女三宮のプロフィール
2016年5月30日(月) 溝の口「湖月会」(第95回)
先週、神戸に行く用があったため、一週ずらして5週目にして頂いたので、
溝の口の「湖月会」は今日が5月の例会となりました。一週間の違いで、
随分間が空いたような気がするものです。
第2金曜日のクラスと同じように、こちらも今回から第二部「若菜上」に
入りました。
5月13日の記事で予告しました通り、ここからの「源氏物語」の展開に
重要な役割を担う「女三宮」という人のプロフィールを、今日はご紹介
いたします。
源氏の兄・朱雀院には、男一人、女四人の御子がいらっしゃいましたが、
男御子は現東宮で、源氏の娘・明石の姫君が入内しています。
女御子のうち、第二部で登場して来るのは「女二宮」と「女三宮」です。
朱雀院が、女宮たちの中で一番目をかけておられるのは女三宮でした。
女三宮は「若菜上」の開始時(源氏は39歳)、十三、四歳となっています。
女三宮の母・藤壺の女御は先帝の皇女ですが、更衣腹で、賜姓源氏と
なっていた方でしたが、朱雀院がまだ東宮時代に入内なさいました。
そして後に女三宮をお産みになりましたが、当時、朱雀院が最も寵愛
していた女性は朧月夜でした。
朧月夜は朱雀院への入内が決まっていながら源氏と結ばれてしまった為、
尚侍という表向きは女官として出仕したのですから、当然立后の資格は
ありません。ですから、藤壺の女御には立后(中宮となること)のチャンスも
あったのですが、そうならないうちに、朱雀院は退位してしまい、結局、
入内の甲斐もないまま、女三宮を残して他界してしまわれたのでした。
そうしたいきさつもあり、自分が出家した後、女三宮には誰一人後見を
してくれる人がいないので、朱雀院はいっそう女三宮を不憫で愛しいと
お思いになっていたのです。
皇女は独身を通すというのが前提であった時代において、父・朱雀院と
乳母が、女三宮の婿選びに躍起になっているのは、要するに、頼もしい
庇護者なくしては、女三宮が自立してやっていける女性ではない、という
ことを読者に知らしめているのでありましょう。
母親が女御なので、後に出て来る母親が更衣の女二宮よりは挌上で、
父・朱雀院からも一番愛されている女宮ですが、ご当人は如何にも
頼りなさそうな十三、四歳の皇女、それが女三宮のプロフィールです。
ここで、もう一つ注意したいのは、女三宮の母・藤壺の女御が、先帝の
皇女いうことです。あの源氏の永遠の女性・藤壺中宮も、先帝の皇女
でした。つまり、女三宮も紫の上と同じく、藤壺中宮の姪にあたる女性
だったのです。
源氏が、いくら兄の頼みとはいえ、娘のような釣り合いの取れない若い
女三宮を妻として迎えてもよい、と考えた裏には、誰にも言えない訳=
藤壺の姪、という期待があったからに他なりません。
言葉だけでは、なかなか理解しにくい関係かと思われますので、
系図で示しておきます。
先週、神戸に行く用があったため、一週ずらして5週目にして頂いたので、
溝の口の「湖月会」は今日が5月の例会となりました。一週間の違いで、
随分間が空いたような気がするものです。
第2金曜日のクラスと同じように、こちらも今回から第二部「若菜上」に
入りました。
5月13日の記事で予告しました通り、ここからの「源氏物語」の展開に
重要な役割を担う「女三宮」という人のプロフィールを、今日はご紹介
いたします。
源氏の兄・朱雀院には、男一人、女四人の御子がいらっしゃいましたが、
男御子は現東宮で、源氏の娘・明石の姫君が入内しています。
女御子のうち、第二部で登場して来るのは「女二宮」と「女三宮」です。
朱雀院が、女宮たちの中で一番目をかけておられるのは女三宮でした。
女三宮は「若菜上」の開始時(源氏は39歳)、十三、四歳となっています。
女三宮の母・藤壺の女御は先帝の皇女ですが、更衣腹で、賜姓源氏と
なっていた方でしたが、朱雀院がまだ東宮時代に入内なさいました。
そして後に女三宮をお産みになりましたが、当時、朱雀院が最も寵愛
していた女性は朧月夜でした。
朧月夜は朱雀院への入内が決まっていながら源氏と結ばれてしまった為、
尚侍という表向きは女官として出仕したのですから、当然立后の資格は
ありません。ですから、藤壺の女御には立后(中宮となること)のチャンスも
あったのですが、そうならないうちに、朱雀院は退位してしまい、結局、
入内の甲斐もないまま、女三宮を残して他界してしまわれたのでした。
そうしたいきさつもあり、自分が出家した後、女三宮には誰一人後見を
してくれる人がいないので、朱雀院はいっそう女三宮を不憫で愛しいと
お思いになっていたのです。
皇女は独身を通すというのが前提であった時代において、父・朱雀院と
乳母が、女三宮の婿選びに躍起になっているのは、要するに、頼もしい
庇護者なくしては、女三宮が自立してやっていける女性ではない、という
ことを読者に知らしめているのでありましょう。
母親が女御なので、後に出て来る母親が更衣の女二宮よりは挌上で、
父・朱雀院からも一番愛されている女宮ですが、ご当人は如何にも
頼りなさそうな十三、四歳の皇女、それが女三宮のプロフィールです。
ここで、もう一つ注意したいのは、女三宮の母・藤壺の女御が、先帝の
皇女いうことです。あの源氏の永遠の女性・藤壺中宮も、先帝の皇女
でした。つまり、女三宮も紫の上と同じく、藤壺中宮の姪にあたる女性
だったのです。
源氏が、いくら兄の頼みとはいえ、娘のような釣り合いの取れない若い
女三宮を妻として迎えてもよい、と考えた裏には、誰にも言えない訳=
藤壺の姪、という期待があったからに他なりません。
言葉だけでは、なかなか理解しにくい関係かと思われますので、
系図で示しておきます。
第一帖「桐壺」の巻・全文訳(4)
2016年5月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第2回)
本日読みました「桐壺」の巻(13頁・2行目~19頁・10行目まで)の
後半に当たる部分(17頁・8行目~19頁・10行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
若宮のことは、更衣が亡くなられても、このまま宮中で
お側に置いてご覧になっていたいと帝はお思いでしたが、
母親の喪中に子が宮中に残るというのは例のないこと
ですので、退出なさいます。
若宮は何が起こったのかもおわかりにならず、お仕えしている
女房たちが泣きうろたえ、帝もとめどなく涙をお流しなのを、
不思議そうにご覧になっているので、普通の場合でさえ
母親との死別は悲しいものでありますが、ましてやこのような
頑是ないお姿を見ると、いっそう悲しく、言うべき言葉も
見つからないのでございました。
ご遺骸をそのままにしておくこともできませんので、
火葬にて葬り申し上げるのですが、更衣の母上は、
自分も同じ煙になって上ってしまいたい、と、
泣き焦がれなさって、野辺送りの女房の車に後から
お乗りになって、愛宕という所で、たいそう厳かに葬儀が
行われているところにお着きになりました。その時の
お気持ちは如何ばかりであったかと、ご拝察申し上げます。
「むなしい亡骸を目の前にして、やはりまだ生きて
おられる気のするのが、どうにも仕方のないことなので、
灰になられるのを見届けて、もう今はいなくなった人、と
きっぱり諦めましょう」と、気丈にはおっしゃるものの、
牛車から落ちてしまわれるのではないかと思われるほど
泣き悶えられるので、「やっぱり思った通りだわ」と、
女房たちも手を焼いておりました。
宮中から勅使が参りました。三位の位を追贈する旨、
勅使がその宣命を読み上げるのも、悲しいことで
ございました。「女御」とも呼ばせずに終わったことが
心残りで無念に思われて、せめて今一段上の位だけでも、
と帝がお考えになって贈られたのでした。これにつけても、
更衣を憎むお妃方が大勢おいででした。
それでも、人の世の情けがお分りの方々は、更衣の
容姿の美しかったことや、気立てが穏やかで欠点がなく、
憎めないお方だったことなどを、今になって思い出されて
おりました。帝のお見苦しいまでのご寵愛ゆえに、
冷たくして嫉妬もなさいましたが、亡くなった更衣の
人柄が優しく、情愛に満ちたお心の持ち主だったことを、
帝付きの女房なども、懐かしく偲び合っておりました。
「亡くなってこそ恋しく思われる」というのは、こんな場合の
ことを言うのではないかと思われたのでした。
いつしか日が過ぎ、七日ごとの法要などにも、帝は
ねんごろに弔問の使者をお遣わしになりました。
時が経てば経つほど、帝はどうしようもなく悲しく
お思いになって、お妃たちを御寝所にお召しになる
ことも全くなく、ただもう涙にくれて日夜お過ごしなので、
それをお側で拝見している者までもが涙がちな秋で
ございました。
「亡くなった後まで、人の心をいらいらさせるご寵愛ぶり
だこと」と、弘徽殿の女御などは、相変わらず手厳しく
おっしゃっておられました。帝は一の宮をご覧になるに
つけても、若宮をひとしお恋しく思い出され、気心の知れた
女房や、乳母などを更衣のお里に遣わされては、若宮の
ご様子をお尋ねになっていらっしゃいました。
本日読みました「桐壺」の巻(13頁・2行目~19頁・10行目まで)の
後半に当たる部分(17頁・8行目~19頁・10行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
若宮のことは、更衣が亡くなられても、このまま宮中で
お側に置いてご覧になっていたいと帝はお思いでしたが、
母親の喪中に子が宮中に残るというのは例のないこと
ですので、退出なさいます。
若宮は何が起こったのかもおわかりにならず、お仕えしている
女房たちが泣きうろたえ、帝もとめどなく涙をお流しなのを、
不思議そうにご覧になっているので、普通の場合でさえ
母親との死別は悲しいものでありますが、ましてやこのような
頑是ないお姿を見ると、いっそう悲しく、言うべき言葉も
見つからないのでございました。
ご遺骸をそのままにしておくこともできませんので、
火葬にて葬り申し上げるのですが、更衣の母上は、
自分も同じ煙になって上ってしまいたい、と、
泣き焦がれなさって、野辺送りの女房の車に後から
お乗りになって、愛宕という所で、たいそう厳かに葬儀が
行われているところにお着きになりました。その時の
お気持ちは如何ばかりであったかと、ご拝察申し上げます。
「むなしい亡骸を目の前にして、やはりまだ生きて
おられる気のするのが、どうにも仕方のないことなので、
灰になられるのを見届けて、もう今はいなくなった人、と
きっぱり諦めましょう」と、気丈にはおっしゃるものの、
牛車から落ちてしまわれるのではないかと思われるほど
泣き悶えられるので、「やっぱり思った通りだわ」と、
女房たちも手を焼いておりました。
宮中から勅使が参りました。三位の位を追贈する旨、
勅使がその宣命を読み上げるのも、悲しいことで
ございました。「女御」とも呼ばせずに終わったことが
心残りで無念に思われて、せめて今一段上の位だけでも、
と帝がお考えになって贈られたのでした。これにつけても、
更衣を憎むお妃方が大勢おいででした。
それでも、人の世の情けがお分りの方々は、更衣の
容姿の美しかったことや、気立てが穏やかで欠点がなく、
憎めないお方だったことなどを、今になって思い出されて
おりました。帝のお見苦しいまでのご寵愛ゆえに、
冷たくして嫉妬もなさいましたが、亡くなった更衣の
人柄が優しく、情愛に満ちたお心の持ち主だったことを、
帝付きの女房なども、懐かしく偲び合っておりました。
「亡くなってこそ恋しく思われる」というのは、こんな場合の
ことを言うのではないかと思われたのでした。
いつしか日が過ぎ、七日ごとの法要などにも、帝は
ねんごろに弔問の使者をお遣わしになりました。
時が経てば経つほど、帝はどうしようもなく悲しく
お思いになって、お妃たちを御寝所にお召しになる
ことも全くなく、ただもう涙にくれて日夜お過ごしなので、
それをお側で拝見している者までもが涙がちな秋で
ございました。
「亡くなった後まで、人の心をいらいらさせるご寵愛ぶり
だこと」と、弘徽殿の女御などは、相変わらず手厳しく
おっしゃっておられました。帝は一の宮をご覧になるに
つけても、若宮をひとしお恋しく思い出され、気心の知れた
女房や、乳母などを更衣のお里に遣わされては、若宮の
ご様子をお尋ねになっていらっしゃいました。
桐壺の更衣のモデルは?
2016年5月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第2回)
夕方には雨になるという予報でしたので、折りたたみ傘をバッグに
入れて出かけましたが、帰宅時にもまだ青空が広がっていました。
雨は明日になるようです。
「紫の会」の第4木曜クラスは、第2月曜クラス同様、「桐壺」の巻の、
更衣が亡くなって季節が夏から秋になった、というところまでを読み
ました。
若宮(のちの光源氏)が三歳の夏に桐壺の更衣は亡くなりますが、
本文中に書かれている彼女のセリフは、ただ一箇所だけです。
「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく
思うたまへましかば」(もうこれでお別れ、と死出の道に赴く悲しさに
つけても、もっと生きていとうございました。こんなふうになることが
わかっておりましたならば)
これが言わば更衣の辞世の歌になるのですが、この歌を見ると、
思い出されるのが、一条天皇の中宮(亡くなった時は皇后)定子の、
次の辞世の歌です。
「知る人もなき別れ路に今はとて心細くもいそぎ立つかな」(知る人も
いない死出の道に、今はもうその時ということで、私は心細くも急ぎ
旅立って行くのですね)
詠まれている心情に共通するものが窺えます。
桐壺の更衣のモデルには、藤原沢子(仁明天皇女御・光孝天皇母)
が、帝の寵愛も深く、その亡くなった時の状況が酷似している(宮中で
俄かに病が重くなり、退出してすぐに逝去。三位が追贈された)ので、
挙げられることが多いのですが、中宮定子もまたモデルの一人として
考えられています。
一条天皇の寵愛を独占していたこと、父を亡くして後見を失ったこと、
皇子を一人残して、若くして死去したこと、など、作者が桐壺の更衣の
造型にあたって、定子をベースにした可能性は十分にあり、辞世の歌
の類似性などがあっても不思議ではありません。
中宮定子にはこの歌の他に、辞世の歌が二首あり、話がそちらに
及んでいるうちに、今日も15分の時間オーバーとなってしまいました
この後、5月9日の「桐壺の巻・全文訳」の続きを書きます。
夕方には雨になるという予報でしたので、折りたたみ傘をバッグに
入れて出かけましたが、帰宅時にもまだ青空が広がっていました。
雨は明日になるようです。
「紫の会」の第4木曜クラスは、第2月曜クラス同様、「桐壺」の巻の、
更衣が亡くなって季節が夏から秋になった、というところまでを読み
ました。
若宮(のちの光源氏)が三歳の夏に桐壺の更衣は亡くなりますが、
本文中に書かれている彼女のセリフは、ただ一箇所だけです。
「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく
思うたまへましかば」(もうこれでお別れ、と死出の道に赴く悲しさに
つけても、もっと生きていとうございました。こんなふうになることが
わかっておりましたならば)
これが言わば更衣の辞世の歌になるのですが、この歌を見ると、
思い出されるのが、一条天皇の中宮(亡くなった時は皇后)定子の、
次の辞世の歌です。
「知る人もなき別れ路に今はとて心細くもいそぎ立つかな」(知る人も
いない死出の道に、今はもうその時ということで、私は心細くも急ぎ
旅立って行くのですね)
詠まれている心情に共通するものが窺えます。
桐壺の更衣のモデルには、藤原沢子(仁明天皇女御・光孝天皇母)
が、帝の寵愛も深く、その亡くなった時の状況が酷似している(宮中で
俄かに病が重くなり、退出してすぐに逝去。三位が追贈された)ので、
挙げられることが多いのですが、中宮定子もまたモデルの一人として
考えられています。
一条天皇の寵愛を独占していたこと、父を亡くして後見を失ったこと、
皇子を一人残して、若くして死去したこと、など、作者が桐壺の更衣の
造型にあたって、定子をベースにした可能性は十分にあり、辞世の歌
の類似性などがあっても不思議ではありません。
中宮定子にはこの歌の他に、辞世の歌が二首あり、話がそちらに
及んでいるうちに、今日も15分の時間オーバーとなってしまいました
この後、5月9日の「桐壺の巻・全文訳」の続きを書きます。
布引の滝
2016年5月24日(火)
日曜日(22日)から2泊3日で神戸に行って来ました。
昨日、20日の「伊勢物語」の記事で書いたばかりの「布引の滝」に
参りましたので、写真をUPして様子をお伝えします。
「布引の滝」は、新幹線の新神戸駅から徒歩で10分位のところに
あり、「えっ、こんなに市街地の近くに滝があるの?」って感じですが、
雄滝(おんたき)までの道は、新緑の今、「森林浴してる~」という
気分になれました。
四つの滝のうち、一番上流にあり、一番滝の規模も大きい「雄滝」。
「伊勢物語」第87段にある、「ひろさ五丈ばかりなる石のおもて、
白絹に岩を包めらむやうになむありける」(巾15m位の石の表面が、
白絹に岩が包まれているような感じで水が落ちていた)という表現が
実感出来ました。
在原行平が詠んだ「我が世をば今日か明日かと待つ甲斐の
涙の滝といづれ高けむ」(私が世に時めくのは今日か明日かと
待つ甲斐もなく、涙が滝のように流れ落ちるばかりだが、その涙と
この布引の滝とは、どちらが高いであろうか)の石碑。
この行平の歌は、「宗達伊勢物語図色紙」の「布引の滝」を描いた
場面にも詞書として使われていますが、普通とは逆に左から右へと
書かれています。下の絵です。
日曜日(22日)から2泊3日で神戸に行って来ました。
昨日、20日の「伊勢物語」の記事で書いたばかりの「布引の滝」に
参りましたので、写真をUPして様子をお伝えします。
「布引の滝」は、新幹線の新神戸駅から徒歩で10分位のところに
あり、「えっ、こんなに市街地の近くに滝があるの?」って感じですが、
雄滝(おんたき)までの道は、新緑の今、「森林浴してる~」という
気分になれました。
四つの滝のうち、一番上流にあり、一番滝の規模も大きい「雄滝」。
「伊勢物語」第87段にある、「ひろさ五丈ばかりなる石のおもて、
白絹に岩を包めらむやうになむありける」(巾15m位の石の表面が、
白絹に岩が包まれているような感じで水が落ちていた)という表現が
実感出来ました。
在原行平が詠んだ「我が世をば今日か明日かと待つ甲斐の
涙の滝といづれ高けむ」(私が世に時めくのは今日か明日かと
待つ甲斐もなく、涙が滝のように流れ落ちるばかりだが、その涙と
この布引の滝とは、どちらが高いであろうか)の石碑。
この行平の歌は、「宗達伊勢物語図色紙」の「布引の滝」を描いた
場面にも詞書として使われていますが、普通とは逆に左から右へと
書かれています。下の絵です。
異なる次元を一つの画面に
2016年5月20日(金) 溝の口「伊勢物語」(第11回)
「伊勢物語」の講読会は、あと2、3回というところまで来ました。
最初は1年(全12回)の予定でしたが、それはちょっと無理なようで、
13回、ないしは14回で終了となりそうです。
今回は、第82段~第87段までを読みましたが、ここは、
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
(この世に桜の花というものが全くなかったならば、春はどんなに
のどかに過ごせるであろうに)
が詠まれた「渚の院」(第82段)をはじめ、
「あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげて入れずもあらなむ」
(まだ十分だと満足するほど見ていないのに、早くも月は隠れてしまうのか。
山の端が逃げて月が沈まないようにして欲しいものだ)や、
「忘れては夢かとぞおもふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」
(これが現実だということを忘れて夢ではないかとおもいます。こんなに
積もった雪を踏み分けて、親王様に逢いに来ることになるなんて、
嘗て考えたことがありましたでしょうか)
など、惟喬親王との交流から生まれた数々の名歌が含まれている
箇所です。
第87段は、今の兵庫県芦屋市辺りに別宅のあった業平とおぼしき男を、
兄の行平らが訪れて布引の滝まで逍遥して帰宅し、翌朝、女童たちが、
浜辺に打ち上げられた海藻を採って来て、ここに住む男の愛人が、
その海藻を差し出しながら歌を詠んだところまでが書かれた段です。
下の絵をご覧ください。
これは、住吉如慶の「伊勢物語絵巻」に描かれているものですが、
画面右では、子供たちが海辺で海藻を採っており、画面左では
女性が、高坏に盛った海藻を男性に差し出しています。
ここでは、本来時間差のある二つのことを、同じ空間に併存させて
描いています。こうした手法はこの絵に限らず、「源氏絵」などにも
見られるものです。
上の絵は、桃山時代に土佐光吉によって書かれた「若紫」の
一場面で、源氏絵の中でも、特によく知られた場面です。
物語の中では、源氏が初めて若紫を垣間見た時にはもう、
すずめの子は逃げてしまっており、若紫が泣きながら尼君に
そのことを訴えるため走り出て来ます。
それがこの絵では、すずめの子は今逃げて桜の枝の間を
飛んでいます。尼君も若紫も一緒にそれを見ていて、次元が
混同しているのがおわかり頂けると思います。
住吉如慶は江戸時代初期の絵師ですから、既にこのように
「源氏絵」で使われている手法を取り入れたのでありましょう。
「伊勢物語」の講読会は、あと2、3回というところまで来ました。
最初は1年(全12回)の予定でしたが、それはちょっと無理なようで、
13回、ないしは14回で終了となりそうです。
今回は、第82段~第87段までを読みましたが、ここは、
「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
(この世に桜の花というものが全くなかったならば、春はどんなに
のどかに過ごせるであろうに)
が詠まれた「渚の院」(第82段)をはじめ、
「あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげて入れずもあらなむ」
(まだ十分だと満足するほど見ていないのに、早くも月は隠れてしまうのか。
山の端が逃げて月が沈まないようにして欲しいものだ)や、
「忘れては夢かとぞおもふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」
(これが現実だということを忘れて夢ではないかとおもいます。こんなに
積もった雪を踏み分けて、親王様に逢いに来ることになるなんて、
嘗て考えたことがありましたでしょうか)
など、惟喬親王との交流から生まれた数々の名歌が含まれている
箇所です。
第87段は、今の兵庫県芦屋市辺りに別宅のあった業平とおぼしき男を、
兄の行平らが訪れて布引の滝まで逍遥して帰宅し、翌朝、女童たちが、
浜辺に打ち上げられた海藻を採って来て、ここに住む男の愛人が、
その海藻を差し出しながら歌を詠んだところまでが書かれた段です。
下の絵をご覧ください。
これは、住吉如慶の「伊勢物語絵巻」に描かれているものですが、
画面右では、子供たちが海辺で海藻を採っており、画面左では
女性が、高坏に盛った海藻を男性に差し出しています。
ここでは、本来時間差のある二つのことを、同じ空間に併存させて
描いています。こうした手法はこの絵に限らず、「源氏絵」などにも
見られるものです。
上の絵は、桃山時代に土佐光吉によって書かれた「若紫」の
一場面で、源氏絵の中でも、特によく知られた場面です。
物語の中では、源氏が初めて若紫を垣間見た時にはもう、
すずめの子は逃げてしまっており、若紫が泣きながら尼君に
そのことを訴えるため走り出て来ます。
それがこの絵では、すずめの子は今逃げて桜の枝の間を
飛んでいます。尼君も若紫も一緒にそれを見ていて、次元が
混同しているのがおわかり頂けると思います。
住吉如慶は江戸時代初期の絵師ですから、既にこのように
「源氏絵」で使われている手法を取り入れたのでありましょう。
第二部に描かれた五組の三角関係
2016年5月18日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第177回)
空はよく晴れ、気温も25度を超えて夏日。まるで梅雨明けを
思わせる一日でした。しばらくはこのような天候が続きそう
なので、その間に冬物をしっかりと片付けてしまいたいもの
ですね。
湘南台クラスも、「夕霧」の巻の終わりが見えて来ました。
夕霧を避けて塗籠(寝殿造りの住居にあって、唯一壁で囲まれ、
妻戸を出入り口とする閉鎖的な空間。普段は物置部屋のように
して使われていた)に閉じ籠ってしまった落葉の宮ですが、夕霧も
小少将の君(落葉の宮の女房)に導かれて、既に塗籠の中に
いますので、もう時間の問題です。今日はここまでを読みました。
ところで、源氏物語の第二部には実に綺麗に図式化できる五組の
三角関係が描かれています。
もしかしたら、紫式部はこのように図式や、系図を書いて手許に
置き、人間関係を整理しながら、物語を書き進めて行ったのでは
ないかと思われるのですが、皆さまはこれをご覧になって
どのようにお感じになりましたか?
空はよく晴れ、気温も25度を超えて夏日。まるで梅雨明けを
思わせる一日でした。しばらくはこのような天候が続きそう
なので、その間に冬物をしっかりと片付けてしまいたいもの
ですね。
湘南台クラスも、「夕霧」の巻の終わりが見えて来ました。
夕霧を避けて塗籠(寝殿造りの住居にあって、唯一壁で囲まれ、
妻戸を出入り口とする閉鎖的な空間。普段は物置部屋のように
して使われていた)に閉じ籠ってしまった落葉の宮ですが、夕霧も
小少将の君(落葉の宮の女房)に導かれて、既に塗籠の中に
いますので、もう時間の問題です。今日はここまでを読みました。
ところで、源氏物語の第二部には実に綺麗に図式化できる五組の
三角関係が描かれています。
もしかしたら、紫式部はこのように図式や、系図を書いて手許に
置き、人間関係を整理しながら、物語を書き進めて行ったのでは
ないかと思われるのですが、皆さまはこれをご覧になって
どのようにお感じになりましたか?
「宇治十帖」へ
2016年5月14日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第125回)
今日は午後から幹事さんによる特別企画があり(私は明日の
孫の誕生会の準備のため参加できませんでしたが)、例会は
午前中となりました。
昨日の溝の口のクラスが第二部に入ったと思えば、こちらは
いよいよ「宇治十帖」の開始です。
一部でも終わらず、二部でも終わらず、ややもたつき感のある
「匂宮三帖」を挟み、最後の「宇治十帖」で、「源氏物語」はまた
新たな世界へと深化して行くのです。
第45帖「橋姫」は、その最初の巻となります。冒頭で作者は、
世間から忘れ去られた一人の老いた宮様の話を始めます。
この宮様、実は源氏の異母弟にあたる、桐壺帝の八の宮
なのです。
話はずっと遡るのですが、冷泉院がまだ東宮だった頃、源氏の
須磨謫居を機に、弘徽殿の大后が、東宮を廃して八の宮を
東宮に立てようと画策なさったことがありました。しかし、間もなく
源氏が都に召還され復権を果たすと、八の宮は源氏側から
遠ざけられてしまい、忽ち零落してしまったのでした。
そんな八の宮にも、この上なく仲睦まじい北の方がいらっしゃい
ましたが、二人目の姫君をご出産の後、肥立ちが悪く、亡くなって
しまわれました。
仏道修行に励みながらも、娘たちを残しては出家も出来ず、
男手一つで、二人の可愛い姫君の養育にもあたっている八の宮。
「橋姫」の巻は、「宇治十帖」で登場してくる新たな三人の
ヒロインたち(大君、中の君、浮舟)の父親を紹介するところから
物語を紡ぎ始めています。
この先、八の宮や姫君たちが、薫、匂宮といった主人公たちと、
どのように関わり合いながら物語が展開して行くのか、皆さまと
ご一緒に味わいながら、読み解いて行きたいと思います。
今日は午後から幹事さんによる特別企画があり(私は明日の
孫の誕生会の準備のため参加できませんでしたが)、例会は
午前中となりました。
昨日の溝の口のクラスが第二部に入ったと思えば、こちらは
いよいよ「宇治十帖」の開始です。
一部でも終わらず、二部でも終わらず、ややもたつき感のある
「匂宮三帖」を挟み、最後の「宇治十帖」で、「源氏物語」はまた
新たな世界へと深化して行くのです。
第45帖「橋姫」は、その最初の巻となります。冒頭で作者は、
世間から忘れ去られた一人の老いた宮様の話を始めます。
この宮様、実は源氏の異母弟にあたる、桐壺帝の八の宮
なのです。
話はずっと遡るのですが、冷泉院がまだ東宮だった頃、源氏の
須磨謫居を機に、弘徽殿の大后が、東宮を廃して八の宮を
東宮に立てようと画策なさったことがありました。しかし、間もなく
源氏が都に召還され復権を果たすと、八の宮は源氏側から
遠ざけられてしまい、忽ち零落してしまったのでした。
そんな八の宮にも、この上なく仲睦まじい北の方がいらっしゃい
ましたが、二人目の姫君をご出産の後、肥立ちが悪く、亡くなって
しまわれました。
仏道修行に励みながらも、娘たちを残しては出家も出来ず、
男手一つで、二人の可愛い姫君の養育にもあたっている八の宮。
「橋姫」の巻は、「宇治十帖」で登場してくる新たな三人の
ヒロインたち(大君、中の君、浮舟)の父親を紹介するところから
物語を紡ぎ始めています。
この先、八の宮や姫君たちが、薫、匂宮といった主人公たちと、
どのように関わり合いながら物語が展開して行くのか、皆さまと
ご一緒に味わいながら、読み解いて行きたいと思います。
第二部へ
2016年5月13日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第95回)
2008年の7月11日にスタートした溝の口の「源氏物語を読む会」は、
今回から第二部の第34帖「若菜上」に入りました。ここから第41帖の
「幻」の巻までが第二部となります。帖数からすると、八帖しかありません
ので、大したことはない、と考えられがちですが、「若菜上」と「若菜下」は
「源氏物語」中、最も長い巻で、この二つだけで全体の1/10強あります。
単に長いだけではなく、読み応えも一番かと思われます。
第一部の最後、「藤裏葉」の巻は、すべてのことが理想的な方向へと
導かれ、メデタシ、メデタシ、で幕を降ろしました。最後の場面では、
冷泉帝と朱雀院が、揃って六条院へとお出ましになり、六条院は
この世の栄誉栄華の象徴とも言うべき様相を呈していました。
第二部は、その六条院が内部崩壊をして行く過程と、それに伴う
人々の苦悩を、紫式部の冴えわたった筆が描き切っている、と
言っても過言ではないでしょう。「油の乗り切った」という表現が
ありますが、第二部執筆時の紫式部は、まさにその感があります。
源氏の兄・朱雀院の二人の女宮(女三宮と女二宮)が、第二部で
新たに登場して参りますが、先ずは、朱雀院が一番可愛がっている
女三宮です。
父院が、女三宮の婿選びに腐心するところから「若菜上」は始まります。
この「女三宮」の、一見何の罪もない幼さ、頼りなさ、が、暴力的な
起爆装置となって働き、六条院を内部崩壊させてしまうのですが、
次の「湖月会」のほうのブログ(5月30日)で、女三宮のプロフィールを
ご紹介したいと思います。
2008年の7月11日にスタートした溝の口の「源氏物語を読む会」は、
今回から第二部の第34帖「若菜上」に入りました。ここから第41帖の
「幻」の巻までが第二部となります。帖数からすると、八帖しかありません
ので、大したことはない、と考えられがちですが、「若菜上」と「若菜下」は
「源氏物語」中、最も長い巻で、この二つだけで全体の1/10強あります。
単に長いだけではなく、読み応えも一番かと思われます。
第一部の最後、「藤裏葉」の巻は、すべてのことが理想的な方向へと
導かれ、メデタシ、メデタシ、で幕を降ろしました。最後の場面では、
冷泉帝と朱雀院が、揃って六条院へとお出ましになり、六条院は
この世の栄誉栄華の象徴とも言うべき様相を呈していました。
第二部は、その六条院が内部崩壊をして行く過程と、それに伴う
人々の苦悩を、紫式部の冴えわたった筆が描き切っている、と
言っても過言ではないでしょう。「油の乗り切った」という表現が
ありますが、第二部執筆時の紫式部は、まさにその感があります。
源氏の兄・朱雀院の二人の女宮(女三宮と女二宮)が、第二部で
新たに登場して参りますが、先ずは、朱雀院が一番可愛がっている
女三宮です。
父院が、女三宮の婿選びに腐心するところから「若菜上」は始まります。
この「女三宮」の、一見何の罪もない幼さ、頼りなさ、が、暴力的な
起爆装置となって働き、六条院を内部崩壊させてしまうのですが、
次の「湖月会」のほうのブログ(5月30日)で、女三宮のプロフィールを
ご紹介したいと思います。
「もみもみ」とは?
2016年5月12日(木)
昨日の「歌をもみもみするってどういうこと?」の解答です。
いろんな書き方があると思いますが、
「考えられる限り、表現に工夫をこらすこと」
というような意味です。
因みに、辞書の説明ですと、
「心をつくして深い内容をこめ、表現をこらすこと」(岩波古語辞典)
「あっさりと表現せず、曲折をつくすこと」(広辞苑)
などがあります。
溝の口のクラスで「ああでもない、こうでもない」と、お答えになった方が
ありましたが、これも正解の範囲に入ると思います。
「推敲に推敲を重ね」などもOKでしょうね。
それにしても「もみもみ」した歌の難解なこと!もう少しもみもみなどせず、
あっさりと詠んで欲しいな、と思うのは、素人の浅はかさでしょうか。
昨日の「歌をもみもみするってどういうこと?」の解答です。
いろんな書き方があると思いますが、
「考えられる限り、表現に工夫をこらすこと」
というような意味です。
因みに、辞書の説明ですと、
「心をつくして深い内容をこめ、表現をこらすこと」(岩波古語辞典)
「あっさりと表現せず、曲折をつくすこと」(広辞苑)
などがあります。
溝の口のクラスで「ああでもない、こうでもない」と、お答えになった方が
ありましたが、これも正解の範囲に入ると思います。
「推敲に推敲を重ね」などもOKでしょうね。
それにしても「もみもみ」した歌の難解なこと!もう少しもみもみなどせず、
あっさりと詠んで欲しいな、と思うのは、素人の浅はかさでしょうか。
今日の一首(21)
2016年5月11日(水) 湘南台「百人一首」(第20回)
このところ風の強い日が多いのですが、今日も強風が吹き荒れました。
幸い、雨には遭わずに済みましたが、傘を持っていても差して歩くのは
無理だったかと思われる風でした。
湘南台の百人一首も、院政期歌壇で活躍した人たちのところまで進み、
今回は73番「前権中納言匡房」~76番「法性寺入道前関白太政大臣」
までの四首を取り上げました。
昨年の3月、まだブログを書き始めて間もない頃、「今日の一首(2)」
(2015年3月30日・溝の口「百人一首」)で、73番の歌をご紹介しました。
「今日の一首」は、それに続く74番の歌です。嵐のような風が吹いた
今日にはぴったりかもしれません。
「うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを」
(七十四番・源俊頼朝臣)
(私に冷たいあの人を振り向かせて欲しいと、初瀬の観音様に
お祈りしたにもかかわらず、まるで初瀬の山おろしのようです。
こんなに私に厳しくあれ、なんて、祈ってはいないのに)
とても訳し難い難解な歌です。ずっと昔は、「うっかり初瀬に
来た人に、とんでもない山おろしだこと。いくら何でもこんなに
激しく吹け、なんて祈ってもいないのになぁ」なんて、勝手に
解釈していました。残念ながら「うかりける」は「憂かりける」で、
「うっかりける」の「っ」が抜けた形ではありませんでした。
でも、定家はこの歌を「庶幾する(理想的な)姿」と評し、後鳥羽院も
「もみもみと、人はえよみおほせぬやうなる姿」(〇〇〇〇いて、
他の人にはとてもこんなふうには詠み遂げられない歌の趣)
と、絶賛しています。
歌を「もみもみする」って、面白い表現だと思われませんか?
で、溝の口の時にも、皆さまに、〇〇〇〇に「もみもみ」の意味を
入れて頂きましたが、湘南台の皆さまにもそれをお尋ねしました。
その場では解答しませんでしたので、ここで書くつもりでしたが、
折角ですから、このブログをお読み下さっている皆さまもご一緒に
お考えください。文字数は、20字前後になる程度かと思います。
溝の口で「百人一首」に参加なさった方は、すでにご存知ですが、
正解は明日発表いたします。
このところ風の強い日が多いのですが、今日も強風が吹き荒れました。
幸い、雨には遭わずに済みましたが、傘を持っていても差して歩くのは
無理だったかと思われる風でした。
湘南台の百人一首も、院政期歌壇で活躍した人たちのところまで進み、
今回は73番「前権中納言匡房」~76番「法性寺入道前関白太政大臣」
までの四首を取り上げました。
昨年の3月、まだブログを書き始めて間もない頃、「今日の一首(2)」
(2015年3月30日・溝の口「百人一首」)で、73番の歌をご紹介しました。
「今日の一首」は、それに続く74番の歌です。嵐のような風が吹いた
今日にはぴったりかもしれません。
「うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを」
(七十四番・源俊頼朝臣)
(私に冷たいあの人を振り向かせて欲しいと、初瀬の観音様に
お祈りしたにもかかわらず、まるで初瀬の山おろしのようです。
こんなに私に厳しくあれ、なんて、祈ってはいないのに)
とても訳し難い難解な歌です。ずっと昔は、「うっかり初瀬に
来た人に、とんでもない山おろしだこと。いくら何でもこんなに
激しく吹け、なんて祈ってもいないのになぁ」なんて、勝手に
解釈していました。残念ながら「うかりける」は「憂かりける」で、
「うっかりける」の「っ」が抜けた形ではありませんでした。
でも、定家はこの歌を「庶幾する(理想的な)姿」と評し、後鳥羽院も
「もみもみと、人はえよみおほせぬやうなる姿」(〇〇〇〇いて、
他の人にはとてもこんなふうには詠み遂げられない歌の趣)
と、絶賛しています。
歌を「もみもみする」って、面白い表現だと思われませんか?
で、溝の口の時にも、皆さまに、〇〇〇〇に「もみもみ」の意味を
入れて頂きましたが、湘南台の皆さまにもそれをお尋ねしました。
その場では解答しませんでしたので、ここで書くつもりでしたが、
折角ですから、このブログをお読み下さっている皆さまもご一緒に
お考えください。文字数は、20字前後になる程度かと思います。
溝の口で「百人一首」に参加なさった方は、すでにご存知ですが、
正解は明日発表いたします。
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