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古代北九州に大きな王朝はあったの? 邪馬台国がどこか論ではなく、大和に匹敵する王朝があったのかどうか? それは何処なのか? いつ頃まであったのか?いつ滅びたのか? について詳しい方ご教授くださいませ。

日本史 | 歴史95閲覧

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回答(3件)

核心的な文献は存在していませんね 大和王権が中央政権となったならば 畿内より東を制圧し西を制圧し敵か味方かを調べたのは確かです。敵がいれば中央政権は不可能ですからね。仮に漢の時代の金印より港が奴国だったとすれば魏の時代には封泥する国に一大率を設置し港が西に移動しています。魏に朝貢するにも使い慣れた奴国の港を使えば楽ですが西に移動する理由があったのでしょう 漢の時代の奴国には王が存在し邪馬台国の時代にも奴国は連合国として存在しています。中国政権が変わっても奴国が残っていますので敵対する国ではなかった証となりますね。一大率の南に邪馬台国があるとすれば一大率は海側からの攻めに対応出来ますが邪馬台国の南の勢力には対応できないと思います。憶測ですが九州に邪馬台国が存在したとするならば邪馬台国の南には大きな山があり山越えしないと戦ができないと仮定すれば有明海などを渡り西から攻める事は可能ですから西には環濠集落を作るのではないでしょうかね。一大率と環濠集落が近くにある場所に邪馬台国は存在したと思います。この時代の大国は連合国、吉備、畿内、出雲、丹波等が分散していたと思います

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1世紀ごろは漢委奴国王(ワのナ国?イト国?)が倭国を代表する国だったと思う。磐井の乱まで九州王朝が続いたという人もいるけど、そんなことはないと思う。

紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた。 1世紀には倭奴国(倭国)が北部九州を中心とした地域に成立し、倭奴国王(倭王)は博多湾近くに首都をおいて漢に朝貢し「漢委奴國王」の金印を授与されていた。 倭王卑彌呼(ひみか)は伊都国に都し、倭国は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた[注 5]。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。 卑弥呼は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、漢風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。 筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である。 九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた。 隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」は、九州倭国の倭国王であった。 太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市であった。 「白村江の戦い」では、総司令官である九州倭国の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。 「壬申の乱」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内の豪族大海人皇子(天武天皇)が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子(草壁皇子)を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。 「大化の改新(乙巳の変)」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足(藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で天皇(高市皇子=薩夜麻)とその子を暗殺し、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)が即位した事件である。 神武東征は、6世紀に任那滅亡等により発生した難民の一部が九州から東征したもので、先に九州から畿内に植民して巨大古墳を築造していた邇藝速日命が支配する長髄彦等の国である日下(日本)を征服したものである。通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権(日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかったが、文武の時代に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。 古事記・日本書紀は九州倭国の歴史書であり、続日本紀は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内初代神武天皇と第9代までの欠史八代の天皇および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42代天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。 万葉集の歌なども8世紀までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。 神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を長屋王の変で抹殺。 第3回神宮式年遷宮(729年-732年)により伊勢神宮が八代市から伊勢市に移された。 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。