年に一度のミニ同窓会
2016年8月29日(月)
台風10号の接近で、どうなるかしら、と案じていましたが、
接近は明日以降とのことで、今日は帰るまで、一度も雨に
降られることなく済みました。
「同窓会」と言っても、学校の同窓会ではなく、その昔(もう
半世紀以上経っています)、九州の宮崎で、東京の大学を
出られたばかりのそれはそれは美しい先生に、私たちは
個人的に英語を教えて頂いていました(畏れ多くもその先生に、
只今は溝の口の「源氏物語を読む会」の代表になって頂いて
おりますが)。
先生も、我々生徒も、今は皆、首都圏に住んでおり、生徒の
一人(つまり、私には幼馴染み)が、「アートフラワー」を
ずうーっと続けていて、その展覧会が毎年この時期に、
日本橋のデパートで開催されるので、集まるのが恒例と
なっています。
お食事をして、お喋りに花を咲かせ、展覧会で目の保養をする、
というお決まりのコースが楽しみの、年に一度のミニミニ同窓会
なのです。
アートフラワー展でいつも思うのは、まるで本物のようなこんなにも
繊細なお花の一つ一つを、よくお作りになるなあ、ということです。
私のような不器用な者は、おそらく花びらの一枚もできないうちに
投げ出してしまいそう・・・。
今年のランチはホテル「マンダリンオリエンタル東京」の37階の
フレンチ「シグネチャー」で、予約時に「出来れば眺望の良い席を」
と希望を書いておきましたら、運よく空いていたらしく、一番眺望の
良い場所の半個室が用意されていました。
レインボーブリッジの架かる東京湾や、その周辺に立ち並ぶ
高層マンションを眺めながら、アミューズからデザートまで、
とてもおしゃれなお料理をいただいていると、気分もします
ので、「ハレの日」のお食事には向いていると思います。
特におしゃれ度の高い気がした二品です。
前菜:平目のカルパッチョ
デザート:巨峰のように見えるのもチョコレート菓子
で、中も、もちっとした美味しいホワイトチョコレート
台風10号の接近で、どうなるかしら、と案じていましたが、
接近は明日以降とのことで、今日は帰るまで、一度も雨に
降られることなく済みました。
「同窓会」と言っても、学校の同窓会ではなく、その昔(もう
半世紀以上経っています)、九州の宮崎で、東京の大学を
出られたばかりのそれはそれは美しい先生に、私たちは
個人的に英語を教えて頂いていました(畏れ多くもその先生に、
只今は溝の口の「源氏物語を読む会」の代表になって頂いて
おりますが)。
先生も、我々生徒も、今は皆、首都圏に住んでおり、生徒の
一人(つまり、私には幼馴染み)が、「アートフラワー」を
ずうーっと続けていて、その展覧会が毎年この時期に、
日本橋のデパートで開催されるので、集まるのが恒例と
なっています。
お食事をして、お喋りに花を咲かせ、展覧会で目の保養をする、
というお決まりのコースが楽しみの、年に一度のミニミニ同窓会
なのです。
アートフラワー展でいつも思うのは、まるで本物のようなこんなにも
繊細なお花の一つ一つを、よくお作りになるなあ、ということです。
私のような不器用な者は、おそらく花びらの一枚もできないうちに
投げ出してしまいそう・・・。
今年のランチはホテル「マンダリンオリエンタル東京」の37階の
フレンチ「シグネチャー」で、予約時に「出来れば眺望の良い席を」
と希望を書いておきましたら、運よく空いていたらしく、一番眺望の
良い場所の半個室が用意されていました。
レインボーブリッジの架かる東京湾や、その周辺に立ち並ぶ
高層マンションを眺めながら、アミューズからデザートまで、
とてもおしゃれなお料理をいただいていると、気分もします
ので、「ハレの日」のお食事には向いていると思います。
特におしゃれ度の高い気がした二品です。
前菜:平目のカルパッチョ
デザート:巨峰のように見えるのもチョコレート菓子
で、中も、もちっとした美味しいホワイトチョコレート
変形性膝関節症のその後
2016年8月28日(日)
6月17日のブログには、「変形性膝関節症」と診断されて
「取り敢えず、5回の注射が終わる頃には、痛みが取れて、
普通に歩けるようになりたい、と願っているところです。」
と書き、更に6月21日には、「1ヶ月位先にはよいご報告が
できるようになっていたい、と思っています。」と書きましたが、
その5回目のヒアルロン酸の注射を受けた1ヶ月後位、という
頃が、最悪の状態で、5分もかからない整形外科への往復も、
右膝に走る痛みをこらえながら歩いているような有様でした。
とても皆さまにご報告する気分にもなれずにいました。
それが、8月に入った頃から、立ち上がった時の「イタッ!」
や、歩き始めた時の「イタッ!」が、段々と楽になって来て、
今では殆ど、それらの「イタッ!」は無くなりました。
大腿筋を鍛える体操を毎晩、草木も眠る丑三つ時になって
いようが、それよりももっと遅かろうが、15分~20分、この
2ヶ月余り、一日も休まずに続けています。これも、7月中は
「本当に痛みの緩和に繋がるのだろうか?」と不安になる
こともありましたが、医師の「一番大事なのは継続です。」
という言葉と、体操のパンフレットの表紙に書かれている
「コツコツ続けて痛みにサヨナラ」という言葉を信じて、
頑張って来ました。
これまでに計7回打った「ヒアルロン酸」の注射がじわーっと
効いて来たのか、毎晩の体操の効果なのか、その両方なのか、
よくわかりませんが、兎に角、もう普通に歩くのは平気です。
駅などでの階段の上り下りは出来るだけ避けて、エレベーターや
エスカレーターを使うようにもしています。
正座する、しゃがむ、といった動作には、まだ少し抵抗があり、
100%とは言えませんが、あの辛かった時のことを思うと、
ここまで回復出来たことは、私にとっては十分嬉しいご報告に
値しています。
ご心配下さった皆さま、有難うございました。
6月17日のブログには、「変形性膝関節症」と診断されて
「取り敢えず、5回の注射が終わる頃には、痛みが取れて、
普通に歩けるようになりたい、と願っているところです。」
と書き、更に6月21日には、「1ヶ月位先にはよいご報告が
できるようになっていたい、と思っています。」と書きましたが、
その5回目のヒアルロン酸の注射を受けた1ヶ月後位、という
頃が、最悪の状態で、5分もかからない整形外科への往復も、
右膝に走る痛みをこらえながら歩いているような有様でした。
とても皆さまにご報告する気分にもなれずにいました。
それが、8月に入った頃から、立ち上がった時の「イタッ!」
や、歩き始めた時の「イタッ!」が、段々と楽になって来て、
今では殆ど、それらの「イタッ!」は無くなりました。
大腿筋を鍛える体操を毎晩、草木も眠る丑三つ時になって
いようが、それよりももっと遅かろうが、15分~20分、この
2ヶ月余り、一日も休まずに続けています。これも、7月中は
「本当に痛みの緩和に繋がるのだろうか?」と不安になる
こともありましたが、医師の「一番大事なのは継続です。」
という言葉と、体操のパンフレットの表紙に書かれている
「コツコツ続けて痛みにサヨナラ」という言葉を信じて、
頑張って来ました。
これまでに計7回打った「ヒアルロン酸」の注射がじわーっと
効いて来たのか、毎晩の体操の効果なのか、その両方なのか、
よくわかりませんが、兎に角、もう普通に歩くのは平気です。
駅などでの階段の上り下りは出来るだけ避けて、エレベーターや
エスカレーターを使うようにもしています。
正座する、しゃがむ、といった動作には、まだ少し抵抗があり、
100%とは言えませんが、あの辛かった時のことを思うと、
ここまで回復出来たことは、私にとっては十分嬉しいご報告に
値しています。
ご心配下さった皆さま、有難うございました。
第一帖「桐壺」の巻・全文訳(8)
2016年8月25日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第5回)
本日読みました「桐壺」の巻(25頁・12行目~33頁・1行目まで)の
後半に当たる部分(29頁・9行目~33頁・1行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
8月8日(月)の全文訳と併せてお読み頂くと、(25頁・12行目~
33頁・1行目まで)の全文訳が通してご覧になれます。
月日が経って、若宮が参内なさいました。若宮は以前よりも
一際この世の者とも思えない程美しく成長なさっているので、
帝はこの子までもが神に魅入られて早世するのではないかと、
不安になっておられました。
明くる年の春、皇太子がお決まりになった時も、帝は第一の
皇子を越えて若宮を皇太子に立てたい、とお思いになりましたが、
後見をする人もなく、また世間が承知しそうにもないことなので、
却って危険なことだと憚られて、おくびにも出されなかったので、
「あれほどお可愛がりでも、お心のままにはならなかったのだ」と、
世間の人は噂し、弘徽殿の女御もこれでホッとなさったのでした。
更衣の母君は、慰められることなく悲しみに沈まれて、更衣の
いらっしゃるあの世に尋ねて行きたいと願っておいでになっていた
せいか、とうとうお亡くなりになったので、帝はまたこのことも
限りなく悲しく思っておられました。若宮も、もう六歳におなりなので、
この度のおばあさまの死はおわかりになって、恋い慕って泣いて
いらっしゃいました。長年慈しんでこられた若宮をあとにお残しする
悲しさを、更衣の母君は繰り返し繰り返しおっしゃって亡くなられた
のでした。
おばあさまが亡くなられた今、若宮はずっと宮中にお住まいです。
七歳になられたので、「読書始め」なども帝はおさせになりますが、
信じられない程聡明でいらっしゃいますので、恐ろしいとまでに
ご覧になっておられました。
「今となっては、どなたも若宮をお憎みにはなれますまい。せめて
母親がいないということに免じて、可愛がってやってください」と
おっしゃって、弘徽殿などにお渡りになる際にも若宮をお連れになり、
そのまま御簾の中にも入れて差し上げなさいます。猛々しい武士や、
仇敵であっても、微笑まずにはいられない若宮のご様子に、さすがの
弘徽殿の女御もつっけんどんにはお出来になれないのでした。
弘徽殿の女御には、女宮もお二人ありましたが、その女宮方も
この若宮とは到底肩をお並べになることは出来ませんでした。
ほかのお妃たちも、若宮の前からお隠れになることはございません。
若宮が、もう今からこちらが圧倒されるような気品がおありなので、
たいそう可愛らしいけれど気が引ける遊び相手だと、どなたも
お思いになっておられました。
漢学に関しては勿論のこと、音楽の方面でも、宮中の方々を驚かせ、
まあ、一つ一つ並べ立てて行くと大げさになり、嘘ではないかと嫌に
なってしまいそうな若宮のご様子でありました。
その頃、渤海の国から来朝した者たちの中に、優れた人相見が
いると帝は耳になさいましたが、むやみに宮中に人を入れては
ならないという宇多天皇のお戒めがあるので、ごく内密にして、
若宮を鴻臚館にお遣わしになりました。
お世話役の右大弁の子どものように見せかけてお連れしたところ、
人相見は驚いて、何度も首を傾げては不思議そうにして
「国家元首となり、帝王の位に就かれるはずの人相でありますが、
そのような方として占うと、国が乱れ、民の苦しむことが起こるやも
しれない相でございます。朝廷の柱石となって、政治を補佐する方と
して見ると、またその相は違っているようでございます」と言いました。
右大弁も漢学の才に秀でた人だったので、この高麗の人相見と
交わした話は実に興味深いものでありました。漢詩などをお互いに
作りあって、今日、明日にも帰国しようとする時に、若宮のような
類まれな方と会えた喜び、それによって却って別れが悲しいに
違いないという気持ちを、人相見が漢詩に詠んだのに対し、
若宮もたいそう心に響く詩句をお作りになったので、人相見は
この上なく称賛し、若宮に素晴らしい贈り物の数々を献上いたし
ました。朝廷からも人相見に多くの物をお与えになりました。
こうしたことは自然と噂になって知れ渡り、東宮のおじい様である
右大臣などは、どういうことなのかと、疑念を抱いておられました。
帝はご自身の判断で、日本流の観相もおさせになって、すでに
お考えになっていたことなので、この若宮を今まで親王にも
なさらなかったのですが、「高麗の人相見は実に賢明なことを
申した」と、お思いになり、「無品の親王で外戚の後見もないと
いった不安定な生涯は送らせまい。自分の御代もいつまで続く
とも知れないのだから、臣下として朝廷の補佐をするのが、
将来も頼もしかろう」と、お考えになって、いよいよ様々な学問を
若宮に学ばせなさるのでした。
若宮はずば抜けて聡明で、臣下にしてしまうのはまことに
惜しいのですが、親王宣下をすれば、世間から皇太子にする
つもりなのではないかという疑念も持たれそうでいらっしゃるので、
宿曜道の達人にも占わせ、同じ結論を得られたところで、
高麗の人相見の「臣下では終わらない相」というのを信じて、
若宮を賜姓源氏となさるご決断を下されたのでした。
本日読みました「桐壺」の巻(25頁・12行目~33頁・1行目まで)の
後半に当たる部分(29頁・9行目~33頁・1行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
8月8日(月)の全文訳と併せてお読み頂くと、(25頁・12行目~
33頁・1行目まで)の全文訳が通してご覧になれます。
月日が経って、若宮が参内なさいました。若宮は以前よりも
一際この世の者とも思えない程美しく成長なさっているので、
帝はこの子までもが神に魅入られて早世するのではないかと、
不安になっておられました。
明くる年の春、皇太子がお決まりになった時も、帝は第一の
皇子を越えて若宮を皇太子に立てたい、とお思いになりましたが、
後見をする人もなく、また世間が承知しそうにもないことなので、
却って危険なことだと憚られて、おくびにも出されなかったので、
「あれほどお可愛がりでも、お心のままにはならなかったのだ」と、
世間の人は噂し、弘徽殿の女御もこれでホッとなさったのでした。
更衣の母君は、慰められることなく悲しみに沈まれて、更衣の
いらっしゃるあの世に尋ねて行きたいと願っておいでになっていた
せいか、とうとうお亡くなりになったので、帝はまたこのことも
限りなく悲しく思っておられました。若宮も、もう六歳におなりなので、
この度のおばあさまの死はおわかりになって、恋い慕って泣いて
いらっしゃいました。長年慈しんでこられた若宮をあとにお残しする
悲しさを、更衣の母君は繰り返し繰り返しおっしゃって亡くなられた
のでした。
おばあさまが亡くなられた今、若宮はずっと宮中にお住まいです。
七歳になられたので、「読書始め」なども帝はおさせになりますが、
信じられない程聡明でいらっしゃいますので、恐ろしいとまでに
ご覧になっておられました。
「今となっては、どなたも若宮をお憎みにはなれますまい。せめて
母親がいないということに免じて、可愛がってやってください」と
おっしゃって、弘徽殿などにお渡りになる際にも若宮をお連れになり、
そのまま御簾の中にも入れて差し上げなさいます。猛々しい武士や、
仇敵であっても、微笑まずにはいられない若宮のご様子に、さすがの
弘徽殿の女御もつっけんどんにはお出来になれないのでした。
弘徽殿の女御には、女宮もお二人ありましたが、その女宮方も
この若宮とは到底肩をお並べになることは出来ませんでした。
ほかのお妃たちも、若宮の前からお隠れになることはございません。
若宮が、もう今からこちらが圧倒されるような気品がおありなので、
たいそう可愛らしいけれど気が引ける遊び相手だと、どなたも
お思いになっておられました。
漢学に関しては勿論のこと、音楽の方面でも、宮中の方々を驚かせ、
まあ、一つ一つ並べ立てて行くと大げさになり、嘘ではないかと嫌に
なってしまいそうな若宮のご様子でありました。
その頃、渤海の国から来朝した者たちの中に、優れた人相見が
いると帝は耳になさいましたが、むやみに宮中に人を入れては
ならないという宇多天皇のお戒めがあるので、ごく内密にして、
若宮を鴻臚館にお遣わしになりました。
お世話役の右大弁の子どものように見せかけてお連れしたところ、
人相見は驚いて、何度も首を傾げては不思議そうにして
「国家元首となり、帝王の位に就かれるはずの人相でありますが、
そのような方として占うと、国が乱れ、民の苦しむことが起こるやも
しれない相でございます。朝廷の柱石となって、政治を補佐する方と
して見ると、またその相は違っているようでございます」と言いました。
右大弁も漢学の才に秀でた人だったので、この高麗の人相見と
交わした話は実に興味深いものでありました。漢詩などをお互いに
作りあって、今日、明日にも帰国しようとする時に、若宮のような
類まれな方と会えた喜び、それによって却って別れが悲しいに
違いないという気持ちを、人相見が漢詩に詠んだのに対し、
若宮もたいそう心に響く詩句をお作りになったので、人相見は
この上なく称賛し、若宮に素晴らしい贈り物の数々を献上いたし
ました。朝廷からも人相見に多くの物をお与えになりました。
こうしたことは自然と噂になって知れ渡り、東宮のおじい様である
右大臣などは、どういうことなのかと、疑念を抱いておられました。
帝はご自身の判断で、日本流の観相もおさせになって、すでに
お考えになっていたことなので、この若宮を今まで親王にも
なさらなかったのですが、「高麗の人相見は実に賢明なことを
申した」と、お思いになり、「無品の親王で外戚の後見もないと
いった不安定な生涯は送らせまい。自分の御代もいつまで続く
とも知れないのだから、臣下として朝廷の補佐をするのが、
将来も頼もしかろう」と、お考えになって、いよいよ様々な学問を
若宮に学ばせなさるのでした。
若宮はずば抜けて聡明で、臣下にしてしまうのはまことに
惜しいのですが、親王宣下をすれば、世間から皇太子にする
つもりなのではないかという疑念も持たれそうでいらっしゃるので、
宿曜道の達人にも占わせ、同じ結論を得られたところで、
高麗の人相見の「臣下では終わらない相」というのを信じて、
若宮を賜姓源氏となさるご決断を下されたのでした。
「光源氏」の物語の始まり
2016年8月25日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第5回)
8月8日のブログで、「紫の会」第5回目の前半をご紹介しました
ので、今日は後半をご紹介します。
これまで「桐壺」の巻は、ほとんど「長恨歌」を下地とした物語で、
桐壺の更衣を失った帝の悲しみが、楊貴妃を失った玄宗皇帝に
なずらえられながら、多くの紙面を割いて語られてきましたが、
それが終わると、途端にテンポアップして、話が展開して行きます。
三歳の夏に母・桐壺の更衣が亡くなり、更衣のお里に退出していた
若宮(のちの光源氏)は、その冬、祖母と離れて宮中に参内したと
思われます。
翌年(若宮四歳)の春、一の皇子(のちの朱雀院)が皇太子に
決定します。
六歳の時、祖母(桐壺の更衣の母)が他界し、それからはずっと
宮中で、父・帝と共に過ごすことになりました。
七歳で「読書始め」を行い、美しさ、聡明さは、この世のものとも
思えない程突出しており、「すべて言ひ続けば、ことことしう、
うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。」(若宮の優れている
点をずべて挙げて行くと、余りにも大げさな感じになり、嘘では
ないかと嫌になってしまいそうなご様子でした。)と、草子地に
書かれています。
帝はこのような才気あふれる若宮の処遇をどうしたものか、
悩んでおられました。親王宣下をすれば、皇太子側の者から
あらぬ疑いをかけられる恐れもあり、またこれといった後見の
ない若宮を皇籍に残して置いても将来性は乏しく、いっそ臣籍に
降下させて、賜姓源氏として朝廷を補佐させるほうがよいの
ではないか、ともお考えでした。
丁度そのころ、高麗の優れた観相人が来朝していたので、
帝は若宮を右大弁の子どものように見せかけて、観相人の
宿泊している鴻臚館(迎賓館のような所)に連れて行かせ
なさいました。観相人は「帝位に就くべき相ではあるが、
そうすると、国の乱れを招く恐れがある。朝廷の柱石として
国政を補佐する相というふうにみると、それも違うような。」と、
言います。
帝はこれだけではなく、倭相(日本流の観相)、宿曜(星占い)
でも、同様の占いの結果が出たことで、臣下にするには惜しい
と思いながらも、若宮を「源氏」にする決心をなさいました。
さあ、いよいよ「光源氏」の物語が始まります。
次回から、源氏の永遠の女性となる「藤壺」が登場し、源氏は
元服して「葵の上」と結婚します。「桐壺」の巻も、あと一回で
終われそうです。
このあと引き続き、第5回講読部分の後半の全文訳を書きます。
8月8日のブログで、「紫の会」第5回目の前半をご紹介しました
ので、今日は後半をご紹介します。
これまで「桐壺」の巻は、ほとんど「長恨歌」を下地とした物語で、
桐壺の更衣を失った帝の悲しみが、楊貴妃を失った玄宗皇帝に
なずらえられながら、多くの紙面を割いて語られてきましたが、
それが終わると、途端にテンポアップして、話が展開して行きます。
三歳の夏に母・桐壺の更衣が亡くなり、更衣のお里に退出していた
若宮(のちの光源氏)は、その冬、祖母と離れて宮中に参内したと
思われます。
翌年(若宮四歳)の春、一の皇子(のちの朱雀院)が皇太子に
決定します。
六歳の時、祖母(桐壺の更衣の母)が他界し、それからはずっと
宮中で、父・帝と共に過ごすことになりました。
七歳で「読書始め」を行い、美しさ、聡明さは、この世のものとも
思えない程突出しており、「すべて言ひ続けば、ことことしう、
うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。」(若宮の優れている
点をずべて挙げて行くと、余りにも大げさな感じになり、嘘では
ないかと嫌になってしまいそうなご様子でした。)と、草子地に
書かれています。
帝はこのような才気あふれる若宮の処遇をどうしたものか、
悩んでおられました。親王宣下をすれば、皇太子側の者から
あらぬ疑いをかけられる恐れもあり、またこれといった後見の
ない若宮を皇籍に残して置いても将来性は乏しく、いっそ臣籍に
降下させて、賜姓源氏として朝廷を補佐させるほうがよいの
ではないか、ともお考えでした。
丁度そのころ、高麗の優れた観相人が来朝していたので、
帝は若宮を右大弁の子どものように見せかけて、観相人の
宿泊している鴻臚館(迎賓館のような所)に連れて行かせ
なさいました。観相人は「帝位に就くべき相ではあるが、
そうすると、国の乱れを招く恐れがある。朝廷の柱石として
国政を補佐する相というふうにみると、それも違うような。」と、
言います。
帝はこれだけではなく、倭相(日本流の観相)、宿曜(星占い)
でも、同様の占いの結果が出たことで、臣下にするには惜しい
と思いながらも、若宮を「源氏」にする決心をなさいました。
さあ、いよいよ「光源氏」の物語が始まります。
次回から、源氏の永遠の女性となる「藤壺」が登場し、源氏は
元服して「葵の上」と結婚します。「桐壺」の巻も、あと一回で
終われそうです。
このあと引き続き、第5回講読部分の後半の全文訳を書きます。
「65歳からのアートライフ」
2016年8月23日(火)
今回で23回目だそうですが、たまたま高校の同期の方が出演なさる
というので、初めて「65歳からのアートライフ」という催しがあることを
知り、同期の仲間と聴きに行きました。
会場の「フィリアホール」は、青葉台の東急百貨店の5階に出来た
ホールなので、私はてっきり渋谷の「オーチャードホール」のような
東急の施設だと思っていましたが、ここは「青葉区民文化センター」
なのですね。それも今日初めて知りました。さすが横浜市!
受付で戴いたプログラムを見て、びっくり。何と最高齢の方は96歳。
後で伺ったら、ひ孫さんが4人もおありだとか。66歳の私たちの同期生は、
ここでは最年少。「65歳からの」ですから、当然と言えば当然なのですが、
大半は70代の方。どの方もどの方も皆、活き活きと楽し気で、若々しい!!
しかも、声楽のレベルが高くて、失礼ながら、「その御歳で、どうして
そんなにお声が出るのですか?」と伺ってみたくなりました。
同期の彼も、若い頃から声楽を学んでいた訳ではなく、50歳から始めた
とのことですが、聴く度にレベルアップしているのが、私のような素人の
耳にもはっきりとわかり、次の機会がまた楽しみになりました。
最後に特別講評委員の方から感想が述べられましたが、「人間は
表現者、それぞれの人生が表現されている」と言われたのを聞き、
「そうなんだ、だから若い人にはない、人生の積み重ねの中で培って
きたものが伝わって来るんだ」と、思いました。
「頑張れば、こんなに素敵な歳の重ね方も出来るのね!」と、
夢と希望をた~くさん戴いたコンサートでした。
会場の「フィリアホール」入り口
今回で23回目だそうですが、たまたま高校の同期の方が出演なさる
というので、初めて「65歳からのアートライフ」という催しがあることを
知り、同期の仲間と聴きに行きました。
会場の「フィリアホール」は、青葉台の東急百貨店の5階に出来た
ホールなので、私はてっきり渋谷の「オーチャードホール」のような
東急の施設だと思っていましたが、ここは「青葉区民文化センター」
なのですね。それも今日初めて知りました。さすが横浜市!
受付で戴いたプログラムを見て、びっくり。何と最高齢の方は96歳。
後で伺ったら、ひ孫さんが4人もおありだとか。66歳の私たちの同期生は、
ここでは最年少。「65歳からの」ですから、当然と言えば当然なのですが、
大半は70代の方。どの方もどの方も皆、活き活きと楽し気で、若々しい!!
しかも、声楽のレベルが高くて、失礼ながら、「その御歳で、どうして
そんなにお声が出るのですか?」と伺ってみたくなりました。
同期の彼も、若い頃から声楽を学んでいた訳ではなく、50歳から始めた
とのことですが、聴く度にレベルアップしているのが、私のような素人の
耳にもはっきりとわかり、次の機会がまた楽しみになりました。
最後に特別講評委員の方から感想が述べられましたが、「人間は
表現者、それぞれの人生が表現されている」と言われたのを聞き、
「そうなんだ、だから若い人にはない、人生の積み重ねの中で培って
きたものが伝わって来るんだ」と、思いました。
「頑張れば、こんなに素敵な歳の重ね方も出来るのね!」と、
夢と希望をた~くさん戴いたコンサートでした。
会場の「フィリアホール」入り口
台風で例会を中止
2016年8月22日(月)
本当ならこの時間、溝の口で「湖月会」の皆さまと
「源氏物語」を読んでいる時間なのですが、昨夜、
代表者の方から「どうしましょう?」というメールを戴き、
相談の結果、「どうも関東に来るようなので、中止にしましょう」
との結論を出しました。手分けして、会員の皆さまにご連絡。
今朝までに無事、全員に伝わったことが確認できました。
幸い、9月5日に会場の空きが見つかり、今日の代講も可能と
なりました。
外の様子を見ると、まさに暴風雨です。強風にあおられて、
雨が煙のように舞いながら飛んでいます。とても歩ける状態
ではありません。例会中止は正解でした。
源氏物語などの講読会を台風で取り止めたのは、湘南台で
2000年に始めてから17年目にして、今日が初めてのことです。
月に10回程ありますので、これまで一度もなかったというのが、
むしろ不思議なくらいです。
この台風、夕方には通り抜けてしまうようですが、河川の氾濫や、
土砂災害などの爪痕を残さずに行ってほしいと願っています。
本当ならこの時間、溝の口で「湖月会」の皆さまと
「源氏物語」を読んでいる時間なのですが、昨夜、
代表者の方から「どうしましょう?」というメールを戴き、
相談の結果、「どうも関東に来るようなので、中止にしましょう」
との結論を出しました。手分けして、会員の皆さまにご連絡。
今朝までに無事、全員に伝わったことが確認できました。
幸い、9月5日に会場の空きが見つかり、今日の代講も可能と
なりました。
外の様子を見ると、まさに暴風雨です。強風にあおられて、
雨が煙のように舞いながら飛んでいます。とても歩ける状態
ではありません。例会中止は正解でした。
源氏物語などの講読会を台風で取り止めたのは、湘南台で
2000年に始めてから17年目にして、今日が初めてのことです。
月に10回程ありますので、これまで一度もなかったというのが、
むしろ不思議なくらいです。
この台風、夕方には通り抜けてしまうようですが、河川の氾濫や、
土砂災害などの爪痕を残さずに行ってほしいと願っています。
理想の女性の昇天
2016年8月17日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第180回)
8月4日、9日に続いて、この夏三度目の猛暑日となった今日、
湘南台クラスは、源氏物語の中で最も悲しい、紫の上が亡くなる
場面から読み始めました。
紫の上が息を引き取ったのは、8月14日の夜が明けた頃でした。
でも、これは旧暦ですから、今の暦ですと、1ヶ月位の差があります
(今年は丁度、9月14日が旧暦の8月14日に当たります)。
その夜から翌15日にかけて、紫の上の葬送が営まれました。
当時の貴族は、中宮定子のように、特に遺言でもない限り、
火葬が一般的でした。中宮定子の場合は、一条天皇に残した
辞世の歌の中の一首「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露を
それとながめよ」(火葬されて煙や雲になることもない私ですが、
草葉に置く露を私だと思ってご覧ください)で、土葬を望んでいると
されたのです。
8月15日は、中秋の名月です。この日に、火葬が行われ、紫の上は
昇天して行ったわけですが、ここには「竹取物語」のかぐや姫の
イメージが重ねられている、と言われています。
願い続けた出家も、紫の上への愛執が断ち切れない源氏によって
許されませんでしたが、かぐや姫が天に帰って行ったのと同じ日に
火葬されて、煙となり昇天したことで、紫の上が、天女たちに迎え
取られて極楽浄土へと導かれる姿を、読者たちも思い描くことが
できるようになりました。と同時に、これは紫の上が、かぐや姫と
同じように、永遠に美しい理想の女性として、この世を離れたことを
意味しているのでもありましょう。
あの「若紫」の巻で、あどけない少女として登場以来、読者もずっと
紫の上を見てまいりました。特に「若菜上」以降の、おのれの苦悩を
人には悟られまいと、自己犠牲のもとに六条院の平穏を保つ努力を
し続けた紫の上に、読者も気持ちを寄り添わせずにはいられなくなって
いたはずです。ですから、紫の上が亡くなったことで、深い喪失感に
捉われるのは、源氏だけではありません。
次の「幻」の巻は、源氏と共に、読者もまた紫の上を追慕し、気持ちを
収めて行くのに必要な時間として書かれているのではないでしょうか。
8月4日、9日に続いて、この夏三度目の猛暑日となった今日、
湘南台クラスは、源氏物語の中で最も悲しい、紫の上が亡くなる
場面から読み始めました。
紫の上が息を引き取ったのは、8月14日の夜が明けた頃でした。
でも、これは旧暦ですから、今の暦ですと、1ヶ月位の差があります
(今年は丁度、9月14日が旧暦の8月14日に当たります)。
その夜から翌15日にかけて、紫の上の葬送が営まれました。
当時の貴族は、中宮定子のように、特に遺言でもない限り、
火葬が一般的でした。中宮定子の場合は、一条天皇に残した
辞世の歌の中の一首「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露を
それとながめよ」(火葬されて煙や雲になることもない私ですが、
草葉に置く露を私だと思ってご覧ください)で、土葬を望んでいると
されたのです。
8月15日は、中秋の名月です。この日に、火葬が行われ、紫の上は
昇天して行ったわけですが、ここには「竹取物語」のかぐや姫の
イメージが重ねられている、と言われています。
願い続けた出家も、紫の上への愛執が断ち切れない源氏によって
許されませんでしたが、かぐや姫が天に帰って行ったのと同じ日に
火葬されて、煙となり昇天したことで、紫の上が、天女たちに迎え
取られて極楽浄土へと導かれる姿を、読者たちも思い描くことが
できるようになりました。と同時に、これは紫の上が、かぐや姫と
同じように、永遠に美しい理想の女性として、この世を離れたことを
意味しているのでもありましょう。
あの「若紫」の巻で、あどけない少女として登場以来、読者もずっと
紫の上を見てまいりました。特に「若菜上」以降の、おのれの苦悩を
人には悟られまいと、自己犠牲のもとに六条院の平穏を保つ努力を
し続けた紫の上に、読者も気持ちを寄り添わせずにはいられなくなって
いたはずです。ですから、紫の上が亡くなったことで、深い喪失感に
捉われるのは、源氏だけではありません。
次の「幻」の巻は、源氏と共に、読者もまた紫の上を追慕し、気持ちを
収めて行くのに必要な時間として書かれているのではないでしょうか。
夏の百人一首かるた会
2016年8月14日(日)
11日から3泊4日でキャンプに出掛けていた息子一家が
帰ってきて、我が家へ夕飯を食べに来ました。
孫たちのリクエストは、アジフライとトンカツ。
アジフライ12枚とトンカツ8枚を揚げました。孫たちも、
小学3年生と1年生になり、二人とも男の子なので、
これからは、食事の支度も体力勝負になりそうな予感が
しています。
食事中に、上の孫に「夏休み中にもう一回いらっしゃい。
その時、今までに覚えた歌だけで、夏の百人一首かるた会
をしよう」と、話しかけたところ、「それ、今日やりたい!」と
言うので、食後、孫たちが覚えている22枚の札だけを使って、
息子、嫁、孫二人、二組に分かれての源平戦を行いました。
22枚では、直ぐに終わってしまいますが、それでも、お正月の
時よりは、はるかに「かるた取り」らしくなりました。
帰る時、「この次は何枚でやる?」と、孫が訊いて来たので、
「取り敢えず、あと三首覚えて、25枚でやれるよう、頑張って
覚えて来て!」と、激励しました。
鬼に笑われるかもしれませんが、来年のお正月までに三十首
覚えられれば、覚えていない二十首も交ぜて、全部で半分の
五十首での「かるた取り」が出来るのではないか、と密かに
楽しみにしている今夜の「ばーば」です。
11日から3泊4日でキャンプに出掛けていた息子一家が
帰ってきて、我が家へ夕飯を食べに来ました。
孫たちのリクエストは、アジフライとトンカツ。
アジフライ12枚とトンカツ8枚を揚げました。孫たちも、
小学3年生と1年生になり、二人とも男の子なので、
これからは、食事の支度も体力勝負になりそうな予感が
しています。
食事中に、上の孫に「夏休み中にもう一回いらっしゃい。
その時、今までに覚えた歌だけで、夏の百人一首かるた会
をしよう」と、話しかけたところ、「それ、今日やりたい!」と
言うので、食後、孫たちが覚えている22枚の札だけを使って、
息子、嫁、孫二人、二組に分かれての源平戦を行いました。
22枚では、直ぐに終わってしまいますが、それでも、お正月の
時よりは、はるかに「かるた取り」らしくなりました。
帰る時、「この次は何枚でやる?」と、孫が訊いて来たので、
「取り敢えず、あと三首覚えて、25枚でやれるよう、頑張って
覚えて来て!」と、激励しました。
鬼に笑われるかもしれませんが、来年のお正月までに三十首
覚えられれば、覚えていない二十首も交ぜて、全部で半分の
五十首での「かるた取り」が出来るのではないか、と密かに
楽しみにしている今夜の「ばーば」です。
嫉妬されるうちが花
2016年8月12日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第98回)
あと2回で、このクラスも100回になるのだと、今改めて気付きました。
私の感覚では、4年経って5年目に入ったところ、くらいなのですが、
どっこい、倍の年数が経っているのですね。
「若菜上」も中盤に入って来ました。
朱雀院は、女三宮の六条院への降嫁を見届けたところで、いよいよ
院の御所を出て、西山の御寺(仁和寺がモデルと言われています)に
お移りになりました。
お仕えしていた妃たちも、それぞれ別の所へ移ることになりますが、
一番寵愛深かった朧月夜は、二条の宮(かつての右大臣邸。弘徽殿の
大后の御所となっていたので、「宮」と記されています)、即ち自分の
実家に戻りました。
その昔、二人が花の宴で運命的な出会いをし、危険な密会を重ねる
うちに右大臣に見つかってしまった、読者の脳裏にも焼き付けられて
いる場所です。
密会の発覚で、別れることを余儀なくされただけに、源氏にとっては
不完全燃焼のまま終わった恋、という胸に燻っているものがあり、
朱雀院の出家によって自由の身となった朧月夜にもう一度逢いたい
と思うのも、無理からぬことでありました。
さすがに、紫の上に「朧月夜に逢いに行く」とは言い出せません。
源氏ともあろう人が、どうしてこんな見え透いた嘘を、と、ちょっと
笑いたくもなるのですが、六条から二条に向かうには、そちら方面に
行く用事を作る必要があります。
何と源氏は、二条東院で長らく病に臥せっている末摘花の見舞いに
行く、と言い出したのです。
いつもはそんな気にも掛けていない末摘花のところへ、いそいそと
出かけようとする夫の素振りを見て、紫の上は、「変だわ。これは
二条の宮に戻られた朧月夜に逢いに行かれるに違いない」と、思い
ますが、「姫宮の御ことののちは、何ごとも、いと過ぎぬるかたの
やうにはあらず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬやうにておはす。」
(女三宮のご降嫁ののちは、何事も、以前のようにそんなに嫉妬なさる
ようなことも無くなって、少し源氏との間に心の隔てが加わって、知らぬ
顔をしていらっしゃる。)と、もう嫉妬する気にもならない紫の上の心理状態
を伝えています。
「嫉妬は愛情の裏返し」と言いますが、そうなんでしょうね。相手への
思いが薄くなって来れば、嫉妬心も生じなくなるわけで、嫉妬されている
うちが花なのかもしれません。もっとも、「帚木」の巻の「雨夜の品定め」で
左馬頭が語る、「嫉妬の余り指に噛みつく女」というような過激なのも
困りものですが・・・。
あと2回で、このクラスも100回になるのだと、今改めて気付きました。
私の感覚では、4年経って5年目に入ったところ、くらいなのですが、
どっこい、倍の年数が経っているのですね。
「若菜上」も中盤に入って来ました。
朱雀院は、女三宮の六条院への降嫁を見届けたところで、いよいよ
院の御所を出て、西山の御寺(仁和寺がモデルと言われています)に
お移りになりました。
お仕えしていた妃たちも、それぞれ別の所へ移ることになりますが、
一番寵愛深かった朧月夜は、二条の宮(かつての右大臣邸。弘徽殿の
大后の御所となっていたので、「宮」と記されています)、即ち自分の
実家に戻りました。
その昔、二人が花の宴で運命的な出会いをし、危険な密会を重ねる
うちに右大臣に見つかってしまった、読者の脳裏にも焼き付けられて
いる場所です。
密会の発覚で、別れることを余儀なくされただけに、源氏にとっては
不完全燃焼のまま終わった恋、という胸に燻っているものがあり、
朱雀院の出家によって自由の身となった朧月夜にもう一度逢いたい
と思うのも、無理からぬことでありました。
さすがに、紫の上に「朧月夜に逢いに行く」とは言い出せません。
源氏ともあろう人が、どうしてこんな見え透いた嘘を、と、ちょっと
笑いたくもなるのですが、六条から二条に向かうには、そちら方面に
行く用事を作る必要があります。
何と源氏は、二条東院で長らく病に臥せっている末摘花の見舞いに
行く、と言い出したのです。
いつもはそんな気にも掛けていない末摘花のところへ、いそいそと
出かけようとする夫の素振りを見て、紫の上は、「変だわ。これは
二条の宮に戻られた朧月夜に逢いに行かれるに違いない」と、思い
ますが、「姫宮の御ことののちは、何ごとも、いと過ぎぬるかたの
やうにはあらず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬやうにておはす。」
(女三宮のご降嫁ののちは、何事も、以前のようにそんなに嫉妬なさる
ようなことも無くなって、少し源氏との間に心の隔てが加わって、知らぬ
顔をしていらっしゃる。)と、もう嫉妬する気にもならない紫の上の心理状態
を伝えています。
「嫉妬は愛情の裏返し」と言いますが、そうなんでしょうね。相手への
思いが薄くなって来れば、嫉妬心も生じなくなるわけで、嫉妬されている
うちが花なのかもしれません。もっとも、「帚木」の巻の「雨夜の品定め」で
左馬頭が語る、「嫉妬の余り指に噛みつく女」というような過激なのも
困りものですが・・・。
今日の一首(24)
2016年8月10日(水) 湘南台「百人一首」(第23回)
37度を超えた昨日よりは少しまし、とは言うものの、今日も猛烈な
暑さの一日でしたが、夕方からは大気の状態が不安定になったの
でしょうか、いっとき、バケツをひっくり返したような豪雨となりました。
おかげで、ちょっと気温は下がったようです。
湘南台の「百人一首」も、今回で88番まで進みました。残り3回です。
「むすめふさふほせ」と覚えている方が多いかと思いますが、これは
「百人一首」の中で、一文字目が「決まり字」(その文字で他の歌と
区別できるポイントとなる文字)となっている七首の、その決まり字を
並べたものです。
む 「村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」
す 「住の江の岸に寄るなみよるさへや 夢のかよひぢ人目よくらむ」
め 「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな」
ふ 「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」
さ 「さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮」
ほ 「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
せ 「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」
これを覚えておくと、かるた会で、最初の一文字が読み上げられた段階で、
下の句を書いた取り札に手を出すことができます。
実際には、「むすめふさほせ」は、覚えていて狙っている人も多いので、
却って取り難い場合もあります。
「今日の一首」は、「むすめふさほせ」の最初の「む」で始まる、寂蓮法師の
この歌です。
「村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」
八十七番・寂蓮法師
(さっき降ったにわか雨の露もまだ乾いていない真木の葉の
あたりに、霧が立ち上っている秋の夕暮であることよ)
昔、この歌の四句目の「霧立のぼる」という芸名の宝塚の女優さんが
いたことをご存知でしょうか。これも前回の「青葉の笛」同様、高齢者
世代となると、大体の方がご存知なんですよね。折角ですから、
こんな人だったということで・・・。
霧立のぼる(1938年)
37度を超えた昨日よりは少しまし、とは言うものの、今日も猛烈な
暑さの一日でしたが、夕方からは大気の状態が不安定になったの
でしょうか、いっとき、バケツをひっくり返したような豪雨となりました。
おかげで、ちょっと気温は下がったようです。
湘南台の「百人一首」も、今回で88番まで進みました。残り3回です。
「むすめふさふほせ」と覚えている方が多いかと思いますが、これは
「百人一首」の中で、一文字目が「決まり字」(その文字で他の歌と
区別できるポイントとなる文字)となっている七首の、その決まり字を
並べたものです。
む 「村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」
す 「住の江の岸に寄るなみよるさへや 夢のかよひぢ人目よくらむ」
め 「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな」
ふ 「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」
さ 「さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮」
ほ 「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
せ 「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」
これを覚えておくと、かるた会で、最初の一文字が読み上げられた段階で、
下の句を書いた取り札に手を出すことができます。
実際には、「むすめふさほせ」は、覚えていて狙っている人も多いので、
却って取り難い場合もあります。
「今日の一首」は、「むすめふさほせ」の最初の「む」で始まる、寂蓮法師の
この歌です。
「村雨の露もまだ干ぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」
八十七番・寂蓮法師
(さっき降ったにわか雨の露もまだ乾いていない真木の葉の
あたりに、霧が立ち上っている秋の夕暮であることよ)
昔、この歌の四句目の「霧立のぼる」という芸名の宝塚の女優さんが
いたことをご存知でしょうか。これも前回の「青葉の笛」同様、高齢者
世代となると、大体の方がご存知なんですよね。折角ですから、
こんな人だったということで・・・。
霧立のぼる(1938年)
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