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「源氏物語のあらすじ」…第四帖「夕顔」(その1)

久しぶりの「『源氏物語』のかなり詳しいあらすじ」です。
今回から第四帖の「夕顔」の巻に入ります。

第1回目の今日は、まだ源氏が夕顔と逢う前のプロローグ的な場面
になります。                    ↑
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「紫式部日記」の最終回(その2)

2015年6月26日(金) 向河原「紫式部日記」の会(第12回)

先週の溝の口のクラスに続き、こちらのクラスも本日をもって「紫式部日記」を
読み終えることが出来ました。

「紫式部日記」は、冒頭も首欠説があり、果たして現存する「紫式部日記」の
書き出しが本当に日記の冒頭なのか、それとも本来あるべき記事が脱落して
しまったのか、未だ解決しない問題として残っていますが、最後も、これが
日記の中断なのか、完結なのか、わからない曖昧な終わり方になっています。

寛弘7年(1010年)1月15日、中宮彰子が産んだ二の宮(敦良〈あつなが〉親王)の
「五十日〈いか〉の祝」が行なわれ、その後管弦の遊びがあって、道長から一条天皇
への贈り物が記されたところで、ぷつんと終わっています。次が最後の一文です。

御贈物、笛歯二つ、箱に入れてとぞ見はべりし。(道長さまから帝への贈り物は、
歯二つを箱に納めて献上なさった、と拝見いたしました。)

この小さな文字で書かれている「歯二つ」って何? と思われる方も
いらっしゃるでしょう。実はこれ、笛の名前なのです。当時、当代一の
名器と言われていた横笛とのことですが、なんとも奇妙な名前ですよね。

この頃の楽器には首を傾げたくなるような名前が多くつけられていて、
「枕草子」には、「無名」(名前が無い)という名前の琵琶の話や、笙の笛の
「いな替へじ」(いいえ、替えません)という名前にまつわる面白いエピソード
などが紹介されています。

清少納言も「御前にさぶらふ物は、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞ
ある。」(帝のお手もとにある楽器は、御琴も御笛も、みんな変わった名前が
ついているんですよ。)と、書いています。

優れた楽器になら、もっとそれに相応しい名前がありそうなものなのに…。

すみません、横道に逸れた話になってしまいました。

最後に、「紫式部日記」を読み終えて思うことは、どんなに華やかな場に身を
置こうが、自分の作品が認められようが、常に「身の憂さ」から逃れることの
できなかった作者だったからこそ、人の内面をじっと見据えた「源氏物語」を
この世に送り出すことができたのであろう、ということです。


源氏物語(第一部)に見る「裳着」

2015年6月22日(月) 溝の口「湖月会」(第84回)

このクラスは、前にも書きましたが第2金曜日のクラスとは双子の姉妹の
ようなものですので、あちらで「ようなしごといと多かり」のため、「行幸」を
少し残して終わったからと言って、反省をしてこちらでは読み終える、と
いうわけにはまいりません(振替受講の方もいらっしゃいますし)。で、
今日も「ようなしごと」をいろいろ喋って(正確には喋り過ぎて)、結局は
時間オーバーで、足並みを揃えたのでした

講読したのは「行幸」の巻の後半です。

父の内大臣に「腰結」役を務めて貰って、玉鬘は六条院で盛大な裳着を
挙げることができました。

「裳着」というのは、言わば女子の成人式で、男子の「元服」に相当します。

「源氏物語」の中では六人の姫君が裳着を挙げています。今回はその内の
第一部(三十三帖まで)に書かれている三人の裳着をご紹介したいと思います。
( )内は裳着を挙げた年齢と、書かれている巻名です。

①紫の上(14歳・葵巻)…通常は結婚を前提として、その娘の存在を世間に
知らしめるために行われるものですが、紫の上の場合は、10歳の時、
誘拐されるような形で二条院に連れて来られ、源氏と共に暮らすようになり、
14歳の時、源氏と結ばれました。その後、おそらく「腰結」も源氏自身が
行ったであろう裳着が挙げられ、兵部卿の宮の娘として、世間にも認知される
ことになりました。こうした裳着と結婚の順序が逆になるような、正式の結婚を
していなかったということが、のちに紫の上を苦しめる結果となるのです。

②玉鬘(23歳・行幸巻)…裳着は、早婚の時代ですから、だいたい12歳~14歳
くらいで挙げるのが普通でしたが、玉鬘の場合は九州で成長し、大夫監という
求婚者から逃れるために上京して来たのが既に20歳過ぎ。これはもう特殊な
ケースと言うしかありません。

③明石の姫君(11歳・梅枝巻)…こちらは東宮への入内が決まり、まだ少し幼い
くらいですが、父である源氏が周到に準備を整えて裳着を挙げさせています。
上記の二人に比べ、極めてまともな裳着の形と言えるでしょう。時の最高権力者
源氏の唯一の実の娘でありますし、嫁ぐ相手も次期天皇となる東宮です。当然の
ことながら、「腰結」役も最も箔がつく秋好中宮に依頼しています。

「裳着」が行われた季節は、「源氏物語」全編に渡り、紫の上を除き、すべてが
如月(旧暦の2月・今の暦なら3月頃)です。開始の時刻は玉鬘が亥の刻(午後10時)、
明石の姫君が子の刻(午前0時)となっていて、夜中に行われた行事であることが
わかります。明かりも、玉鬘の場合は父娘の晴れての対面ということもあって、
「御殿油、例のかかる所よりは、すこし光見せて」(燈火は、通例の裳着の場よりは、
やや明るくして)と、わざわざことわってあるほどですから、普通はとても薄暗い中で
行われていたということでしょう。未婚の女性なので、出来るだけ人に姿を見られない
配慮がなされていたと考えられます。

「源氏物語」では第二部以降に、三人(女三宮・夕霧の六の君・今上帝の女二宮)
の「裳着」が、それぞれ「若菜上」・「早蕨」・「宿木」で書かれていますが、全部一度に
取り上げるととても長くなりますので、第二部以降の裳着については、またの機会に
触れたいと思います。


「紫式部日記」の最終回(その1)

2015年6月19日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第12回)

昨年の7月から読み始めた「紫式部日記」は、当初の予定通り、1年で
読了となりました。あっと言う間でした。

来月からこちらのクラスは「伊勢物語」をスタートさせます。

今日は「断簡」と呼ばれている、たった二つのエピソードからなる部分の
後半から、寛弘七年のお正月と二の宮(敦良親王)の五十日の祝の記事
(ここで日記が終わる)までを読みました。

「断簡」の後半は、道長と紫式部のビミョーな遣り取りが書かれています。

道長が中宮さまのところで「源氏物語」をご覧になったついでに、梅の実の
下に敷かれている紙に次のような歌を詠んで紫式部にお与えになりました。

すきものと名にし立てれば見る人のをらで過ぐるはあらじとぞ思ふ
(あなたは浮気者〈好き者と、酢き物を掛けている〉との評判が立っているので
あなたを見かけた人は、みな自分の女にせずには済ませないだろうね)

それに対しての紫式部からの返歌です。

人にまだをられぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむ
(私はまだ誰の女にもなっておりませんのに、いったい誰が浮気者だなんて
言いふらしたのでしょう)

また別の日、夜中に作者の局の戸を叩く人がいましたが、怖くて無視したところ、
翌朝道長から歌が贈られて来ました。

夜もすがら水鶏〈くひな〉よりけになくなくぞまきの戸口にたたきわびつる
(一晩中、水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口を叩きながら嘆き明かしたことですよ)

紫式部の返歌

ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし
(ただごとではあるまい、と思うばかりに戸を叩くのが水鶏でしたら、開けたら
どんなに悔しい思いをしたことでしょう)
「とばかり」は「~と思うばかりに」と「戸だけを」の意を掛けています。

両者の間にこのような歌の贈答があったことで、「尊卑分脈」(南北朝時代に
成立した系図集)の藤原為時の女子の項(「 紫式部是也」とある)に、
「御堂関白道長妾云々」と記されたのであろうと考えられています。

実際に道長と紫式部がどのような関係だったかは、この贈答からだけでは
判断し難く、読む人の想像に任されているのが実情です。

あなたは「尊卑分脈」を肯定しますか?それとも否定しますか?


薫を抱く源氏の複雑な思い

2015年6月17日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第166回)

このクラスは、4月に「国宝源氏物語絵巻・柏木第一段」(女三宮が父の朱雀院に
出家を願い出ている場面)を、5月に「同・第二段」(柏木が夕霧に遺言をする場面)
を読みましたが、今日は「同・第三段」(源氏が、五十日の祝を迎えた薫を抱いている
場面)のところを読み、現存する「国宝源氏物語絵巻」の柏木の三段を、3ヶ月に渡り、
一段ずつご紹介することが出来ました。

     「国宝源氏物語絵巻・柏木第三段」
  柏木・第三段
誰一人、この若君(薫)が柏木似であることになど気付いていませんが、源氏は若君が
笑った時の目もとや口もとが「なほいとよく似通ひたりけり」(やはり柏木によく似ている
なあ)と思えてなりません。悲しみにうち沈んでいる実の祖父母の致仕大臣夫妻(柏木
の両親)に事情を知らせるわけにも行かないもどかしさ、あれ程将来を嘱望されながら
自ら身を滅ぼしてしまった柏木に対する不憫さ、それでも決して許すことの出来ない
密通の結果として生まれてきた子を、我が子として育てねばならない口惜しさ。それらの
交錯する思いの中で薫を抱く源氏の表情は、本当にそのように見えるので不思議です
(絵巻の人物は、皆「引き目鉤鼻」で同じ顔をしているにもかかわらず、です)。

上辺ギリギリのところに、薫を抱く源氏が、無理やりこの画面に入れんがために
上体を傾けたかのような不自然な姿勢で描かれています。右側には何もない空間が
広がり、左側の狭い空間に人がすべて集められているのも、しっくりとこない構図です。
これらが源氏の複雑な心情を象徴的に表していると言われ、源氏の表情が苦悶に
満ちて見えるのも、その効果かもしれません。

源氏は女三宮に、「こんな可愛い子どもを置いて出家などしてしまってよかった
のですか、情けないですねえ」と言い、さらに「誰が世にか種はまきしと人問はば
いかが岩根の松はこたへむ」(この子は大きくなって誰の子かと問われたら、何と
答えるのでしょう)と、意地の悪い歌を詠みかけます。女三宮が返歌のしようもなく
うつぶしてしまうと、「それでも、柏木が死んで、平静ではいられないはずだ」と、
嫉妬の念も手伝って、女三宮の柏木への愛を信じて疑わない源氏でした。
女三宮は柏木に愛を感じたことなど、一度もなかったのに…。

人は誰でも自分の尺度でしか物事を考えることが出来ない哀しい生き物であることを、
「源氏物語」は私たちに教えてくれているのです。


「夕霧」の巻の白眉ー紫の上の述懐ー

2015年6月13日(土) 淵野辺「五十四帖の会」

今年は空梅雨傾向なのでしょうか。しとしとと一日中雨の降る日がまだ
ありません。今日も晴天のもと、幹事さんの提案で、会場を「関口芭蕉庵」
に移しての講読会となりました。目白の椿山荘のすぐ近くで、この季節、
部屋の窓に映る青もみぢが綺麗でした。

「源氏物語」の講読会の記録は、進度がまちまちのため、話が分かり難い
かもしれませんね。進んでいる順に整理しておきます。

① 淵野辺「五十四の会」…第三十九帖「夕霧」の巻
② 八王子「源氏物語を読む会」…来月から「夕霧」の巻
③ 湘南台「源氏物語を読む会」…第三十六帖「柏木」の巻
④ 溝の口「源氏物語を読む会」・「湖月会」…第二十九帖「行幸」の巻
⑤ 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」…第二十五帖「蛍」の巻

⑤から①へ向かって読んでいただくと、話が前後しません。

さて、このクラスは一番進んでいるので、「夕霧」の巻も後半に入っています。
「夕霧」の巻は、源氏の息子・夕霧が、親友柏木の未亡人・落葉宮に恋をした
ことで起こる波紋を、登場人物それぞれの思いで描いている巻ですが、総じて
男たちの思いはみな身勝手で、保身に走っている印象を受けます。

そんな中、男たちの思いとは一線を画して光っているのが紫の上の述懐です。
「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし」(女ほど、
身の処し方も窮屈で、かわいそうなものはありません)

もちろんこれは、今回の夕霧の恋愛事件の当事者たちである、落葉宮と雲居雁
に寄せられた同情なのですが、それのみならず、当時の女性の生き難さに視点を
据えた発言と受け止めることが出来ます。紫の上晩年の人生の総括とも言えますし、
作者紫式部の女性観を端的に示したものとも言えると思います。

「紫式部日記」のほうに書きましたが、自分の溢れんばかりの才気を包み隠しての
窮屈な宮仕え、紫式部の鬱屈した思いを垣間見る気がいたします。

「女性も主体性を持って、きちんと発言できるようにしたい」と模索しながら、女一宮
(今上帝と明石の女御との間に生まれた第一皇女)の養育に当たっている紫の上の
思いは、紫式部が「源氏物語」という作品を通して、全女性に訴えかけたかったこと
ではないでしょうか。


何てったって「唐衣」ー末摘花の歌ー

2015年6月12日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第84回)

今日は「線路内立ち入りの影響による電車の遅れ」に二度遭遇しました。
一度目は家から出発時に田園都市線で。二度目は、講読会を終えて、
「都立中央図書館」に向かう途中の東横線で。こんな日もあるのですね。

溝の口のクラスは84回目を迎えました。ということは、丸7年が経ったことに
なります。

前回に続いて第二十九帖「行幸」を読みました。

大宮からのお便りに促されて、三条宮(大宮の邸)にお出かけになった内大臣は、
源氏から、玉鬘が内大臣の娘であるという、思いも掛けない事実を告げられました。
母親の病を理由に一度は断った玉鬘の裳着の腰結役も、もちろんお引き受けに
なったのでした。玉鬘は23歳にして、ようやく実父との対面が叶ったのです。

玉鬘の裳着に先立ち、大宮や秋好中宮、六条院の源氏の御夫人方から、
皆それぞれに趣向の限りを尽くして競い合われた最高の品々が、贈り物として
届けられて来ます。二条院の東の院にお住いの方々は、差し出がましいことに
なるとご遠慮なさった中で、ただ一人末摘花だけは、昔気質で、こうした時の
お祝いはするべきと心得て、玉鬘のもとに衣装を贈って来たのでした。

青鈍色(多くは喪服などに用いるので祝儀には不適切)や、紫色が退色して
白っぽくなったものなどを、平気でプレゼントしてくる尋常ではない神経に、
源氏も呆れ果てるしかありませんでした。

そして添えられている歌。
「わが身こそうらみられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば」(我が身が恨めしく
思われてなりません。あなたさまとは親しくしていただけないと思うと残念で)

彼女はこれまでも、源氏の新年用に、と古色蒼然とした衣装を贈り、
「唐衣君が心のつらければ袂はかくぞそぼちつつのみ」(あなたの冷たい心が
つらいので、袂がこんなにも涙で濡れるばかりです)
と、歌を詠んで来ました。(第六帖「末摘花」)

また、源氏から新年の衣装を贈られた時、それを届けた使者に煤けた
一枚きりの袿を禄として与え、託した源氏への手紙には次の歌が。
「きてみればうらみられけり唐衣返しやりてむ袖を濡らして」(着てみるとつい
恨めしく思わずにはいられません。私の涙で袖を濡らしてこの着物をお返し
してしまいとうございます)(第二十二帖「玉鬘」)

末摘花の歌はどんな時でも「唐衣」。それで今回、源氏が末摘花に贈った
返歌がこれでした。
「唐衣また唐衣唐衣かへすがへすも唐衣なる」(唐衣、はい、また唐衣唐衣
あなたはいつだって唐衣の繰り返しなのですね)

これを見た玉鬘も、さすがに笑いながら、「あないとほし。弄じたるやうにも
はべるかな」(まあ、お気の毒に。これではからかっているようですわ)と、
同情したのでした。

ここまで書いて作者は言います。「ようなしごといと多かりや」(つまらないお話
ばかりが多くなってしまいましたわね)

これは日頃の私でございます。今日も「ようなしごと」を控えていれば、「行幸」
を読み終えられていたかもしれないのに…。


今日の一首(6)

2015年6月10日(水) 湘南台「百人一首」(第9回)

関東も梅雨入りと報じられましたが、今日は早速の「梅雨の晴れ間」と
なりました。それでも、先月と比べると、湿度が高くなっているせいか、
過ごし難く感じられました。

今回は29番の凡河内躬恒の歌から32番の春道列樹の歌までを取り上げ
ました。秋や冬の季節外れの歌が三首、残りの一首だけが季節を問わない
恋の歌でしたので、この30番の歌を「今日の一首」に選びました。

有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
                        (三十番 壬生忠岑)
   壬生忠岑
(有明の月は素知らぬふりで、あなたも私につれなかった。
だから、あれ以来、暁の時ほど辛いものはないのです)

この歌では、「つれないのは何か」が古来問題とされて来ました。

①月がつれない ②女がつれない ③月と女の両方がつれない、の
三通りの解釈があるのですが、「古今集」では「逢はずして明けたる歌」
の歌群に入っており、「古今六帖」でも「来れど逢はず」のカテゴリーに
分類されています。江戸時代の国学者契沖らは、そのことからして、
「つれない」のは「逢ってくれない女」だと説いています。「古今集」時代の
解釈としては、これが正しいのだと思われるのですが、300年程時代が下り、
「新古今集」時代になると、この歌は後朝の別れの後の無情な月を詠んだ、
と解釈されるようになり、中世的官能美という付加価値を得て、定家(97番)や
家隆(98番)の絶賛の的となりました。

「これほどの歌一つよみ出でたらん、この世の思ひ出に侍るべし」(これほどの
名歌が生涯のうちに一首詠めたら、この世の思い出となるでありましょう」と、
定家はべた褒めしています。また、定家も家隆も、後鳥羽院(99番)から「古今
第一の歌はいづれぞ」(古今集の中で№1の歌はどれかね)と問われて、揃って
この歌を挙げた、と伝えられています。

ここまで来ると、本人の作歌意図などお構いなしに、歌が独り歩きしている感が
ありますね。忠岑も草葉の陰で苦笑していたかもしれません。

現在では、歌の口語訳に記したように、つれないのは月と女の双方、と解釈
するのが一般的です。

因みに、今日は旧暦の4月24日にあたり、ちょうど「有明の月」の頃になります。
晴れていれば、もう少しすると、東の空に月が掛かるはずですが…。


追記

日付が変わって6月11日。2:00過ぎに、少し雲に隠れているものの、
月が東の空に見えました。

2:30には、雲もなく、くっきりとした下弦の月(弦が下に来るのは入りの
時の形なので、この時間では弦は右上ですが)が掛かっていました。


絵巻に描かれた女性の正体は?

2015年6月4日(木) 八王子「源氏物語を読む会」(第112回)

今日は「鈴虫」の巻を1回で全部読み終えました。この巻を少し残すと、
テキストにしている本が、「鈴虫」迄で5冊目が終わり、次の「夕霧」からが
6冊目になるため、重い本を2冊持って来なければならなくなるので、
今回は何としても1回で読んでしまいたかったのです。さほど時間を延長せず、
予定をクリアーできました。全8冊の5冊目まで、一行も抜かさず音読してきて
いるのを、ご参加くださっている皆さまには、誇りにして頂きたいと思っています。

「鈴虫」は短い巻ですが、「国宝源氏物語絵巻」には二段残っていて、そのうちの
一つは、二千円札の裏にも使われています。今日ご紹介するのは、もう一つの
ほうです。

八月十五夜の夕暮に、仏前にもの思いにふけりながら念仏を唱えている女三宮と、
仏さまにお花をお供えしている若い尼君たち。そこへ源氏がお見えになります。
       鈴虫①
剥落がひどく、分かり難い絵になってしまっていますが、これがその場面を描いた
「国宝源氏物語絵巻・鈴虫第一段」です。

従来、右側の尼姿をしているのは女房で、左側の女性は女三宮だとされてきました
が、平成に入ってから行われた復元模写の過程で、女三宮と言われていた女性が
裳をつけていることがわかり、となると、これは女三宮ではない、ということになったの
です。こうした個人の屋敷内で裳をつけるのは、女房が主人の前に出る時のマナーで
あり、主人の女三宮にはあり得ないことでした。

では、一体この女性の正体は誰なのか?

女三宮の姿は「柏木・第三段」の絵巻(薫の五十日の祝の場面)にも描かれておらず、
既に出家した女三宮は絵巻に描かれる意義を失ってしまったがゆえに、左下に着物の
裾だけが描かれている源氏にとって、女三宮が欲望の対象とはなり得ないことを強調
するため女房を描いたのではないか、とする説や、ここに描かれている二人の女房が、
それぞれ、出家前と出家後の女三宮の姿を象徴的に暗示しているのではないか、と
する説などが出されていますが、これはまだ結論を得るには至っておりません。


源氏の物語論

2015年6月2日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(統合41回 通算91回)

記録的な暑さの5月も終わり、今日から6月の例会が始まりました。トップを切って
第1火曜日に例会を行っている高座渋谷の「源氏物語に親しむ会」がありました。

今回は第二十五帖「蛍」の巻の後半を読みました。
ここで注目すべきは、何と言っても源氏の口を通して語られる「物語論」です。

五月雨(今の梅雨)の頃、長雨の所在なさに、六条院でも御夫人方が皆物語に
興じて一日をお過ごしでした。ましてや、これまで九州の田舎で育った玉鬘は、
物語に接する機会もほとんどなかったのでしょう。若い女房たちに書写させては、
夢中で読み耽っています。

数奇な運命に翻弄される物語の姫君たちだって、自分ほど波乱万丈な身の上
ではない、と、自身を照らし合わせて物語をリアルに受けとめている玉鬘でした。

そこへ源氏がやって来て、「女はよくもまあ、こんな嘘ばかりを書いたものを喜んで
読むものだねえ。」と、からかい半分に玉鬘に声を掛けます。

玉鬘はムキになって反論します。「げにいつはり馴れたる人や、さまざまにさも
くみはべらむ。ただいとまことのこととこそ思うたまへられけれ」(ほんに、いつも
嘘をつき慣れている人には、物語に書かれているいろんなことが嘘に思えるの
でしょうね。私にはただもう本当のこととしか思えませんわ)

そこで源氏が「いやいや、ごめん、悪かった」と言わんばかりに、前言を翻して、
新たな物語論を展開します。これこそが源氏の(=紫式部の)物語論、と
言うべきものです。

日本書紀のような正史に書かれていることは、この世に起こったことの片端に
過ぎず、物語の中にこそ人間の姿が伝えられておりましょう。物語は、作者が
見聞して自分の胸一つには収めていられなくなった人の生き様を、後世の人にも
伝えたい、と思って書くものだからです。善人だから、悪人だからと言って、読者に
おもねようとして、偏った書き方をしたものは真実とは言い難いものです。

まさに、この理論に従って書かれたのが「源氏物語」なのです。
「源氏物語」には、460名余の人物が登場し、人生を全円的にとらえて描き切って
います。また、「源氏物語」には根っからの悪人は登場しません。憎まれ役のように
思われている弘徽殿女御ですが、誰だって彼女の立場になれば、桐壺の更衣や
源氏を憎くなって当たり前のはずです。

それまでは、「婦女子の慰み物」、今で言うなら、ゲームやコミックのような
サブカルチャー的感覚で捉えられていた「物語」の認識を覆し、千年経った今も
そこに描かれている人間模様のリアリティーに頷くしかない「源氏物語」。
本当に「読まなきゃ損々」と、声を大にして言いたいです。


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