年の瀬・2017
2017年12月30日(土)
ブログを書き始めて三度目の年の瀬となりました。
2015年は「数え日となって」と題して、私にしてはかなり余裕のある年末を
お伝えしました。2016年は「くたびれ果てて年の暮れ」、これは情けなかった
ですね。
今年はまあ、その中間位でしょうか。245枚書いた年賀状を、今日の明るい
うちに投函できたのが、去年よりも上出来だと思います(それでも元日に
届くのは難しいかな?)。
ここ数日は毎年のことながら、ずっと時間に追われて過ごしています。
大掃除、お節料理のための買い出し、年賀状、お正月の飾りつけ等々。
このところ、膝の痛みが収まってくれているので助かります。今、台所
からは黒豆の煮えるにおいがして来ます。
明日はいよいよ大晦日。先日電車内の広告で、今年のテレビ東京の
カウントダウンの曲は「展覧会の絵」、バレエを踊るのはロシアの生んだ
名花ザハロワだと知りました。これは見逃せません。一昨年のギエムの
ボレロもそうでしたが、カウントダウンを録画はないですよね。願わくは、
菜箸片手ではなくて、この時間までにおせち料理を作り終え、ゆっくりと
テレビの前に座って見たいものです。さあ、上手く行くでしょうか。
この一年、ブログにお付き合い下さった皆さま、本当に有難うございました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
また来年も、新年のご挨拶からスタート出来れば、と思っております。
引き続きよろしくお願い申し上げます。
ブログを書き始めて三度目の年の瀬となりました。
2015年は「数え日となって」と題して、私にしてはかなり余裕のある年末を
お伝えしました。2016年は「くたびれ果てて年の暮れ」、これは情けなかった
ですね。
今年はまあ、その中間位でしょうか。245枚書いた年賀状を、今日の明るい
うちに投函できたのが、去年よりも上出来だと思います(それでも元日に
届くのは難しいかな?)。
ここ数日は毎年のことながら、ずっと時間に追われて過ごしています。
大掃除、お節料理のための買い出し、年賀状、お正月の飾りつけ等々。
このところ、膝の痛みが収まってくれているので助かります。今、台所
からは黒豆の煮えるにおいがして来ます。
明日はいよいよ大晦日。先日電車内の広告で、今年のテレビ東京の
カウントダウンの曲は「展覧会の絵」、バレエを踊るのはロシアの生んだ
名花ザハロワだと知りました。これは見逃せません。一昨年のギエムの
ボレロもそうでしたが、カウントダウンを録画はないですよね。願わくは、
菜箸片手ではなくて、この時間までにおせち料理を作り終え、ゆっくりと
テレビの前に座って見たいものです。さあ、上手く行くでしょうか。
この一年、ブログにお付き合い下さった皆さま、本当に有難うございました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
また来年も、新年のご挨拶からスタート出来れば、と思っております。
引き続きよろしくお願い申し上げます。
絵巻が伝える源氏の苦悩
2017年12月25日(月) 溝の口「湖月会」(第114回)
今日で今年の仕事納めとなりました。
おかげさまで、月9回の講読会(源氏物語8回、枕草子1回)は、一度の
休講もなく、全108回を無事に終えることが出来ました。
本年最後の講読会は、溝の口の「湖月会」となりましたが、このクラスは
第2金曜日のクラスと同じ進度で読んでいますので、今日は「柏木」の巻
の後半、柏木が亡くなった後の話を読みました。
柏木の死後も、月日は変わることなく流れ、女三宮の産んだ若君(のちの薫)
は、五十日(いか)の祝いの日を迎えます。
丸々と肥って、色白でこの上なく可愛い赤ちゃんです。源氏が抱き上げると、
にこにこと笑います。誰一人として気づいている人はいませんが、やはり
思いなしか柏木によく似ていると感じられるこの若君を、我が子として育てて
行かねばならない源氏の思いは複雑でした。
国宝「源氏物語絵巻」柏木・第三段に描かれている場面です
2015年11月13日に、徳川美術館から、「この絵は、修復作業の過程で、
下絵がくっきりと浮かび上がり、下絵の段階では、薫の両手が源氏のほうに
伸ばされていることが判明した」と、発表されました。
新聞に掲載された「徳川美術館」の四辻学芸部長の談話には、「薫が実の子
ではないと知りつつ受け入れようとする源氏の複雑な心境を表現するには、
薫がほほ笑んで手を伸ばさないほうが良いと判断したのでは」、とありました。
画面上辺ギリギリに、倒れ込むような不安定な姿勢で描かれた源氏と、赤子(薫)
の、無邪気に源氏のほうへと手を伸ばした手を塗りつぶし、襁褓の中で静かに
眠る姿に描き直したことで、この絵は、より源氏の遣り場のない複雑な思いを
伝えることに成功したのではないでしょうか。
今日で今年の仕事納めとなりました。
おかげさまで、月9回の講読会(源氏物語8回、枕草子1回)は、一度の
休講もなく、全108回を無事に終えることが出来ました。
本年最後の講読会は、溝の口の「湖月会」となりましたが、このクラスは
第2金曜日のクラスと同じ進度で読んでいますので、今日は「柏木」の巻
の後半、柏木が亡くなった後の話を読みました。
柏木の死後も、月日は変わることなく流れ、女三宮の産んだ若君(のちの薫)
は、五十日(いか)の祝いの日を迎えます。
丸々と肥って、色白でこの上なく可愛い赤ちゃんです。源氏が抱き上げると、
にこにこと笑います。誰一人として気づいている人はいませんが、やはり
思いなしか柏木によく似ていると感じられるこの若君を、我が子として育てて
行かねばならない源氏の思いは複雑でした。
国宝「源氏物語絵巻」柏木・第三段に描かれている場面です
2015年11月13日に、徳川美術館から、「この絵は、修復作業の過程で、
下絵がくっきりと浮かび上がり、下絵の段階では、薫の両手が源氏のほうに
伸ばされていることが判明した」と、発表されました。
新聞に掲載された「徳川美術館」の四辻学芸部長の談話には、「薫が実の子
ではないと知りつつ受け入れようとする源氏の複雑な心境を表現するには、
薫がほほ笑んで手を伸ばさないほうが良いと判断したのでは」、とありました。
画面上辺ギリギリに、倒れ込むような不安定な姿勢で描かれた源氏と、赤子(薫)
の、無邪気に源氏のほうへと手を伸ばした手を塗りつぶし、襁褓の中で静かに
眠る姿に描き直したことで、この絵は、より源氏の遣り場のない複雑な思いを
伝えることに成功したのではないでしょうか。
「紫のゆかり」の物語始まる!
2017年12月21日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第21回・№2)
「源氏物語」の第一部(光源氏の誕生から栄華を極めるまでの33帖)は、
大河の本流にあたる「紫の上系」と、支流にあたる「玉鬘系(帚木系)」の
二つの系統に分けて考えることが出来るのですが、先ず第1帖「桐壺」で、
主人公光源氏の誕生、母・桐壺の更衣の死と、その母によく似た源氏の
永遠の女性・藤壺の登場、源氏の元服(12歳)と葵の上との結婚までが
語られ、第2帖~第4帖(帚木・空蝉・夕顔)は「帚木三帖」と呼ばれ、一旦
本流を離れた、源氏と中の品の女性たちとの物語となっていました。
第5帖「若紫」で、物語は本流へと戻ります。
「紫式部日記」の寛弘5年(1008年)11月1日の条に、公任が紫式部を探し、
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(もしもし、この辺りに若紫さんは
いらっしゃいますか)と呼びかけた記述があります。「若紫」は、当然この巻を
指しているはずです。この「若紫」という呼びかけが、「源氏物語」が既に執筆
されていた根拠として「源氏物語千年紀」に採用され、2008年の11月1日には
京都で式典が催されました。今では11月1日は「古典の日」となっています。
また、「更級日記」の作者・菅原孝標女は、「源氏物語」が読みたくてたまら
なかった少女時代を回想する所から筆を起こしていますが、そこに「紫の
ゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど」(紫のゆかりを読んで、その
続きが読みたいと思うけれど)と書いており、おそらくここでの「紫のゆかり」
も「若紫」の巻のことを言っていると思われます。
これらのことは、「若紫」、「紫のゆかり」と言えば、イコール「源氏物語」と
理解されていたことを示すもので、「若紫」の巻が、「源氏物語」という長編
物語の根幹をなす巻として受け止められていたのがわかります。
「紫」(源氏にとっての藤壺)の「ゆかり」(縁者、つながり)とは、後の「紫の上」、
即ち、この巻で源氏が初めて出会う少女が、実は藤壺の姪(=ゆかり)であり、
彼女が二条院に引き取られて源氏と交わす贈答歌にも「ゆかり」という語が
使われているところから、称されたものでありましょう。
今回は、「若紫」の巻の冒頭部分を、「平安朝日本語復元による試み」の朗読
テープ(言語監修:金田一春彦 朗読:関弘子)で聴いていただきました。
そのため、私の全文訳の読み上げはしませんでしたが、下記(№1)に全文訳は
書きましたので、ご参照いただければ、と思います。
「源氏物語」の第一部(光源氏の誕生から栄華を極めるまでの33帖)は、
大河の本流にあたる「紫の上系」と、支流にあたる「玉鬘系(帚木系)」の
二つの系統に分けて考えることが出来るのですが、先ず第1帖「桐壺」で、
主人公光源氏の誕生、母・桐壺の更衣の死と、その母によく似た源氏の
永遠の女性・藤壺の登場、源氏の元服(12歳)と葵の上との結婚までが
語られ、第2帖~第4帖(帚木・空蝉・夕顔)は「帚木三帖」と呼ばれ、一旦
本流を離れた、源氏と中の品の女性たちとの物語となっていました。
第5帖「若紫」で、物語は本流へと戻ります。
「紫式部日記」の寛弘5年(1008年)11月1日の条に、公任が紫式部を探し、
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(もしもし、この辺りに若紫さんは
いらっしゃいますか)と呼びかけた記述があります。「若紫」は、当然この巻を
指しているはずです。この「若紫」という呼びかけが、「源氏物語」が既に執筆
されていた根拠として「源氏物語千年紀」に採用され、2008年の11月1日には
京都で式典が催されました。今では11月1日は「古典の日」となっています。
また、「更級日記」の作者・菅原孝標女は、「源氏物語」が読みたくてたまら
なかった少女時代を回想する所から筆を起こしていますが、そこに「紫の
ゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど」(紫のゆかりを読んで、その
続きが読みたいと思うけれど)と書いており、おそらくここでの「紫のゆかり」
も「若紫」の巻のことを言っていると思われます。
これらのことは、「若紫」、「紫のゆかり」と言えば、イコール「源氏物語」と
理解されていたことを示すもので、「若紫」の巻が、「源氏物語」という長編
物語の根幹をなす巻として受け止められていたのがわかります。
「紫」(源氏にとっての藤壺)の「ゆかり」(縁者、つながり)とは、後の「紫の上」、
即ち、この巻で源氏が初めて出会う少女が、実は藤壺の姪(=ゆかり)であり、
彼女が二条院に引き取られて源氏と交わす贈答歌にも「ゆかり」という語が
使われているところから、称されたものでありましょう。
今回は、「若紫」の巻の冒頭部分を、「平安朝日本語復元による試み」の朗読
テープ(言語監修:金田一春彦 朗読:関弘子)で聴いていただきました。
そのため、私の全文訳の読み上げはしませんでしたが、下記(№1)に全文訳は
書きましたので、ご参照いただければ、と思います。
第五帖「若紫」の全文訳(1)
2017年12月21日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第21回・№1)
12月11日(月)のクラスと同じ所(「夕顔」の最後と「若紫」の冒頭)を
読みました。11日のほうで「夕顔」の全文訳を書きましたので、今日は
「若紫」(183頁・1行目~184頁・9行目)の全文訳となります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
源氏の君は瘧病を患われて、あれこれとまじないや加持などをおさせに
なりましたが、効き目がなくて、何度も発作を起こされたので、ある人が、
「北山の何々寺というところに、優れた行者がおります、去年の夏にも
世間で流行って、人々がまじないに手を焼いたのを、即座に治した例が
沢山ございました。ごじらせてしまうと厄介でございますから、早くお試し
になるのがよろしうございましょう」などと申し上げますので、その行者を
召し寄せるために使者を遣わしました。ところが、「私はもう年老いて腰も
曲がり、岩屋の外にも出ませぬ」と申しますので、「仕方がない。ごく内密
に出かけよう」とおっしゃって、お供には親しくお仕えしている四、五人だけ
を連れて、まだ夜が明けないうちに出発なさいました。
そこは少し山深い所でございました。三月の末なので、京の花盛りはみな
過ぎてしまっておりましたが、山の桜はまだ盛りで、分け入って行かれるに
つれて、霞がたなびく景色も趣深く見えるので、源氏の君はこうした外出にも
慣れておられず、窮屈なご身分のこととて、珍しくお思いになっておられました。
お寺の様子もとてもしみじみとしたものがございます。峰が高く、深い岩の中に
その聖はこもっておりました。源氏の君はそこまでお上りになって、ご自分が
誰であるともお明かしにならず、たいそうひどく粗末な身なりになさっておられ
ますが、はっきりと高貴なお方だとわかるご様子なので、「これは恐れ多いことで。
先日お召しのあったお方でございましょうか。今は俗世のことには関心がござい
ませんので、加持祈祷で病を退散させる修行もいたしておりませんのに、どうして
このようにお越しあそばされたのでしょう」と、驚き騒いで、笑みを浮かべながら
見申し上げます。まことに尊い高僧でございました。護符を作って飲ませ申し上げ、
加持などをして差し上げているうちに、日も高くさし上りました。
12月11日(月)のクラスと同じ所(「夕顔」の最後と「若紫」の冒頭)を
読みました。11日のほうで「夕顔」の全文訳を書きましたので、今日は
「若紫」(183頁・1行目~184頁・9行目)の全文訳となります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
源氏の君は瘧病を患われて、あれこれとまじないや加持などをおさせに
なりましたが、効き目がなくて、何度も発作を起こされたので、ある人が、
「北山の何々寺というところに、優れた行者がおります、去年の夏にも
世間で流行って、人々がまじないに手を焼いたのを、即座に治した例が
沢山ございました。ごじらせてしまうと厄介でございますから、早くお試し
になるのがよろしうございましょう」などと申し上げますので、その行者を
召し寄せるために使者を遣わしました。ところが、「私はもう年老いて腰も
曲がり、岩屋の外にも出ませぬ」と申しますので、「仕方がない。ごく内密
に出かけよう」とおっしゃって、お供には親しくお仕えしている四、五人だけ
を連れて、まだ夜が明けないうちに出発なさいました。
そこは少し山深い所でございました。三月の末なので、京の花盛りはみな
過ぎてしまっておりましたが、山の桜はまだ盛りで、分け入って行かれるに
つれて、霞がたなびく景色も趣深く見えるので、源氏の君はこうした外出にも
慣れておられず、窮屈なご身分のこととて、珍しくお思いになっておられました。
お寺の様子もとてもしみじみとしたものがございます。峰が高く、深い岩の中に
その聖はこもっておりました。源氏の君はそこまでお上りになって、ご自分が
誰であるともお明かしにならず、たいそうひどく粗末な身なりになさっておられ
ますが、はっきりと高貴なお方だとわかるご様子なので、「これは恐れ多いことで。
先日お召しのあったお方でございましょうか。今は俗世のことには関心がござい
ませんので、加持祈祷で病を退散させる修行もいたしておりませんのに、どうして
このようにお越しあそばされたのでしょう」と、驚き騒いで、笑みを浮かべながら
見申し上げます。まことに尊い高僧でございました。護符を作って飲ませ申し上げ、
加持などをして差し上げているうちに、日も高くさし上りました。
プラトニックラブでもOK?
2017年12月20日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(通算196回 統合50回)
今の時代、「逢う」とか「見る」という言葉だけで、男女が契りを交わすことだと
解釈すれば、ちょっとおかしいんじゃないの?と思われるかもしれませんが、
千年前の貴族社会では、それが当たり前でした。
ですから、例えば「百人一首」の44番・中納言朝忠
「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」(もし、男女が
契りを交わすことがまったくなかったなら、却ってあの人のことも、我が身の不幸
も、恨むことはないであろうに)
の歌なども、ただ男女が顔を合わせるという意味ではないことは、暗黙の了解
事項だったのです。
おそらく物語の中で、男性に対してプラトニックラブを求めたのは「源氏物語」の
「宇治十帖」における大君が最初ではないでしょうか。
そうした男女共に、「プラトニックラブ」という概念の無い時代にあって、大君の
ような女性もさることながら、それを受け入れることが出来る男性も、普通は
存在しなかったはずです。
薫は唯一それが可能な男性として登場します。無論、大君とも、大君亡き後は
中の君とも、結ばれたい気持ちは山々なのですが、相手が合意していないのに
無理強いはしたくない、と自身にブレーキをかけるのが薫なのです。
今、このクラスは第46帖の「椎本」を読んでおりますが、続く第47帖「総角」では、
薫の、プラトニックな関係でもいいから、大君と一緒に生きて行きたい、と願う
場面が随所に出てまいります。
今回の講読箇所で、匂宮の宇治の姫君に対するご執心を思い出しながら、
薫は、「わが心ながら、なほ人には異なりかし」(我ながら、やはり自分は他の
男たちとは違っていることよ)と、八の宮も願っておられるご様子の姫君との
結婚を格別急ぐ気にもならず、「かやうにてものをも聞こえかはし、をりふしの
花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたり」
(こんなふうにしてお互いにお話を申し上げ、折々の花紅葉に託してしみじみと
した思いを述べ、心を通わすのには、気の利いた応対をして頂ける相手)と、
姫君のことを考えています。これは薫が、精神的恋愛を許容できる男性である
ことを窺わせるものでありましょう。
「宇治十帖」に感じられる近代性は、心内語を多用した心理小説的な要素のみ
ならず、当時は誰も思いつかなかったであろう新しい恋愛の形を提示したところ
にも、その要因が認められるのではないかと、思われます。
今の時代、「逢う」とか「見る」という言葉だけで、男女が契りを交わすことだと
解釈すれば、ちょっとおかしいんじゃないの?と思われるかもしれませんが、
千年前の貴族社会では、それが当たり前でした。
ですから、例えば「百人一首」の44番・中納言朝忠
「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」(もし、男女が
契りを交わすことがまったくなかったなら、却ってあの人のことも、我が身の不幸
も、恨むことはないであろうに)
の歌なども、ただ男女が顔を合わせるという意味ではないことは、暗黙の了解
事項だったのです。
おそらく物語の中で、男性に対してプラトニックラブを求めたのは「源氏物語」の
「宇治十帖」における大君が最初ではないでしょうか。
そうした男女共に、「プラトニックラブ」という概念の無い時代にあって、大君の
ような女性もさることながら、それを受け入れることが出来る男性も、普通は
存在しなかったはずです。
薫は唯一それが可能な男性として登場します。無論、大君とも、大君亡き後は
中の君とも、結ばれたい気持ちは山々なのですが、相手が合意していないのに
無理強いはしたくない、と自身にブレーキをかけるのが薫なのです。
今、このクラスは第46帖の「椎本」を読んでおりますが、続く第47帖「総角」では、
薫の、プラトニックな関係でもいいから、大君と一緒に生きて行きたい、と願う
場面が随所に出てまいります。
今回の講読箇所で、匂宮の宇治の姫君に対するご執心を思い出しながら、
薫は、「わが心ながら、なほ人には異なりかし」(我ながら、やはり自分は他の
男たちとは違っていることよ)と、八の宮も願っておられるご様子の姫君との
結婚を格別急ぐ気にもならず、「かやうにてものをも聞こえかはし、をりふしの
花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたり」
(こんなふうにしてお互いにお話を申し上げ、折々の花紅葉に託してしみじみと
した思いを述べ、心を通わすのには、気の利いた応対をして頂ける相手)と、
姫君のことを考えています。これは薫が、精神的恋愛を許容できる男性である
ことを窺わせるものでありましょう。
「宇治十帖」に感じられる近代性は、心内語を多用した心理小説的な要素のみ
ならず、当時は誰も思いつかなかったであろう新しい恋愛の形を提示したところ
にも、その要因が認められるのではないかと、思われます。
辻堂・「隠れ里 車屋」
2017年12月16日(土)
今日は年に三度の旧職場の講師仲間の集いの日。一昨日までは
雨マークだった天気予報が良いほうに外れ、ここ数日に比べ、少し
寒さも和らいで、嬉しいお出かけ日和となりました。
今回は、幹事さんが平塚にお住まいなので、辻堂の懐石料理の
名店「隠れ里 車屋」にご案内頂きました。
辻堂駅に11:30に集合して、11:35発のお店の送迎バスに乗ること
になっていたのですが、その時刻に集まれたのは九人中五人でした。
湘南新宿ラインで向かっておられた四人の方が、京浜東北線内で
起きた架線事故による運転見合わせに巻き込まれて、結局、お着き
になったのは、予定時刻の1時間半後でした。
運よく今日は、我々の後の予約が入っていないとのことで、開始時間を
遅らせて貰え、いつものように、おしゃべりに花を咲かせながら、楽しい
ひと時を過ごすことが出来ました。
「隠れ里 車屋」は、湘南台クラスの方々から、予てより噂に聞いていた
お店で、一度行ってみたいと思っていました。
評判に違わず、落ち着いた数寄屋造りの建物に囲まれた庭園が、冬の
風情を醸し出し、その中で頂くお食事は、前菜からデザートに至るまで、
お味も盛り付けも、繊細で上品で、文句なしでした。
「隠れ里 車屋」入り口
ロビーからの庭園の眺め
お料理は全部写真をUPしたいのですが、代表で「前菜」を
最後にロビーのXmasツリーの前で記念の集合写真
長い時間、電車に閉じ込められた状態でお出でになられた方々は、
本当にお疲れさまでした。帰りも電車はまだ不通区間があり、
動いている区間の電車も大変な混雑ぶりでしたが、皆さま無事
ご帰宅になられたでしょうか。
今日は年に三度の旧職場の講師仲間の集いの日。一昨日までは
雨マークだった天気予報が良いほうに外れ、ここ数日に比べ、少し
寒さも和らいで、嬉しいお出かけ日和となりました。
今回は、幹事さんが平塚にお住まいなので、辻堂の懐石料理の
名店「隠れ里 車屋」にご案内頂きました。
辻堂駅に11:30に集合して、11:35発のお店の送迎バスに乗ること
になっていたのですが、その時刻に集まれたのは九人中五人でした。
湘南新宿ラインで向かっておられた四人の方が、京浜東北線内で
起きた架線事故による運転見合わせに巻き込まれて、結局、お着き
になったのは、予定時刻の1時間半後でした。
運よく今日は、我々の後の予約が入っていないとのことで、開始時間を
遅らせて貰え、いつものように、おしゃべりに花を咲かせながら、楽しい
ひと時を過ごすことが出来ました。
「隠れ里 車屋」は、湘南台クラスの方々から、予てより噂に聞いていた
お店で、一度行ってみたいと思っていました。
評判に違わず、落ち着いた数寄屋造りの建物に囲まれた庭園が、冬の
風情を醸し出し、その中で頂くお食事は、前菜からデザートに至るまで、
お味も盛り付けも、繊細で上品で、文句なしでした。
「隠れ里 車屋」入り口
ロビーからの庭園の眺め
お料理は全部写真をUPしたいのですが、代表で「前菜」を
最後にロビーのXmasツリーの前で記念の集合写真
長い時間、電車に閉じ込められた状態でお出でになられた方々は、
本当にお疲れさまでした。帰りも電車はまだ不通区間があり、
動いている区間の電車も大変な混雑ぶりでしたが、皆さま無事
ご帰宅になられたでしょうか。
「草の庵」は名誉なあだ名
2017年12月15日(金) 溝の口「枕草子」(第15回)
今日も寒い一日でした。今年最後の「枕草子」は、第74段~第77段までを
読みました。
第77段はかなり長い段ですが、中宮定子の父・関白道隆が亡くなる僅か
二ヶ月前、長徳元年(995年)二月の、定子最後の華やかなりし頃の話です。
頭中将・藤原斉信(ただのぶ)が、清少納言のことを誤解して無視なさるのを、
清少納言は「いずれ誤解が解ければ」と何気ない様子で過ごしていました。
二月の末、宮中が物忌みで、斉信も宿直所に取り巻き連中と籠っていた時、
さすがに続く清少納言との絶交状態がつまらなくなっていたので、彼女との
仲に今夜決着をつけたい、と言って、手紙を寄越されました。
その手紙には「蘭省花時錦帳下」(みんなは華やかな中央官庁の錦のとばりの
もとで楽しく過ごしていることだろう)という、白氏文集の有名な漢詩の一句が
書かれ、「末は、いかにいかに」(このあとはどうだどうだ)と、続きを要求する
言葉がありました。清少納言は勿論この漢詩は知っていましたが、ストレートに
「廬山雨夜草庵中」(私は一人廬山のふもとでこの雨の夜を草庵の中で寂しく
過ごしている)とは答えず、公任が連歌において詠んだ「草の庵を誰かたづねむ」
(こんな草の庵をいったい誰が訪ねてくれるでしょう)の句をそのまま借りて、和歌
の下の句の形で返しました。この機知に富んだ作者の返事は斉信を唸らせ、
以後は、斉信が降参する形で、清少納言と仲直りなさった、というエピソードです。
翌朝、源宣方がやって来て、昨夜、斉信はじめ、居合わせた者たちが、どんなに
感心したかを、嫌と言う程話して聞かせ、挙句の果てに「今は、御名をば『草の庵』
となむ、つけたる」(今は、あなたのあだ名を「草の庵」とつけましたよ)と、言って
帰って行きました。
「草の庵」(=ボロ屋)、いくら何でも「ボロ屋さ~ん」は情けない、と思いつつも、
殿方の間で、「行く先も、語り伝ふべきことなり」(先々も、語り草にすべき話だ)
と評判を取ったことは、悪い気はしなかったでしょう。
その後、元夫の橘則光も、元妻が褒められたことを我が事以上に喜んで、報告
に来てくれました。
さらには、この話を帝からお聞きになった中宮定子までもが、「みんな感心して、
お前の『草の庵』の返事を、扇に書きつけて持ってるそうよ」と、おっしゃったの
でした。
第77段は、よくある清少納言の自慢話の一つですが、自分が直接褒められた、
と自慢するのではなく、宣方、則光、中宮さま、の口を通して述べている所に、
説得力が加わって、より読者の心を掴む巧みさが感じられます。
中宮女房のこうした遣り取りは、とりもなおさずその中宮サロン全体の評価に
かかわるものだっただけに、帝からのご報告に中宮さまが喜ばれたというのも
当然のことで、その後まもなく定子の身に襲い掛かった不幸を思い返した時、
これはただの自慢話以上に、定子へのオマージュの意味合いがあったのでは
ないかと思われるのです。
今日も寒い一日でした。今年最後の「枕草子」は、第74段~第77段までを
読みました。
第77段はかなり長い段ですが、中宮定子の父・関白道隆が亡くなる僅か
二ヶ月前、長徳元年(995年)二月の、定子最後の華やかなりし頃の話です。
頭中将・藤原斉信(ただのぶ)が、清少納言のことを誤解して無視なさるのを、
清少納言は「いずれ誤解が解ければ」と何気ない様子で過ごしていました。
二月の末、宮中が物忌みで、斉信も宿直所に取り巻き連中と籠っていた時、
さすがに続く清少納言との絶交状態がつまらなくなっていたので、彼女との
仲に今夜決着をつけたい、と言って、手紙を寄越されました。
その手紙には「蘭省花時錦帳下」(みんなは華やかな中央官庁の錦のとばりの
もとで楽しく過ごしていることだろう)という、白氏文集の有名な漢詩の一句が
書かれ、「末は、いかにいかに」(このあとはどうだどうだ)と、続きを要求する
言葉がありました。清少納言は勿論この漢詩は知っていましたが、ストレートに
「廬山雨夜草庵中」(私は一人廬山のふもとでこの雨の夜を草庵の中で寂しく
過ごしている)とは答えず、公任が連歌において詠んだ「草の庵を誰かたづねむ」
(こんな草の庵をいったい誰が訪ねてくれるでしょう)の句をそのまま借りて、和歌
の下の句の形で返しました。この機知に富んだ作者の返事は斉信を唸らせ、
以後は、斉信が降参する形で、清少納言と仲直りなさった、というエピソードです。
翌朝、源宣方がやって来て、昨夜、斉信はじめ、居合わせた者たちが、どんなに
感心したかを、嫌と言う程話して聞かせ、挙句の果てに「今は、御名をば『草の庵』
となむ、つけたる」(今は、あなたのあだ名を「草の庵」とつけましたよ)と、言って
帰って行きました。
「草の庵」(=ボロ屋)、いくら何でも「ボロ屋さ~ん」は情けない、と思いつつも、
殿方の間で、「行く先も、語り伝ふべきことなり」(先々も、語り草にすべき話だ)
と評判を取ったことは、悪い気はしなかったでしょう。
その後、元夫の橘則光も、元妻が褒められたことを我が事以上に喜んで、報告
に来てくれました。
さらには、この話を帝からお聞きになった中宮定子までもが、「みんな感心して、
お前の『草の庵』の返事を、扇に書きつけて持ってるそうよ」と、おっしゃったの
でした。
第77段は、よくある清少納言の自慢話の一つですが、自分が直接褒められた、
と自慢するのではなく、宣方、則光、中宮さま、の口を通して述べている所に、
説得力が加わって、より読者の心を掴む巧みさが感じられます。
中宮女房のこうした遣り取りは、とりもなおさずその中宮サロン全体の評価に
かかわるものだっただけに、帝からのご報告に中宮さまが喜ばれたというのも
当然のことで、その後まもなく定子の身に襲い掛かった不幸を思い返した時、
これはただの自慢話以上に、定子へのオマージュの意味合いがあったのでは
ないかと思われるのです。
国文学研究資料館特別展示「伊勢物語のかがやき」
2017年12月12日(火)
11月3日に開催された国文学研究資料館主催の「古典の日」の講演会が、
「伊勢物語のかがやき-鉄心斎文庫の世界-」という特別展示に合わせた
「伊勢物語」特集だったことは、このブログにも書きましたが、本日ようやく
その特別展示に足を運ぶことが出来ました。
これまでは最寄駅・モノレールの「高松」駅から10分ほど歩いていましたが、
先日、「源氏の会」の八王子クラスの方に、国文学研究資料館へは立川駅から
バスが便利だと伺い、今日は大学時代の同級生二人と立川駅で待ち合わせて、
初めてバスに乗りました。資料館の目の前でバスが停まるので、本当にこれが
一番楽だとわかりました。教えてくださった八王子クラスの方に感謝です。
「鉄心斎文庫」は、芦澤新二・美佐子夫妻が40年の歳月をかけて収集された
千点を超える「伊勢物語」に特化したコレクションですが、二年前に国文学研究
資料館に寄贈され、今回その中から約80点の作品が展示されていました。
45場面もの絵を配した六曲一双の「伊勢物語図屏風」、数種の「嵯峨本」、
画帖、絵巻等々の絵画。鎌倉期から江戸期にまで書かれた写本の数々。
「伊勢物語」の研究史とも言える「古注」「旧注」「新注」も30点近く展示されて
いました。八つの名場面を解説した大きなパネル、デジタル化された画面など、
「伊勢物語」は高校の古典の授業以来、という人でも楽しめる工夫も施されて
おり、「伊勢物語」の世界をこれほど堪能できる展覧会はそうそう無いと思い
ました。
もう今週いっぱいで終わりですが(12/16迄)、
「伊勢物語」に少しでも興味をお持ちでしたら、
この特別展示はお勧めです
10:00~16:30(入室は16:00まで)
11月3日に開催された国文学研究資料館主催の「古典の日」の講演会が、
「伊勢物語のかがやき-鉄心斎文庫の世界-」という特別展示に合わせた
「伊勢物語」特集だったことは、このブログにも書きましたが、本日ようやく
その特別展示に足を運ぶことが出来ました。
これまでは最寄駅・モノレールの「高松」駅から10分ほど歩いていましたが、
先日、「源氏の会」の八王子クラスの方に、国文学研究資料館へは立川駅から
バスが便利だと伺い、今日は大学時代の同級生二人と立川駅で待ち合わせて、
初めてバスに乗りました。資料館の目の前でバスが停まるので、本当にこれが
一番楽だとわかりました。教えてくださった八王子クラスの方に感謝です。
「鉄心斎文庫」は、芦澤新二・美佐子夫妻が40年の歳月をかけて収集された
千点を超える「伊勢物語」に特化したコレクションですが、二年前に国文学研究
資料館に寄贈され、今回その中から約80点の作品が展示されていました。
45場面もの絵を配した六曲一双の「伊勢物語図屏風」、数種の「嵯峨本」、
画帖、絵巻等々の絵画。鎌倉期から江戸期にまで書かれた写本の数々。
「伊勢物語」の研究史とも言える「古注」「旧注」「新注」も30点近く展示されて
いました。八つの名場面を解説した大きなパネル、デジタル化された画面など、
「伊勢物語」は高校の古典の授業以来、という人でも楽しめる工夫も施されて
おり、「伊勢物語」の世界をこれほど堪能できる展覧会はそうそう無いと思い
ました。
もう今週いっぱいで終わりですが(12/16迄)、
「伊勢物語」に少しでも興味をお持ちでしたら、
この特別展示はお勧めです
10:00~16:30(入室は16:00まで)
「帚木三帖」を読み終えて
2017年12月11日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第21回・№2)
「帚木」の巻の「雨夜の品定め」に始まり、「空蝉」、「夕顔」と、中の品の
女性との恋の遍歴を語った、いわゆる「帚木三帖」を、本日読み終えました。
「帚木」の巻の冒頭には次のように書かれていました。
「光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、
かかるすきごとどもを、末の世にも聞き伝えて、軽びたる名をや流さむと、
忍びたまへるかくろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。
さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしき
ことはなくて、交野の少将には笑はれたまひけむかし。」(光源氏、だなんて、
名前だけは御大層ですけれども、「光」なんてとんでもない、と言われそうな
欠点も沢山おありのようですが、それに輪をかけて、こんな浮気沙汰の
あれこれを、後世の人たちも聞き伝えて「軽率な方」という評判を流すことに
なろうかと秘密にしておられた内緒事までも、語り伝えてしまった人の、
たちの悪いおしゃべりですこと。実のところ、源氏の君はたいそう世間に
気兼ねして、まじめに、と心掛けておられたので、色めいた風流なお話など
なくて、交野の少将には、笑われなさったことでしょうよ。)
そして、夕顔の最後の一文です。
「かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、
みな漏らしとどめたるを、など帝の御子ならむからに、見む人さへかたほならず、
ものほめがちなると、作りごとめきてとりなす人ものしたまひければなむ。あまり
もの言ひさがなき罪、さりどころなく。」(このようなごたごたと煩わしいことは、
源氏の君が努めてこっそりと隠しておられたのもお気の毒で、みな取り上げない
でいたのですが、どうして帝の皇子だからといって、身近で見聞した人までもが
源氏の君には欠点がなく何かと褒めてばかりだと作り話のようだ、と取り沙汰する
人がおいでだったものですから。あまりにおしゃべりが過ぎた罪は逃れようもない
ことでございまして…。)
この二つの文は見事に照応し、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」が、一纏まりの話として
書かれたことを示しています。
内容は、冒頭に記したように、「雨夜の品定め」で、中流の女性に対して興味を
抱いた源氏が、二人の中の品の女性(空蝉と夕顔)に恋をし、それは、「夕顔」の
巻最後の源氏の独詠、「過ぎにしもけふ別るるも二道にゆくかた知らぬ秋の暮かな」
(亡くなってしまった女〈夕顔〉も、今日旅立って行く女〈空蝉〉も、それぞれ道は
違うけれど、どこへ行ってしまったのかわからないこの秋の終わりのつらいことよ)
の通り、どちらも苦い結末を持って、その幕を下ろしたのでした。
ただ、同じ中の品の女性と言っても、空蝉と夕顔は対照的な人物設定がなされて
いました。
空蝉は、主体性を持って自身の生きる道を選び取り、己を律する思慮分別を
有した女性でした。作者が空蝉の心情を丁寧に映し出し、揺れる女ごころを
表現したことによって、読者も空蝉の気持ちはよく理解できました。
一方の夕顔は、殆ど源氏の目を通した姿しか語られることがなく、彼女の本心が
どこにあるのかもわからず、ただ従順で、はかな気な感じの、ミステリアスな女性
のまま、あっけなく亡くなって消えてしまいます。だからこそまた、源氏の胸の中に
生き続けることにもなったのでありましょう。
「帚木三帖」は、源氏17歳の夏から冬までのお話です。
「夕顔」の巻最後の全文訳を下記に書きましたので、ご参照ください。
「帚木」の巻の「雨夜の品定め」に始まり、「空蝉」、「夕顔」と、中の品の
女性との恋の遍歴を語った、いわゆる「帚木三帖」を、本日読み終えました。
「帚木」の巻の冒頭には次のように書かれていました。
「光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、
かかるすきごとどもを、末の世にも聞き伝えて、軽びたる名をや流さむと、
忍びたまへるかくろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。
さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしき
ことはなくて、交野の少将には笑はれたまひけむかし。」(光源氏、だなんて、
名前だけは御大層ですけれども、「光」なんてとんでもない、と言われそうな
欠点も沢山おありのようですが、それに輪をかけて、こんな浮気沙汰の
あれこれを、後世の人たちも聞き伝えて「軽率な方」という評判を流すことに
なろうかと秘密にしておられた内緒事までも、語り伝えてしまった人の、
たちの悪いおしゃべりですこと。実のところ、源氏の君はたいそう世間に
気兼ねして、まじめに、と心掛けておられたので、色めいた風流なお話など
なくて、交野の少将には、笑われなさったことでしょうよ。)
そして、夕顔の最後の一文です。
「かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、
みな漏らしとどめたるを、など帝の御子ならむからに、見む人さへかたほならず、
ものほめがちなると、作りごとめきてとりなす人ものしたまひければなむ。あまり
もの言ひさがなき罪、さりどころなく。」(このようなごたごたと煩わしいことは、
源氏の君が努めてこっそりと隠しておられたのもお気の毒で、みな取り上げない
でいたのですが、どうして帝の皇子だからといって、身近で見聞した人までもが
源氏の君には欠点がなく何かと褒めてばかりだと作り話のようだ、と取り沙汰する
人がおいでだったものですから。あまりにおしゃべりが過ぎた罪は逃れようもない
ことでございまして…。)
この二つの文は見事に照応し、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」が、一纏まりの話として
書かれたことを示しています。
内容は、冒頭に記したように、「雨夜の品定め」で、中流の女性に対して興味を
抱いた源氏が、二人の中の品の女性(空蝉と夕顔)に恋をし、それは、「夕顔」の
巻最後の源氏の独詠、「過ぎにしもけふ別るるも二道にゆくかた知らぬ秋の暮かな」
(亡くなってしまった女〈夕顔〉も、今日旅立って行く女〈空蝉〉も、それぞれ道は
違うけれど、どこへ行ってしまったのかわからないこの秋の終わりのつらいことよ)
の通り、どちらも苦い結末を持って、その幕を下ろしたのでした。
ただ、同じ中の品の女性と言っても、空蝉と夕顔は対照的な人物設定がなされて
いました。
空蝉は、主体性を持って自身の生きる道を選び取り、己を律する思慮分別を
有した女性でした。作者が空蝉の心情を丁寧に映し出し、揺れる女ごころを
表現したことによって、読者も空蝉の気持ちはよく理解できました。
一方の夕顔は、殆ど源氏の目を通した姿しか語られることがなく、彼女の本心が
どこにあるのかもわからず、ただ従順で、はかな気な感じの、ミステリアスな女性
のまま、あっけなく亡くなって消えてしまいます。だからこそまた、源氏の胸の中に
生き続けることにもなったのでありましょう。
「帚木三帖」は、源氏17歳の夏から冬までのお話です。
「夕顔」の巻最後の全文訳を下記に書きましたので、ご参照ください。
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