浄光寺(雪見寺)
○浄光寺(雪見の寺) 荒川区西日暮里3-4-3
浄光寺は諏方神社の別当寺で、開基は、豊島経泰説と太田道灌説とがあります。諏訪台の高台に位置し、「雪見寺」とも呼ばれていました。
<江戸六地蔵と雪見寺>
江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる銅造地蔵菩薩立像があります。江戸六地蔵といえば、一般的には深川の江戸六地蔵を指しますが、それよりもこちらの江戸六地蔵(東都六地蔵)のほうが古いです。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(一六九一)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
荒川区教育委員会」
<江戸六地蔵>
<地蔵菩薩座像>
文化6(1809)年作の銅造地蔵菩薩坐像。
<境内>
荒川区文化財「庚申塔群7基(寛文十年八月十五日銘他)」が山門入ってすぐ右手にあります。
前列に3基、後列に4基。後列左二基は板碑型庚申塔です(延宝2(1674)年及び寛文10(1670)年)。
<火の用心 警視庁>
火の用心の碑が他寺でも見ましたが、ここにもあります。昔は消防も警視庁の所管だったため、警視庁の記銘です。
<福神漬発明者野田清右衛門表彰碑>
明治初期に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門は、7種の野菜を細かく刻み醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明しました。
谷中七福神にちなみ「梅亭金鵞」が「福神漬」と名付けたと言われています。
裏面には「明治四拾四年拾貮月建立 永代維持料金壹百圓添納」と刻まれています。
<三代将軍御腰掛石>
「将軍腰掛石」があります。
江戸名所図会の浄光寺部分を拡大すると、「御腰掛石」が描かれています。
「御腰掛石」と石標「三代将軍御腰掛石」
江戸名所図会に描かれている「御腰掛石」は、少々南で、現在は鉄道路に少々削られているようです。荷物も置けるような大きい平板の四角形で描かれています。手前にも腰掛けずらい石が描かれています。 腰掛けずらいほうの石だけが保存されているのかも?
元文2(1737)年、八代将軍吉宗が鷹狩の際に浄光寺にお成りになり、同5年(1740)以降徳川将軍御膳所となりました。
3代の将軍が腰掛けた石ということでしょうか?(勝手な推測)。
(石柱は「第三代将軍」ではなく単に「三代将軍」と刻み、第三代将軍が腰掛けたなら「家光公」とお名前が刻まれているかと思います?。)
浄光寺は諏方神社の別当寺で、開基は、豊島経泰説と太田道灌説とがあります。諏訪台の高台に位置し、「雪見寺」とも呼ばれていました。
<江戸六地蔵と雪見寺>
江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる銅造地蔵菩薩立像があります。江戸六地蔵といえば、一般的には深川の江戸六地蔵を指しますが、それよりもこちらの江戸六地蔵(東都六地蔵)のほうが古いです。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約三メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(一六九一)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(一七三七)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。
眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
荒川区教育委員会」
<江戸六地蔵>
<地蔵菩薩座像>
文化6(1809)年作の銅造地蔵菩薩坐像。
<境内>
荒川区文化財「庚申塔群7基(寛文十年八月十五日銘他)」が山門入ってすぐ右手にあります。
前列に3基、後列に4基。後列左二基は板碑型庚申塔です(延宝2(1674)年及び寛文10(1670)年)。
<火の用心 警視庁>
火の用心の碑が他寺でも見ましたが、ここにもあります。昔は消防も警視庁の所管だったため、警視庁の記銘です。
<福神漬発明者野田清右衛門表彰碑>
明治初期に上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門は、7種の野菜を細かく刻み醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明しました。
谷中七福神にちなみ「梅亭金鵞」が「福神漬」と名付けたと言われています。
裏面には「明治四拾四年拾貮月建立 永代維持料金壹百圓添納」と刻まれています。
<三代将軍御腰掛石>
「将軍腰掛石」があります。
江戸名所図会の浄光寺部分を拡大すると、「御腰掛石」が描かれています。
「御腰掛石」と石標「三代将軍御腰掛石」
江戸名所図会に描かれている「御腰掛石」は、少々南で、現在は鉄道路に少々削られているようです。荷物も置けるような大きい平板の四角形で描かれています。手前にも腰掛けずらい石が描かれています。 腰掛けずらいほうの石だけが保存されているのかも?
元文2(1737)年、八代将軍吉宗が鷹狩の際に浄光寺にお成りになり、同5年(1740)以降徳川将軍御膳所となりました。
3代の将軍が腰掛けた石ということでしょうか?(勝手な推測)。
(石柱は「第三代将軍」ではなく単に「三代将軍」と刻み、第三代将軍が腰掛けたなら「家光公」とお名前が刻まれているかと思います?。)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター