宇治行きの
手づるになさいました。
大内記は、薫が信頼している家司の娘婿なので、薫方の
情報も入手し易く、薫が宇治へ行くはずのない日を選び、
匂宮は、腹心の者だけを供人に選んでお出掛けになりま
した。
ここへ来て、匂宮も「心の鬼」(良心の呵責)に苛まれます。
中の君と結ばれた際、最初に中の君との仲を取り持って
くれたのは薫でした(この場合は薫にも、中の君が匂宮と
結ばれれば、薫と中の君の結婚を望んでいる大君が諦め
て、自分との結婚を承知するのではないか、という思惑が
あったのですが)。
それ以上に薫に恩を感じているは、三日目の夜のことです。
当時の貴族の結婚は、男が女の許に三夜通い続けて、初
めて成立するものだったのですが、一夜目は薫に導かれ、
二夜目は匂宮が一人で宇治へと赴きました。ところが三夜
目は、母の明石中宮に強く戒められてどうしようかと悩んで
いる匂宮を、「後の責任は自分が負うから、君はすぐに宇治
へ行くべきだ」と、薫が力を貸し、背中を押してくれたのでした。
そうした経緯を思い出すと、匂宮にとって薫を裏切る行為は、
気が咎めることでありました。
ところが、法性寺の辺りまでは牛車で行き、そこからは馬で
宇治へと向かわれた匂宮は、「もののゆかしきかたは進み
たる御心なれば、山深うなるままに、いつしか、いかならむ、
見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべ
けれ、とおぼすに、心も騒ぎたまふ」(女性に対する好奇心は
人一倍強いご性格でいらっしゃるので、山深くなるにつれて、
早く着きたい、どうなることか、女と逢うこともなく帰ることに
なったら、物足りなく不都合なことであろう、とお思いになると、
胸がざわざわなさるのでした)と、心情に変化が見られます。
京内から離れるにつれ、裏切りの後ろめたさから、女と首尾
よく逢えるかどうかということのほうに、匂宮の関心は移って
いるのです。それが絶妙な筆致で描かれているところに唸ら
されますね。
いよいよ第54帖「夢浮橋」に
2024年9月18日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第258回)
今日は観測史上、もっとも遅い「猛暑日」となったそうです。
明日からお彼岸に入ります。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と
申しますが、暑さのレベルが違っている気がしますね。
2000年の4月にスタートした湘南台クラスが、遂に『源氏物語』
の最後の帖「夢浮橋」に辿り着きました。
「夢浮橋」は、急げば2回で読み切れる程度の短い巻ですが、
もうここまで来て焦ることもないと思い、3回で読んで、11月に
完読を予定しております。
前巻「手習」で、浮舟の生存を聞かされた薫が、確認の為に、
横川僧都を訪ねるところから「夢浮橋」の話は始まります。
「夢浮橋」に書かれている内容はたった3日間のことです。
1日目は、薫が比叡山の根本中堂に、薬師如来の縁日にも
当たる8日に参詣する意図を記した「手習」を受けて、「山に
おはして、例せさせたまふやうに、経仏など供養ぜさせたまふ」
(比叡山にいらして、いつもおさせになるように、経典や仏像
など供養させなさいます)の最初の一文だけですので、実際
に書かれているのは、2日間だけの話です。
比叡山参詣の翌日、薫は横川僧都の許に立ち寄り、詳しい話
を聞いて、僧都の救った女は浮舟に間違いなかった、と知り
ました。
薫は僧都に小野へ出向き、浮舟に会って欲しいと言いますが、
それはすぐには無理だと言う僧都に、小君(浮舟の異父弟)に
託す手紙を書いてくれるよう依頼します。そうしたことに手を
貸すのを渋る僧都をなおも説得し、僧都も小君の可愛らしさに
惹かれ、手紙を書いたのでした。
僧都は薫に小野へ直行することを勧めました。でも薫はやはり
よく考えてからでなければ、と躊躇して、一旦京へと戻ります。
またまた「たられば」になりますが、薫がもしこのまま小野へと
足を運んでいたなら、浮舟に考える隙を与えることなく(翌朝、
小君よりも先に、僧都からの予めの手紙までが届いてしまう
こともなかった)、浮舟と再会できていたかもしれません。
ここでも薫の優柔不断さが災いしているのです。これが匂宮
なら、即座に小野に向かったことでしょう。
この続きは来月読むことになります。
今日は観測史上、もっとも遅い「猛暑日」となったそうです。
明日からお彼岸に入ります。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と
申しますが、暑さのレベルが違っている気がしますね。
2000年の4月にスタートした湘南台クラスが、遂に『源氏物語』
の最後の帖「夢浮橋」に辿り着きました。
「夢浮橋」は、急げば2回で読み切れる程度の短い巻ですが、
もうここまで来て焦ることもないと思い、3回で読んで、11月に
完読を予定しております。
前巻「手習」で、浮舟の生存を聞かされた薫が、確認の為に、
横川僧都を訪ねるところから「夢浮橋」の話は始まります。
「夢浮橋」に書かれている内容はたった3日間のことです。
1日目は、薫が比叡山の根本中堂に、薬師如来の縁日にも
当たる8日に参詣する意図を記した「手習」を受けて、「山に
おはして、例せさせたまふやうに、経仏など供養ぜさせたまふ」
(比叡山にいらして、いつもおさせになるように、経典や仏像
など供養させなさいます)の最初の一文だけですので、実際
に書かれているのは、2日間だけの話です。
比叡山参詣の翌日、薫は横川僧都の許に立ち寄り、詳しい話
を聞いて、僧都の救った女は浮舟に間違いなかった、と知り
ました。
薫は僧都に小野へ出向き、浮舟に会って欲しいと言いますが、
それはすぐには無理だと言う僧都に、小君(浮舟の異父弟)に
託す手紙を書いてくれるよう依頼します。そうしたことに手を
貸すのを渋る僧都をなおも説得し、僧都も小君の可愛らしさに
惹かれ、手紙を書いたのでした。
僧都は薫に小野へ直行することを勧めました。でも薫はやはり
よく考えてからでなければ、と躊躇して、一旦京へと戻ります。
またまた「たられば」になりますが、薫がもしこのまま小野へと
足を運んでいたなら、浮舟に考える隙を与えることなく(翌朝、
小君よりも先に、僧都からの予めの手紙までが届いてしまう
こともなかった)、浮舟と再会できていたかもしれません。
ここでも薫の優柔不断さが災いしているのです。これが匂宮
なら、即座に小野に向かったことでしょう。
この続きは来月読むことになります。
中秋の名月・2024
2024年9月17日(火)
こんなに厳しい残暑の中で「中秋の名月」を眺めるなんて、
これ迄なかったような気がしますが、朝から快晴でお天気
は文句なし。
少し日が落ち始めた17:00頃に、先ずは和菓子屋さんへ。
昨年は生協の宅配のパンプレットに出ていた彩雲堂の
可愛いうさぎさんの薯蕷饅頭を買ったのですが、我が家
への生協の配達日は木曜日。今年もパンフレットには
出ていたのですが、曜日のタイミングが合わなかったので、
地元の古くからある和菓子屋さんで「月見まんじゅう」を
買ってまいりました。
その後スーパーで買い物をして帰宅したら、もう東の空に
綺麗な月が出ていました。この時撮った写真のお月様が
一番くっきりと映っていましたが、やはり辺りがすっかり暗く
ならないと風情がありませんね。16:20になると、街のあかり
も灯り、お月見らしい雰囲気が出て来ました。写真を写した
後は、部屋のあかりを消して窓際に座り、しばらくお月様を
見ておりました。気分は平安貴族(*´σー`)エヘヘ
17:50頃、東南のベランダから観た中秋の名月。
白っぽく写っていますが、実際にはもっと黄色い
綺麗なお月様です。
暗くなってから撮ったお月様はピンボケですが、やはり
夜の風景のほうが「中秋の名月」には似合いますね。
「月見まんじゅう」は皮がモチモチ。まるで
うさぎさんが搗いたお餅で作ったみたい(笑)
このお店の餡は、とっても美味しいと評判。
180円はお得感十分です。
こんなに厳しい残暑の中で「中秋の名月」を眺めるなんて、
これ迄なかったような気がしますが、朝から快晴でお天気
は文句なし。
少し日が落ち始めた17:00頃に、先ずは和菓子屋さんへ。
昨年は生協の宅配のパンプレットに出ていた彩雲堂の
可愛いうさぎさんの薯蕷饅頭を買ったのですが、我が家
への生協の配達日は木曜日。今年もパンフレットには
出ていたのですが、曜日のタイミングが合わなかったので、
地元の古くからある和菓子屋さんで「月見まんじゅう」を
買ってまいりました。
その後スーパーで買い物をして帰宅したら、もう東の空に
綺麗な月が出ていました。この時撮った写真のお月様が
一番くっきりと映っていましたが、やはり辺りがすっかり暗く
ならないと風情がありませんね。16:20になると、街のあかり
も灯り、お月見らしい雰囲気が出て来ました。写真を写した
後は、部屋のあかりを消して窓際に座り、しばらくお月様を
見ておりました。気分は平安貴族(*´σー`)エヘヘ
17:50頃、東南のベランダから観た中秋の名月。
白っぽく写っていますが、実際にはもっと黄色い
綺麗なお月様です。
暗くなってから撮ったお月様はピンボケですが、やはり
夜の風景のほうが「中秋の名月」には似合いますね。
「月見まんじゅう」は皮がモチモチ。まるで
うさぎさんが搗いたお餅で作ったみたい(笑)
このお店の餡は、とっても美味しいと評判。
180円はお得感十分です。
秘められた本心
2024年9月16日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第50回・通算97回・№2)
今日は久々に最高気温が30℃に届かず、一日中エアコンを
使わずに過ごすことが出来ました。ただ明日からの3日間は、
また猛暑日の可能性もある暑い日となるそうです。その後、
やっと秋らしい気温の日が続くようになるとのこと。結局、
9月下旬まで待つ、ということですね。
講読会のほうは、第17帖「絵合」に入って2回目。
冷泉帝はこよなく絵画を好み、ご自身もとてもお上手でした。
斎宮の女御も絵が得意で、絵を通して、帝の寵愛は次第に
斎宮の女御へと移っていきました。それを知った権中納言
は、負けてはならじ、と、優れた絵師たちに絵を描かせ、
絵を巡っての源氏と権中納言の競い合いは、次第に熱を
帯びていったのです。
権中納言が新作の絵の収集に励む一方で、源氏は、古く
から伝わる名画を御厨子から取り出し、帝に献上する絵を
紫の上と共に選びましたが、その折、あの須磨・明石での
絵日記も取り出させて、紫の上にお見せになりました。
「その世の夢をおぼしさますをりなき御心どもには、取りか
へし悲しうおぼし出でらる」(あの頃の悪夢を見ているかの
ようだった思いの薄らぐ時とてないお二人にとっては、今更
のように悲しく思い出されるのでありました)
当然の思いであり、紫の上が今まで見せて下さらなかった
のをお恨みになったのも、無理からぬことと言えましょう。
この絵日記は、もともと須磨にあって描き始められたものです
が、「明石」の巻では、源氏が、一人京に居る紫の上を思い、
絵を描き、そこに思ふことどもを書き付け、紫の上の返事が
聞ける体裁にしてありました。それは紫の上の許に届けられ
たはずなので、源氏が初めて紫の上に披露したのは、別の
絵日記ということになりますね。「帖」という数え方をしている
ので、源氏が須磨・明石で描いた絵日記は何冊かの冊子に
仕立ててある、まさに「日記」であったと推測されます。
で、ここで明かされるのが、源氏の秘められた本心です。
「中宮ばかりには、見せたてまつるべきものなり」(中宮〈藤壺〉
にだけはぜひお見せしなければならないものでした)。
源氏が自ら決断した須磨退居の本当の意味をわかってくれる
のは藤壺以外にはいないからです。それは、源氏と藤壺に
とって、我が子(表向きは桐壺帝の子)である東宮(今は冷泉帝)
の即位のためには、共にどんな犠牲もいとわない覚悟で臨んだ
からでありましょう。
全文訳では、もう少し絵合に向けた動きも取り上げております
ので、この場面も含め、「全文訳・絵合(5)」をご覧頂ければ、
と存じます(⇒こちらから)。
今日は久々に最高気温が30℃に届かず、一日中エアコンを
使わずに過ごすことが出来ました。ただ明日からの3日間は、
また猛暑日の可能性もある暑い日となるそうです。その後、
やっと秋らしい気温の日が続くようになるとのこと。結局、
9月下旬まで待つ、ということですね。
講読会のほうは、第17帖「絵合」に入って2回目。
冷泉帝はこよなく絵画を好み、ご自身もとてもお上手でした。
斎宮の女御も絵が得意で、絵を通して、帝の寵愛は次第に
斎宮の女御へと移っていきました。それを知った権中納言
は、負けてはならじ、と、優れた絵師たちに絵を描かせ、
絵を巡っての源氏と権中納言の競い合いは、次第に熱を
帯びていったのです。
権中納言が新作の絵の収集に励む一方で、源氏は、古く
から伝わる名画を御厨子から取り出し、帝に献上する絵を
紫の上と共に選びましたが、その折、あの須磨・明石での
絵日記も取り出させて、紫の上にお見せになりました。
「その世の夢をおぼしさますをりなき御心どもには、取りか
へし悲しうおぼし出でらる」(あの頃の悪夢を見ているかの
ようだった思いの薄らぐ時とてないお二人にとっては、今更
のように悲しく思い出されるのでありました)
当然の思いであり、紫の上が今まで見せて下さらなかった
のをお恨みになったのも、無理からぬことと言えましょう。
この絵日記は、もともと須磨にあって描き始められたものです
が、「明石」の巻では、源氏が、一人京に居る紫の上を思い、
絵を描き、そこに思ふことどもを書き付け、紫の上の返事が
聞ける体裁にしてありました。それは紫の上の許に届けられ
たはずなので、源氏が初めて紫の上に披露したのは、別の
絵日記ということになりますね。「帖」という数え方をしている
ので、源氏が須磨・明石で描いた絵日記は何冊かの冊子に
仕立ててある、まさに「日記」であったと推測されます。
で、ここで明かされるのが、源氏の秘められた本心です。
「中宮ばかりには、見せたてまつるべきものなり」(中宮〈藤壺〉
にだけはぜひお見せしなければならないものでした)。
源氏が自ら決断した須磨退居の本当の意味をわかってくれる
のは藤壺以外にはいないからです。それは、源氏と藤壺に
とって、我が子(表向きは桐壺帝の子)である東宮(今は冷泉帝)
の即位のためには、共にどんな犠牲もいとわない覚悟で臨んだ
からでありましょう。
全文訳では、もう少し絵合に向けた動きも取り上げております
ので、この場面も含め、「全文訳・絵合(5)」をご覧頂ければ、
と存じます(⇒こちらから)。
第17帖「絵合」の全文訳(5)
2024年9月16日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第50回・通算97回・№1)
「紫の会」は、オンラインクラスも、第17帖「絵合」の2回目。
今月の講読箇所は、97頁・8行目~105頁・1行目迄ですが、
全文訳は会場クラス、オンラインの月曜クラスと木曜クラス、
3回に分けて書きますので、今回は101頁・5行目~103頁・
4行目迄です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)
あの須磨・明石での絵日記の箱も取り出させなさって、この機会に
紫の上にもお見せになりました。当時の事情をよく知らないで、初
めて見る人でさえ、少し物の情趣がわかる人なら、涙を抑え切れず、
しみじみと心打たれる絵日記でした。
ましてや忘れ難く、あの頃の悪夢を見ているかのようだった思いの
薄らぐ時とてないお二人にとっては、今更のように悲しく思い出され
るのでありました。
この絵日記を、今まで源氏の君がお見せにならなかった恨みを、
紫の上は申し上げなさるのでした。
「一人ゐて嘆きしよりは海士の住むかたをかくてぞ見るべかりける
(一人京に残って嘆き悲しんでいるよりは、海士の住む海辺を、
この絵のように私も行ってご一緒に眺めとうございました)
そうすれば、お身の上を案じる思いは慰められましたでしょうに」
とおっしゃいます。源氏の君はたいそうしみじみとお感じになって、
「憂きめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か」
(つらい思いをしたあの時よりも今日はまた改めて、過ぎ去った昔
に戻って涙を流すことであるよ)
と、返歌をなさいました。
この絵日記は、藤壺にだけはぜひお見せしなければならないもの
でした。欠点のなさそうな須磨と明石の各一帖ずつ、それもやはり、
それぞれの海辺の景色がしっかりと描かれているのを、選びなさる
折にも、源氏の君は、あの明石の浦の住まいのことを、先ずどうして
いることかと、思い遣られぬ時はないのでありました。
このように絵を源氏の君がお集めになっているとお聞きになって、
権中納言は、ますます熱心に軸や、表紙や、紐の飾りといった装飾
を、いっそう立派にお整えになっておられます。3月の10日の頃なの
で、空もうららかで、人々の気持ちものどかに、何となく風情ある折
から、宮中でも、重要な節会などの合間なので、ただこうした絵を
もて遊ぶことで女御方もお過ごしになっているところに、源氏の君は、
同じことなら帝がいっそう興味をお持ちになるようにして差し上げよう
と思いつかれ、格別力を入れて名画を集めて献上なさいました。
斎宮の女御方にも、弘徽殿の女御方にも、様々な絵が沢山ございます。
中でも物語絵は、図柄が細やかで、親しみ深さが増さっているようです
が、梅壺の女御(=斎宮の女御)方では、昔の物語で、名高く由緒ある
絵ばかりを、弘徽殿の女御方では、当時の新作の物語で、趣深い絵
ばかりを選んでお描かせになっているので、一見、当世風で華やかな
点では、弘徽殿の女御方の絵がこの上なく優れているようでした。
帝付きの女房なども、絵にたしなみのある者はみな、これはどうこう、
あれはどうこう、と、皆で評定するのを、この頃の仕事にしているよう
でした。
「紫の会」は、オンラインクラスも、第17帖「絵合」の2回目。
今月の講読箇所は、97頁・8行目~105頁・1行目迄ですが、
全文訳は会場クラス、オンラインの月曜クラスと木曜クラス、
3回に分けて書きますので、今回は101頁・5行目~103頁・
4行目迄です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)
あの須磨・明石での絵日記の箱も取り出させなさって、この機会に
紫の上にもお見せになりました。当時の事情をよく知らないで、初
めて見る人でさえ、少し物の情趣がわかる人なら、涙を抑え切れず、
しみじみと心打たれる絵日記でした。
ましてや忘れ難く、あの頃の悪夢を見ているかのようだった思いの
薄らぐ時とてないお二人にとっては、今更のように悲しく思い出され
るのでありました。
この絵日記を、今まで源氏の君がお見せにならなかった恨みを、
紫の上は申し上げなさるのでした。
「一人ゐて嘆きしよりは海士の住むかたをかくてぞ見るべかりける
(一人京に残って嘆き悲しんでいるよりは、海士の住む海辺を、
この絵のように私も行ってご一緒に眺めとうございました)
そうすれば、お身の上を案じる思いは慰められましたでしょうに」
とおっしゃいます。源氏の君はたいそうしみじみとお感じになって、
「憂きめ見しそのをりよりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か」
(つらい思いをしたあの時よりも今日はまた改めて、過ぎ去った昔
に戻って涙を流すことであるよ)
と、返歌をなさいました。
この絵日記は、藤壺にだけはぜひお見せしなければならないもの
でした。欠点のなさそうな須磨と明石の各一帖ずつ、それもやはり、
それぞれの海辺の景色がしっかりと描かれているのを、選びなさる
折にも、源氏の君は、あの明石の浦の住まいのことを、先ずどうして
いることかと、思い遣られぬ時はないのでありました。
このように絵を源氏の君がお集めになっているとお聞きになって、
権中納言は、ますます熱心に軸や、表紙や、紐の飾りといった装飾
を、いっそう立派にお整えになっておられます。3月の10日の頃なの
で、空もうららかで、人々の気持ちものどかに、何となく風情ある折
から、宮中でも、重要な節会などの合間なので、ただこうした絵を
もて遊ぶことで女御方もお過ごしになっているところに、源氏の君は、
同じことなら帝がいっそう興味をお持ちになるようにして差し上げよう
と思いつかれ、格別力を入れて名画を集めて献上なさいました。
斎宮の女御方にも、弘徽殿の女御方にも、様々な絵が沢山ございます。
中でも物語絵は、図柄が細やかで、親しみ深さが増さっているようです
が、梅壺の女御(=斎宮の女御)方では、昔の物語で、名高く由緒ある
絵ばかりを、弘徽殿の女御方では、当時の新作の物語で、趣深い絵
ばかりを選んでお描かせになっているので、一見、当世風で華やかな
点では、弘徽殿の女御方の絵がこの上なく優れているようでした。
帝付きの女房なども、絵にたしなみのある者はみな、これはどうこう、
あれはどうこう、と、皆で評定するのを、この頃の仕事にしているよう
でした。
ウィンウィンの関係ー匂宮と大内記ー
2024年9月13日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第184回)
9月中旬になっても衰えを見せぬ猛暑です。来週後半からは
秋らしい気候になるとのことですので、今少しの辛抱と思って
頑張りましょう。
第51帖「浮舟」に入って2回目。中の君の許に届いた宇治から
の手紙で、送り主があの儚い出会いに終わって忘れられずに
いる女であることに気づいた匂宮は、薫が相変わらず宇治へ
通い、泊まることもあるというのを、亡き大君を思い続けての
ことかと推測していたのは間違いで、あの女を囲っているから
だと思い当たられたのでした。
それを確認すべく、薫の邸の家司の娘婿である大内記を職務
にかこつけて呼び出し、事情を探られます。大内記は、去年の
秋頃から、薫が頻繁に宇治に囲っている女に逢うために出掛
けているという下々の者の噂話を匂宮の耳に入れます。
となると、匂宮は、その女が自分が逢いたいと願っている女か
どうか見極めたいと思い、それからというものは、何とか宇治
に行く手段はないかと思案を巡らしておられました。
正月の下旬、春の除目も近づき、匂宮は大内記が望んでいる
任官を叶えるという条件を利用して、彼を宇治行きの手づるに
しようとお考えでした。これを「ウィンウィンの関係」と言って良い
のかわかりませんが、今もありそうな匂宮の駆け引きですよね。
「実は薫が宇治に囲っている女は、自分のほうが先に関係が
あったのだが、行方知れずになってしまった。薫が見つけ出して
引き取ったのだと思うが、確認しようがないので、物陰からでも
垣間見て確かめたい」と、匂宮は大内記に語り、宇治行きの
計画を命じられたのです。
大内記は、面倒なことになったと思いながらも、ここで断れば、
希望する役職に就けるチャンスは消失してしまいます。匂宮に
取り入って、同意したのでした。
大内記にとっては危険な賭けでもあったはずです。万が一誰か
に知られたり、宇治に向かう途中で事故でも生じようものなら、
全ての責任を負わねばなりません。
それは匂宮にとっても同様で、夜の山中で盗賊に襲われ、命を
落とす可能性もゼロとは言えない行動でしたが、もう口に出した
以上、決行するしかありませんでした。
このリアルな筋運びに、千年も前に書かれた物語であることを
忘れさせられます。舞台を現代に置き換えて小説化しても、
十分に通用するのではないでしょうか。
今月は宇治へ辿り着いた匂宮が、浮舟や女房たちの姿を垣間
見るところまでを読みましたが、この先のことは、残り2クラスで
読んだ時にご紹介したいと思います。
9月中旬になっても衰えを見せぬ猛暑です。来週後半からは
秋らしい気候になるとのことですので、今少しの辛抱と思って
頑張りましょう。
第51帖「浮舟」に入って2回目。中の君の許に届いた宇治から
の手紙で、送り主があの儚い出会いに終わって忘れられずに
いる女であることに気づいた匂宮は、薫が相変わらず宇治へ
通い、泊まることもあるというのを、亡き大君を思い続けての
ことかと推測していたのは間違いで、あの女を囲っているから
だと思い当たられたのでした。
それを確認すべく、薫の邸の家司の娘婿である大内記を職務
にかこつけて呼び出し、事情を探られます。大内記は、去年の
秋頃から、薫が頻繁に宇治に囲っている女に逢うために出掛
けているという下々の者の噂話を匂宮の耳に入れます。
となると、匂宮は、その女が自分が逢いたいと願っている女か
どうか見極めたいと思い、それからというものは、何とか宇治
に行く手段はないかと思案を巡らしておられました。
正月の下旬、春の除目も近づき、匂宮は大内記が望んでいる
任官を叶えるという条件を利用して、彼を宇治行きの手づるに
しようとお考えでした。これを「ウィンウィンの関係」と言って良い
のかわかりませんが、今もありそうな匂宮の駆け引きですよね。
「実は薫が宇治に囲っている女は、自分のほうが先に関係が
あったのだが、行方知れずになってしまった。薫が見つけ出して
引き取ったのだと思うが、確認しようがないので、物陰からでも
垣間見て確かめたい」と、匂宮は大内記に語り、宇治行きの
計画を命じられたのです。
大内記は、面倒なことになったと思いながらも、ここで断れば、
希望する役職に就けるチャンスは消失してしまいます。匂宮に
取り入って、同意したのでした。
大内記にとっては危険な賭けでもあったはずです。万が一誰か
に知られたり、宇治に向かう途中で事故でも生じようものなら、
全ての責任を負わねばなりません。
それは匂宮にとっても同様で、夜の山中で盗賊に襲われ、命を
落とす可能性もゼロとは言えない行動でしたが、もう口に出した
以上、決行するしかありませんでした。
このリアルな筋運びに、千年も前に書かれた物語であることを
忘れさせられます。舞台を現代に置き換えて小説化しても、
十分に通用するのではないでしょうか。
今月は宇治へ辿り着いた匂宮が、浮舟や女房たちの姿を垣間
見るところまでを読みましたが、この先のことは、残り2クラスで
読んだ時にご紹介したいと思います。
第44帖「竹河」(4)
2024年9月11日(水) 中央林間「宇治十帖の会」(第7回 №2)
先に書きました№1の「竹河(3)」(⇒こちらから)の続きです。
この「竹河(4)」は、226頁・13行目~236頁・3行目迄の粗筋
となります。
「竹河」(4)
4月9日に大君は冷泉院のもとに院参なさいました。夕霧は牛車や
大勢の人を遣わされました。雲居雁も、少将のことで恨めしくもあり
ましたが、そのおかげで、長年疎遠になっていた姉と頻繁に手紙を
遣り取りするようになったこともあり、立派な女装束を沢山贈られま
した。添えられている手紙にちくりと恨みごとが書かれているのも、
玉鬘には心苦しく思えました。夕霧からも手紙があり、自分自身は
行けないが、息子たちを遠慮なくお使いください、と書かれていて
玉鬘を喜ばせました。大納言(致仕の大臣の次男・玉鬘の異母弟)
からも女房たちの乗る牛車が用意されました。
大納言の北の方は故髭黒の長女の真木柱なので、どちらの関係
から言っても親しくお付き合いされて良いはずなのですが、それほど
でもありませんでした。髭黒の長男の藤中納言(真木柱の実弟)は、
異母弟の左近の中将、右中弁たちと一緒に行事を取り仕切って
いました。何かにつけて髭黒の在世中なら、と思われることでした。
蔵人少将は中将のおもとを通して、大君に「いよいよ最後と覚悟して
いた命ですが、それでもやはり悲しいので、せめて一言『可哀想に』
とだけでもおっしゃってくださったならば、その言葉に引き留められて
しばらくは生きていけるかもしれません」と、手紙を贈りました。丁度
大君が妹の中の君と別れを惜しんでいるところにそれが届けられた
ので、感傷的になっていたせいか、大君は珍しく手に取り、少将の
手紙の端に歌を書きつけました。
「あはれてふ経ならぬ世のひと言もいかなる人にかくるものぞは」
(『あはれ』という無常のこの世で使われる一言も、一体どのような
人に掛けたらよいのでしょうか。少なくとも立派なご両親がご健在の
あなたには掛けるべき言葉ではないでしょう)と書いて、「このように
書き直して遣りなさい」とおっしゃたのを、中将のおもとが書き直さず、
大君直筆のまま蔵人少将に渡したので、少将は返歌を得たことに
狂喜し、「私が死んだらあなたのせいだと人は言いますよ」と、恨み言
を書いて「あなたからの『あはれ』の一言を聞けずに終わってしまう
のでしょうか、お墓の上にでも『あはれ』と言葉を掛けてくださるのなら、
死に急ぎもしましょうに」と、再度手紙を寄越しましたが、大君は迂闊
にも返歌したことを後悔し、もう何もおっしゃることはありませんでした。
宮中への入内にも劣らぬ様子で、大君は冷泉院へと院参しました。
玉鬘も付き添い、先ずは弘徽殿の女御にご挨拶をしてから、冷泉院
のもとに参上しました。秋好中宮も弘徽殿の女御も、もうお年を召して
いる中、若い盛りの大君は可愛らしく、並々ならぬ寵愛を受けることと
なりました。玉鬘がすぐに退出してしまったのを、院は残念に思って
おられました。
薫は、嘗て源氏の君が桐壷帝に愛されたのと同じように、冷泉院に
大事にされていらっしゃいます。初夏のしめやかな夕暮、薫は大君の
お部屋の前の五葉の松に見事な藤の花が掛かっているのを見て、
つぶやくように歌を詠みました。
「手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや」
(手の届くものなら、松よりももっと濃い色の藤の花(大君)を、見る
だけで済ませたりはしないでしょうに」)
藤侍従は、その様子を見て、姉の院参が不本意であったことをほの
めかして、
「紫の色はかよへど藤の花心にえこそかからざりけれ」
(姉とは同じ紫の色(血縁)でも、藤の花(大君)を思うに任せません
でした)と、薫に同情する歌を詠んだのでした。薫はひどく取り乱す程
には思い詰めていませんでしたが、残念だとは思っているのでした。
あの蔵人少将は、大君を思い切れずにいて、大君への求婚者たち
の中には中の君に鞍替えする者もいたけれど、玉鬘からのほのめ
かしにも乗らず、玉鬘邸を訪れることも無くなってしまいました。
夕霧の子息たちは冷泉院にも親しくお仕えしてきましたが、この少将
だけは大君の院参以来、めったに参上しなくなっておりました。
故髭黒が望んでいたにも拘らず、大君の入内がその遺志に反した
ものとなったことを、今上帝は不快に思われ、玉鬘の長男・左近の
中将に苦情をおっしゃったのでした。帝の不興を買うことは、今後の
政界での立場にも影響を及ぼしかねないと、左近の中将は母・玉鬘
を責めるのでした。玉鬘は「冷泉院がお気の毒なほど熱心におっし
ゃるので、宮中では後ろ盾のない身は心細かろうと、院にお任せ
申し上げたのに、今になって誰も誰もが間違ったことをしたかのよう
におっしゃるのは困ったことです。でも、これも前世からの因縁という
ものでしょうよ」と、さほど気に留めておられるご様子でもありません
でした。左近の中将は「帝には前世からの因縁なので、なんて申し
上げられませんよ。中宮に遠慮なさったということですが、それでは
弘徽殿の女御のほうはどうなのですか。最初は後見役をして下さる
とおっしゃっていても、そうそう上手く行くでしょうか。帝には中宮が
おいでになろうとも、大勢の妃がいて当たり前のことでしょう。弘徽殿
の女御との間に齟齬が生じるほうが世間も問題視しましょうに。」と、
弟の右中弁と一緒になって言うので、玉鬘は心苦しく思っておりました。
冷泉院の大君に対するご寵愛は月日に添えてまさり、7月にはご懐妊
になりました。冷泉院の管弦の遊びに、薫もお側近くに侍っているので、
大君の琴の音を聴くこともあり、中将のおもとの和琴にも大君のことが
思われ、平静ではいられないのでした。
年が改まりました(薫16歳)。この年は「男踏歌」があり、薫も蔵人少将も
その中に選ばれていました。宮中から冷泉院へと廻ると、蔵人少将は、
大君も御簾の内からご覧になっているだろうと、心が騒ぎ、お酒も
進まないのでした。
先に書きました№1の「竹河(3)」(⇒こちらから)の続きです。
この「竹河(4)」は、226頁・13行目~236頁・3行目迄の粗筋
となります。
「竹河」(4)
4月9日に大君は冷泉院のもとに院参なさいました。夕霧は牛車や
大勢の人を遣わされました。雲居雁も、少将のことで恨めしくもあり
ましたが、そのおかげで、長年疎遠になっていた姉と頻繁に手紙を
遣り取りするようになったこともあり、立派な女装束を沢山贈られま
した。添えられている手紙にちくりと恨みごとが書かれているのも、
玉鬘には心苦しく思えました。夕霧からも手紙があり、自分自身は
行けないが、息子たちを遠慮なくお使いください、と書かれていて
玉鬘を喜ばせました。大納言(致仕の大臣の次男・玉鬘の異母弟)
からも女房たちの乗る牛車が用意されました。
大納言の北の方は故髭黒の長女の真木柱なので、どちらの関係
から言っても親しくお付き合いされて良いはずなのですが、それほど
でもありませんでした。髭黒の長男の藤中納言(真木柱の実弟)は、
異母弟の左近の中将、右中弁たちと一緒に行事を取り仕切って
いました。何かにつけて髭黒の在世中なら、と思われることでした。
蔵人少将は中将のおもとを通して、大君に「いよいよ最後と覚悟して
いた命ですが、それでもやはり悲しいので、せめて一言『可哀想に』
とだけでもおっしゃってくださったならば、その言葉に引き留められて
しばらくは生きていけるかもしれません」と、手紙を贈りました。丁度
大君が妹の中の君と別れを惜しんでいるところにそれが届けられた
ので、感傷的になっていたせいか、大君は珍しく手に取り、少将の
手紙の端に歌を書きつけました。
「あはれてふ経ならぬ世のひと言もいかなる人にかくるものぞは」
(『あはれ』という無常のこの世で使われる一言も、一体どのような
人に掛けたらよいのでしょうか。少なくとも立派なご両親がご健在の
あなたには掛けるべき言葉ではないでしょう)と書いて、「このように
書き直して遣りなさい」とおっしゃたのを、中将のおもとが書き直さず、
大君直筆のまま蔵人少将に渡したので、少将は返歌を得たことに
狂喜し、「私が死んだらあなたのせいだと人は言いますよ」と、恨み言
を書いて「あなたからの『あはれ』の一言を聞けずに終わってしまう
のでしょうか、お墓の上にでも『あはれ』と言葉を掛けてくださるのなら、
死に急ぎもしましょうに」と、再度手紙を寄越しましたが、大君は迂闊
にも返歌したことを後悔し、もう何もおっしゃることはありませんでした。
宮中への入内にも劣らぬ様子で、大君は冷泉院へと院参しました。
玉鬘も付き添い、先ずは弘徽殿の女御にご挨拶をしてから、冷泉院
のもとに参上しました。秋好中宮も弘徽殿の女御も、もうお年を召して
いる中、若い盛りの大君は可愛らしく、並々ならぬ寵愛を受けることと
なりました。玉鬘がすぐに退出してしまったのを、院は残念に思って
おられました。
薫は、嘗て源氏の君が桐壷帝に愛されたのと同じように、冷泉院に
大事にされていらっしゃいます。初夏のしめやかな夕暮、薫は大君の
お部屋の前の五葉の松に見事な藤の花が掛かっているのを見て、
つぶやくように歌を詠みました。
「手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや」
(手の届くものなら、松よりももっと濃い色の藤の花(大君)を、見る
だけで済ませたりはしないでしょうに」)
藤侍従は、その様子を見て、姉の院参が不本意であったことをほの
めかして、
「紫の色はかよへど藤の花心にえこそかからざりけれ」
(姉とは同じ紫の色(血縁)でも、藤の花(大君)を思うに任せません
でした)と、薫に同情する歌を詠んだのでした。薫はひどく取り乱す程
には思い詰めていませんでしたが、残念だとは思っているのでした。
あの蔵人少将は、大君を思い切れずにいて、大君への求婚者たち
の中には中の君に鞍替えする者もいたけれど、玉鬘からのほのめ
かしにも乗らず、玉鬘邸を訪れることも無くなってしまいました。
夕霧の子息たちは冷泉院にも親しくお仕えしてきましたが、この少将
だけは大君の院参以来、めったに参上しなくなっておりました。
故髭黒が望んでいたにも拘らず、大君の入内がその遺志に反した
ものとなったことを、今上帝は不快に思われ、玉鬘の長男・左近の
中将に苦情をおっしゃったのでした。帝の不興を買うことは、今後の
政界での立場にも影響を及ぼしかねないと、左近の中将は母・玉鬘
を責めるのでした。玉鬘は「冷泉院がお気の毒なほど熱心におっし
ゃるので、宮中では後ろ盾のない身は心細かろうと、院にお任せ
申し上げたのに、今になって誰も誰もが間違ったことをしたかのよう
におっしゃるのは困ったことです。でも、これも前世からの因縁という
ものでしょうよ」と、さほど気に留めておられるご様子でもありません
でした。左近の中将は「帝には前世からの因縁なので、なんて申し
上げられませんよ。中宮に遠慮なさったということですが、それでは
弘徽殿の女御のほうはどうなのですか。最初は後見役をして下さる
とおっしゃっていても、そうそう上手く行くでしょうか。帝には中宮が
おいでになろうとも、大勢の妃がいて当たり前のことでしょう。弘徽殿
の女御との間に齟齬が生じるほうが世間も問題視しましょうに。」と、
弟の右中弁と一緒になって言うので、玉鬘は心苦しく思っておりました。
冷泉院の大君に対するご寵愛は月日に添えてまさり、7月にはご懐妊
になりました。冷泉院の管弦の遊びに、薫もお側近くに侍っているので、
大君の琴の音を聴くこともあり、中将のおもとの和琴にも大君のことが
思われ、平静ではいられないのでした。
年が改まりました(薫16歳)。この年は「男踏歌」があり、薫も蔵人少将も
その中に選ばれていました。宮中から冷泉院へと廻ると、蔵人少将は、
大君も御簾の内からご覧になっているだろうと、心が騒ぎ、お酒も
進まないのでした。
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