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百人一首かるた大会

2016年2月29日(月) 溝の口「百人一首」(番外の「かるた大会」)

これまで、第5週目の月曜日か金曜日に、ということで行って来た「百人一首」講座の
フィナーレに相応しく、ちょうど第5月曜日が4年に一度の閏年の2月29日となりました。
しかも倍率の高い高津市民館の和室が運よく確保できたので、皆さまに「かるた大会」
を楽しんで頂きました。

13:30開始でしたが、13:00頃から三々五々、参加者のお姿が見え始めました。
「百人一首」を書いたメモなどに目を通しておられる方もチラホラ。

今回は源平合戦で一組8名(源氏チーム、平氏チームそれぞれ4名ずつ)、五組で
勝負を競いました。

先ず、読み手にお迎えした元競技かるたの選手だった方に、かるたの並べ方や、
競技のルールを説明して頂いて、いよいよ開始。

最初のうちは、歌が読み始められると、皆さま必死でかるたを探しておられましたが、
後半に入ると、かるたが少なくなって来て、スピードもグーンとアップ。

優勝チーム、準優勝チーム、3位チームと決まって、以下はじゃんけんで順位決め
をしました。

優勝チームから順に参加賞の「光琳かるた」を選んで頂きました。やはり、お姫様札
の人気が高く、最後に残った札にお姫様はありませんでした。今日ご都合が悪くて
ご参加になれなかった皆さま、ごめんなさい。この残った札から一組づつ、後日
差し上げることになります。

その後、休憩を挟んで、表彰式をしました。優勝チーム、準優勝チーム、皆勤賞、
準皆勤賞の方々には、ささやかながら、賞状と記念品が授与されました。

最後に、全員で記念撮影。ブログUPの許可も頂きましたので、写真を掲載します。
皆さま、いい笑顔です!!
        
          百人一首かるた会
 
カルトナージュで作った光琳かるた用のスタンドに、早速かるたが入ったところを
見せて頂きました。
          かるたスタンド

「かるたスタンド」の講習会は、3月25日(金)にもう一度あります。まだ若干名は
受け付けて頂けると思いますので、ご希望の方はご連絡ください。

これで、溝の口の「百人一首」はすべて終了です。3年半余りの長きにわたり、
有難うございました

  

舞楽鑑賞

2016年2月27日(土)

12月に淵野辺の「五十四帖の会」の幹事さんから、今回の舞楽のご案内があって、
その場で希望者を募り、メンバーのお一人がチケットの予約を引き受けて下さった
おかげで、スムーズに今日の舞楽鑑賞の運びとなりました。

「大曲 春鶯囀〈しゅんのうでん〉一具」が国立劇場で上演されるのはおよそ50年
ぶりとあって、大劇場は満席状態。私たち「源氏物語」を読んでいる者にとっては、
光源氏が物語の中で舞っていることにより、「青海波」と共に興味を掻き立てられる
舞楽となっています。

プログラム構成は、クラシック音楽の演奏会と似ていて、最初に短い「振鉾〈えんぶ〉」、
次に「長保楽〈ちょうぼうらく〉」(コンチェルトに相当)が演じられて休憩。後半に
一時間近い「大曲 春鶯囀 一具」(シンフォニーに相当)が演じられました。

一具というのは、雅楽における楽章、「序破急」を網羅した大曲のことで、
左方(左舞・唐楽)、右方(右舞・高麗楽)にそれぞれ4曲ずつ、計8曲があります。

舞台には日輪の大太鼓と月輪の大太鼓が置かれていて、左舞の時には日輪、
右舞の時には月輪のほうが叩かれます。大太鼓の装飾もとても綺麗でした。
今日の場合は「長保楽」は右舞なので月輪の大太鼓が、「春鶯囀」は左舞なので、
日輪の大太鼓が叩かれていました。よく見ていると、足捌きも、左舞は左足から、
右舞は右足から舞い始めるのがわかります。

残念ながら、私も舞楽の鑑賞回数は数えられるほどしかないので、未だ雅楽の
曲目を聴き分けることができません。でも、ゆったりとしていながら力強さのある
所作と相俟って、舞楽は心地よく千年の時を超え、王朝文化の世界へと我々を
いざなってくれたのでした。
             
              DSCF2526.jpg
           

「広岡浅子展」

2016年2月25日(木)

最高気温が7度という、真冬に戻ったような寒い一日でしたが、
母校・日本女子大学で展示中の、広岡浅子が創立者・成瀬仁蔵に
送った20通にも及ぶ手紙を、やはり卒業生である姉と共に見て参りました。

先ずは姉がお薦めの、東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅近くのイタリアン、
「Ristorante La Barrique TOKYO」(リストランテ ラ・バリック トウキョウ)で、
待ち合わせてランチをいただきました。

ビルの駐車場を抜けた所にある日本家屋で、一見和食のお店のような
佇まいです。引き戸の玄関から入ると三和土になっていて、靴を脱ぐのか
と思いきや、「どうぞお靴のままで」と、案内されました。
       
         DSCF2520.jpg

可愛い二品のアミューズから、デザートに至るまで、とても丁寧に工夫された
お料理ばかりで、縁側に続く和風のお部屋でいただくイタリアンは、お味も、
雰囲気もとても良いものでした。この辺りで上質なレストランを、という時には
イチ押しですね。

写真はメインディッシュの「天然真鯛のロースト」。お店の和の感じも、と思い、
この位置から撮りましたが、もう少しお庭のほうにカメラを向けるべきでした。

江戸川橋から日本女子大迄は「B-グル」という、文京区のコミュニティバスで
移動しました。これがとっても便利。

NHKの朝ドラ「あさが来た」ですっかり知名度の上がった広岡浅子ですが、
私はこれまで、この方のことを知りませんでした(卒業生のくせして、こんな
こと、大きな声で言うのは恥ずかしい・・・)。

展示会場の成瀬記念館には、結構大勢の人が見えていて、皆さま熱心に
書簡や、写真をご覧になっていました。詳しい説明も添えられていたので、
広岡浅子の尽力無くして日本女子大学の誕生は難しかったであろうことも、
よく理解できました。写真で見る限り、如何にも「女傑」という印象を受けますが、
意外にも筆跡は繊細で、達筆です。手紙の保存状態の良さにも驚きました。

         DSCF2521.jpg

この案内板にも「会期延長」と書かれていますが、最初3月4日迄の予定だった
展示は、好評につき4月8日迄延長になったとのこと。別に卒業生でなくても
誰でも入館できますので、ご興味のある方はぜひ行らしてみて下さい。


長いトンネルの先の光

2016年2月22日(月) 溝の口「湖月会」(第92回)

昨日は「暖」、今日は「寒」、まだまだ気温の乱高下が続いています。
今週は余寒を感じる日のほうが多そうな予報です。

「湖月会」は予定通り、2月12日(第2金曜日)と同じところを読み、
「梅枝」の巻を読了いたしました。次回より、第一部の最後の巻
「藤裏葉」に入ります。

12日のほうでは、明石の姫君のお嫁入り道具のことを書きましたので、
今日はそのあとに書かれている、夕霧と雲居雁の話をお伝えしましょう。

第21帖「少女」の巻で、内大臣は、あわよくば東宮妃に、と考えていた
娘の雲居雁が、夕霧と恋に落ちていることを知り激怒、二人を引き離す
ため、雲居雁を自分の邸に連れて行ってしまいました。夕霧12歳、
雲居雁14歳の時のことでした。

あれから6年、夕霧には右大臣家や中務の宮家から、「ぜひ娘の婿に」
という話が舞い込んでまいります。源氏も夕霧はそろそろ身を固める
時期だと思い、この縁談を勧めますが、一途に雲居雁を思っている
夕霧には全くその気はありません。

一方の内大臣家では、夕霧に中務の宮家との縁談が持ち上がって
いると、女房から聞かされ、内大臣はとてもショックをお受けになりました。
夕霧が他家の婿となってしまえば、すでに二人の仲は世間でも周知の
こととなっており、雲居雁は行き場を失ってしまいます。それでも今更
頭を下げて源氏に願い出るのも人聞きの悪いことだ、と、内大臣は
雲居雁にもその話をして、嘆き合っておられました。

父・内大臣が部屋を出て行かれた後も、悩みながら物思いに耽っている
雲居雁のところに、ちょうど夕霧からの手紙が届きました。

「つれなさは憂き世の常になりゆくを忘れぬ人や人にことなる」(あなたの
冷淡さはつらいこの世の習いとなって行きますが、それでもあなたを
忘れられない私という者は、世間の人とは異なっているのでしょうか)

と書いてあるのを見て、中務の宮家の姫君との縁談のことなど、まったく
触れていないのに、雲居雁は、「何よ、しらばっくれて」と、カチンときます。
そこで雲居雁は

「限りとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく心なるらむ」(お手紙では
忘れられない、なんて言いながら、もうこれっきり、と私をお忘れになって
しまうのも、それこそ世間になびく人の心というものでしょう)

と、返事をします。夕霧は他からの縁談のことなど全く意に介していない
ので、雲居雁の歌の意味が理解できません。

「あやしと、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり」(妙なことが書いて
あるなあ、と手紙を下にも置かず、首をかしげながら、座ってご覧に
なっていました)というところで、「梅枝」の巻は終わります。

引き裂かれて6年、長いトンネルの先にようやく光が見えて来たようです。
「藤裏葉」の巻はこの続きから始まりますので、そこはまた来月に・・・。


恋は神頼みでは収まらない

2016年2月19日(金) 溝の口「伊勢物語」(第8回)

このところの気温の乱高下には身体を適応させるのも大変ですが、
今日はその「高」のほうで、ダウンを脱いで少し薄めのコートに
しましたが、それでも帰りの電車の中では汗ばむほどでした。
明日はまた「下」になって寒い一日となるそうです。参りますね。

「伊勢物語」も中盤で、今回は第60段から第65段までを読みました。

第65段は、「伊勢物語」の中では最も長い段で、話は前半と後半に
分れています。前半では、まだ殿上童をしているような年若い男が、
帝の寵妃を恋い慕い、女がどこに居ようと逢いに行くようなことばかり
していたので、さすがに、このままでは身を滅ぼしてしまう、と思い、
陰陽師に頼んで、「恋せじ」(恋をするまい)という禊をしてもらいました。
でも、何の効果もなく、それどころか今まで以上に女のことが恋しくて
たまらず、「恋せじと御手洗川〈みたらしがわ〉にせし禊 神はうけずも
なりにけるかな」(もう恋はするまい、と御手洗川で禊をしたが、神様は
私の願いを受け入れてはくださらなかったんだなぁ)と歌を詠んだのでした。

       0065宗達(第65段・恋せじの禊)

この場面は多く絵に描かれていますが、やはり「宗達伊勢物語図色紙」は
川の描き方のダイナミックさもあって、他とは異なる斬新さを感じさせます。
また、同じ宗達の絵の中でも、ここでの男は、他の段には見られない、とても
可愛らしい、まだ幼さを残す年齢であることを、本文に即して描いているのが
下記の拡大した絵で比較してみると、おわかり頂けるかと思います。

0065宗達(第65段・恋せじの禊)  0007宗達・第7段
          第65段                       第7段


大事な手紙が見つかるまで

2016年2月17日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第174回)

今年はまだ花粉の影響を受けずに過ごして来ましたが、先程、初めて
目が痒くなり、目薬を差しました。そろそろ飛散が本格化するのかと
思うと憂鬱です。

今回の湘南台クラスは、昨年の4月11日の淵野辺クラス、8月6日の
八王子クラスと同じ、「国宝源氏物語絵巻・夕霧」に描かれている場面を
中心に読みました。この絵です。
      夕霧(1)

雲居雁が背後から忍び寄って、夕霧が読もうとしている御息所(落葉の宮
の母)からの手紙を奪い取った後、夕霧がその手紙を発見するまでの、
丸一日近い間のことを、今日は書いておくことにいたしましょう。

夕霧はここで慌てふためき、「返せ!」などと言おうものなら、一層雲居雁の
疑いを深めると思い、「それは花散里からのお手紙だ。御覧なさい、どう見て
もラブレターではないでしょう?」と、すぐさま取り返そうともしません。「私程の
地位のある男が妻一人を守っているなんて、却ってみっともない話ですよ。
あなただって大勢の妻の中で特別扱いされてこそ、見栄えもよいというもの
でしょうに。」と言う夕霧に、「その見栄えをよくするには、こんなおばあさんで
悪うございましたわね。何よ、最近は若返ったように浮き浮きしちゃって。私は
そんなのには慣れておりませんので。」と、雲居雁も負けてはいません。

「とかく言ひしろひて」(あれこれと言い合いをして)その挙句、雲居雁が
どこかに手紙を隠してしまいましたが、夕霧は素知らぬふりをして、
寝床につきました。でも、御息所からの手紙のことが気になって眠れません。
雲居雁が熟睡しているのを確かめて、そっと起き出し、目ぼしいところを
探してみるものの、見つけられませんでした。このあたりも、ホームドラマの
一場面を見ているかのようです。

翌朝になると、大勢の子供たちの相手に追われて、雲居雁はすっかり手紙の
ことなど忘れてしまっています。困り果てた夕霧は雲居雁に「夕べの手紙には
どんなことが書いてあった?花散里にお返事をしなきゃいけないから。」と
尋ねますが、ラブレターと勘違いして手紙を奪うなんてバカげたことをした、と
思っている雲居雁は、「さあ、小野の深山風に当たって具合が悪くなりました、
とでも風流ぶってお書きになったら。」と、話をはぐらかしてしまいます。

雲居雁のご機嫌を取るために、一緒に昼寝をして目が覚めたら、もう日暮れ。

御息所からの手紙には、一体何が書いてあるのだろう?せめて今日中に
お返事だけでもしなければ、と、墨を擦りながらふと自分の座布団をみると、
少し後ろが持ち上がっているのに気づき、そこをめくってみると、ありました。
ようやく手紙を発見したのです。

読んで、御息所がすっかり誤解なさっていることを知り、びっくりするやら、
おいたわしいやら。悩んだ末、「坎日〈かんにち〉」は縁起が悪い、と思って
自らは足を運ばず、手紙だけを使者に持たせます。結果としてはそれで
御息所が亡くなってしまわれることになるのは、4月11日の記事に書いた
通りです。


故致仕大臣家の物語

2016年2月13日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第122回)

今日は四国だけで、関東の「春一番」は報じられませんでしたが、明日は
もっと気温も上がり、風も強まるとのことですので、「春一番」になるかも
しれませんね。

淵野辺の「五十四帖の会」は、先月より第三部に入っており、今月は第43帖の
「紅梅」の巻を読みました。

この巻は、故致仕大臣(もとの頭中将)家の後日談を語っています。

「源氏物語」がスタートした時、この家の当主は左大臣、北の方は大宮でした。
お二人の間には頭中将と葵の上があり、源氏は葵の上と結婚をしました。

左大臣亡き後当主となったのが、故致仕大臣(もとの頭中将)です。
彼は、源氏とは従兄弟(源氏の父・桐壺帝と頭中将の母・大宮は兄妹)で、
義理の兄弟で、親友で、かつライバルでもありました。

頭中将は蔵人少将の時、右大臣家の四の君を妻とし、その長男が「柏木」、
次男が「紅梅の大納言」です。頭中将は第一部、第二部を通して、常に
源氏の傍らにあって存在感を示し続けました。頭中将から三位の中将、
宰相の中将、権中納言、内大臣、太政大臣、致仕大臣など、この人には
通称がないため、その都度呼び名を替えて行かなければならないのが
厄介なのですが、一般的には「頭中将」と呼ばれています。第三部では
既に故人なのですから、やはり「故致仕大臣」と呼ぶのが相応しいかと
思います。

本来なら「故致仕大臣家」は嫡男である柏木が継ぐはずでしたが、彼は
ご存知のように、女三宮への道ならぬ恋に身を滅ぼし、若くして世を去りました。
それで、第三部では、次男の「紅梅の大納言」が当主として登場することに
なるのです。

「紅梅」の巻は年立てとしては、「宇治十帖」の「椎本」~「総角」の巻と重なり、
「幻」の巻(源氏52歳)から数えると、18年後の話ということになります。

紅梅の大納言は先妻を亡くし、再婚をしています。その再婚した相手というのが、
あの「真木柱」なのです。「真木柱」の巻で12、3歳の少女だった彼女も、45、6歳
という、当時としては初老の女性となっています。

この巻で書かれている真木柱のその後につきましては、また他のクラスで
読んだ時に記すことにいたしましょう。

今日は「故致仕大臣(頭中将)家」の人間関係を整理しておきました。


明石の姫君のお嫁入り道具

2016年2月12日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第92回)

目を見張るほどのお嫁入り道具、と言うと、昨年4月に「徳川美術館」で
公開された「初音の調度」が真っ先に思い出されますが、「源氏物語」の
「梅枝」の巻で、源氏が愛娘・明石の姫君の東宮入内に際して整えた品々も、
驚くばかりのものなので、今日はそれをご紹介しておきましょう。

先月、薫物(お香)のことは書きましたが、源氏が、風雅の道に長けた
方々にお願いして作って頂いた薫物の中から、弟の兵部卿の宮に判定を
して貰って、特に優れた香りのものをお選びになりましたね。

今月は、それに続くところです。先ず、源氏自身がお道具類の雛形や、
図案などに目を通されて、それを、最高の技術を結集して作らせなさい
ました。

出来上がった調度の一つの「草子の筥」(綴じ本を収めておく蒔絵や螺鈿を
施した箱)には、そのまま姫君が書のお手本にもできそうなものを、と、
源氏の手許に沢山ある名だたる書家の書き残した歌集などの中から選んで
お入れになりました。

続いて源氏は、まだ書写されていない新しい草子も、薫物の時と同じように
めぼしい方々にご依頼になり、ご自身も筆を振るわれたのでした。

こうして用意されたお嫁入り道具は「よろづにめづらかなる御宝物ども、
人の朝廷までありがたげなる」(すべてにおいて珍しいお宝物が揃い、
異国〈中国〉の朝廷でさえ、めったにないような)品々が揃いました。

最後に、絵をご用意になったのですが、例の須磨の絵日記だけは、
子孫にも伝えたいとお思いにはなっているものの、まだ、姫君には
あの頃の事情を理解できないだろう、とお考えになって、お加えに
なりませんでした。

これは物語上の話ですが、実際にも、道長の娘・彰子が一条天皇に
入内した際のお支度は「いといみじうあさましう、様ことなるまで、
しつらはせ給へり」(たいそうあきれるほど、普通とは異なったしつらえ
ぶりでした)と、「栄華物語」に書かれており、一条天皇もその嫁入り道具の
見事さに惹かれて、夜が明けるとすぐに彰子のもとにお渡りになって、
ご覧になっていた、とあります。

平安貴族の姫君の入内は、お家の威信をかけたものでしたから、父親の
力の入れようも尋常ではなかったのでしょう。「梅枝」の巻はそうした事情を
知る資料としての一面も持っている巻です。


今日の一首(18)

2016年2月10日(水) 湘南台「百人一首」(第17回)

立春から一週間、名のみの春の毎日が続いていますが、この週末は
気温がグーンと上昇するとの予報が出ています。これからは三寒四温
を繰り返しながら、本格的な春へと近づいて行くのでしょうね。

溝の口の「百人一首」は終了しましたが(あとは2/29のかるた会だけ)、
湘南台は今が佳境です。今回も61番の「伊勢大輔」から64番の「定頼」まで、
エピソードに事欠かない歌が勢揃い!!「今日の一首」の選択も悩みました。

でも、前回「紫式部」を選んで、「清少納言」を選ばなかったら、やはり片手落ち
な気がしますので、「今日の一首」は清少納言のこの歌です。

「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ」
                        (六十二番 清少納言)
      清少納言
(まだ夜深いうちに、鶏の鳴きまねをしたところで、おバカさんな
函谷関の番人ならともかく、逢坂の関の番人は決して関を通して
くれたりはしませんわよ)

この歌は、詠まれた背景を知って、初めて歌の意味も、面白味も
理解できる歌で、ただ歌一首だけを読んだところでピンとはきません。

「枕草子」を読まれた方ならご存知の話ですが、藤原行成が清少納言
のところで、おしゃべりに興じていたところ、すっかり夜も更けてしまい、
「明日は宮中が物忌なので、それまでに戻ってなくちゃいけないから」と、
行成は帰って行きました。翌朝、行成から「昨日はあなたと徹夜で話が
したかったけど、鶏の声に催促されちゃってね」と、手紙が来ました。
そこで、清少納言が「あら、あんな夜深い時に鳴く鶏は、孟嘗君の手下の
者が真似たっていう鶏の声でしょ」と、返事をすると、すかさず行成から
「孟嘗君の手下の者が真似た鶏は、函谷関を開かせて皆が逃げ果せた、
とあるけれど、これはあなたと私が逢う『逢坂の関』ですよ」と言ってきたので、
それに対して詠んで遣ったのが、この一首です。

「枕草子」の話はまだ続き、行成が返歌をして来ます。
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」
(逢坂は誰でも通行自由なので、鶏が鳴かなくても関の戸を開けて
待っていると聞いていますけど…)

これは「あなたはどんな男性でも受け入れるってことですよ」という
随分あけすけな内容だったので、清少納言は無視して歌も隠して
しまいました。やって来た行成が「あなたの歌をみんなに見られて
しまったよ」と言うので、「嬉しいわ、良い歌は広まってこそ甲斐も
あるもの。逆に酷い歌が広まるのは悲しいことだから、あなたの
『逢坂は~』の歌は誰にも見せていませんことよ」と、清少納言は
答えました。

行成は「いやぁ、あんな拙い歌を贈って、誰かに見られたら困るなあ、
と思っていたし、あなたに無断であなたの歌を披露したことも責められ
るんじゃないかと思っていたけど、やっぱり、あなたは並みの女とは
違うねぇ」と感心したのでした。

この手の「私って、褒められちゃったぁ」的エピソードは他にも沢山
「枕草子」に書かれています。

本当は、清少納言と中宮定子に関わる話題にも触れたかったのですが、
今日の講座でも時間がなかったのが残念でした。

未読の方にはぜひ「枕草子」をお読みいただきたいと思います。
「源氏物語」とはまた別の魅力が発見できること請け合いです。



紫の上の死ー「消えゆく露のここちして・・・」

2016年2月4日(木) 八王子「源氏物語を読む会」(第120回)

今日は立春。暦の上では「春」を迎えたわけですが、1月半ばまでの暖冬が
嘘のような、寒さ厳しい春の初日となりました。それでも、駅へ向かう道を
歩いていると、日差しの中に「少し春ある心地こそすれ」と感じました。

2月に入ると、デパートはどこもバレンタイン商戦で、この時とばかり、
チョコレートが売られています。「源氏の会」でも、やはりチョコレートが
集まりがちで、今日のクラスでは4種類のチョコレートが並びました。
どれも美味しくいただきましたが、他では無いのはこれ。

          DSCF2514.jpg

12月に「徳川美術館」を訪れた際、我々日帰り組が帰った後、1泊組の皆さまは、
まだ時間もあったので、ゆっくりとミュージアムショップなどもご覧なったとのこと。
このチョコレートもそこでお求めになったそうです。

「9枚入りなので分けられないから」とおっしゃって、私が頂戴してまいりましたが、
綺麗で、すぐに開けてしまうにはあまりにも勿体なく、どうしたものかと思案中です。

さて、講読会のほうですが、先月に続き「御法」の巻を読みました。来月は第二部
の最後の巻「幻」に入ります。

昨年の5月20日のブログで、「源氏物語」に書かれている4つの象徴的な死のうち、
「藤壺」と「柏木」の死についてご紹介しました。今回、3番目の「紫の上の死」の
場面を読みましたので、それをを取り上げておきたいと思います。

9月12日の記事に書きましたように、紫の上は、源氏と、養女として育てた明石中宮
と、三人で和歌を唱和したのち、明石中宮に手を取られて息を引き取ります。

自らを「風に乱るる萩の上露」と辞世の歌に詠んだ紫の上は、「消えゆく露のここちして~
消え果てたまひぬ」と、本当に露が消え落ちるように亡くなられたのでした。

女三宮の降嫁以来、六条院に吹き荒れた風にさらされ続けた紫の上の死を象徴する
には「露」より他に譬える物はなかったでしょう。

4番目の宇治の大君の死も、ここに一緒に書こうかと思いましたが、長くなりますし、
やはり読んだところで書くほうがよさそうですので、「総角」の巻までお待ちください。


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