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ちょっと日本の歴史を勉強したイギリス人から「なんで明治の廃藩置県のときに日本の大名は自分の領土と城を簡単に明け渡したのか?イギリスだったら内戦になってたと思う」と言われましたが、なぜでしょうか?
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薩摩 長州 土佐 等を除き多くの大名は負債に苦しんでおり 商人からの借り入れ 返済に四苦八苦している所に何もしなくっても固定給をもらえるとなれば大喜びというわけです。 つまり年貢収入以上に支払う俸給 修繕費 運営費に苦しんでいたわけです。
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版籍奉還で藩士を皇軍として差し出したから。 2年後にはその元藩士に囲まれて廃藩置県を了承しています。 全ての藩主は所謂尊王攘夷志士を虐殺しています。家族友人を殺された元藩士がジュウ持って取り囲んだ状態です。
日本とイギリスとでは、領主の支配権の在り方が違うからです。 イギリスの貴族の場合、領地において広大な土地を所有しており、その「土地の権利」を持っています。その領地における土地は、その貴族の私有物です。 日本の大名の場合、領地があっても土地を所有しておらず、「徴税権」を持っているだけです。もちろん領主として土地を所有してはいますが、領地内の土地の大部分はその土地を耕してる農民たちの所有する土地であって、彼らから税金を取ることは出来ても土地を取り上げることは出来ません。 だからこそ、鉢植え大名と呼ばれるくらいに中小規模の大名は幕府の手であちらこちらに引っ越しをさせることが出来たわけです。この辺は映画になった『引っ越し大名』を見てみると良く分ります。『超高速!参勤交代』などから始まる、江戸時代を描いた最近の流行映画の一つです。 幕府も流石に数十万石を領有する薩摩藩や加賀藩のような雄藩に領地替えをさせることは出来ません(それだけ広大だと代替地も無いですから)でしたが、基本的には大名は領地内の徴税権と司法権を持っているだけの存在であり、土地そのものを所有している存在では無かったんです。 だから領地を手放せと言われたところで、大名にしてみれば徴税権を手放せばいいだけのことで「自分の所有物を取り上げられてしまう」という訳ではないからそれほど抵抗する必要も無かったんですよ。 言ってみれば、土地を所有しているオーナー経営者と、雇われ店長との違い、みたいなものです。
廃藩置県の時に大名は領地を返上したのではありません。 イギリス人のご友人に御説明下さい。 大名が領地を返上(奉還)したのは明治二年の版籍奉還の時です。 幕府が瓦解して大名がまず取った行動は本領安堵です。 今まで通りの領地を天皇に承認してもらう事です。 私はこれが続く版籍奉還そして明治四年の廃藩置県の布石となったと思っています。 大名の領地は天皇からの預かりものという認識を大名にさせているのです。 明治二年の版籍奉還は天皇の名を以て行われます。 急速に中央集権国家へと進んで行く中でとても拒絶できるような状態ではありませんでした。 戊辰戦争の余塵もまだ治まっていない明治二年の事です。 新政府は従えば各藩の負債は引き継ぐと言います。幕末の未曾有のインフレ。戊辰の役等の出陣費用、出陣なくとも幕末の軍備拡張による大出費 課せられる朝廷への献納金などで各藩は疲弊していて従わざるを得なかったのです。 明治に生きた元大名の証言では一旦領地を返上しても後でまた下さるものと思っていた大名が多かったと言っています。 そのように誤解させる新政府の誘導が有ったかもしれません。
江戸時代後期ぐらいから、「武士って損じゃないか?」との考えが広まっていたらしい。成功した商人や、商品作物で成功した富農より、自分たちの生活水準の方が低いので。 また、武士の業務の分業化、官僚化が進んだ近世大名は、戦闘力を失いつつあった。武士の戦闘力の維持は、「力づくでの徴税」「力づくでの相続争い」「力づくでの境界争い」によることが多く、この三つが無くなった近世大名下の武士は戦闘力を低下しつつあった。 イギリスの清教徒革命は宗教一揆だし、名誉革命は貴族によるクーデター。実際の市民革命的な内政は、革命後に漸進的に進んだものだった。
日本史
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