青雲寺(花見寺)
○青雲寺(花見寺) 荒川区西日暮里3-7-15
説明板「滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)」が参道の中途半端なところにあります。 門柱左に「青雲禅寺」、右に「花見寺」とあります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(一七五一~六四)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。
現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚の碑(寛政十年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
荒川区教育委員会」
<本堂>
<瘞筆冢銘(滝沢馬琴筆塚の碑)>
「瘞筆冢銘(えいひつちょうめい)」です。
一般的には滝沢馬琴筆塚の碑と呼ばれています。滝沢馬琴は、現在では曲亭馬琴と呼ぶのが正式です。
「瘞」とは、土の中に埋めること。馬琴が使い古した筆を埋めた「筆塚」に建てられたのがこの石碑です。
碑文は亀田鵬斎が書いています。 文化6(1809)年の銘で文化7年の建立です。
元は道灌山にありましたが、明治になって塚はそのままに碑のみ移設されました。 その後、明治39(1906)年に、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、前田育徳会尊・尊經閣文庫(目黒区駒場)に保管されています。
(標柱)
「荒川区有形文化財・歴史資料
滝沢馬琴筆塚の碑
戯作者滝沢馬琴(一七六七?一八四八)は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。これを供養するため、文化七年(一八一○)に、青雲寺境内の山(現在の西日暮里公園付近)に築いたのが筆塚である。文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。額字の「えい筆冢銘」(ふでをうずめしつかのめい)は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷?斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、筆をとった。日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。明治三十九年(一九○六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。」
<滝沢馬琴の硯塚>
本堂の前の植え込みにあります。寛政10(1798)年建立。硯を立てた形で建てられています。
裏面に「春の雪 跡や煙の 麦畑」の句が刻まれています。
<日莫里繋舟松之碑>
日暮里船繋松の碑と呼ばれています。1772(安永元)年の造立と推定されるらしいです。元は道灌山にありました。
<安井金毘羅大権現鎮座碑>
松之碑の隣の三角形の石碑「安井金毘羅宮」と石碑「安井金毘羅大権現鎮座」の2碑があります。
狂歌師安井甘露庵を祀っています。
「江戸名所図会」で描かれているお堂は「こんぴら」と記されています。
<狂歌師安井甘露庵歌碑>
甘露庵は境内に住んでたことがありました。
「雲と雪と 五分五分に見る山桜 もう一寸も 目をはなされじ」
<青雲寺墓地と西日暮里公園>
青雲寺墓地のすぐ上は、西日暮里公園です。
<江戸名所図会 日暮里惣図>
青雲寺部分の拡大です。現在の西日暮里公園や第一日暮里小学校も、昔は青雲寺の境内でした。
さらに拡大すると、「力石を持ち上げている人」が見えます。
説明板「滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)」が参道の中途半端なところにあります。 門柱左に「青雲禅寺」、右に「花見寺」とあります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
滝沢馬琴の筆塚と花見寺(青雲寺)
青雲寺は臨済宗の寺院で浄居山と号する。宝暦年間(一七五一~六四)、堀田相模守正亮の中興と伝える。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため、青雲寺は修性院・妙隆寺(修性院と合併)などとともに、花見寺ともいわれていた。
現在、谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚の碑(寛政十年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
荒川区教育委員会」
<本堂>
<瘞筆冢銘(滝沢馬琴筆塚の碑)>
「瘞筆冢銘(えいひつちょうめい)」です。
一般的には滝沢馬琴筆塚の碑と呼ばれています。滝沢馬琴は、現在では曲亭馬琴と呼ぶのが正式です。
「瘞」とは、土の中に埋めること。馬琴が使い古した筆を埋めた「筆塚」に建てられたのがこの石碑です。
碑文は亀田鵬斎が書いています。 文化6(1809)年の銘で文化7年の建立です。
元は道灌山にありましたが、明治になって塚はそのままに碑のみ移設されました。 その後、明治39(1906)年に、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、前田育徳会尊・尊經閣文庫(目黒区駒場)に保管されています。
(標柱)
「荒川区有形文化財・歴史資料
滝沢馬琴筆塚の碑
戯作者滝沢馬琴(一七六七?一八四八)は精力的な著作活動をし、多量の使い古しの筆を残した。これを供養するため、文化七年(一八一○)に、青雲寺境内の山(現在の西日暮里公園付近)に築いたのが筆塚である。文化六年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちや業績が記されている。額字の「えい筆冢銘」(ふでをうずめしつかのめい)は、国学・漢学・考証学者で著名な狩谷?斎筆。由来は儒学者亀田鵬斎が撰文し、筆をとった。日ぐらしの里における文化人の活動をうかがい知ることができる。明治時代に、旧加賀藩主・前田家が青雲寺境内を墓所として買い取った際に、移設された。明治三十九年(一九○六)には、前田家墓地から馬琴愛用の硯などが出土し、財団法人・前田育徳会尊經閣文庫に保管されている。」
<滝沢馬琴の硯塚>
本堂の前の植え込みにあります。寛政10(1798)年建立。硯を立てた形で建てられています。
裏面に「春の雪 跡や煙の 麦畑」の句が刻まれています。
<日莫里繋舟松之碑>
日暮里船繋松の碑と呼ばれています。1772(安永元)年の造立と推定されるらしいです。元は道灌山にありました。
<安井金毘羅大権現鎮座碑>
松之碑の隣の三角形の石碑「安井金毘羅宮」と石碑「安井金毘羅大権現鎮座」の2碑があります。
狂歌師安井甘露庵を祀っています。
「江戸名所図会」で描かれているお堂は「こんぴら」と記されています。
<狂歌師安井甘露庵歌碑>
甘露庵は境内に住んでたことがありました。
「雲と雪と 五分五分に見る山桜 もう一寸も 目をはなされじ」
<青雲寺墓地と西日暮里公園>
青雲寺墓地のすぐ上は、西日暮里公園です。
<江戸名所図会 日暮里惣図>
青雲寺部分の拡大です。現在の西日暮里公園や第一日暮里小学校も、昔は青雲寺の境内でした。
さらに拡大すると、「力石を持ち上げている人」が見えます。
- 関連記事
-
- 浄光寺(雪見寺)
- 諏方神社
- 修性院(花見寺)
- 青雲寺(花見寺)
- 日暮里/ひぐらしの里
- 高村光太郎記念碑 長沼智恵子デッサン
- 本行寺(月見寺)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター