12月8日のアサド政権崩壊から4日後、シリアに入り、首都ダマスカスや近郊を取材した。わずか1週間の滞在だったが、実感したことがある。独裁体制が続いたこの国で常に国民を縛り続けてきた「恐怖」の深さだ。【金子淳】
ダマスカス近郊から市内に戻る道すがら、同行してくれた現地スタッフのフアードさん(44)が突然、車を止めた。政権崩壊とともに放棄された旧政府軍の検問所だった。
建物の裏手に向かうと、真っ暗な部屋が並んでいた。そのうち一つの扉を開けると、いつもは落ち着いている彼が「うおおおお!」と叫び始めた。毎日新聞の現地スタッフとして約10年間、生真面目に取材に取り組んできた彼がここまで感情をあらわにするのは珍しい。「ここだ、この場所だ。20年前、おれはここにいた。徴兵されていた。上官に逆らったから、ここに閉じ込められたんだ」
ここに駐留していた部隊の懲罰房だった。数メートル四方ほどのコンクリートの部屋だ。
「約50人が下着姿で閉じ込められた。ここに電球が下がっていたから、手を伸ばして少しでも暖まろうとした。トイレの水をボトルでくんで飲んでいた。食事はまるで犬に与えるように投げ込まれた。配られるときはみんな壁を向いて立っていなければならなかったんだ」
フアードさんは当時、兵役に就いていて、この部隊に所属していた。休暇の予定日を前に、上官にわいろを要求された。貧しくて支払えないと伝えると、休暇を取り上げられた。こらえきれずに抗議の声を上げたら、何度も殴られ、この懲罰房に15日間、閉じ込められたという。
私はそれまで、「人間食肉処理場」と言われたダマスカス郊外のサイドナヤ刑務所など複数の施設を取材していた。フアードさんが入れられていた部屋も、そうした刑務所と似たような造りで、収容者の扱いも同様だった。
驚きだった。郊外の小さな検問所にもこうした「監獄」があり、政府軍は「身内」である兵士さえも恐怖で支配していたことが分かったからだ。フアードさんは独裁体制を敷いたアサド父子や多くの軍幹部と同じイスラム教少数派アラウィ派だ。だが、それもあまり関係なかったらしい。
シリアでは、取材したほとんど誰もがアサド政権への恐怖を口にした。7カ月間、刑務所で拷問を受けた活動家。化学兵器の被害を受けた青年。身内の行方が分からない無数の人たち。病院では、刑務所で見つかった多くの遺体も目にした。恐怖の表情が顔に固まったまま死んでいた。父子2代、約半世紀にわたる独裁と13年間の内戦は、人々の心を恐怖でえぐり取っていた。
アサド政権崩壊を受け、私がシリア入りした時には町中に多くの反体制派の旗がはためき、商店はシャッターの国旗を塗り替えていた。こうした「変わり身」の早さには、単に喜びだけでなく、いち早く勝者への支持を表明することで自分を守る姿勢が反映されているようにも感じた。
いまシリアの暫定政権を主導しているのは、国際テロ組織アルカイダ系の組織「ヌスラ戦線」を前身とする「ハヤト・タハリール・シャム」(HTS)という組織だ。HTSはアサド政権崩壊後、国民の融和の必要性を強調し、少数派の保護や女性の権利尊重といった穏健な方針を打ち出している。しかし、ヌスラ戦線は内戦中の2013年、ダマスカス郊外でアラウィ派などの少数派を虐殺したとされる過去も持つ。
アサド政権は国民に対し、途方もない罪を犯してきた。それは紛れもない事実だ。政治犯などとして拘束されて行方不明になった人は10万人を超えると言われる。各地で相次いで見つかった集団墓地が、それを裏付けつつある。
一方で、内戦下では反体制派が民間人を殺害したり、拷問したりしたケースも相次いだ。フアードさんは「悪いのはアサド一人だけではない。誰も無実の者はいない」と嘆く。
本当の融和をもたらすためには、独裁や内戦の過去を清算し、互いに許し合う度量が必要になるだろう。それは、途方もない道のりになるはずだ。積年の恐怖が反転し、強い憤怒に変わることもある。人々が抱える傷の深さが、再び分断を深め、内戦を招く危険すらあるかもしれない。
恐怖で縛り付けられていたシリアが勝利の喜びから冷めたとき、いったい何が起こるのか。いまは、フアードさんが取材中に漏らした言葉が耳から離れない。
「シリア人がシリア人と戦い、シリアはあらゆるものを失った。勝ったのはシリア人だが、負けたのもシリア人だ。いまはみんな勝利を祝っているが、これから何が待っているのか、まだ誰も分かっていない」