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末摘花の日常

2024年3月28日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第44回・通算91回・№2)

今日はまだ春らしさが戻らず、本格的な春の陽気となる
のは、明日の午後からのようです。週末には東京でも
桜の開花となるのではないでしょうか。

「紫の会」は、どのクラスも今月から第15帖「蓬生」を読み
始めました。

源氏の須磨謫居と共に、忘れられた存在となってしまった
末摘花。日々の生活は困窮し、仕えている者たちも少なく
なり、父・常陸宮が残された邸はすっかり荒廃して、盗人
たちでさえ、ここには押し入っても無駄であろうと敬遠する
有様でした。

訪れる人も無く、唯一兄の禅師が京に出て来られた時には
顔をお出しになるものの、この方も、末摘花に負けず劣らず
浮世離れしておられ、雑草が生い茂っていても、それを刈り
取らねばならない、と、お気づきになることもなかったのです。

そうした中で、末摘花はどのような日常生活を送っていたの
でしょうか。

古歌や物語にもさほど興味がなく、気の合う者同士で文通を
すれば、若い姫君なら四季折々の情趣を感じて心も慰められ
ようものを、父宮が他人に対しては慎重であるべきだと教育
なさったのを守り続け、警戒など必要ない人たちとも、親しく
なさることなくお過ごしでした。まさに「ぼっち」そのものですね。

なさることと言えば、古びた御厨子を開けて、昔物語で絵に
書かれたものをもてあそびものにしたり、面白味を持った
歌物語に仕立てられたようなものでもない、ありふれた古歌
が、既に毛羽立ってしまった上質紙に書かれているのなどを
取り出したりして、ご覧になっているのでした。

今風な読経や勤行といったことも、別に見てる人がいるわけ
でもないのに、気が引けて、数珠などを手になさることも
ありませんでした。

単に古風というのを通り越した末摘花の、極端に一途な、
融通の利かない姿が、戯画化された形で描かれています。

そしてこの場面は、「かやうにうるはしくぞものしたまひける」
(このようにきちんとなさっていらっしゃいました)と、あたかも
末摘花の生真面目さをからかうような口調の一文で閉じられ
ています。

詳しくは、先に書きました「蓬生の全文訳(3)」をご覧頂ければ、
と存じます(⇒こちらから)。


第15帖「蓬生」の全文訳(3)

2024年3月28日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第44回・通算91回・№1)

会場クラス、第3月曜クラスに続き、今日の第4木曜クラスも
今月から第15帖「蓬生」に入りました。3月に講読した箇所
(55頁・1行目~61頁・3行目)の全文訳を、3回に分けて書い
ておりますので、今回が3回目(58頁・13行目~61頁・3行目)
の部分となります(1回目⇒こちらから 2回目⇒こちらから)。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)


大したことのない用件でも、訪れる人は誰一人いない末摘花の
ご身辺でありました。ただお兄様の禅師の君だけは、たまに山科
から京にお出向きになった際には、顔をお出しになりますが、その
方も稀に見る古風な方で、同じ法師と言う立場の中でも、処世の
術を知らず、現世とは無縁の聖のようなお暮らしぶりで、生い茂った
草や蓬でさえ、刈り取らねばならないものだともお気づきにならず、
このような状況なので、浅茅は庭の表面を覆い尽くし、繁った蓬は
軒を争って生え上っております。

葎が西と東の門を閉ざしてしまっているのは、用心が良くて頼もしい
けれど、崩れがちな周囲の築地塀を馬や牛などが踏みならした道に
してしまって、春夏になると、庭で牛馬を放し飼いにする牧童の料簡
までもが驚き果てる有様でした。八月、台風が凄まじかった年、渡殿
なども倒れて壊れ、雑舎などで、粗末な板葺きだった建物などは、
骨組みだけが僅かに残って、留まる下仕えの者さえいなくなりました。

炊事の煙も絶えてしまい、しみじみと辛いことが多いのでした。盗人
などという情け容赦のない者も、想像しただけでも貧し気なせいか、
このお邸は押し入っても無駄だと、素通りしてしまうので、このような
酷く荒れた野や藪のようではありますが、それでも寝殿の中だけは、
昔ながらの室礼も変わらず、輝くように掃除などをする人もいません
が、塵は積もっているけれど、雑事に乱されることのないきちんとした
お暮らしぶりで、末摘花は日を送っておられました。

ちょっとした古歌や物語などといった慰め事によってこそ、所在なさ
も紛らわし、このような侘び住まいでも思い慰められるものでしょうが、
末摘花はそのようなことにも関心が疎くていらっしゃいました。

特にそれを好んで、というわけではなくても、自然と急用の無い時など
は、気の合う者同士の文通などを気軽にしてこそ、若い姫君は四季
折々の草木の趣につけても、心の慰めになるはずなのですが、
末摘花は、父宮が大切にお育てになったそのお考えを守って、世の中
を慎重に対するものだとお思いになり、時たまにしろ、お手紙をお出し
になっても良いお相手にも、決して親しくはなさらず、古びた御厨子を
開けて、「唐守」、「藐姑射の刀自」「かくや姫の物語」で、絵に描いた
ものを、時々弄びものにしておられました。

古歌といっても、面白い趣向で選択し、詞書や作者をはっきりとさせて、
歌の気持ちがよくわかるものが、興をそそるのでありますが、きちんと
した紙屋紙や、陸奥紙などのけば立ったものに、ありふれた古歌が
書かれているのなどは、ひどく興覚めなものなのですが、一人深く
物思いに沈んでいる折々は、それらをお広げになっているのでした。

当世の人がするらしい読経とか勤行などということは、とても気の引け
ることとお思いになって、目を留める人もいないのだけれど、数珠など
を手になさることはありません。このようにきちんとしていらっしゃるの
でした。


神戸旅行(2日目)

2024年3月27日(水)

昨日は神戸旅行の1日目のことを書きましたが、今日は
その続きの2日目です。

今回の宿泊先は、実家のお墓がある鵯越墓園へのバスの
便を考えて、神戸駅近くの「ホテル ジュラク」にしました。
朝食をたっぷりと取って、9:30にチェックアウトし、フロント
にキャリーバッグを預けて、駅前から9:50発のバスに乗車。
傘を差さなくても大丈夫程度でしたが、細かい雨が降って
いました。

10:40発の「園内墓参バス」に乗り、両親のお墓の場所に
着いた時には、雨も止んでいました。ここまでは前日の
ようなトラブルもなく順調でしたが、コロナ禍以降、一度も
お参りをしていなかったので、墓石の周辺には雑草が生い
茂っており、これでは末摘花の邸並みです。姉と二人で、
園芸用の手袋をつけ、持参した鋏や小さな鎌のような物で、
雑草を取り除くのに大忙し。雨が上がっていたので助かり
ました。ようやくその作業を終えて時計を見たら、帰りの
墓園バスの時間まであと10分しかありません。お彼岸も
過ぎて、お墓参りに来ているのは私たちだけ。バスに乗り
遅れたら、帰れなくなってしまいます。急ぎお花やお線香を
供えて手を合わせました。なんだか慌ただしく、お掃除に
必死の墓参となりましたが、まぁ、少しは綺麗になって、
両親も喜んだことでしょう。

神戸駅に戻って、ホテルに預けていた荷物を受け取り、
電車で須磨方面を目指しました。姉が「須磨海浜公園」駅
で降りて、父の家があった辺りを歩きながら「須磨」駅まで
行こう、というので、そうすることにしました。父の家は、
神戸の大空襲で焼失してしまいましたが、今は水族館が
ある辺りだったそうです。それでも、私の幼少時に、祖母
や曾祖母が住んでいたと思われる場所や、姉が通った
幼稚園(ここは今も幼稚園で、姉は懐かしがっていました)
などを巡って、「須磨」駅まで、結構な距離を歩きました。

      須磨海岸
  須磨海岸の松林。奥は海です。神戸に住んで
  いたのは5歳迄ですが、うっすらと記憶に残って
  います。

今回、出来たら須磨・明石方面を訪ねてみよう、と決めた
時に、明石で食事をするとしたらどこがいいかしら?と、
明石近くにお住いのブロ友さんにお訊きしたところ、丁寧
に教えて下さったので、明石駅で降り、「魚の棚」という昔
ながらの市場ふうの商店街を目指しました。やはり明石と
言えば「明石焼」だよね、ということで、教えていただいた
「たこ磯」さんへ。おおーっ、さすが人気店なのですね、
行列が出来ています。それでも回転は速いので、15分程
で店内に案内されました。

      魚の棚①
 
 明石焼
  焼き立て熱々の「明石焼」(ここでは「玉子焼」と
  なっていました)。これで一人前(800円)。お安い
  ですよね。だしに刻み三つ葉を入れて、ふーふー
  しながら食べるのは美味しい!もうお腹いっぱい。

そして、この日一番の緊張感の中で、明石駅から更に3駅
西へと向かいました。お食事処を尋ねたブロ友さんと会う
約束があったからです。

ブロ友さんのお宅は、苺の栽培を営んでおられ、ブログに
収穫されたジャンボサイスの苺のお写真が載っていました。
苺に目のない私は、「かじりつけたら幸せだろうなぁ~」
なんてコメントしました。そうしたら、「神戸にお越しの際に
お時間ありましたら、お届けしますよ~?」とのリコメが。
「えっ、まさか?」と思いながらも、遣り取りをしているうちに、
「瓢箪から駒」で、実現することに・・・。

明石駅で電車のホームを間違えたため(またやっちゃった、
なのですが、これは駅の行先案内の位置も良くないと思い
ます)、繁忙期でいらっしゃるブロ友さんをすっかりお待たせ
してしまいました🙇

 やむやむさん①
  初対面のブロ友さんとの記念写真。マスクなしも
  撮りましたが、マスクをつけたほうで。

結局、2種類の立派な苺をプレゼントしていただくことになり
(その他に明石名物の焼海苔まで)、恐縮しながらも、見る
からに美味しそうな苺を持って、西明石から18時24分発の
「ひかり」に乗り、姉は静岡で「こだま」に乗り換えの為降りて、
私は新横浜から電車を乗り継いで、22時頃、無事に帰宅しま
した。そんな時間でしたが、早速苺は食しました。

 いちご
左「さちのか」、右「紅ほっぺ」。完熟で鮮度抜群ですから、
どちらも甲乙つけ難い美味しさ。甘味と酸味のバランスが
良く、マイルドな苺の旨味が味わえる「さちのか」。一方の
「紅ほっぺ」は、濃厚な苺の旨味が詰まった感じで、苺好き
の私にはたまらない美味しさです。横に置いた500円玉と
比べていただくと、その大きさもわかるかと思います。

ブロ友さん、最高の苺を有難うございます!

こうして、とんでもない私のミスから始まった神戸旅行でしたが、
「かじりつけたら幸せだろうなぁ~」の実現で幕を閉じることが
出来ました。


神戸旅行(1日目)

2024年3月26日(火)

一昨日から1泊2日で、神戸~明石方面まで行って来ました。
今日は、その1日目(3/24)のことを振り返っておきたいと
思います。

今回の旅行は先ず私の大失敗から始まりました。新幹線の
時刻に合わせて、自宅最寄り駅を何時の電車に乗るかは
事前に調べてちゃんと書き込んでいたのに、当日の朝には
なぜか勘違いして、20分遅い電車に乗ってしまいました(私、
大丈夫?いや、もう危うい人です)。

新横浜駅に着くまで、自分が勘違いしていることに気づかず、
新幹線の発車時刻表を見て、「どうしよう、私間違えてる!」
と慌てました。三島から乗車する姉に電話して、ともかくも
姉だけでも先に行くことにしました(叔母の所属する教室の
絵更紗の展覧会の最終日なので、それに間に合わなかった
ら元も子もありません)。しばらくすると、今度は、姉も私との
電話でもたもたしていたら、新幹線に乗り遅れたというのです。
結局次の「ひかり」に乗った私が名古屋で降りて、姉の乗った
「こだま」を待ち、ようやく合流。新大阪で乗り継いで、予定より
も1時間程遅れて新神戸駅に着き、タクシーで会場に向かい
ました。でもまだ絵更紗展を観る時間はありました(´▽`)

       あゆみ会
           
  あゆみ会②
        上下写真、全て叔母の作品です。 

その後、叔母の卒寿のお祝いのため、「北野クラブ」へと移動。
一昨年の米寿の時(その記事は⇒こちらから)のメンバーに
加え、今回は叔母の娘夫婦も一緒に祝賀の卓を囲みました。

        北野クラブ②
    叔母は2年前と少しも変わらず矍鑠としています。 
    窓越しには神戸の夜景が見え、ピアノの生演奏も
    加わって、雰囲気も申し分ありません。
    美味しいお料理に舌鼓を打ちながら、話も大いに
    弾みました。

        北野クラブ①
    アミューズからデザートまで、お料理も紹介したい
    ものばかりでしたが、やはり写真はこれをUPして
    おきたいと思います。最後に頼んでおいたお祝い
    のケーキです。ちょっと長すぎるメッセージでしたが、
    全部ちゃんと書いてありました。「卒寿おめでとう!
    この先も私たちに夢と希望を与え続けてね」
    
今の私たちの気持ちを叔母に伝えることができ、叔母にも
喜んでもらえて、思い出に残る良き一夜となりました。

2日目のことは、明日書きます。
    
     

「源氏物語のあらすじ」・・・第14帖「澪標」(その2)

2024年3月23日(土)

「紫の会」が、今月から第15帖「蓬生」に入りましたので、
第14帖「澪標」の後半の粗筋を纏めておきたいと思います。

「澪標」の巻の前半の粗筋は⇒こちらから

「全文訳」では、2023年11月13日の 「澪標」(9)、11月20日の
「澪標」(10)、12月11日の「澪標」(11)、12月14日の「澪標」(12)
12月18日の「澪標」(13)、2024年1月8日の「澪標」(14)、1月15日
「澪標」(15)、1月25日の「澪標」(16)、2月12日の「澪標」(17)
2月19日の「澪標」(18)、2月22日の「澪標」(19)に該当する部分
となります。

「源氏物語のあらすじ」・・・第14帖「澪標」(その2)は⇨⇨こちらから


かぐや姫のような浮舟

2024年3月20日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第252回)

午後からは雷雨になるかもしれない、と言われていた今日
ですが、まだ雨の降り出さないうちに家を出て、電車に乗る
ことが出来ました。湘南台に着くと小雨は降っていましたが、
雷雨の心配はなさそうでした。講読会が終わる頃には薄日
が差してきており、よかった、と思いました。ところが帰りの
電車が自宅の最寄り駅に近づくにつれ、怪しい雲行きとなり、
改札口を出た所でピカッと稲妻が。途端に大粒の雨が降り
出し、家まで大急ぎで帰りましたが、しばらくするとその雷雨
が嘘だったかのように青空が広がって来ました。天気予報で
「天候が急変する」と言っていましたが、実感した一日でした。

湘南台クラスは、第53帖「手習」を講読中です。

横川僧都によって命を救われた浮舟は、母尼と妹尼の住む
小野の山荘に伴われ、2ヶ月余りの後、意識もはっきりと取り
戻しました。亡き娘の身代わりを初瀬の観音様が授けて下さ
った、と浮舟を愛おしむ妹尼ですが、浮舟は自分の素性を
明かそうとはしませんでした。

老尼たちの中で、一人美しさを放つ浮舟は「いみじき天人の
天降れる」(天女が下界に下って来ている)と、かぐや姫の
イメージで描かれています。

「夕暮ごとに端近くてながめしほどに」(夕暮れになるといつも
端近くでぼんやりとしておりましたところ)と、浮舟が失踪前の
自分を語る場合も、昇天を前にしたかぐや姫のようです。

そして、妹尼が「かくや姫を見つけたりけむ竹取の翁よりも、
めづらしきここちするに、いかなるものの隙に消え失せむと
すらむ」(かぐや姫を見つけたという竹取の翁よりも、珍しい
心地がするので、なにかで目を離した隙に消え失せてしまう
のではないか)と、具体的にかぐや姫を連想しています。

更には、「月の明き夜な夜な、(中略)つくづくとうちながめて」
(月の明るい夜になると、(中略)物思いに耽って空を眺めて)
と、秋になって、浮舟がひとり月を眺めている様子は、まさに
かぐや姫の姿です。

振り返ってみると、確かに浮舟が横川僧都に発見され、妹尼
との尽力で蘇生する話は、『竹取物語』の型を踏襲しており、
横川僧都が「竹取の翁」、妹尼が「妻の女」ということになりま
しょう。

「浮舟」の巻で、自ら命を絶つ決意をした浮舟が、改めてこの先、
「かぐや姫」的存在として再生していく話が、「手習」の巻となるの
ですが、どのような展開をして、どのような結末を迎えるのか、
知らなければ、如何ようにも想像し、ワクワクすることでしょうね。


末摘花の執着心

2024年3月18日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第44回・通算91回・№2)

今日は最高気温がこの時期らしい15度で、暖かな日差しも
降り注いでいましたが、強風が吹きまくり、花粉の飛散もMax
の状態だったのではないかと思われます。

「紫の会」は、オンラインクラスも第15帖「蓬生」の2回目です。

源氏の須磨退去によって、再び困窮生活に追いやられること
となった末摘花と彼女に仕える人たち。邸は荒れ放題で、奇怪
なものどもも現れ始め、何ともやり切れない状態となっています。
それでも、そんなお化け屋敷のようになってしまった故常陸宮邸
にも風情を感じる受領層の者がいて、買い取りたいと申し出て
来たのでした。女房たちは、ぜひ末摘花に邸の売却を決心して
欲しいと願いますが、末摘花は、端から応じる気配を見せません。
「亡き父宮が残して下さったものをどうして手放してしまったり
出来ましょう」と言った後に、「かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、
親の御影とまりたるここちする古き住処と思ふに、なぐさみてこそ
あれ」(このように恐ろし気に荒れ果てているけれど、親のお姿が
留まっていらっしゃる感じがする古い家だと思えばこそ、慰められ
ているのです)と、泣きながら、この邸に執着する姿勢を取り続け
ました。

荒廃が進み、不気味な空間と変わり果ててしまってもなお、それに
執着する末摘花の姿は、傍から見れば滑稽でさえありますが、この
「親の御影とまりたるここちする古き住処」という思いが、源氏からも
忘れ去られた今の末摘花にとっては、唯一の心の支えでもあったと
思われます。邸ばかりではなく、調度品も女房たちが生活の糧とする
ために手放そうとすると、末摘花は厳しく叱って許しませんでした。

父宮の残した物の思い出と共に生きるしかない末摘花にとっては、
女房たちの切実な要求を、頑なに拒絶するのも、彼女の立場を
考えると、道理に適っている気もしてまいります。

この場面、通して詳しくは、先に書きました「末摘花全文訳(2)」を
お読みいただければと思います(⇒こちらから)。


第15帖「蓬生」の全文訳(2)

2024年3月18日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第44回・通算91回・№1)

会場クラスも、オンラインクラスも、今月から第15帖「蓬生」に
入った「紫の会」です。講読箇所((55頁・1行目~61頁・3行目)
の全文訳を、3回に分けて書きますが、今日はその2回目と
なります(57頁・5行目~58頁・12行目まで)。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語三」による)


昔から荒れてしまっていた邸内は、いっそう狐の住みかとなって、
気味悪く、人けのない木立に、梟の声を朝夕に耳に聞き慣らし
ながら、人の住む気配があればこそ、そのような怪しげなものも
阻まれて姿を隠していましたが、木霊(こたま)など、得体の知れ
ないものどもが、ここぞとばかり、次第に形を現わして、何とも
やり切れないことばかりが数えきれないほどあるので、ごく僅か
の残ってお仕えしている女房は、「もうどうしようもございません。

例の受領などで、風流な家造りを好む者が、このお邸の木立を
気に入って、ここを手放して下さいませんか、と、つてを求めて、
ご意向をお伺いさせ申しておりますが、そのようになさって、
本当にこうも恐ろしくないお住まいに、移ることをお考え下さい
ませ。このお邸に残ってお仕えしている私共も、とても辛抱しきれ
ません」などと申し上げますが、末摘花は、「まあ、とんでもない。
世間の人が聞いたら何と思うことでしょう。私の生きている間に、
そんな父宮の形見をすべて失くしてしまうようなことは、どうして
できましょうか。このように恐ろし気に荒れ果てているけれど、
親のお姿が留まっていらっしゃる感じがする古い家だと思えば
こそ、慰められているのです」と、泣きながらおっしゃって、邸を
手放すことなど、全くお考えではありませんでした。

お道具類なども、古風で使い古したものが、昔風で立派なのを、
生半可にものの風情を知ろうと思っている人が、そうしたものを
欲しがって、亡き常陸宮が、特別に誰それと名の通った者に
作らせなさったのだと聞き出してお伺いを立てるのも、自然と
このような手許不如意な所だと、見くびって言ってくるのですが、
先程の女房たちは、「致し方ございません。それこそ世の常の
ことです」と言って、目立たないように、紛らわせながら、差し
迫った今日明日の暮らしの見苦しさを取り繕おうとする時もある
のを、末摘花は厳しくお諫めになって、「父宮は、私に残して
やろうとお思いになったからこそ、お道具類を作らせなさった
のでありましょう。どうして、下々の者の家の飾りなどにいたし
ましょう。父宮のご意向が無になることは堪りません」と、その
ようなことはお許しにはなりませんでした。


八王子「東京富士美術館」-源氏物語-

2024年3月17日(日)

今日は、八王子の「東京富士美術館」で、「源氏物語」展を見て
まいりました。

八王子へは、2006年2月から2020年2月までの14年間、月に
一度、『源氏物語』の講読会で出掛けていましたが、その後
コロナ禍となり、訪れる機会も無いまま、4年が経ちました。

1月5日の「よそほひの源氏物語」展(その記事は⇒こちらから
の時と同じメンバー(「源氏愛の会」と称しています)4人で行き
ましたが、先ずは八王子駅に隣接する「セレオ八王子」の「梅蘭」
で、名物の焼きそばを食べて腹ごしらえ。今日のランチタイムは、
後の美術館の予定があるので、1時間だけ。写真を撮ることも
すっかり頭から抜けてしまっておりました(^_^;)

ちょうど講座「姫君の空間─御簾の下からこぼれ出る女房装束」
&⼗⼆単着装実演会が本日開催とあって、14:00開始の30分
位前に到着予定だったのですが、バスが遅れに遅れ、美術館に
着いた時には、もうそれが始まろうとしている時でした。座席は
埋まっており、立ち見となりましたが、それも立錐の余地もない
状態で、何とか後方に立って見学することが出来ました。

        富士美術館②
 講座「姫君の空間─御簾の下からこぼれ出る女房装束」
 で解説がなされた「二人の女房による打出(うちいで)の
 様子」が、復元装束によって再現展示されていました。

        富士美術館③
 「十二単着装実演会」は、最初「お方さま」は、小袖に長袴
 で登場(写真撮影可)。

        十二単
 そこに、単(ひとえ)を着て、その上に五衣(いつつぎぬ)を
 重ねてゆき、更に打衣(うちぎぬ)、表衣(うわぎ)を着ます。
 最後に唐衣(からぎぬ)と裳(も)を着けました。帖紙 (たとう
 がみ)と檜扇(ひおうぎ)を手にしています。色目は、1回目
 が2月だったので、「紅梅の匂」の襲になっていました。

一つひとつ解説を聴きながら、実際に観ることができたので、
十二単の身に着け方がよくわかりました。

さて、その後展覧会の会場へと移動しましたが、当然のこと
ながら、もの凄い混雑ぶり。でも、開館40周年記念の特別展
とのことでしたが、見応えのある展示に圧倒されました。

特に、第2部「あらすじでたどる『源氏物語』の絵画」では、桃山
~江戸にかけての土佐派、住吉派が中心でしたが、54帖全て
の粗筋と共に各帖の絵画が展示されており、これだけのものが
よくぞ全国の美術館から集められたことだ、と驚嘆しました。

第3部の「『源氏物語』の名品」も、岩佐又兵衛、尾形光琳などの
文字通りの「名品」が並び、第4部の「近代における『源氏物語』」
でも、松岡映丘、上村松園、安田靫彦等の名画がずらり。閉館
のアナウンスがある頃まで居ましたが、もっと空いている時に
ゆっくりと観たかったですね。

     富士美術館①
   昨年10月に初めて会った時と同じように、アラフィフの
   若いお二人に挟まれてのばーばむらさきです。
   姉も一緒に行ったのですが、後の用事の時間が迫って
   きて先に帰ったので、写真に加われず残念( ;∀;)

さすがに2時間半、一度も座ることもなく、疲れましたが、この
展覧会には足を運んだ甲斐がありました。

3/24(日)まで開催されています。


第42帖「匂兵部卿」(2)

2024年3月13日(水) 中央林間「宇治十帖の会」(第2回)

先月から始まった「宇治十帖の会」ですが、今日は、綺麗な
花束を頂戴し、記念の集合写真も撮りました。

  ポラリス「宇治十帖の会」集合写真
    折角の花束を抱え込んでしまっていますね🙇

本日読みました第42帖「匂兵部卿」の2回目のあらすじです。
1回目は(⇒こちらから)。

「匂兵部卿」(2)
薫の母君の女三宮は、三条宮で仏道三昧の日々を送っておられ
ますが、息子の薫を親のように頼っておられる有様なのに加えて、
冷泉院も帝も東宮も二の宮も三の宮も薫を相手になさろうとする
ので、薫は身体が二つ欲しいほどの忙しさでした。

幼い頃にちらっと漏れ聞いた自分の出生の秘密が気になり、誰か
に事実を問い質したいと思っているものの、母にはそんな素振りを
見せるわけにもいかず、一人悩み苦しんでいました(※)。母が女
盛りで出家してしまったのも、不義の子である自分を産んだことが
原因なのではないか、女房たちの中には、この秘密を耳にしている
者もいるのではないか、などと考えるけれども、世間に知れては困
るこのような重大なことを、薫に教えてくれる人は誰もいません。

せめて母が来世では極楽浄土へ行けるように手助けして差し上げ
よう、亡くなられたという実父にも来世では会いたい、と願い、現世
での元服は気が進まなかったけれども、拒むことも出来ず、自然と
ついてくる栄華に馴染めずにいらっしゃいました。

帝は薫の伯父(薫の母・女三宮の兄)なので勿論のこと、明石中宮も、
我が子たちと一緒に六条院で成長した薫を可愛がられ、夕霧もまた、
大勢いる息子たちよりも薫には心細やかな配慮を持ってお世話をして
いるのでした。

昔、「光君」と称された方(光源氏)は、父・桐壺帝の寵愛が深くて妬ま
れることも多く、母方の後見もなかったけれど、若い頃から思慮深く、
危機的な状況も自ら須磨に退居することで乗り切り、時期を逃さず
出家なさって、先々を見通す力を身につけておられましたが、薫は世間
からちやほやされ過ぎて、気位の高さがこの上ないのでした。いかにも
仏様がこの世に仮の姿で現れなさったのではないか、と思われるふし
がありました。容貌もどこが、と取り立てて素晴らしいというわけでもなく、
ただその優美さが深遠な雰囲気を醸し出しているのでした。
 
薫には生まれつき不思議な芳香が備わっており、ほとんどお香を焚き
しめることもなさらないけれど、それは本当に百歩先までも薫りそうな
匂いで、春の梅も秋の藤袴も、ひと度薫が触れると、本来の香り以上
のものとなるのでした。

こうして人が不審に思うほどの良い香りを放つ薫に対抗して、匂宮は
お香の調合に余念がなく、格別に香りに夢中になっていることを売りに
していらっしゃるのでした。それで世間では、匂宮を少し軟弱で、風流面
に偏った方だと思っておりました。源氏の君はこんなふうに、一つのこと
だけに熱中なさることはありませんでした。

※「おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめも果ても知らぬわが身ぞ」
(気掛かりなことだ。一体誰に訊けば良いのだろう。どうして私はこの世
に生まれて来て、この先どうなって行く身なのか、わからない)

幼い頃から自分の出生に疑念を抱いている薫が、14歳で詠んだ歌です。
薫の人格形成の基盤となっている歌だと思いますので、ここに記して
おきます。「匂兵部卿」の巻における唯一の歌でもあります。


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