作者別人説も生む違和感
2019年5月27日(月) 溝の口「湖月会」(第131回)
今日も季節外れの暑さは収まらず、四日間連続の真夏日を
記録しましたが、一番驚きなのは昨日、北海道・帯広で40度
近く迄気温が上がったというニュースでした。北海道のほうが
沖縄よりもずっと暑い、だなんて信じ難い話ですよね。
溝の口の第4月曜日のクラス(湖月会)は、第2金曜日クラスと
同じ、第43帖「紅梅」全文と、第44帖「竹河」の冒頭部分を読み
ました。
「紅梅」・「竹河」という巻は、第二部までとは異質な設定がなされ、
それが後の「宇治十帖」にも繋がらない、「源氏物語」全体の中でも、
何と言うか、浮いている中途半端な巻なのです。
先ず、年立の順が「紅梅」と「竹河」では逆転していることに読者は
違和感を覚えます。また登場人物の設定においても、故蛍兵部卿
と真木柱の間に生まれた「宮の御方」が、匂宮に思いを寄せられ、
継父の紅梅の大納言からも関心を抱かれている、興味深い女性と
して登場するにも拘らず、その話が「宇治十帖」に於いて全く発展
しないままで終わってしまうことにも首を傾げざるを得ません。
もっと細かい内容に触れるなら、源氏が琵琶の名手で、それが
夕霧に伝授されている、と紅梅の大納言の口を通して語られる
場面があり、「えっ?源氏が琵琶の名手?源氏は琴(きん)の琴
の名手でしょ?」と、ツッコミを入れたくなります。正編で源氏が
琵琶を得意としたなんて、一度も書かれていません。
その他、、「宇治十帖」に入ると、源氏が崇拝されるような形で
懐古されることはふつりと無くなってしまうのですが、「匂宮三帖」
では、源氏が、この世を光り照らすような存在であったことを度々
書いて称賛し、薫や匂宮を持ってしても足許にも及ばない、と
評し続けています。
これらの積み重ねが、「匂宮三帖」の作者別人説を生む要因と
なったのでしょうが、だからと言って、決定打となるものでもなく、
近年は違和感は違和感として、そのまま年立にとらわれることも
せず、正編と「宇治十帖」を繋ぐ巻々として読むスタイルが主流と
なっているようです。
今日も季節外れの暑さは収まらず、四日間連続の真夏日を
記録しましたが、一番驚きなのは昨日、北海道・帯広で40度
近く迄気温が上がったというニュースでした。北海道のほうが
沖縄よりもずっと暑い、だなんて信じ難い話ですよね。
溝の口の第4月曜日のクラス(湖月会)は、第2金曜日クラスと
同じ、第43帖「紅梅」全文と、第44帖「竹河」の冒頭部分を読み
ました。
「紅梅」・「竹河」という巻は、第二部までとは異質な設定がなされ、
それが後の「宇治十帖」にも繋がらない、「源氏物語」全体の中でも、
何と言うか、浮いている中途半端な巻なのです。
先ず、年立の順が「紅梅」と「竹河」では逆転していることに読者は
違和感を覚えます。また登場人物の設定においても、故蛍兵部卿
と真木柱の間に生まれた「宮の御方」が、匂宮に思いを寄せられ、
継父の紅梅の大納言からも関心を抱かれている、興味深い女性と
して登場するにも拘らず、その話が「宇治十帖」に於いて全く発展
しないままで終わってしまうことにも首を傾げざるを得ません。
もっと細かい内容に触れるなら、源氏が琵琶の名手で、それが
夕霧に伝授されている、と紅梅の大納言の口を通して語られる
場面があり、「えっ?源氏が琵琶の名手?源氏は琴(きん)の琴
の名手でしょ?」と、ツッコミを入れたくなります。正編で源氏が
琵琶を得意としたなんて、一度も書かれていません。
その他、、「宇治十帖」に入ると、源氏が崇拝されるような形で
懐古されることはふつりと無くなってしまうのですが、「匂宮三帖」
では、源氏が、この世を光り照らすような存在であったことを度々
書いて称賛し、薫や匂宮を持ってしても足許にも及ばない、と
評し続けています。
これらの積み重ねが、「匂宮三帖」の作者別人説を生む要因と
なったのでしょうが、だからと言って、決定打となるものでもなく、
近年は違和感は違和感として、そのまま年立にとらわれることも
せず、正編と「宇治十帖」を繋ぐ巻々として読むスタイルが主流と
なっているようです。
おごりの春のうつくしきかな
2019年5月23日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第38回・№2)
初夏の爽やかさを通り越した、真夏のような暑さの一日となりました。
明日はもっと気温が上がり、真夏日になるかも知れないとの予報。
まだ5月ですのにね。
先程の全文訳の所(→「花宴」の全文訳(1))にも書きましたが、今回は
第7帖「紅葉賀」の残りを読み終え、第8帖「花宴」の冒頭部分を読みました。
第2月曜日のほうで「紅葉賀」について書いたので(→「藤壺、中宮になる」)、
今日は「花宴」のことに触れておきたいと思います。
「花宴」は、源氏二十歳の春の出来事を記した巻ですが、私は「花宴」と
聞くと、なぜか必ず与謝野晶子の「その子二十歳櫛にながるる黒髪の
おごりの春のうつくしきかな」(「みだれ髪」所収)が脳裏をよぎります。
もしかして晶子は、「おごりの春のうつくしきかな」と詠んだ時、「花宴」の
源氏の姿を思い浮かべていたのではないか、と想像を逞しくしてみたり
もするのです。
この巻は、宮中の紫宸殿(南殿)の庭の左近の桜をめでる宴の場面から
始まりますが、ここでも源氏は立役者。漢詩を作れば一気に読み上げて
しまうのが勿体ない程の出来栄えで、専門の学者たちを唸らせます。
舞をほんの形ばかり舞っただけで、左大臣は感涙に咽び、日頃の、
娘(葵の上)の許への間遠な訪れを恨む気持ちも忘れてしまうのでした。
こんな怖いものなしの源氏が、次回読む場面で、朧月夜と出会い、その
「おごりの春」も頂点に達します。
でも、「おごれる人も久しからず」です。青年源氏の絶頂期はここ迄となり、
次の「葵」の巻からは陰りが出てまいります。
短い巻ですが、「花宴」は満開の夜桜のような美しさと妖しさをはらんで
います。しばしその雰囲気を味わっていただければと存じます。
初夏の爽やかさを通り越した、真夏のような暑さの一日となりました。
明日はもっと気温が上がり、真夏日になるかも知れないとの予報。
まだ5月ですのにね。
先程の全文訳の所(→「花宴」の全文訳(1))にも書きましたが、今回は
第7帖「紅葉賀」の残りを読み終え、第8帖「花宴」の冒頭部分を読みました。
第2月曜日のほうで「紅葉賀」について書いたので(→「藤壺、中宮になる」)、
今日は「花宴」のことに触れておきたいと思います。
「花宴」は、源氏二十歳の春の出来事を記した巻ですが、私は「花宴」と
聞くと、なぜか必ず与謝野晶子の「その子二十歳櫛にながるる黒髪の
おごりの春のうつくしきかな」(「みだれ髪」所収)が脳裏をよぎります。
もしかして晶子は、「おごりの春のうつくしきかな」と詠んだ時、「花宴」の
源氏の姿を思い浮かべていたのではないか、と想像を逞しくしてみたり
もするのです。
この巻は、宮中の紫宸殿(南殿)の庭の左近の桜をめでる宴の場面から
始まりますが、ここでも源氏は立役者。漢詩を作れば一気に読み上げて
しまうのが勿体ない程の出来栄えで、専門の学者たちを唸らせます。
舞をほんの形ばかり舞っただけで、左大臣は感涙に咽び、日頃の、
娘(葵の上)の許への間遠な訪れを恨む気持ちも忘れてしまうのでした。
こんな怖いものなしの源氏が、次回読む場面で、朧月夜と出会い、その
「おごりの春」も頂点に達します。
でも、「おごれる人も久しからず」です。青年源氏の絶頂期はここ迄となり、
次の「葵」の巻からは陰りが出てまいります。
短い巻ですが、「花宴」は満開の夜桜のような美しさと妖しさをはらんで
います。しばしその雰囲気を味わっていただければと存じます。
第8帖「花宴」の全文訳(1)
2019年5月23日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第38回・№1)
今回はこのクラスも第2月曜のクラス同様、前半で第7帖「紅葉賀」
の最後の部分を、後半で第8帖「花宴」の最初の部分を読みました。
第2月曜のクラスで「紅葉賀」の全文訳を書きましたので、こちらの
クラスは、次の「花宴」(49頁・1行目~51頁・12行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
二月の二十日過ぎに、帝が紫宸殿の桜の宴を催されました。中宮、東宮の
御座所を、玉座の左右にしつらえて、お二方が参上なさいます。弘徽殿女御
は、藤壺中宮がこのように上座にいらっしゃるのを、何かにつけ快からず
お思いになりますが、この宴をご覧にならずにはいられなくて、参上なさい
ました。
当日は良く晴れて、空の様子も鳥の声も心地よさそうなところに、親王たちや
上達部をはじめ、作文の道に秀でた者は、皆、韻字を頂戴して漢詩をお作り
になります。源氏の君が「春という文字を戴きました」とおっしゃる声までもが、
いつものように、普通の人とは異なっております。
次には頭中将。人が源氏の君を見た後、自分を見てどう思うか、とても気に
なるところでしょうが、たいそう見苦しくなく落ち着いていて、声の調子など、
堂々として立派です。その後に続く人々は皆、怖気づいてびくびくしている
者が多うございました。
地下の者たちは、ましてや帝や東宮の学才が優れておられる上に、作文の
道に秀でた人が多くいるご時世なので、気後れして広々と晴れ晴れしいお庭
に出て行く時は、きまりが悪く、何でもないことなのに、辛そうにしておりました。
歳を取った文章博士などが、身なりはみすぼらしいものの、場馴れしている
のも、しみじみとしていて、帝があれこれご覧になるのも、興味深いことであり
ました。
舞楽などは言うまでも無く、万端ご用意なさっておりました。段々と夕日が沈む
頃、「春鶯囀」という舞がたいそう面白く見えるので、源氏の君の、紅葉賀の折
の舞を思い出されて、東宮が挿頭をお与えになって、しきりに所望なさるので、
源氏の君も辞退しかねて、立ち上がって、ゆるやかに袖を翻すところをほんの
一指し、形ばかりお舞いになったところ、例えようも無く素晴らしく見えました。
左大臣は恨めしさも忘れて、涙を落とされました。
帝が「頭中将はどうした。早く」とおっしゃるので、「柳花苑」という舞を、こちらは
もう少し念入りに、このようなこともあろうかと、心積もりしていたのでしょうか、
実に見事に舞ったので、帝から御衣を頂戴いたしました。これもとても珍しい
ことと、人々は思っておりました。上達部たちも皆、順序も無く舞われましたが、
夜に入ってからは、上手下手の区別もつきませんでした。
漢詩などを披講するのにも、源氏の君のお作は、講師も余りの素晴らしさ
に一気に読み終えられず、一句ごとに声高く読み上げます。文章博士たち
も心の中で感服いたしておりました。
このような催しの際にも、先ず源氏の君を一座の光としておられるので、
帝もどうしておろそかにお思いになられましょうか。藤壺中宮は源氏の君に
お目が留まるにつけて、弘徽殿女御がむやみにお憎みになっておられる
のも不思議で、また自分がそのように思うのも情けないことだと、ご自身で
反省なさっておられました。
「おほかたに花の姿を見ましかばつゆの心のおかれましやは(特別な経緯
もなく、この花のようなお姿を拝見するのでしたら、露ほどの気兼ねも無く
称賛することが出来たでありましょうに)」
お心の内でお詠みになったはずの歌が、どうして世間に漏れてしまったの
でしょうか。
夜がすっかり更けてから、宴は果てたのでした。
今回はこのクラスも第2月曜のクラス同様、前半で第7帖「紅葉賀」
の最後の部分を、後半で第8帖「花宴」の最初の部分を読みました。
第2月曜のクラスで「紅葉賀」の全文訳を書きましたので、こちらの
クラスは、次の「花宴」(49頁・1行目~51頁・12行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
二月の二十日過ぎに、帝が紫宸殿の桜の宴を催されました。中宮、東宮の
御座所を、玉座の左右にしつらえて、お二方が参上なさいます。弘徽殿女御
は、藤壺中宮がこのように上座にいらっしゃるのを、何かにつけ快からず
お思いになりますが、この宴をご覧にならずにはいられなくて、参上なさい
ました。
当日は良く晴れて、空の様子も鳥の声も心地よさそうなところに、親王たちや
上達部をはじめ、作文の道に秀でた者は、皆、韻字を頂戴して漢詩をお作り
になります。源氏の君が「春という文字を戴きました」とおっしゃる声までもが、
いつものように、普通の人とは異なっております。
次には頭中将。人が源氏の君を見た後、自分を見てどう思うか、とても気に
なるところでしょうが、たいそう見苦しくなく落ち着いていて、声の調子など、
堂々として立派です。その後に続く人々は皆、怖気づいてびくびくしている
者が多うございました。
地下の者たちは、ましてや帝や東宮の学才が優れておられる上に、作文の
道に秀でた人が多くいるご時世なので、気後れして広々と晴れ晴れしいお庭
に出て行く時は、きまりが悪く、何でもないことなのに、辛そうにしておりました。
歳を取った文章博士などが、身なりはみすぼらしいものの、場馴れしている
のも、しみじみとしていて、帝があれこれご覧になるのも、興味深いことであり
ました。
舞楽などは言うまでも無く、万端ご用意なさっておりました。段々と夕日が沈む
頃、「春鶯囀」という舞がたいそう面白く見えるので、源氏の君の、紅葉賀の折
の舞を思い出されて、東宮が挿頭をお与えになって、しきりに所望なさるので、
源氏の君も辞退しかねて、立ち上がって、ゆるやかに袖を翻すところをほんの
一指し、形ばかりお舞いになったところ、例えようも無く素晴らしく見えました。
左大臣は恨めしさも忘れて、涙を落とされました。
帝が「頭中将はどうした。早く」とおっしゃるので、「柳花苑」という舞を、こちらは
もう少し念入りに、このようなこともあろうかと、心積もりしていたのでしょうか、
実に見事に舞ったので、帝から御衣を頂戴いたしました。これもとても珍しい
ことと、人々は思っておりました。上達部たちも皆、順序も無く舞われましたが、
夜に入ってからは、上手下手の区別もつきませんでした。
漢詩などを披講するのにも、源氏の君のお作は、講師も余りの素晴らしさ
に一気に読み終えられず、一句ごとに声高く読み上げます。文章博士たち
も心の中で感服いたしておりました。
このような催しの際にも、先ず源氏の君を一座の光としておられるので、
帝もどうしておろそかにお思いになられましょうか。藤壺中宮は源氏の君に
お目が留まるにつけて、弘徽殿女御がむやみにお憎みになっておられる
のも不思議で、また自分がそのように思うのも情けないことだと、ご自身で
反省なさっておられました。
「おほかたに花の姿を見ましかばつゆの心のおかれましやは(特別な経緯
もなく、この花のようなお姿を拝見するのでしたら、露ほどの気兼ねも無く
称賛することが出来たでありましょうに)」
お心の内でお詠みになったはずの歌が、どうして世間に漏れてしまったの
でしょうか。
夜がすっかり更けてから、宴は果てたのでした。
大学のクラス会 in 仙台(二日目)
2019年5月22日(水)
仙台での二日目(21日)。この日がメインのクラス会です。
場所は「ウェスティンホテル仙台」26Fのフレンチレストラン
「シンフォニー」。
朝目覚めると、外は雨。それでも、歩けない、というほどでは
ない普通の雨降りの状態でした。関東・東海は物凄い雨だった、
と、当日いらした方はおっしゃっていましたが、今日、お土産を
取りに来た嫁から、家の辺りは小学校が休校になったと聞いて、
またまたびっくり。
仙台では今回の参加者15名、無事に全員揃って、定刻に開始。
前回(2017年11月)横浜でお会いした方も、卒業以来初めてという
方も、みんな半世紀の歳月を一気に遡って和気藹々の中、お食事
も進み、お喋りも弾みます。


メインディッシュの真鯛のポアレ(左)と豚肉のロースト(右)
ホテルを出て、まだ雨は降っていましたが、タクシーに分乗して仙台
市内で最も青葉が美しいと言われる「定禅寺通り」へ。

雨に濡れたケヤキ並木の緑が綺麗です
その後、「三越」の喫茶室に入って、時間が経つのも忘れ、また
お喋りに興じ、雨もすっかり上がった中を、バスで仙台駅へと
向かいました。
お土産を買い、同じ新幹線に乗った5人、ここでも東京駅に着く迄、
喋って、笑って・・・。本当に最後まで楽しい仙台でのクラス会でした!
仙台での二日目(21日)。この日がメインのクラス会です。
場所は「ウェスティンホテル仙台」26Fのフレンチレストラン
「シンフォニー」。
朝目覚めると、外は雨。それでも、歩けない、というほどでは
ない普通の雨降りの状態でした。関東・東海は物凄い雨だった、
と、当日いらした方はおっしゃっていましたが、今日、お土産を
取りに来た嫁から、家の辺りは小学校が休校になったと聞いて、
またまたびっくり。
仙台では今回の参加者15名、無事に全員揃って、定刻に開始。
前回(2017年11月)横浜でお会いした方も、卒業以来初めてという
方も、みんな半世紀の歳月を一気に遡って和気藹々の中、お食事
も進み、お喋りも弾みます。



メインディッシュの真鯛のポアレ(左)と豚肉のロースト(右)
ホテルを出て、まだ雨は降っていましたが、タクシーに分乗して仙台
市内で最も青葉が美しいと言われる「定禅寺通り」へ。

雨に濡れたケヤキ並木の緑が綺麗です
その後、「三越」の喫茶室に入って、時間が経つのも忘れ、また
お喋りに興じ、雨もすっかり上がった中を、バスで仙台駅へと
向かいました。
お土産を買い、同じ新幹線に乗った5人、ここでも東京駅に着く迄、
喋って、笑って・・・。本当に最後まで楽しい仙台でのクラス会でした!
大学のクラス会 in 仙台(一日目)
2019年5月22日(水)
ちょっと更新が空きましたが、20日~21日にかけて、大学の
クラス会参加のため、一泊二日で仙台に行ってまいりました。
今回の幹事さんのお一人が、仙台在住ということで、久々の
地方開催となりました。この際、一度も行ったことのない松島も
ついでに観光したいと思い、前日から出掛けました。
近くに住んでいる友人と東京駅で合流し(近くに住んでいても、
東京駅までのルートは異なるので)、東北新幹線「はやぶさ」号
に乗って一路仙台へ。
仙台駅から仙石線で「松島海岸」へと向かいました。午後からは
降水確率も高くなっていたので、雨にならないか心配していました
が、全くその気配はなく見渡す限り青空です。風はかなり強かった
のですが、遊覧船も運航しており、眺めの良い2階席に乗りました。

これが乗った遊覧船。説明のアナウンスによると、
松島湾には260の島々があり、震災の折にも自然
の防波堤となり、津波の高さが抑えられたそうです。
我々二人が下船するのを待っていてくれたもう一人の友人と三人で、
すぐ傍にある松島の名所「瑞巌寺」へ。国宝・本堂を縁に沿って一周
しながら、部屋部屋の豪華な襖絵や障壁画、唐戸・欄間の繊細な彫刻
を見て廻りましたが、周囲の青葉が風にザワザワと音を立てて揺れ、
この季節ならではの風情を感じました。
松島海岸駅を出て左手に行くと、遊覧船の乗り場や瑞巌寺があり、人も
多くて賑わっているのですが、右手の道には殆どひと気がありません。
でもこちらを5分程行けば「雄島」とのことで、足を延ばしました。実は、
今回私が一番行きたかったのは、この「雄島」なのです。「百人一首」の
「見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず」に
詠まれた場所なので、ずっとどんな所なのか興味がありました。

震災の津波で流された渡月橋も新しくなって架けられて
おり、これを渡れば雄島です。

雄島から望む松島湾。静かで、出会った人もほんの数人。
ここは松島観光の穴場かも知れません。
16時44分発の電車で仙台へ戻り、前日宿泊組6人で、幹事さんが
ご予約くださっていたこじゃれた居酒屋での楽しい夕餉。お腹も
満たされて、「また明日ね」と、それぞれの宿泊ホテルへ向かった
のでした。
ちょっと更新が空きましたが、20日~21日にかけて、大学の
クラス会参加のため、一泊二日で仙台に行ってまいりました。
今回の幹事さんのお一人が、仙台在住ということで、久々の
地方開催となりました。この際、一度も行ったことのない松島も
ついでに観光したいと思い、前日から出掛けました。
近くに住んでいる友人と東京駅で合流し(近くに住んでいても、
東京駅までのルートは異なるので)、東北新幹線「はやぶさ」号
に乗って一路仙台へ。
仙台駅から仙石線で「松島海岸」へと向かいました。午後からは
降水確率も高くなっていたので、雨にならないか心配していました
が、全くその気配はなく見渡す限り青空です。風はかなり強かった
のですが、遊覧船も運航しており、眺めの良い2階席に乗りました。

これが乗った遊覧船。説明のアナウンスによると、
松島湾には260の島々があり、震災の折にも自然
の防波堤となり、津波の高さが抑えられたそうです。
我々二人が下船するのを待っていてくれたもう一人の友人と三人で、
すぐ傍にある松島の名所「瑞巌寺」へ。国宝・本堂を縁に沿って一周
しながら、部屋部屋の豪華な襖絵や障壁画、唐戸・欄間の繊細な彫刻
を見て廻りましたが、周囲の青葉が風にザワザワと音を立てて揺れ、
この季節ならではの風情を感じました。
松島海岸駅を出て左手に行くと、遊覧船の乗り場や瑞巌寺があり、人も
多くて賑わっているのですが、右手の道には殆どひと気がありません。
でもこちらを5分程行けば「雄島」とのことで、足を延ばしました。実は、
今回私が一番行きたかったのは、この「雄島」なのです。「百人一首」の
「見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず」に
詠まれた場所なので、ずっとどんな所なのか興味がありました。

震災の津波で流された渡月橋も新しくなって架けられて
おり、これを渡れば雄島です。

雄島から望む松島湾。静かで、出会った人もほんの数人。
ここは松島観光の穴場かも知れません。
16時44分発の電車で仙台へ戻り、前日宿泊組6人で、幹事さんが
ご予約くださっていたこじゃれた居酒屋での楽しい夕餉。お腹も
満たされて、「また明日ね」と、それぞれの宿泊ホテルへ向かった
のでした。
キャリアウーマンになるならば
2019年5月17日(金) 溝の口「枕草子」(第32回)
今回は、先月途中で時間切れとなった第154段の後半~第169段迄を
読みました。段にすると随分たくさん読んだ感じですが、第156段からは
類聚章段で、ほんの一言、二言で終わってしまう段も多かったからです。
第169段も、「女は、典侍。内侍。」、これだけです。
第163段以降は、上達部(上級貴族)に始まって、身分身分に応じた理想
の官職を挙げて行き、最後がこの「女は」、になっています。
当時の貴族社会では、女性の出仕に対しては否定的な人が多く、それは、
男性に顔を見られることを賤しいとする風潮があったからでした。
でも、清少納言は違っていました。このことには、第21段でも触れています
が、世間知らずで終わることなく、宮中に出仕して、典侍などにしばらくでも
就任するのが理想、と記しています。
この段もその延長線上にあると考えられますが、中流貴族の女性としては、
確かに、キャリアウーマンとしての最も望ましいポストは「典侍」だった、と
言えましょう。
典侍や内侍(掌侍)が所属する「内侍司」は、長官が「尚侍」(ないしのかみ)、
次官が「典侍」(ないしのすけ)、三等官が「掌侍」(ないしのじょう)でしたが、
長官の「尚侍」は、上流貴族出身者に限られ、女御、更衣と同じように、
妃としての扱いを受けることも多かったので、「典侍」は実質的な長官職と
して帝に常侍し、帝の渡御の際には神器を奉持しました。もとは従六位
相当でしたが、この頃には要職と認められ、従四位相当になっていました。
中宮定子の母は、円融天皇の御代での「掌侍」だったので、我々は彼女を
「高内侍」(こうのないし)と呼びます。「高」は、高階氏出身という意味です。
関白の北の方(正妻)という玉の輿に乗ったのですから、きっと宮仕え女性
たちの羨望の的だったことでしょう。ただ夫・道隆没後の最晩年は辛いこと
ばかりが起こりましたが・・・。
「源氏物語」にも、朧月夜や玉鬘は「尚侍」、「源典侍」(好色な老女)、
「藤典侍」(惟光の娘で、夕霧の妾)、といった女性たちが登場しますので、
それぞれの立場を考えながらお読みいただければ、一段と面白さも増す
のではないかと思われます。
今回は、先月途中で時間切れとなった第154段の後半~第169段迄を
読みました。段にすると随分たくさん読んだ感じですが、第156段からは
類聚章段で、ほんの一言、二言で終わってしまう段も多かったからです。
第169段も、「女は、典侍。内侍。」、これだけです。
第163段以降は、上達部(上級貴族)に始まって、身分身分に応じた理想
の官職を挙げて行き、最後がこの「女は」、になっています。
当時の貴族社会では、女性の出仕に対しては否定的な人が多く、それは、
男性に顔を見られることを賤しいとする風潮があったからでした。
でも、清少納言は違っていました。このことには、第21段でも触れています
が、世間知らずで終わることなく、宮中に出仕して、典侍などにしばらくでも
就任するのが理想、と記しています。
この段もその延長線上にあると考えられますが、中流貴族の女性としては、
確かに、キャリアウーマンとしての最も望ましいポストは「典侍」だった、と
言えましょう。
典侍や内侍(掌侍)が所属する「内侍司」は、長官が「尚侍」(ないしのかみ)、
次官が「典侍」(ないしのすけ)、三等官が「掌侍」(ないしのじょう)でしたが、
長官の「尚侍」は、上流貴族出身者に限られ、女御、更衣と同じように、
妃としての扱いを受けることも多かったので、「典侍」は実質的な長官職と
して帝に常侍し、帝の渡御の際には神器を奉持しました。もとは従六位
相当でしたが、この頃には要職と認められ、従四位相当になっていました。
中宮定子の母は、円融天皇の御代での「掌侍」だったので、我々は彼女を
「高内侍」(こうのないし)と呼びます。「高」は、高階氏出身という意味です。
関白の北の方(正妻)という玉の輿に乗ったのですから、きっと宮仕え女性
たちの羨望の的だったことでしょう。ただ夫・道隆没後の最晩年は辛いこと
ばかりが起こりましたが・・・。
「源氏物語」にも、朧月夜や玉鬘は「尚侍」、「源典侍」(好色な老女)、
「藤典侍」(惟光の娘で、夕霧の妾)、といった女性たちが登場しますので、
それぞれの立場を考えながらお読みいただければ、一段と面白さも増す
のではないかと思われます。
薫の魅力
2019年5月15日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第213回)
4月22日の記事にも書いたことですが、今の時代、薫のような男性に
心惹かれる女性は本当に少ないと思います。
でも、鎌倉時代の初め(13世紀初頭)に、俊成卿女(しゅんぜいきょうの
むすめ)によって書かれたとされる「無名草子」(我が国最古の物語評論
書)では、薫の評価はとても高いのです。
「薫大将、はじめより終りまで、さらでもと思ふふし一つ見えず、返す返す
めでたき人なんめり」(薫大将は、最初から最後まで、そうでなかったら
いいのに、と思うような点が一つも見当たらず、どう考えても素晴らしい
人のようですね)と、あり、紫の上のお子ならわかるけど、女三宮のような
頼りない人が母親なのが不思議です、と書かれています。物語の中でも
現実においても、今も昔もこれほど立派な方は滅多にはいないでしょう、
と、べた褒めです。
過大評価とも思える記述ですが、今日読んだ箇所の、中の君に対する
薫の態度を読んでいると、そうかもしれない、と思える節も窺えます。
匂宮と夕霧の六の君との結婚も近づき、中の君はこの先自分はどうなる
のか、もう匂宮との結婚生活は破綻するのではないか、と、不安でなりま
せん。訪れた薫に、父・八の宮の三回忌を機に宇治に帰りたい、宇治へ
連れて行って欲しい、と懇願します。薫はそれは無理なことだと中の君を
諭し、宇治の山荘はお寺にするのが良いのでは、と提案します。それも
押し付けるのではなく、他に希望があれば、そのように取り計らうので
私を頼ってください。それが本望というものですから、と、中の君に親身に
寄り添って語りかけるのです。
しかも、匂宮の留守中の訪問なので、長居をして匂宮に疑われては、と、
細かなところにも気を配っています。
地位も経済力もあり、人に対して気遣いの出来る薫が、当時の女性の間
では魅力的に感じられたのでしょうね。
4月22日の記事にも書いたことですが、今の時代、薫のような男性に
心惹かれる女性は本当に少ないと思います。
でも、鎌倉時代の初め(13世紀初頭)に、俊成卿女(しゅんぜいきょうの
むすめ)によって書かれたとされる「無名草子」(我が国最古の物語評論
書)では、薫の評価はとても高いのです。
「薫大将、はじめより終りまで、さらでもと思ふふし一つ見えず、返す返す
めでたき人なんめり」(薫大将は、最初から最後まで、そうでなかったら
いいのに、と思うような点が一つも見当たらず、どう考えても素晴らしい
人のようですね)と、あり、紫の上のお子ならわかるけど、女三宮のような
頼りない人が母親なのが不思議です、と書かれています。物語の中でも
現実においても、今も昔もこれほど立派な方は滅多にはいないでしょう、
と、べた褒めです。
過大評価とも思える記述ですが、今日読んだ箇所の、中の君に対する
薫の態度を読んでいると、そうかもしれない、と思える節も窺えます。
匂宮と夕霧の六の君との結婚も近づき、中の君はこの先自分はどうなる
のか、もう匂宮との結婚生活は破綻するのではないか、と、不安でなりま
せん。訪れた薫に、父・八の宮の三回忌を機に宇治に帰りたい、宇治へ
連れて行って欲しい、と懇願します。薫はそれは無理なことだと中の君を
諭し、宇治の山荘はお寺にするのが良いのでは、と提案します。それも
押し付けるのではなく、他に希望があれば、そのように取り計らうので
私を頼ってください。それが本望というものですから、と、中の君に親身に
寄り添って語りかけるのです。
しかも、匂宮の留守中の訪問なので、長居をして匂宮に疑われては、と、
細かなところにも気を配っています。
地位も経済力もあり、人に対して気遣いの出来る薫が、当時の女性の間
では魅力的に感じられたのでしょうね。
藤壺、中宮になる
2019年5月13日 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第38回・№2)
先程の「全文訳」のところでも書きましたが、今月の「紫の会」は、
前半で第7帖「紅葉賀」を読み終え、休憩を挟んで後半、第8帖「花宴」
の冒頭部分を読みました。
「紅葉賀」の巻の終わりで、藤壺が立后します。5月10日の記事
(→「藤原氏としての悲願」)にも書きましたが、源氏物語の中での
立后はいずれも皇統に属していて、藤原氏出身者がほぼ独占して
いた史実に大きく反しています。
その最初の中宮となるのが藤壺です。世間の常識からしても、東宮
の母として20余年になる弘徽殿の女御(実家は右大臣家で藤原氏)
が立后するはずのところを、あえて桐壺帝は藤壺になさいました。
帝とすれば、一番東宮にしたかった源氏は母親の身分が低く、しかも、
はかばかしい後見もなかったので、諦めざるを得なかったのですが、
藤壺なら、東宮の母親として身分には申し分ないとお考えになり、
若宮が立坊した時、その後ろ盾になれるよう、半ば強引に藤壺を
中宮に立てられたのでした。
弘徽殿の女御に対しては「私は近いうちに譲位するつもりだ。だから、
あなたは間違いなく皇太后(天皇の母)の位におつきになる。中宮に
なれなくても安心しておられよ」と、帝は説得なさいましたが、何だか
屁理屈で道理に適っていないなぁ、という印象を受けるところです。
誰よりも先に、まだ東宮だった桐壺帝に入内して第一皇子を産み、
その皇子も東宮となって20年以上、右大臣家というしっかりとした
後見も持つ弘徽殿の女御が中宮になれないなんて気の毒だわ、と
思うのは、「十二単衣を着た悪魔」の著者・内館牧子さんと私だけ
でしょうか?
詳しくは、こちら→「紅葉賀の全文訳(11)」をお読み下さいませ。
先程の「全文訳」のところでも書きましたが、今月の「紫の会」は、
前半で第7帖「紅葉賀」を読み終え、休憩を挟んで後半、第8帖「花宴」
の冒頭部分を読みました。
「紅葉賀」の巻の終わりで、藤壺が立后します。5月10日の記事
(→「藤原氏としての悲願」)にも書きましたが、源氏物語の中での
立后はいずれも皇統に属していて、藤原氏出身者がほぼ独占して
いた史実に大きく反しています。
その最初の中宮となるのが藤壺です。世間の常識からしても、東宮
の母として20余年になる弘徽殿の女御(実家は右大臣家で藤原氏)
が立后するはずのところを、あえて桐壺帝は藤壺になさいました。
帝とすれば、一番東宮にしたかった源氏は母親の身分が低く、しかも、
はかばかしい後見もなかったので、諦めざるを得なかったのですが、
藤壺なら、東宮の母親として身分には申し分ないとお考えになり、
若宮が立坊した時、その後ろ盾になれるよう、半ば強引に藤壺を
中宮に立てられたのでした。
弘徽殿の女御に対しては「私は近いうちに譲位するつもりだ。だから、
あなたは間違いなく皇太后(天皇の母)の位におつきになる。中宮に
なれなくても安心しておられよ」と、帝は説得なさいましたが、何だか
屁理屈で道理に適っていないなぁ、という印象を受けるところです。
誰よりも先に、まだ東宮だった桐壺帝に入内して第一皇子を産み、
その皇子も東宮となって20年以上、右大臣家というしっかりとした
後見も持つ弘徽殿の女御が中宮になれないなんて気の毒だわ、と
思うのは、「十二単衣を着た悪魔」の著者・内館牧子さんと私だけ
でしょうか?
詳しくは、こちら→「紅葉賀の全文訳(11)」をお読み下さいませ。
第7帖「紅葉賀」の全文訳(11)
2019年5月13日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第38回・№1)
今回は前半で第7帖「紅葉賀」の最後の部分を、後半で第8帖「花宴」の
最初の部分を読みましたので、こちらのクラスでは「紅葉賀」(43頁・7行目
~45頁・14行目)の全文訳を書いておきます。23日のクラスの時に「花宴」
のほうを書くことにいたします。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
さてそれからというものは、このことをややもすれば機会あるごとに、頭中将が
話の種に持ち出すので、源氏の君もいよいよあの厄介な老女のせいだと思い
知られたことでありましょう。
典侍は依然として色っぽく恨み言を言って来るので、源氏の君は困ったことだ
と逃げ回っておられました。頭中将は妹の葵の上にも告げ口をせず、ただ
しかるべき折の脅迫の材料にしようと思っておりました。
身分の高い方々を母とする親王たちでさえ、帝の源氏の君に対するご寵愛が
この上ないので、気を遣って特に源氏の君にはご遠慮申し上げていらっしゃる
のに、この頭中将だけは、決して源氏の君に気圧されまい、と、些細な事にも
対抗意識を燃やしておられるのでした。
左大臣のご子息たちの中でもこの方だけが葵の上と同じ母君でした。源氏の君
とて帝の御子という点が上なだけで、自分だって同じ大臣と言っても帝のご信任
が格別である父の左大臣が、内親王所生の息子としてこの上なく大事になさって
いるのだから、源氏の君にどれほど引けを取る身分ともお思いになっていない
のでありましょう。人柄も必要条件がすべて整っていて、万事につけて申し分なく、
不十分なところが何もないお方でいらっしゃいました。このお二人の間での競い
合いこそ不思議なほどでございました。けれどもう煩わしいので、この辺りで…。
七月には后がお立ちになったようでした。源氏の君は宰相になられました。
桐壺帝は御譲位のお心積もりも近くなられて、その時にはこの若宮を東宮に、
とお考えになりますが、若宮には後ろ盾になって下さる方がいらっしゃいません。
外戚は皆親王で、皇族の方々は国政に関与なさるお立場ではないので、せめて
母宮だけでも中宮という押しも押されぬ地位におつけして、若宮のお力に、と
お考えになったのでした。
弘徽殿の女御がいよいよお心穏やかでいられないのは無理のないことであり
ました。けれども、帝が「東宮の御代も間もなくになったのだから、あなたは
疑いなく皇太后の位におつきになります。安心していらっしゃい」と説得なさった
のでありました。
確かに、東宮の母君として二十年余りにおなりの弘徽殿の女御を差し置いては、
引き越えて他のお方を中宮にはなさり難いことであろうよ、と例によって、うるさく
世間の人もお噂申し上げておりました。
藤壺が中宮として参内なさる夜のお供に、源氏の君も供奉なさいました。同じ
中宮と申し上げる中でも、藤壺は先帝の后腹の内親王で、玉のように光り輝いて、
しかもこの上ない帝のご寵愛をほしいままにしていらっしゃるので、人々も格別な
思いでご奉仕申し上げているのでした。ましてや、源氏の君の耐えがたいお心の
内には、御輿に召された藤壺のお姿が思い遣られて、いっそう手が届かなくなる
気持ちがなさるので、じっとしてはいられないほどでございました。
「尽きもせぬ心の闇にくるるかな雲居に人を見るにつけても(尽きることのない
心の闇に閉ざされてしまいそうだ。遥かな高みにあのお方を仰ぎ見るにつけても)」
とだけ、独り言を言いながら、何かひどく切ない思いがなさるのでした。
若宮が成長なさる月日に添えて、源氏の君と見分けがつかないほど似て来られる
のを、藤壺はとても辛いとお思いになりますが、気付く人はいなかったようですね。
なるほど考えてみれば、どのように作り変えても、美しい方なら源氏の君に似て
しまうことでありましょう。月と日の光が空を巡っているように世間の人も思って
おりました。
第七帖「紅葉賀」 了
今回は前半で第7帖「紅葉賀」の最後の部分を、後半で第8帖「花宴」の
最初の部分を読みましたので、こちらのクラスでは「紅葉賀」(43頁・7行目
~45頁・14行目)の全文訳を書いておきます。23日のクラスの時に「花宴」
のほうを書くことにいたします。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)
さてそれからというものは、このことをややもすれば機会あるごとに、頭中将が
話の種に持ち出すので、源氏の君もいよいよあの厄介な老女のせいだと思い
知られたことでありましょう。
典侍は依然として色っぽく恨み言を言って来るので、源氏の君は困ったことだ
と逃げ回っておられました。頭中将は妹の葵の上にも告げ口をせず、ただ
しかるべき折の脅迫の材料にしようと思っておりました。
身分の高い方々を母とする親王たちでさえ、帝の源氏の君に対するご寵愛が
この上ないので、気を遣って特に源氏の君にはご遠慮申し上げていらっしゃる
のに、この頭中将だけは、決して源氏の君に気圧されまい、と、些細な事にも
対抗意識を燃やしておられるのでした。
左大臣のご子息たちの中でもこの方だけが葵の上と同じ母君でした。源氏の君
とて帝の御子という点が上なだけで、自分だって同じ大臣と言っても帝のご信任
が格別である父の左大臣が、内親王所生の息子としてこの上なく大事になさって
いるのだから、源氏の君にどれほど引けを取る身分ともお思いになっていない
のでありましょう。人柄も必要条件がすべて整っていて、万事につけて申し分なく、
不十分なところが何もないお方でいらっしゃいました。このお二人の間での競い
合いこそ不思議なほどでございました。けれどもう煩わしいので、この辺りで…。
七月には后がお立ちになったようでした。源氏の君は宰相になられました。
桐壺帝は御譲位のお心積もりも近くなられて、その時にはこの若宮を東宮に、
とお考えになりますが、若宮には後ろ盾になって下さる方がいらっしゃいません。
外戚は皆親王で、皇族の方々は国政に関与なさるお立場ではないので、せめて
母宮だけでも中宮という押しも押されぬ地位におつけして、若宮のお力に、と
お考えになったのでした。
弘徽殿の女御がいよいよお心穏やかでいられないのは無理のないことであり
ました。けれども、帝が「東宮の御代も間もなくになったのだから、あなたは
疑いなく皇太后の位におつきになります。安心していらっしゃい」と説得なさった
のでありました。
確かに、東宮の母君として二十年余りにおなりの弘徽殿の女御を差し置いては、
引き越えて他のお方を中宮にはなさり難いことであろうよ、と例によって、うるさく
世間の人もお噂申し上げておりました。
藤壺が中宮として参内なさる夜のお供に、源氏の君も供奉なさいました。同じ
中宮と申し上げる中でも、藤壺は先帝の后腹の内親王で、玉のように光り輝いて、
しかもこの上ない帝のご寵愛をほしいままにしていらっしゃるので、人々も格別な
思いでご奉仕申し上げているのでした。ましてや、源氏の君の耐えがたいお心の
内には、御輿に召された藤壺のお姿が思い遣られて、いっそう手が届かなくなる
気持ちがなさるので、じっとしてはいられないほどでございました。
「尽きもせぬ心の闇にくるるかな雲居に人を見るにつけても(尽きることのない
心の闇に閉ざされてしまいそうだ。遥かな高みにあのお方を仰ぎ見るにつけても)」
とだけ、独り言を言いながら、何かひどく切ない思いがなさるのでした。
若宮が成長なさる月日に添えて、源氏の君と見分けがつかないほど似て来られる
のを、藤壺はとても辛いとお思いになりますが、気付く人はいなかったようですね。
なるほど考えてみれば、どのように作り変えても、美しい方なら源氏の君に似て
しまうことでありましょう。月と日の光が空を巡っているように世間の人も思って
おりました。
第七帖「紅葉賀」 了
遅れを取った薫
2019年5月12日(日) 淵野辺「五十四帖の会」(第161回)
第52帖「蜻蛉」に入って2回目。姿を消した浮舟が宇治川に身を投げた、
と判断した右近と侍従は、母君にだけ真相を打ち明け、事実を隠蔽する
ため、亡骸もないまま、その夜の内に葬儀を済ませてしまいました。
薫に浮舟の死が知らされたのは、その翌日のことでした。浮舟が病死の
ような形で亡くなったならば、庇護者である薫にいの一番に知らされたで
ありましょうが、秘密を守るのが第一と考えた右近と侍従には、その工作
をするほうが大事な課題でありました。
匂宮でさえ、浮舟から貰った「からをだに憂き世の中にとどめずはいづこを
はかと君もうらみむ」(亡骸さえも辛いこの世に残さなかったら、どこを目当て
にあなたは私をお恨みになれましょう)という歌を見て、慌てて宇治に使いを
送り、訃報を持ち帰った使者の言葉には納得できず、すぐさま真相究明の為、
時方を遣わされています。尤も匂宮は浮舟が入水したなどとは思いも寄らず、
浮気な自分を責めて拗ねている、と受け止めた上での使者派遣でした。
ところが薫には、浮舟は辞世の歌も残しませんでした。それは二人に辞世の
歌を書き残したら、匂宮と薫は近しい間柄だから、いずれお分かりになること
と憚られたためでした。
ですから薫は、浮舟が4月10日に自分が迎えに行くのを宇治で待っていると
信じて、母・女三宮の病平癒の祈願のために、石山寺に参籠していました。
石山寺に籠る薫が知ったのは、浮舟逝去という一大事に、真っ先に弔問の
使者が遣わされてよいはずの薫から何の連絡もないのを、世間体が悪いと
山荘の人たちが情けなく思っているので、それを薫の宇治の荘園の使用人
が伝えたからでした。
そうしたいきさつがあって、薫からの使者が山荘にやって来たのは、葬儀も
終わった翌日となりました。浮舟が薫には遺書めいたものを届けなかった、
ということと、浮舟失踪当日に薫が京に居なかった、ということが、薫に遅れ
を取らせる二重の要因となってしまったのです。
第52帖「蜻蛉」に入って2回目。姿を消した浮舟が宇治川に身を投げた、
と判断した右近と侍従は、母君にだけ真相を打ち明け、事実を隠蔽する
ため、亡骸もないまま、その夜の内に葬儀を済ませてしまいました。
薫に浮舟の死が知らされたのは、その翌日のことでした。浮舟が病死の
ような形で亡くなったならば、庇護者である薫にいの一番に知らされたで
ありましょうが、秘密を守るのが第一と考えた右近と侍従には、その工作
をするほうが大事な課題でありました。
匂宮でさえ、浮舟から貰った「からをだに憂き世の中にとどめずはいづこを
はかと君もうらみむ」(亡骸さえも辛いこの世に残さなかったら、どこを目当て
にあなたは私をお恨みになれましょう)という歌を見て、慌てて宇治に使いを
送り、訃報を持ち帰った使者の言葉には納得できず、すぐさま真相究明の為、
時方を遣わされています。尤も匂宮は浮舟が入水したなどとは思いも寄らず、
浮気な自分を責めて拗ねている、と受け止めた上での使者派遣でした。
ところが薫には、浮舟は辞世の歌も残しませんでした。それは二人に辞世の
歌を書き残したら、匂宮と薫は近しい間柄だから、いずれお分かりになること
と憚られたためでした。
ですから薫は、浮舟が4月10日に自分が迎えに行くのを宇治で待っていると
信じて、母・女三宮の病平癒の祈願のために、石山寺に参籠していました。
石山寺に籠る薫が知ったのは、浮舟逝去という一大事に、真っ先に弔問の
使者が遣わされてよいはずの薫から何の連絡もないのを、世間体が悪いと
山荘の人たちが情けなく思っているので、それを薫の宇治の荘園の使用人
が伝えたからでした。
そうしたいきさつがあって、薫からの使者が山荘にやって来たのは、葬儀も
終わった翌日となりました。浮舟が薫には遺書めいたものを届けなかった、
ということと、浮舟失踪当日に薫が京に居なかった、ということが、薫に遅れ
を取らせる二重の要因となってしまったのです。
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