今日の一首(13)
2015年10月30日(金) 溝の口「百人一首」(第24回)
声の状態もほぼ普通に戻って来ましたが、今日の会場の
「視聴覚室」はマイクが付帯しているとのことで、使わせて
いただきました。おかげで、とても楽でした。
今回は89番~92番までの歌を取り上げました。89・90・92番の
三枚が「姫」で、かるたも美しいのですが、やはり、今の季節を
詠んだ91番は捨て難く、「今日の一首」といたしました。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
(九十一番・後京極摂政前太政大臣)
(こおろぎが鳴いているよ。この寒い霜夜、筵に衣の片袖を敷いて、
私は一人寂しく寝るのであろうか)
「きりぎりす」は今の「こおろぎ」で、名称が逆になっています。
「松虫」と「鈴虫」も同様で、当時、「松虫」と呼ばれていたのは
今の「鈴虫」です。
「きりぎりす」(今のこおろぎ)は、秋が深まって来ると、冷気を避けて
段々と外から建物の下に移動してくると言われていました。
霜の降りるような寒い夜、耳元に聞こえて来るこおろぎの声。
独り寝の寂しさが助長される晩秋の夜を詠み上げた歌です。
出典である「新古今和歌集」でのこの歌の部立(ぶたて・分類)は
「秋」ですが、本歌とされている次の二首の部立は「恋」です。
わが恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き独りかも寝む(万葉集・巻九)
(私が恋しているあの娘は逢ってはくれない。玉の浦で衣の片袖を敷いて、
独り寂しく寝るだけなのか)
さむしろに衣かたしきこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫(古今集・恋四)
(筵の上に、衣の片袖を敷いて一人寂しく寝ながら、今夜も宇治の橋姫は
私を待っているのだろうか)
定家は、「本歌取り」のあるべき姿を次のように提唱しました。
①最近(80年以内)の作品を本歌取りしてはいけない。
②本歌から取るのは二句程度がよい。
③本歌とは異なるテーマで作歌するのが理想的である。
良経(後京極摂政前太政大臣)が本歌とした二首は「万葉集」と
「古今集」にある歌で、どちらも本歌とするにふさわしい古歌です。
良経が本歌から取っているのは、共に二句ずつです。
また、良経は「恋」を前面には出さず、晩秋の独り寝の寂しさを詠んで
います。本歌のテーマ「恋」とは異なる「秋」のテーマで作歌されている
のですが、本歌の持つ恋の趣が重層的に加わって、自ずから、恋歌の
側面が窺える歌となっています。
まさに、定家の理想とした「本歌取り」に適った歌と言えましょう。
声の状態もほぼ普通に戻って来ましたが、今日の会場の
「視聴覚室」はマイクが付帯しているとのことで、使わせて
いただきました。おかげで、とても楽でした。
今回は89番~92番までの歌を取り上げました。89・90・92番の
三枚が「姫」で、かるたも美しいのですが、やはり、今の季節を
詠んだ91番は捨て難く、「今日の一首」といたしました。
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
(九十一番・後京極摂政前太政大臣)
(こおろぎが鳴いているよ。この寒い霜夜、筵に衣の片袖を敷いて、
私は一人寂しく寝るのであろうか)
「きりぎりす」は今の「こおろぎ」で、名称が逆になっています。
「松虫」と「鈴虫」も同様で、当時、「松虫」と呼ばれていたのは
今の「鈴虫」です。
「きりぎりす」(今のこおろぎ)は、秋が深まって来ると、冷気を避けて
段々と外から建物の下に移動してくると言われていました。
霜の降りるような寒い夜、耳元に聞こえて来るこおろぎの声。
独り寝の寂しさが助長される晩秋の夜を詠み上げた歌です。
出典である「新古今和歌集」でのこの歌の部立(ぶたて・分類)は
「秋」ですが、本歌とされている次の二首の部立は「恋」です。
わが恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き独りかも寝む(万葉集・巻九)
(私が恋しているあの娘は逢ってはくれない。玉の浦で衣の片袖を敷いて、
独り寂しく寝るだけなのか)
さむしろに衣かたしきこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫(古今集・恋四)
(筵の上に、衣の片袖を敷いて一人寂しく寝ながら、今夜も宇治の橋姫は
私を待っているのだろうか)
定家は、「本歌取り」のあるべき姿を次のように提唱しました。
①最近(80年以内)の作品を本歌取りしてはいけない。
②本歌から取るのは二句程度がよい。
③本歌とは異なるテーマで作歌するのが理想的である。
良経(後京極摂政前太政大臣)が本歌とした二首は「万葉集」と
「古今集」にある歌で、どちらも本歌とするにふさわしい古歌です。
良経が本歌から取っているのは、共に二句ずつです。
また、良経は「恋」を前面には出さず、晩秋の独り寝の寂しさを詠んで
います。本歌のテーマ「恋」とは異なる「秋」のテーマで作歌されている
のですが、本歌の持つ恋の趣が重層的に加わって、自ずから、恋歌の
側面が窺える歌となっています。
まさに、定家の理想とした「本歌取り」に適った歌と言えましょう。
「真木の柱はわれを忘るな」
2015年10月26日(金) 溝の口「湖月会」(第88回)
ようやく風邪も治り(若干ハスキーな声ではありますが)、金曜クラス(9日)
の時のような、酷い状態から解放されました。皆さまにはご心配をおかけし、
申し訳ございませんでした。
金曜クラスは、20分早く切り上げさせて頂いたので、今日は時間が余るかな、
と思っておりましたが、いつもの調子で、余談や先々のネタバレに、20分を
フルに使ってしまいました。
10月9日の記事で予告した、「真木柱」の巻の二つ目のハイライトシーンを
お伝えします。
香炉の灰を浴びせかけた事件をきっかけに、髭黒の北の方は、髭黒から
すっかり遠ざけられてしまい、北の方の父・式部卿の宮も、北の方がこれ以上
髭黒邸に居れば、ますます恥さらしになろうと考え、お迎えの車を差し向けられ
ました。
姫君は、父の髭黒にずっと可愛がってもらい、慕って来たので、何としても
ここを出て行く前にお父様にもう一度お会いしたいと、ぐずぐずしていましたが、
母の北の方にも急かされて、遂に出立の時がやって来ました。
「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな」
(今は限り、と私はこの家を去っていくけれど、慣れ親しんだ真木の柱よ、
私のことを忘れないで)
この歌を、いつも自分が寄りかかっていた柱のひび割れた隙間に
笄(こうがい・髪の乱れを整える用具)の先で押し込んで、残して行きました。
もちろん、これは髭黒に宛てたもので、「お父様お願い、私が居なくなっても
私のことを忘れないで」と訴えているのが、何ともいじらしく、涙がこぼれそうに
なる歌です。
第31帖の巻名の「真木柱」も、この歌に由来するものですし、姫君自身のことも
読者は「真木柱」という呼称で呼び慣らしています。
ようやく風邪も治り(若干ハスキーな声ではありますが)、金曜クラス(9日)
の時のような、酷い状態から解放されました。皆さまにはご心配をおかけし、
申し訳ございませんでした。
金曜クラスは、20分早く切り上げさせて頂いたので、今日は時間が余るかな、
と思っておりましたが、いつもの調子で、余談や先々のネタバレに、20分を
フルに使ってしまいました。
10月9日の記事で予告した、「真木柱」の巻の二つ目のハイライトシーンを
お伝えします。
香炉の灰を浴びせかけた事件をきっかけに、髭黒の北の方は、髭黒から
すっかり遠ざけられてしまい、北の方の父・式部卿の宮も、北の方がこれ以上
髭黒邸に居れば、ますます恥さらしになろうと考え、お迎えの車を差し向けられ
ました。
姫君は、父の髭黒にずっと可愛がってもらい、慕って来たので、何としても
ここを出て行く前にお父様にもう一度お会いしたいと、ぐずぐずしていましたが、
母の北の方にも急かされて、遂に出立の時がやって来ました。
「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな」
(今は限り、と私はこの家を去っていくけれど、慣れ親しんだ真木の柱よ、
私のことを忘れないで)
この歌を、いつも自分が寄りかかっていた柱のひび割れた隙間に
笄(こうがい・髪の乱れを整える用具)の先で押し込んで、残して行きました。
もちろん、これは髭黒に宛てたもので、「お父様お願い、私が居なくなっても
私のことを忘れないで」と訴えているのが、何ともいじらしく、涙がこぼれそうに
なる歌です。
第31帖の巻名の「真木柱」も、この歌に由来するものですし、姫君自身のことも
読者は「真木柱」という呼称で呼び慣らしています。
蓮華の座の定員は?
2015年10月21日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第170回)
声が出なくなった日から、2週間が経ち、ようやく苦しさから解放されて
普通に話が出来るようになりました。もう大丈夫です。この2週間のうちに
講座のあったクラスの皆さまには、本当にご迷惑をおかけいたしました。
湘南台のクラスは今回から第38帖「鈴虫」に入りました。
「鈴虫」は、「横笛」の巻から「夕霧」の巻に連なる夕霧の落葉の宮への
恋愛事件に挿入される形で書かれている、女三宮の後日譚的色彩の濃い
短い巻ですが、秋虫の音を背景に、豊かな情感をもって描かれています。
源氏50歳(一説には49歳)の夏、ちょうど蓮の花の盛りの頃、女三宮の
持仏開眼供養が営まれました。御帳台(天蓋付きのベッド)を仮の仏壇
にして、荘厳な法要の場と化している室内を見て、源氏は思い掛けない
女三宮の突然の出家で、俗世での二人の縁を絶つことになってしまった
ことを悲しみ、「せめて来世では、極楽浄土の蓮華の台に仲良く暮らせる
ように祈ってください」と言い、次の歌を詠みました。
「はちす葉をおなじ台と契りおきて露のわかるるけふぞ悲しき」
(来世では極楽の同じ蓮台に、とお約束しても、今は蓮の葉に置く露の
ように別々に暮らさねばならないのが悲しくてなりません)
極楽往生をした人は、蓮華の上に半座を空けて、現世での伴侶を
待つとされていましたから、源氏が女三宮にこのように言うのは
問題ないのですが、実は源氏は既に「若菜下」の巻で、紫の上にも
「契りおかむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心へだつな」
(約束しましょう、この世だけでなく、来世でも極楽の蓮の花の上に
一緒に座ることを。ですから私には露ほどの心の隔ても置かないで
くださいね)
と歌を詠みかけているのです。蓮華の座は定員2名のはず。勝手に
3名にしてしまって、源氏はどうするつもりなのでしょう?
女三宮はこう返歌しています。
「隔てなくはちすの宿を契りても君が心やすまじとすらむ」
(共に蓮華の座の宿で暮らすことを約束してくださっても、あなたの
お気持ちは私と一緒に住みたいとは思っていらっしゃらないでしょう)
頼りなくて幼いばかりのはずの女三宮のほうが、この贈答を見る限り、
ずっと大人に感じられませんか?
声が出なくなった日から、2週間が経ち、ようやく苦しさから解放されて
普通に話が出来るようになりました。もう大丈夫です。この2週間のうちに
講座のあったクラスの皆さまには、本当にご迷惑をおかけいたしました。
湘南台のクラスは今回から第38帖「鈴虫」に入りました。
「鈴虫」は、「横笛」の巻から「夕霧」の巻に連なる夕霧の落葉の宮への
恋愛事件に挿入される形で書かれている、女三宮の後日譚的色彩の濃い
短い巻ですが、秋虫の音を背景に、豊かな情感をもって描かれています。
源氏50歳(一説には49歳)の夏、ちょうど蓮の花の盛りの頃、女三宮の
持仏開眼供養が営まれました。御帳台(天蓋付きのベッド)を仮の仏壇
にして、荘厳な法要の場と化している室内を見て、源氏は思い掛けない
女三宮の突然の出家で、俗世での二人の縁を絶つことになってしまった
ことを悲しみ、「せめて来世では、極楽浄土の蓮華の台に仲良く暮らせる
ように祈ってください」と言い、次の歌を詠みました。
「はちす葉をおなじ台と契りおきて露のわかるるけふぞ悲しき」
(来世では極楽の同じ蓮台に、とお約束しても、今は蓮の葉に置く露の
ように別々に暮らさねばならないのが悲しくてなりません)
極楽往生をした人は、蓮華の上に半座を空けて、現世での伴侶を
待つとされていましたから、源氏が女三宮にこのように言うのは
問題ないのですが、実は源氏は既に「若菜下」の巻で、紫の上にも
「契りおかむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心へだつな」
(約束しましょう、この世だけでなく、来世でも極楽の蓮の花の上に
一緒に座ることを。ですから私には露ほどの心の隔ても置かないで
くださいね)
と歌を詠みかけているのです。蓮華の座は定員2名のはず。勝手に
3名にしてしまって、源氏はどうするつもりなのでしょう?
女三宮はこう返歌しています。
「隔てなくはちすの宿を契りても君が心やすまじとすらむ」
(共に蓮華の座の宿で暮らすことを約束してくださっても、あなたの
お気持ちは私と一緒に住みたいとは思っていらっしゃらないでしょう)
頼りなくて幼いばかりのはずの女三宮のほうが、この贈答を見る限り、
ずっと大人に感じられませんか?
高尚な妻と卑小な夫の姿
2015年10月16日(金) 溝の口「伊勢物語」(第4回)
皆さまに大変お聞き苦しい声で「源氏物語」をお話してから一週間、
随分楽にはなりましたが、まだ本調子とは言えない状態ですので、
今日もマイクを借りて頂いての2時間となりました。おかげさまで、
帰宅後も声の出難さはありません。もう少しだと思います。
「伊勢物語」の4回目、第18段~第23段までを読みました。
第23段は有名な「筒井筒」の話です。
幼馴染の二人が結ばれたのち、女の親が亡くなって生活が苦しくなり、
共倒れになるよりは、と思い、男は高安の女の所に通うようになりました。
男が高安へ出かけるのをあまりにも女が快く送り出してくれるため、男は
自分の留守に、女も別の男と逢っているのではないか、と疑念を抱くように
なりました。そこで、男は出かけたふりをして、庭の植込みに隠れ、
中の様子を窺っていると、女はきちんと化粧をして身綺麗にし、「風吹けば
沖つしら浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ」(風が吹けば波が立つ、
その「立つ」の名のたつた山を真っ暗な夜半にあなたは一人で越えて
行かれるのでしょうか)と、ひたすら夫の身を案じる歌を詠んだのでした。
男はこの女を限りなくいとしく思い、以後は高安の女の許へも行かなくなった
のでした。
「伊勢物語色紙貼交屏風」 嵯峨本「伊勢物語」挿絵
上の2枚の絵は、左右を反転させていますが、ほぼ同じ構図で描かれています。
これでは男は「隠れている」とは言い難く、庭先から女と見つめ合っているように
見えますよね。でも、描かれているのは、前栽(植込み)に隠れて、中を窺って
いる場面です。
次に「宗達伊勢物語図色紙」をご覧ください。
先の2枚の絵は(これ以外の絵もすべて)、女が奥に居て、男が手前側に
いますが、宗達の絵では、女が手前に居ます。女の側に立って絵が
描かれているのがわかります。
しかも、女は揺れる髪を見せる後ろ姿にも、憂いに満ちた横顔にも、
品格が感じられるのに対し、男のほうはどうでしょう。ちょっとわかり難い
かもしれませんが、男は扇で自分の顔を隠し、その扇の骨の隙間から
様子を窺っているのです。狡さが誇張され、滑稽でさえあります。
宗達の絵には、他にはない視点が感じられて、比較してみると面白さが
おわかり頂けるかと思います。
皆さまに大変お聞き苦しい声で「源氏物語」をお話してから一週間、
随分楽にはなりましたが、まだ本調子とは言えない状態ですので、
今日もマイクを借りて頂いての2時間となりました。おかげさまで、
帰宅後も声の出難さはありません。もう少しだと思います。
「伊勢物語」の4回目、第18段~第23段までを読みました。
第23段は有名な「筒井筒」の話です。
幼馴染の二人が結ばれたのち、女の親が亡くなって生活が苦しくなり、
共倒れになるよりは、と思い、男は高安の女の所に通うようになりました。
男が高安へ出かけるのをあまりにも女が快く送り出してくれるため、男は
自分の留守に、女も別の男と逢っているのではないか、と疑念を抱くように
なりました。そこで、男は出かけたふりをして、庭の植込みに隠れ、
中の様子を窺っていると、女はきちんと化粧をして身綺麗にし、「風吹けば
沖つしら浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ」(風が吹けば波が立つ、
その「立つ」の名のたつた山を真っ暗な夜半にあなたは一人で越えて
行かれるのでしょうか)と、ひたすら夫の身を案じる歌を詠んだのでした。
男はこの女を限りなくいとしく思い、以後は高安の女の許へも行かなくなった
のでした。
「伊勢物語色紙貼交屏風」 嵯峨本「伊勢物語」挿絵
上の2枚の絵は、左右を反転させていますが、ほぼ同じ構図で描かれています。
これでは男は「隠れている」とは言い難く、庭先から女と見つめ合っているように
見えますよね。でも、描かれているのは、前栽(植込み)に隠れて、中を窺って
いる場面です。
次に「宗達伊勢物語図色紙」をご覧ください。
先の2枚の絵は(これ以外の絵もすべて)、女が奥に居て、男が手前側に
いますが、宗達の絵では、女が手前に居ます。女の側に立って絵が
描かれているのがわかります。
しかも、女は揺れる髪を見せる後ろ姿にも、憂いに満ちた横顔にも、
品格が感じられるのに対し、男のほうはどうでしょう。ちょっとわかり難い
かもしれませんが、男は扇で自分の顔を隠し、その扇の骨の隙間から
様子を窺っているのです。狡さが誇張され、滑稽でさえあります。
宗達の絵には、他にはない視点が感じられて、比較してみると面白さが
おわかり頂けるかと思います。
今日の一首(12)
2015年10月14日(水) 湘南台「百人一首」(第13回)
先週に比べると、幾分ましにはなっておりますが、まだまだ
お聞き苦しい声で、今日も失礼いたしました。
帰りに耳鼻科に寄りましたら、「まあ、仕方ないでしょう。60代に
なれば30代の時より回復には2倍かかると思った方がいいですよ」
と言われ、前回とは別の薬を5日分処方されました。この薬を飲み
終える頃には全快と言えるようになりたいものです。
今回は45番~48番までの4首を取り上げました。47番が唯一の
秋の歌でしたので、「今日の一首」とさせていただきます。
八重むぐら茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり
(四十七番・恵慶法師)
(雑草が生い茂ったこの寂しい宿を訪れる人の姿は見えないけれど
秋だけはやって来たことよ)
無常な人の営みと悠久の自然との対比、杜甫の「春望」にある
「国破れて山河あり 城春にして草木深し」や、芭蕉の「夏草や
兵どもが夢の跡」などに通うものがある歌です。
この「宿」とは、その昔は源融(14番の作者)の大邸宅だった「河原院」
のことです。外周が約1㎞もあり、陸奥の名所塩竃の景観を模した庭を
作り、贅を尽くした風流のメッカとして知られておりました。紫式部が
源氏の六条院のモデルとしたのも「河原院」だとされています。
しかし、100年程の間に「河原院」はすっかり荒廃し、この歌の詠まれた
頃には、融の曾孫・安法法師が寺としてここに住み、こうした歌人たちの
集まる場所となっていました。
それからさらに150年位後の平安末期には、ホラーの舞台になってしまい
ました。「今昔物語集」には、東国から上京した夫婦が荒れ果てた河原院
で一夜を過ごそうとしたところ、妻が血を吸い尽くされた話が載っています。
まるで吸血鬼の館です。
250年という時の流れの中で、風流のメッカからお化け屋敷までの変遷を
遂げた「河原院」、まさに栄枯盛衰の象徴と言うべきでしょう。
ちなみに、今はお化け屋敷すらなく、往時の名残とされる「榎」の古木が
立っているだけです。
(五条大橋に程近い、高瀬川のほとりにあります)
先週に比べると、幾分ましにはなっておりますが、まだまだ
お聞き苦しい声で、今日も失礼いたしました。
帰りに耳鼻科に寄りましたら、「まあ、仕方ないでしょう。60代に
なれば30代の時より回復には2倍かかると思った方がいいですよ」
と言われ、前回とは別の薬を5日分処方されました。この薬を飲み
終える頃には全快と言えるようになりたいものです。
今回は45番~48番までの4首を取り上げました。47番が唯一の
秋の歌でしたので、「今日の一首」とさせていただきます。
八重むぐら茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり
(四十七番・恵慶法師)
(雑草が生い茂ったこの寂しい宿を訪れる人の姿は見えないけれど
秋だけはやって来たことよ)
無常な人の営みと悠久の自然との対比、杜甫の「春望」にある
「国破れて山河あり 城春にして草木深し」や、芭蕉の「夏草や
兵どもが夢の跡」などに通うものがある歌です。
この「宿」とは、その昔は源融(14番の作者)の大邸宅だった「河原院」
のことです。外周が約1㎞もあり、陸奥の名所塩竃の景観を模した庭を
作り、贅を尽くした風流のメッカとして知られておりました。紫式部が
源氏の六条院のモデルとしたのも「河原院」だとされています。
しかし、100年程の間に「河原院」はすっかり荒廃し、この歌の詠まれた
頃には、融の曾孫・安法法師が寺としてここに住み、こうした歌人たちの
集まる場所となっていました。
それからさらに150年位後の平安末期には、ホラーの舞台になってしまい
ました。「今昔物語集」には、東国から上京した夫婦が荒れ果てた河原院
で一夜を過ごそうとしたところ、妻が血を吸い尽くされた話が載っています。
まるで吸血鬼の館です。
250年という時の流れの中で、風流のメッカからお化け屋敷までの変遷を
遂げた「河原院」、まさに栄枯盛衰の象徴と言うべきでしょう。
ちなみに、今はお化け屋敷すらなく、往時の名残とされる「榎」の古木が
立っているだけです。
(五条大橋に程近い、高瀬川のほとりにあります)
北の方の悲しみー髭黒の正妻②-
2015年10月9日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第88回)
水曜日から出なくなってしまった声が戻ることを祈っておりましたが、
そう簡単にもとの状態になるはずもなく、今日は「こんな声初めて」で、
皆さまの前に向かいました。
ちょうどエレベーター前でお会いした方にマイクを借りることをご提案頂き、
機械の操作もすっかりやって下さったので、お聞き苦しくて皆さまには
申し訳なかったのですが、何とか「真木柱」の巻のハイライト場面二つを
読むことが出来ました。通常よりも20分早めに終えましたが、進んだ分量は
いつもとあまり変わりませんでした。さすがに今日は声が出ないと、
アドリブまでは付けられなかったからでしょうか
前置きが長くなりましたが、その二つのハイライトを、今回と10月26日の
「湖月会」とで、一つずつご紹介して行きたいと思います。
先ずは、先月の「湖月会」(9/28のブログの記事)の続きのところから。
夫の髭黒が、新たに妻とした若く美しい玉鬘のもとへといそいそと出かけて
行く用意を、今は正気の北の方は健気にもお手伝いなさっています。
お召し物に火取り香炉を使って、薫りを焚きしめて差し上げ、恨み言を
おっしゃるわけでもありません。さすがに髭黒もわざと溜息をついて、
出かけるのが億劫そうな素振りを見せたりしていました。
そこへ、北の方、突然のご乱心!!
何と、火取り香炉を手に取って、髭黒の後ろから近づき、ぱあーっと
香炉の灰を髭黒に浴びせかけられたのでした。
目にも鼻にも灰が入り、辺りに煙のようになってもうもうと立ち込め、
折角ドレスアップなさったお召し物も、灰だらけで、焦げ穴まで出来る
始末。もうこれでは玉鬘のところにも出かけられません。
物の怪のなせる業とはいえ、先刻、正気の北の方をいじらしいと感じた
気持ちもすっかり消え失せてしまった髭黒でした。
この後、髭黒は玉鬘のところに入りびたりとなり、北の方には寄り付かなく
なってしまいます。
お気の毒な方です。好んで気がふれたわけでもなく(当時は物の怪の仕業
と言っていました)、根が優しい方なので、正気に戻ると、自分の気持ちを
押さえこんで、夫が若い妻のところへ行こうとしているのをむしろ応援する
素振りをして見せるのです。だから、ひとたび発作が起こると、その反動が
大きかったのでしょう。
形は異なりますが、紫の上も若い女三宮のもとへ出かけて行く源氏を
快く送り出そうと健気に振る舞います。彼女もまた、自らの心身を病んで
行くことになります。
この二人(髭黒の北の方と紫の上)、共に式部卿の娘で、腹違いの姉妹です。
タイプは違っても、どこか底流で繋がっているようで、そこまで紫式部が
意識して執筆していたのかと思うと、なにか怖いものがありますが、深読み
し過ぎですか?
水曜日から出なくなってしまった声が戻ることを祈っておりましたが、
そう簡単にもとの状態になるはずもなく、今日は「こんな声初めて」で、
皆さまの前に向かいました。
ちょうどエレベーター前でお会いした方にマイクを借りることをご提案頂き、
機械の操作もすっかりやって下さったので、お聞き苦しくて皆さまには
申し訳なかったのですが、何とか「真木柱」の巻のハイライト場面二つを
読むことが出来ました。通常よりも20分早めに終えましたが、進んだ分量は
いつもとあまり変わりませんでした。さすがに今日は声が出ないと、
アドリブまでは付けられなかったからでしょうか
前置きが長くなりましたが、その二つのハイライトを、今回と10月26日の
「湖月会」とで、一つずつご紹介して行きたいと思います。
先ずは、先月の「湖月会」(9/28のブログの記事)の続きのところから。
夫の髭黒が、新たに妻とした若く美しい玉鬘のもとへといそいそと出かけて
行く用意を、今は正気の北の方は健気にもお手伝いなさっています。
お召し物に火取り香炉を使って、薫りを焚きしめて差し上げ、恨み言を
おっしゃるわけでもありません。さすがに髭黒もわざと溜息をついて、
出かけるのが億劫そうな素振りを見せたりしていました。
そこへ、北の方、突然のご乱心!!
何と、火取り香炉を手に取って、髭黒の後ろから近づき、ぱあーっと
香炉の灰を髭黒に浴びせかけられたのでした。
目にも鼻にも灰が入り、辺りに煙のようになってもうもうと立ち込め、
折角ドレスアップなさったお召し物も、灰だらけで、焦げ穴まで出来る
始末。もうこれでは玉鬘のところにも出かけられません。
物の怪のなせる業とはいえ、先刻、正気の北の方をいじらしいと感じた
気持ちもすっかり消え失せてしまった髭黒でした。
この後、髭黒は玉鬘のところに入りびたりとなり、北の方には寄り付かなく
なってしまいます。
お気の毒な方です。好んで気がふれたわけでもなく(当時は物の怪の仕業
と言っていました)、根が優しい方なので、正気に戻ると、自分の気持ちを
押さえこんで、夫が若い妻のところへ行こうとしているのをむしろ応援する
素振りをして見せるのです。だから、ひとたび発作が起こると、その反動が
大きかったのでしょう。
形は異なりますが、紫の上も若い女三宮のもとへ出かけて行く源氏を
快く送り出そうと健気に振る舞います。彼女もまた、自らの心身を病んで
行くことになります。
この二人(髭黒の北の方と紫の上)、共に式部卿の娘で、腹違いの姉妹です。
タイプは違っても、どこか底流で繋がっているようで、そこまで紫式部が
意識して執筆していたのかと思うと、なにか怖いものがありますが、深読み
し過ぎですか?
近江の君のお手紙
2015年10月6日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(統合45回 通算95回)
月曜日から喉の痛みを感じていたのですが、またしても高熱が出てしまい、
昨日の夜は、ブログの更新を諦めました。今日はもう熱は下がりましたが、
声が出なくなっています。明後日の溝の口の講読会までに、声が戻らないと
困るのですが…。9月からもう2度目の風邪で、情けないですぅ
声は出なくても、手は動きますので、昨日の「高座渋谷」のクラスのブログを
UPします。
内大臣がよく調べもせず、うっかりと引き取ってしまった近江の君。持て余して、
娘・弘徽殿の女御の女房にしてしまおうと考えた内大臣でしたが、華やかな
憧れの場に身を置くことが出来ると、近江の君は大喜び。早速、弘徽殿の女御に
出仕前のご挨拶のお手紙を差し上げました。
「これまでお近くにいながら、お目にかかれなかったのは、『来るな』との関所が
設けられていたのではないかと思われます。血縁であると申し上げるのも
恐れ多いことながら…」と、癖の強い字で書いて、更に裏に追伸を書き、
その端に「草若み常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦波」
(田舎者の私ではいかがとは思われますが、何とかしてお目にかかりたい
のでございます)と、歌をしたためました。
でも、このお手紙、文章は7割以上が和歌からの引用という、過剰装飾文で、
歌に至っては、「常陸の浦」(常陸の国)「いかが崎」(河内の国)「田子の浦」
(駿河の国)と、全く関係のない三つの歌枕を並べ立てた支離滅裂の歌で、
どうしようもありません。そもそも女御へのお手紙に、裏に追伸などもってのほか
なのですが、そんな貴族社会の常識も近江の君には通用しません。
受け取った女御も大弱り。「お返事もこれと同じようにもったいをつけて
書かなかったら、なってないって軽蔑されそうね。読んだついでにあなたが
書いて」と言って、中納言の君という女房に代筆をお命じになりました、
中納言の君が、弘徽殿の女御からのお返事のようにして書いた歌は
「常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松」(どうぞお出で
ください。お待ちしていますよ)と、こちらは更に輪をかけた四箇所の歌枕
を読み込んだ、完全に近江の君を愚弄するものでした。
弘徽殿の女御は「これを私が書いたと吹聴されたら困るわ」とおっしゃいましたが、
中納言の君は「大丈夫ですよ。聞く人が聞けばちゃんとわかりますから」と
そのまま使者に持たせました。
果たして近江の君は、自分がからかわれていることなどには気付きもせず、
「をかしの御口つきや、まつとのたまへるを」(しゃれたお歌だこと。待つと
言ってくださってるわ)と言って、いそいそと身支度を始めるのでした。
「御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。」(女御とのご対面では、
さぞ出過ぎたこともあるでしょうね)という、読者に対面の時の様子を想像させる
草子地で、「常夏」の巻は終わっています。
月曜日から喉の痛みを感じていたのですが、またしても高熱が出てしまい、
昨日の夜は、ブログの更新を諦めました。今日はもう熱は下がりましたが、
声が出なくなっています。明後日の溝の口の講読会までに、声が戻らないと
困るのですが…。9月からもう2度目の風邪で、情けないですぅ
声は出なくても、手は動きますので、昨日の「高座渋谷」のクラスのブログを
UPします。
内大臣がよく調べもせず、うっかりと引き取ってしまった近江の君。持て余して、
娘・弘徽殿の女御の女房にしてしまおうと考えた内大臣でしたが、華やかな
憧れの場に身を置くことが出来ると、近江の君は大喜び。早速、弘徽殿の女御に
出仕前のご挨拶のお手紙を差し上げました。
「これまでお近くにいながら、お目にかかれなかったのは、『来るな』との関所が
設けられていたのではないかと思われます。血縁であると申し上げるのも
恐れ多いことながら…」と、癖の強い字で書いて、更に裏に追伸を書き、
その端に「草若み常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦波」
(田舎者の私ではいかがとは思われますが、何とかしてお目にかかりたい
のでございます)と、歌をしたためました。
でも、このお手紙、文章は7割以上が和歌からの引用という、過剰装飾文で、
歌に至っては、「常陸の浦」(常陸の国)「いかが崎」(河内の国)「田子の浦」
(駿河の国)と、全く関係のない三つの歌枕を並べ立てた支離滅裂の歌で、
どうしようもありません。そもそも女御へのお手紙に、裏に追伸などもってのほか
なのですが、そんな貴族社会の常識も近江の君には通用しません。
受け取った女御も大弱り。「お返事もこれと同じようにもったいをつけて
書かなかったら、なってないって軽蔑されそうね。読んだついでにあなたが
書いて」と言って、中納言の君という女房に代筆をお命じになりました、
中納言の君が、弘徽殿の女御からのお返事のようにして書いた歌は
「常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松」(どうぞお出で
ください。お待ちしていますよ)と、こちらは更に輪をかけた四箇所の歌枕
を読み込んだ、完全に近江の君を愚弄するものでした。
弘徽殿の女御は「これを私が書いたと吹聴されたら困るわ」とおっしゃいましたが、
中納言の君は「大丈夫ですよ。聞く人が聞けばちゃんとわかりますから」と
そのまま使者に持たせました。
果たして近江の君は、自分がからかわれていることなどには気付きもせず、
「をかしの御口つきや、まつとのたまへるを」(しゃれたお歌だこと。待つと
言ってくださってるわ)と言って、いそいそと身支度を始めるのでした。
「御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。」(女御とのご対面では、
さぞ出過ぎたこともあるでしょうね)という、読者に対面の時の様子を想像させる
草子地で、「常夏」の巻は終わっています。
心に沁みる弔問の手紙
2015年10月3日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第118回)
絶好の行楽日和となった秋晴れの週末でしたが、いつも通り
13:30~16:30までの3時間、「源氏物語」と向かい合って過ごし
ました。このクラスは最も進んでいるので、今日は第40帖「御法」の
残りと、第41帖「幻」の前半を読みました。上手くすれば、次回には
第二部を読み終えられると思います。
紫の上という最愛の妻を失った源氏の悲しみは、何を持ってしても
埋めることはできないのですが、「御法」の巻の最後に書かれている
二つの弔問のお便りには、「あはれ」が凝縮されており、読者の心にも
沁み入るものとなっていますので、ここでご紹介しておきましょう。
一つ目は致仕大臣からのお手紙です。
29年前の、ちょうど同じ頃に源氏の正妻だった葵の上が亡くなっています。
大臣にとってはたった一人の同腹の妹でもありました。しかし、この30年近い
歳月の間に、葵の上の死を誰よりも惜しんだ父・左大臣も母・大宮も亡くなって
しまわれ、後れ先立つと言っても、何ほどの違いもない人の世だと実感なさって
いるのでした。
「いにしへの秋さへ今のここちして濡れにし袖に露ぞおきそふ」
(葵の上が亡くなった遠い昔の秋の悲しみも今改めて思い出され、
紫の上の死で、涙に濡れている袖にさらに涙を添えていることですよ)
源氏は、紫の上を亡くした歎き以外何もない状態なのにもかかわらず、
相手が自分のすべてを承知している致仕大臣だけに、却って強がって
見せる返事をします。
「露けさはむかしも今ともおもほえずおほかた秋の夜こそつらけれ」
(悲しみで涙がちになるのは、昔も今も関係のないことで、大体、秋の夜
そのものが辛いものなのですよ)
おそらくこの返事を受け取った致仕大臣は、弱音を吐かないが故の
源氏の悲しみの深さを読み取っていたはずだと、読者は想像します。
まだ十代だった頃からの二人の関係を見て来た読者なら、必ずそう
思うに違いないと、確信して書いている紫式部の真骨頂を見る思いが
いたします。
もう一つは秋好中宮からのお手紙です。
「『枯れはつる野辺を憂しとや亡き人の秋に心をとどめざりけむ』今なむ
ことわり知られはべりぬる」(「枯れ果ててしまった野辺の景色がお嫌で
亡くなられた方〈紫の上〉は秋に心をお寄せにならなかったのでしょうか」
紫の上が亡くなられて枯れ果てた野辺のようになっている今こそ、私も
それがよくわかるようになりました)
ここでは、嘗て、紫の上と秋好中宮が春秋優劣を競いあった出来事など
を源氏にも読者にも想起させ、「涙で袖を濡らす」といった直接的な常套句
が使われていないだけに、より情感のこもった弔意が伝わってまいります。
源氏もこの秋好中宮からの弔問を「ものおぼえぬ御心にも、うち返し、
置きがたく見たまふ。いふかひあり、をかしからむかたのなぐさめには、
この宮ばかりこそおはしけれ」(茫然自失の状態ながらも、繰り返しご覧に
なり、下にも置きかねていらっしゃる。お話のし甲斐があり、風情ある歌の
遣り取りなどをして心慰められる方としては、この宮だけがいらしたのだ)
と、受け止めておられるのでした。
第一部から長きに渡って登場して来た致仕大臣(最初は頭中将)と
秋好中宮も、源氏と共に物語の舞台から消え去るにあたり、最後に
それぞれに相応しい役割が与えられたと思います。
絶好の行楽日和となった秋晴れの週末でしたが、いつも通り
13:30~16:30までの3時間、「源氏物語」と向かい合って過ごし
ました。このクラスは最も進んでいるので、今日は第40帖「御法」の
残りと、第41帖「幻」の前半を読みました。上手くすれば、次回には
第二部を読み終えられると思います。
紫の上という最愛の妻を失った源氏の悲しみは、何を持ってしても
埋めることはできないのですが、「御法」の巻の最後に書かれている
二つの弔問のお便りには、「あはれ」が凝縮されており、読者の心にも
沁み入るものとなっていますので、ここでご紹介しておきましょう。
一つ目は致仕大臣からのお手紙です。
29年前の、ちょうど同じ頃に源氏の正妻だった葵の上が亡くなっています。
大臣にとってはたった一人の同腹の妹でもありました。しかし、この30年近い
歳月の間に、葵の上の死を誰よりも惜しんだ父・左大臣も母・大宮も亡くなって
しまわれ、後れ先立つと言っても、何ほどの違いもない人の世だと実感なさって
いるのでした。
「いにしへの秋さへ今のここちして濡れにし袖に露ぞおきそふ」
(葵の上が亡くなった遠い昔の秋の悲しみも今改めて思い出され、
紫の上の死で、涙に濡れている袖にさらに涙を添えていることですよ)
源氏は、紫の上を亡くした歎き以外何もない状態なのにもかかわらず、
相手が自分のすべてを承知している致仕大臣だけに、却って強がって
見せる返事をします。
「露けさはむかしも今ともおもほえずおほかた秋の夜こそつらけれ」
(悲しみで涙がちになるのは、昔も今も関係のないことで、大体、秋の夜
そのものが辛いものなのですよ)
おそらくこの返事を受け取った致仕大臣は、弱音を吐かないが故の
源氏の悲しみの深さを読み取っていたはずだと、読者は想像します。
まだ十代だった頃からの二人の関係を見て来た読者なら、必ずそう
思うに違いないと、確信して書いている紫式部の真骨頂を見る思いが
いたします。
もう一つは秋好中宮からのお手紙です。
「『枯れはつる野辺を憂しとや亡き人の秋に心をとどめざりけむ』今なむ
ことわり知られはべりぬる」(「枯れ果ててしまった野辺の景色がお嫌で
亡くなられた方〈紫の上〉は秋に心をお寄せにならなかったのでしょうか」
紫の上が亡くなられて枯れ果てた野辺のようになっている今こそ、私も
それがよくわかるようになりました)
ここでは、嘗て、紫の上と秋好中宮が春秋優劣を競いあった出来事など
を源氏にも読者にも想起させ、「涙で袖を濡らす」といった直接的な常套句
が使われていないだけに、より情感のこもった弔意が伝わってまいります。
源氏もこの秋好中宮からの弔問を「ものおぼえぬ御心にも、うち返し、
置きがたく見たまふ。いふかひあり、をかしからむかたのなぐさめには、
この宮ばかりこそおはしけれ」(茫然自失の状態ながらも、繰り返しご覧に
なり、下にも置きかねていらっしゃる。お話のし甲斐があり、風情ある歌の
遣り取りなどをして心慰められる方としては、この宮だけがいらしたのだ)
と、受け止めておられるのでした。
第一部から長きに渡って登場して来た致仕大臣(最初は頭中将)と
秋好中宮も、源氏と共に物語の舞台から消え去るにあたり、最後に
それぞれに相応しい役割が与えられたと思います。
養母と二人で父親の陰口
2015年10月1日(木) 八王子「源氏物語を読む会」(第116回)
今日から10月。いつの間にか日もすっかり短くなりました。
今月のトップを切っての八王子クラス、第39帖「夕霧」の続きを
読みました。この巻は次回で読了予定です。
落葉の宮の母・御息所の四十九日の法要も終わり、宮はそのまま
小野の里に住み着いて尼になろうと思っていますが、父・朱雀院に
反対され、夕霧が手を入れて見違える程綺麗になった一条の宮に、
いやいやながら戻ってまいりました。
すっかり主人気取りの夕霧に、いっそう心を閉ざした落葉の宮は、
夕霧を避けて塗籠(寝殿造りの住居にあって、唯一壁で囲まれ、
妻戸を出入り口とする閉鎖的な空間。普段は物置部屋のように
して使われていた)に閉じこもり、中から鍵を鎖して抵抗します。
こうして、この夜も落葉の宮とは結ばれずに朝を迎えた夕霧は、
三条の自邸にそのまま帰宅する気にもならなかったのでしょう、
六条院の夏の町に寄り、養母の花散里とくつろいで過ごします。
花散里はおっとりとした自然体の方ですから、息子同然の夕霧
には、几帳から顔をちらちら見せながらお話になります。ご存じの
ように、花散里は決して美しい人ではありません。
夕霧もそんな花散里には、落葉の宮の後見は御息所の遺言に
従っているまで、と都合よく話を脚色しながらも、「げに、かやうの
筋にてこそ、人のいさめも、みづからの心にも従はぬやうにはべり
けれ」(ほんに、このような男女の問題は、人の意見にも、自分の
心にさえも、おとなしくは従えないものだということがわかりましたよ)
と、本音を吐露されるのでした。
夕霧と話がはずんだところで、花散里がこんなことを言います。
「さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、
いささかあだあだしき御心づかひをば、大事とおぼいて、いましめ申し
たまふ、後言にも聞こえたまふめるこそ、さかしだつ人の、おのが上
知らぬやうにおぼえはべれ」(それにしても、おかしいのは、院(源氏)が
ご自分の女癖の悪さは棚に上げて、あなたに少しでも浮いたお振舞い
があると、大変なことだと思って、忠告したり、陰で悪口をおっしゃったり
なさることですわ。あれほど利口な人でも、自分のこととなるとわからなく
なってしまわれるようね)
これを聞いて、夕霧も「さなむ」(そうそう)と相槌を打ちます。夕霧は「げに
をかしと思ひたまへり」(本当にこの花散里の話を面白い、と思っておいで
でした)と書かれています。
普段は癒し系の代表のような花散里が、夕霧にこんな自分の悪口を言って、
二人で面白がっていることを知ったら、源氏はどんな顔をしたでしょうか。
まあ今でも、お父さんのいないところで、お母さんと子供がお父さんの悪口を
言って面白がっている光景、珍しくない気もしますけど…。
今日から10月。いつの間にか日もすっかり短くなりました。
今月のトップを切っての八王子クラス、第39帖「夕霧」の続きを
読みました。この巻は次回で読了予定です。
落葉の宮の母・御息所の四十九日の法要も終わり、宮はそのまま
小野の里に住み着いて尼になろうと思っていますが、父・朱雀院に
反対され、夕霧が手を入れて見違える程綺麗になった一条の宮に、
いやいやながら戻ってまいりました。
すっかり主人気取りの夕霧に、いっそう心を閉ざした落葉の宮は、
夕霧を避けて塗籠(寝殿造りの住居にあって、唯一壁で囲まれ、
妻戸を出入り口とする閉鎖的な空間。普段は物置部屋のように
して使われていた)に閉じこもり、中から鍵を鎖して抵抗します。
こうして、この夜も落葉の宮とは結ばれずに朝を迎えた夕霧は、
三条の自邸にそのまま帰宅する気にもならなかったのでしょう、
六条院の夏の町に寄り、養母の花散里とくつろいで過ごします。
花散里はおっとりとした自然体の方ですから、息子同然の夕霧
には、几帳から顔をちらちら見せながらお話になります。ご存じの
ように、花散里は決して美しい人ではありません。
夕霧もそんな花散里には、落葉の宮の後見は御息所の遺言に
従っているまで、と都合よく話を脚色しながらも、「げに、かやうの
筋にてこそ、人のいさめも、みづからの心にも従はぬやうにはべり
けれ」(ほんに、このような男女の問題は、人の意見にも、自分の
心にさえも、おとなしくは従えないものだということがわかりましたよ)
と、本音を吐露されるのでした。
夕霧と話がはずんだところで、花散里がこんなことを言います。
「さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、
いささかあだあだしき御心づかひをば、大事とおぼいて、いましめ申し
たまふ、後言にも聞こえたまふめるこそ、さかしだつ人の、おのが上
知らぬやうにおぼえはべれ」(それにしても、おかしいのは、院(源氏)が
ご自分の女癖の悪さは棚に上げて、あなたに少しでも浮いたお振舞い
があると、大変なことだと思って、忠告したり、陰で悪口をおっしゃったり
なさることですわ。あれほど利口な人でも、自分のこととなるとわからなく
なってしまわれるようね)
これを聞いて、夕霧も「さなむ」(そうそう)と相槌を打ちます。夕霧は「げに
をかしと思ひたまへり」(本当にこの花散里の話を面白い、と思っておいで
でした)と書かれています。
普段は癒し系の代表のような花散里が、夕霧にこんな自分の悪口を言って、
二人で面白がっていることを知ったら、源氏はどんな顔をしたでしょうか。
まあ今でも、お父さんのいないところで、お母さんと子供がお父さんの悪口を
言って面白がっている光景、珍しくない気もしますけど…。
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