回答(2件)

豊臣秀吉だと思います。 朝廷から「豊臣」姓を授与されると、文禄三年九月二十一日には徳川家康は「羽柴江戸大納言」として秀吉から伊勢国内に所領を与えられ、文禄四年七月に秀次事件が起きると、「羽柴武蔵大納言家康」として、秀頼への忠誠と秀吉が定めた法や決まりを遵守を誓約した起請文を提出させています。

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こんばんは 徳川家康だと思います。 自分の息子である松平忠輝を排除しています。 また、自分の孫の千姫を秀頼に嫁がせていながら、最後は秀頼を攻め滅ぼしています。 頼朝も猜疑心は強い方だと思いますが、頼朝は周りから担ぎ上げられた将軍であり、裏切りとかというものはあまり見ていません。 弟たちを抹殺しますが、一緒に育ったわけでもなく、周りの家臣の手前排除したということだと思います。 一 方、家康は戦国時代で裏切りを数多くみてきており、自分自身も三河一向一揆で家臣の本多正信に裏切られ、当時敵対していた豊臣秀吉の元へ重臣の石川数正に出奔されることを体験しており、猜疑心はそういうところからも養われていったと思います。